22/05/24 16:07:05 dTrHFMyw.net
勤務先が大病院かどうかに至っては、精神科や心療内科に限っては「ほぼ逆」なのではないかという印象すらあります。
この領域では、大学病院や国立病院は必ずしもお勧めできないというのが、残念ながら率直な印象です
(詳しい理由は、別の機会に書きたいと思います)。
福島哲夫 (大妻女子大学 教授)
相性について(2)ー医者と患者の相性とはー
URLリンク(megalodon.jp)
32:卵の名無しさん
22/05/24 16:12:58 g1PtSVCC.net
精神科医に転院を申し出ると渋ったり中には怒り出す先生もいるだろう
何かしらの理由をつけて転院させないようにしたりする先生も多い
なぜ転院を精神科医は嫌がるのか?
主治医が変わってしまったらその患者の病気をコントロールする権限を失うからである
転院すれば新しい先生がその患者の病気をコントロールすることになるので
当然精神症状も薬の副作用の出方も変わってしまうし病気の予後も変わる
なので転院の話になると態度が豹変する精神科医が多いのである
33:卵の名無しさん
22/05/24 16:13:24 fbTllUoe.net
昔は乳幼児死亡率が高かった今でも開発途上国は乳幼児死亡率が高い
なぜここまで乳幼児死亡率を下げられたのか
医療技術で細胞単位までコントロールすることが可能になったからである
例えば乳幼児にがんができたとしよう本当なら助からない
それを小児科医は抗生物質等の適当な薬で治る病気と診断し
機密医療技術で細胞を書きかえなんでもない病気だったということにする
逆に年寄りはなんでもない病気だったとしてもそろそろ殺しとくかと
内科医はがんと診断し抗がん剤を処方し本当にがんにして殺すのである
医師特有のサイコパス感はこういうところから来るのだろう
34:卵の名無しさん
22/05/24 16:13:51 VipEYs36.net
中国やポーランドのニュースなど昔から交通事故に遭うと盲目だった人が目が見えるようになったという話を世界各地で聞く
なぜそんなことが起きるのか医師は患者を主体化して自由自在に表向きないことになっている
機密医療技術で操作できるので目が見えないなんてあまりにもかわいそうだと思った良識ある医師が治してあげるのだろう
つまり交通事故に遭うと目が見えるのではなくそれに伴う入院時に医師が視界に投影する医療技術で
視界のフタを開けてポチポチ押して人体を操作して目が見えるようになるわけだ
URLリンク(switch-news.com)
35:卵の名無しさん
22/05/24 16:14:43 VipEYs36.net
42 番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です (スッップ Sdbf-2Enh) sage 2021/04/17(土) 09:57:23.86 ID:OufO+Nf+d
町医者はやさしい医者が多いけど、病院は態度でかい医者しかいない
36:卵の名無しさん
22/05/24 16:15:02 VipEYs36.net
796 優しい名無しさん sage 2021/05/22(土) 21:18:25.06 ID:su+2jnUZ
>>794
東の方にある某銭ゲバ病院はそんな感じだぞ
デイケア訪問看護グループホーム作業所で囲って食い物にされる
なんせデイケアサボっただけで通院時にそのまま連れていかれてご入院ですからw
しかも勝手に病院変えるといきなり医者と看護師が家に乗り込んで来て医療保護入院にしますって宣言されて護送されますw
これ全部実話な
800 優しい名無しさん sage 2021/05/23(日) 13:26:36.97 ID:zFP5Ojmt
>>796
これがあるから入院施設のある私立の精神病院は怖い
クリニック行ってるけどデイケアも訪問看護もグループホームも作業所も何にも強制されないぞ
ただ診察して帰るだけ
37:卵の名無しさん
22/05/24 16:15:31 VYqVZPal.net
『精神病が古来より政治的あるいは社会によって社会的弱者や少数民族を差別するために利用されてきたことは
歴史的に明らかであり、中世末期からルネサンスにかけてのヨーロッパや近世のアメリカニューイングランド地方に
おいて「悪魔懸(つ)き」や「魔女狩り」という形で人々が弾圧されたり、
ドイツ、バイエルン国王であったルートヴィヒ2世が狂人と宣告されたため王位を剥奪されたといった事、
さらにはフランス革命で活躍したテロワーニュ・ド・メリクールが晩年、発狂したとして精神病院に入院させられ
晩年を終えたといった事が有名な事例である。
こうした中で統合失調症が数ある精神病の中で最も政治性、意図性が高い病気と言えよう。
以下においては、統合失調症の政治性、意図性に焦点を絞りって解説したい。
統合失調症の典型的症状とされる、「妄想」の具体例として「誰かに追いかけられている」、「誰かに見られている」、
「誰かが悪口を言っている」などの症状があげられる。一般市民も「誰かに追いかけられている」、
「誰かに見られている」、「誰かが悪口を言っている」「幻聴が聞こえる」などと考える人は
統合失調症の患者であると考える傾向が強いが、それがどのような科学的根拠に基づいているか明確ではない。
19世紀後半のヨーロッパでは当時、近代国家が成立し、中央集権国家やそれに基づく官僚制が整備され、
自由権が保障されたゆえに大規模な犯罪行為が可能になった市民に対する監視体制が確立していった時期であった。
時同じくして確立された大衆民主主義は大衆に選挙権を与えるが故に、大衆迎合を生み出し、
例えばヒトラーやムッソリーニ、スターリンの台頭のような軍国主義的な政治家や独裁者の台頭によって
民主主義の終焉をもたらす可能性があるため、資本主義と民主主義を守るための必要悪として危険思想や
危険な行動を取る資質を持つ人物を統合失調症により隔離・無害化する事が19世紀以降、歴史的に行われてきた。』
38:卵の名無しさん
22/05/24 16:15:57 20MgxtzE.net
そして統御すべき相手は狂人です。先ほど私は、フォデレによる狂人についての興味深い定義、すなわち、自分が「誰よりも優れている」と信じている者、という定義をご紹介しました。
実は、十九世紀初めの精神医学の言説と実践の内部において、狂人はまさにそのような者として現れるのであり、そしてここに、すでにお話したことのある大きな転換点、大きな裂け目が見いだされます。
つまり、狂気を定義するため、狂気を指定するための、錯誤という基準が消失するということです。
ミシェル・フーコー講義集成〈4〉精神医学の権力 (コレージュ・ド・フランス講義1973-74)
39:卵の名無しさん
22/05/24 16:16:13 20MgxtzE.net
デビッド・クーパーは言う。「すべての妄想は政治的な宣言であり、すべての狂人は政治的な活動家である」。
セドウィック、ミッチェル、グライス、ヤコビィ等はいずれも次のような異議を唱えた。
社会の犠牲者をこのように「ロマン化する」ことは、一貫した合理的な政治活動のための真の要請から目を逸らせてしまうことになってしまうそして彼らを助けることにもならない。
だがほとんどの人々は結局自分自身を治療に委ねてしまうのである。これはまさに、何が起こっているかを人々が理解しないが故に生じることなのである。
批判的精神医学 : 反精神医学その後 D.イングレビィ編
40:卵の名無しさん
22/05/24 16:16:31 20MgxtzE.net
〔仮説1〕精神分裂病になる人はこれから述べるような誤った信念に至る誤った訓練を重ねた人である。
a.自分の欠損のためや、外界の敵意のために、あるいはその2つのためにこの世の中に自分の生きる余地はないという確信
b.何か特別な状態とか地位を勝ち取らねばならないという確信。そうすることによって、分裂病者はあらゆる欠損から解放され、満足な人生を味わえると考えている。
この特別な状態や地位はきまって誇張された目標である。このような状況を乞い願うことだけが分裂病者に生きる余地を与えるのである。
したがって、その目標は柔軟性に欠け、完全か無かといった特徴を持ち、完全な満足を求めがちになる。
また、分裂病者にとってその目標の代理になるものはなかなかありえない。
c.この目標を達成する過程に、どんなささいな失敗があっても、あるいは失敗が予想されるだけでも、
それが自分の欠点を克服しようとする死にものぐるいの試みをすっかり挫折させ、自分の人生をダメにするに違いないという確信。
このように普通の人ならある程度の失望に耐えられるけども、分裂病者はわずかな失敗に対しても非常に敏感なのである。
分裂病者は欲求挫折の閾値が低いとか自我が弱いと言われている。
分裂病者が自分の人生にわずかな失敗もあってはならないと考えるのは、その失敗によって人生全体が壊れてしまうと思っているからである。
d.常識とか、社会的活動への参加とか、社会が機能するために必要な規則とかのすべてが自分の選んだ目標を達成するのに邪魔になるという確信。
目標をうまく達成したり、失敗を避けるためなら目標以外のことはすべて無価値なものとしてしまう。
したがって、よい人間関係、社会習慣、性、健康、あるいは人生そのものでさえも自分の目標を追求することに比べれば無価値なものにすぎないのである。
分裂病者は他の人と同じになっても、自分の目標のためにはなんら役立つことはないと思っているので、他の人とは違う人になるように自分自身を持っていく。
精神分裂病者への接近―目的論的見解とその実践 (1978年)バーナード・H.シャルマン/坂口信貴
41:卵の名無しさん
22/05/24 16:16:49 20MgxtzE.net
〔仮説2〕一般に受け入れられ役に立つと思われている常識にそって自分の目標を達成しようとしても、
自分のおかれているありのままの現実状況がそれを許さないことに気づいた時、危機がやってくる。
常識や合意性は自分の目標を達成するのに邪魔になるので放棄される。この瞬間、分裂病者は常識の世界に別れを告げることを決心する。
これがさきざき精神病への転落につながる決断である。この時点で、分裂病者は他の人と同じように生きていくことを放棄しているのである。
〔仮説3〕常識を放棄してしまうと、自由に自己本位の論理を発展させ、自分は人よりも優れているのだという目標に到達したり、
あるいは、ゆくゆくは到達できるであろうという空想をこしらえることができる。
精神分裂病者への接近―目的論的見解とその実践 (1978年)バーナード・H.シャルマン/坂口信貴
42:卵の名無しさん
22/05/24 16:17:08 20MgxtzE.net
不幸にも、「バベルの塔」(ノアの大洪水の後、バビロンの古都に、人びとが天まで届くようにと、塔を建てはじめたが、
神の怒りにふれて言葉の混乱が起こりついに完成されなかった聖書にある伝説)を築くために日時を費やし、結局は混乱状態に陥ってしまう。
この新しい世界観と、おそらく神聖な性格をおびざるをえない新しい人間性とを両立させるなどという試練に成功する人はまずいないであろう。
精神分裂病者への接近―目的論的見解とその実践 (1978年) (現代精神分析双書〈第2期 第3巻〉)バーナード・H.シャルマン/坂口信貴
43:卵の名無しさん
22/05/24 16:18:07 76mkd7ZP.net
近代医療のもたらす弊害について、きわめてラディカルな見方を示したのがイリイチ(llich,1976)である。
イリイチは医療が社会統制の主要なエージェントとなることによる弊害を「医原病」(Iatrogenesis)という言葉で表現する。
医原病とは文字通り、「医療に原因がある病気」という意味であり、
「医療そのものが健康に対する主要な脅威となりつつある」というイリイチの基本的認識を表す造語である。
彼によれば、医原病には「臨床的」、「社会的」、「文化的」の三つの種類がある。
「社会的医原病」は、個人の生活のさまざまな領域が医療の管理化におかれる結果、
ひとびとの「不快と痛みに対する許容性を下げ、個人が苦しむ際にひとびとが譲歩する余地を低下させ、
自己ケアの権利すら放棄させることによって不健康を作り出す」ことを指す。
つまり、医療の守備範囲が拡大することにより、個人が「自らの内部の状態と状況に対する制御力を奪われてしまう」のである。
生活の少なからぬ部分が医療の直接、間接の管理下におかれ、自己決定できる部分が相対的に縮小していくことを問題にしている。
社会的医原病が、自己制御や自己決定の能力の衰退を問題にするのに対し、文化的医原病は、忍耐や受苦の能力の衰退を問題にしている。
さらに、イリイチは、この問題を医療だけでなく専門家一般に広げて議論を展開する。そして、
現代を「ひとびとを無能力化する専門家の時代(The Age of Disabling Profession)」と名付ける(Illich,1978)。
「無能力化」とは「ひとびとの能力を奪う」という意味であり、さきほど述べた自己決定能力や忍耐能力の衰退のことを指している。
「この時代は、ひとびとが「問題」をもち、エキスパートたちが「解答」をだし、科学者たちは「もろもろの能力」とか
「もろもろの必要」とか本来測定しえないものを数量化しようとした、そういう時代」だというのである。
それではどうしてこのようなことが起こったのか。
「専門職がこんなに支配的になり、ひとびとが無能力化するようになったのも、エキスパートがひとびとに押し付ける不足(lack)を、
ひとびとが実際に必要なものとして受け止めるようになっていった」からだとイリイチは述べる。
20050125, 『ナラティヴの臨床社会学』勁草書房.(pp158-161)
44:卵の名無しさん
22/05/24 16:18:57 76mkd7ZP.net
プシコはウソをつくとかよく勘違いしてる人いるけど
精神科の患者はウソをつくと視界に直接投影する医療技術にウソと表示されるから気づくだけで
気づかないだけで健常者も皆ウソなんて日常的についてるよ
ガルちゃんやTwitterもウソだらけなんだけどそれに気づかない人は精神科の患者だけウソをつくと思ってしまう
しかも視界に直接投影する医療技術は医師が編集してるから本当でもウソと表示させたりしてるし
看護師は医師が編集したものを見るだけで事実は分からないよ
45:卵の名無しさん
22/05/24 16:19:24 RwJQ0hDC.net
精神科医が患者を主体化して全存在を診ることができるので出産の痛みより苦しい精神状態も
精神科医の視界に投影する医療技術で精神状態一覧から選んでポチポチするだけで技術的には作り出すことが可能である
無論そんな精神状態に1度でもする精神科医は論外なヤブ医者なのでそうなったらすぐにでも精神科医を変更した方がいい
ただ精神科医を変更してもすぐに精神状態が変わるわけではない
精神科医との相性がはっきりするまで半年から9ヶ月はかかるだろう
46:卵の名無しさん
22/05/24 16:20:01 RwJQ0hDC.net
今や、怪物的な狂気は「自由意思」を伴わないという理由で「法」の外部に放逐される(刑罰免除)ことはない。
精神鑑定の導入は、法の対象を行為から行動様式へ、犯罪から存在様式へと移行させることを可能にし、
そしてその存在様式をまさしく犯罪そのものとして出現させる[13]。
リストによって、「刑罰の目的は法益保護にあり、犯罪予防機能にある」と主張されるとき、
また医学的知と司法的知が折り重なる制度的混成が形成されるとき、そこにおいて差し向けられるもの、
それこそが「危険」、そして「倒錯」である。
そうした制度の全体は、危険人物という、正確には病人でもなければ文字通りの犯罪者でもないようなものに対して差し向けられます。
精神鑑定において、鑑定医が診断を下すべき対象、すなわち、その尋問、分析、診断において鑑定医が対決する相手とされるのは、危険となりうるような人物です。
したがって、互いに向かい合い、互いに極めて近接した二つの概念があるということになります。
すなわち、一つは「倒錯」という、医学的な諸概念の系列と法的な諸概念の系列とを縫い合わせる概念であり、
もう一つは、「危険」ないし「危険人物」という、医学的かつ司法的な諸制度の間断なき連鎖の存在を正当化し理論づける概念です。危険と倒錯。
これらの概念こそまさしく、法医学鑑定のいわば本質的な核であり、理論的な核である、と私は思います。[14]
治療という医学的審級から監獄そして極限においては死刑という刑罰制度へと至る連続体が社会全体を貫いたときに現れるカテゴリー、
それこそが「危険人物」なのである。前々回で述べたことの繰り返しになるが、非行者は、リスクという観点から、
すなわち社会にとって「危険」な人間であるか否かという観点から分析と解釈の対象となるのである。
社会は異常者たちから防衛されなければならない
URLリンク(s-scrap.com)
URLリンク(archive.ph)
47:卵の名無しさん
22/05/24 16:20:32 RwJQ0hDC.net
精神科医が病気を作っているので精神科医の人間性が患者の病気ひいては人生を左右する
名古屋大学医学部精神科のウェブサイトには
「サイエンスとアートの共存を目指して」と書いてある
これは科学技術により患者の心身から人間関係まで何もかも変えることが可能であり
そのため精神科医が精神医学の掟に則って患者の病気を細部までデザインすることをアートと言っているのである
48:卵の名無しさん
22/05/24 16:20:49 RwJQ0hDC.net
同じ薬でも処方する医師によって薬の効き方が違う
全く異なる場合もある
それはなぜか?医師が身につける機器を必要としない視界に直接投影する医療技術で薬の作用を個々人毎に決めているからである
49:卵の名無しさん
22/05/26 12:46:19 X05rGOSj.net
■小澤 勲 19750325 『呪縛と陥穽―精神科医の現認報告』,田畑書店,201p. 1100 ASIN: B000J9VTT8 [amazon] ※ m.
「精神病質概念が、その本質において価値的、階級的、政治的概念である(このことは疑いもなく真実である!)が故に医学的概念ではないとい
う論法をもってすれば、たとえば精神分裂病概念もまた医学的概念ではないのである。問題は医学的概念であるか、ないかではなく、事実、医学的
概念として用いられている諸概念が医学の名のもとにいかに機能しているかということなのである。」(小澤[1975:134])
「昭和五〇年の精神神経学会総会は「戦後日本の精神医学・医療の再検討」と題しながら、「精神分裂病とは何か」というテーマにほぼ半日分の
日程をさくことになっている。だが、「精神分裂病とは何か」という問いは、過去の代表的な問い方である。そして、このような問い方こそ、解答
のすべてを誤らせたものであったと、今、われわれははっきりと宣言しよう。われわれの問はこうでなければならない。「誰がいかなる都合で精神
分裂病というレッテルを必要としたのか。[…]
なぜにかかる非論理が論理としてコンセンサスを得るにいたるのであろうか。それは、上の文脈を逆にたどればよいのだろう。つまり、まず「ある
一群の人間を人間以下の生物に転落させる必要性」が「社会的要請」として存在し、「必要性」を「必然性」にすりかえるために「生物学的過程」
が要請され、かかる要請を基盤にその要請を証明するべく、ある一群の人間にスティグマが「発見」されるという手順である。[…]
50:卵の名無しさん
22/05/27 14:45:17 FCRrTpMw.net
全く九大の話が出て来てなくて草
51:卵の名無しさん
22/06/04 03:24:58 3fbFhUCb.net
0995-73-8840