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天正10年(1582年)6月2日、京都で信長が明智光秀に襲撃されて自害する本能寺の変が起こると、
旧武田領の各地で武田遺臣による国人一揆が起こる。
河尻秀隆の同僚の森長可・毛利長秀が領地を放棄し美濃へ帰還する中、秀隆は甲斐国に留まる。
駿河を領有し、甲斐に野心を抱いた徳川家康は秀隆を美濃に帰そうと本多信俊を使者として送るが、秀隆は応じず信俊を殺害した。
しかし、その後発生した一揆に抗し切れず、秀隆は甲斐国からの脱出を試みるも、
岩窪において武田遺臣の三井弥一郎に6月18日に殺害された。享年56。
河尻秀隆の死により空域化した甲斐国はじめ武田遺領は、相模の北条氏直との天正壬午の乱を制した徳川家康が領した。