21/06/11 08:54:47.21 QROa9mUb.net
ブスのマンコに電マが入るか試してみたら
無理とか言ってたのに
ズッポシ入ったのでスイッチオン
絶叫とも奇声とも言い難い声上げたと思ったら
一気に潮噴き上げて
止めて嫌ー止まらないって言いながら
ベッドビチョビチョ
527:名無しさん@お腹いっぱい。
21/06/11 08:55:11.64 QROa9mUb.net
高校の時に掛けに負けたら罰ゲームで
同級生のブスに告白してデートと言う
恐ろしい罰ゲームがあって
案の定、俺が負けてバレー部のブスに告白
ブスからOKを貰いデートの約束もした
数日後デートの時にキスをするハメになり
次のデート時には挿入まではしなかったが
ブスの自宅で抱いた
528:名無しさん@お腹いっぱい。
21/06/11 08:55:34.00 QROa9mUb.net
美人でそういう女はまず出会い系市場に出ない
誰かと付き合ったら、その男が絶対に離さない
じゃあ、市井にいる美人に声かけて、貴女は性欲スゴイですか?と確かめる事も難しい
SNS等で性欲晒してる裏垢女と繋がって、会うまでこぎつけて、その女が美人かどうか祈るしかない
事前に交換した写メもアテにならないのが当たり前だしね
結果、その女がブスって可能性が高くなる
でも、なんだかんだでやっと会うとこまでこぎつけた性欲スゴイ女が目の前にいて
それを、見た目で諦めちゃうの?っていうのはある
あとは、そこに飛び込む勇気があるかどうかの問題www
529:名無しさん@お腹いっぱい。
21/06/11 08:59:52.70 IVrRTY8e.net
田牧そらちゃんはもう大人なんだしカネオくんで肩出したり胸元開いた衣装を着てもいいと思うなあ僕ぁ
530:名無しさん@お腹いっぱい。
21/06/11 09:18:33.59 r2kQhgb1.net
サンデーサイレンス(静寂の日曜日)
黒い馬体の父が送り出した名品となれ! 「偉大なる我らがサンデーサイレンス」の意。 キリスト教で主イエスを称える言葉と大種牡馬サンデーサイレンスを併せて命名。 宗教的な意味合いの強い父系(Halo<後光>-Sunday Silence<静寂の日曜日>)から連想して父の後継となる存在が意識される。
ダンサー系系譜の馬名由来は
欧米セレブじゃないと出来ない発想
ネイティブダンサー(先住民の踊り子)
父ポリネシアン(ポリネシア人)、母ゲイシャ(日本の芸者より)
より先住民の踊り子と名付けられた
↓
ノーザンダンサー(北の踊り子)
父ニアークティック(新北区)、母父ネイティブダンサー(先住民の踊り子)から
北の踊り子と名付けられた
ご存知20世紀の種牡馬記録を世界中で塗り替える
↓
→ニジンスキー(ロシアのバレリーナ)
父ノーザンダンサー(北の踊り子)から連想された馬名
英国クラシック3冠馬で種牡馬入りしてからも活躍馬を送り出し
日本で走ったマルゼンスキーは直仔
→ヌレイエフ(ロシアのバレリーナ)
父ノーザンダンサー(北の踊り子)から連想された馬名
現役時代は3戦2勝ながら種牡馬入りすると
世界中の短距離大レースで産駒が勝ちまくる
→サドラーズウェルズ(ロンドンにあるバレエ劇場)
父ノーザンダンサー(北の踊り子)から連想された馬名
現役時代は11戦6勝特筆すべき戦績ではないが種牡馬入りすると
産駒達が勝ちまくり通算で14回の英愛リーディングサイアー獲得
ダンサー系の系譜は現代でも受け継がれている
531:名無しさん@お腹いっぱい。
21/06/11 09:20:14.27 r2kQhgb1.net
出張先のホテルにマッサージを呼んだ。
部屋でやってもらったマッサージは1時間5000円で2時間コース。
AVならここで美人のマッサージ師だが、パッと見40半ばのおばさんだし、それはないなと思っていた。
向こうも、「ジーンズは硬くて揉めないから、パンツになってください。若いこじゃないので気にしません」とさばけたもの。
やたらとくたびれていたから、がっつり揉んでくれるのはすごくありがたい。この値段でこのレベルなら大当たりだ。
うつ伏せで背中、首、腰、モモ裏と痛いけど気持ちいいレベルでがっつり揉まれて、仰向けになり脛の前とか太ももを揉まれた。ここでもガチマッサージで痛いけど効く感じ。
一通り悲鳴に近い声を出しながら揉まれたあと、じわじわと足の付け根に揉み上がってきた。ほぐされたあとだからなのか、うっかり大きくなってしまっていると、
「仕方ないですね。ナイショのオプションしますか?」
と、緩んだTシャツの襟元から大きな胸と深い谷間をちらつかせて、くすっと笑いながらいう。
さっきまで論外だったおばさんが、なぜかやりたいいい女に見えてきて、オプションを選択。
532:名無しさん@お腹いっぱい。
21/06/11 09:20:31.36 r2kQhgb1.net
全裸にして大きな鏡の前で後ろ体をまさぐり、エロいカッコが全部見えるよ、と言葉責めしているといい感じに濡れてきたのでそのまま入れる。
「生はダメ。生はダメ。ゴムつけてよ。」
と繰り返しいいながらあえぎ続ける。
そのあとベッドに移動してからも生でつきまくると、エロい声であえぐし、しまりもいい。
「あんまりあばれるとせっかくマッサージしたのに疲れるよ」
と上にまたがり腰を振ってきた。
年の功かねっちこい。
「久しぶり。気持ちいい」
と言いながら続けてくる。
もうやばいから体位変えよう、って言うのにやめてくれず、あえぎながら腰を振り続けられ、そのまま中に全部出す。
「ゴムつけてって言ったのに。もう。
また呼んでくれるなら許してあげる。」
とエロかわいく言ってくれたが、
抜いたあとの明るい部屋で見送るときは、なにかの魔法がとけた気がした。
533:名無しさん@お腹いっぱい。
21/06/11 10:01:53.31 m+arlBif.net
>>435
中1で3作出しただけでやめちゃいましたからね
1作目は本当は撮影時小6のはずだけど
534:名無しさん@お腹いっぱい。
21/06/11 10:06:04.22 rSsdqBR1.net
ダンシングブレーヴ(Dancing Brave)とは、1983年生まれのイギリスの元競走馬・元種牡馬。
衝撃的な末脚を武器に大活躍した、20世紀後半の名馬たちの中でもトップクラスの優駿である。
競走馬としての概要
父Lyphard(リファール)、母Navajo Princess(ナヴァホプリンセス)、母父Drone(ドローン)という血統のアメリカ産馬で、
サウジアラビアのハーリド・ビン・アブドゥッラー王子の所有馬という(欧州ではよくあることだが)国際色豊かな馬。
名前は「躍動する勇者」という意味で、祖父ノーザンダンサー、父リファールの流れを踏襲した「踊る系」の名前である。
ノーザンダンサー系の後継としてかなり期待されていたように聞こえる名前だが、ぶっちゃけ幼少期は体格のバランスだけは良かったものの、
他の要素は「顎の噛み合わせがオウムのように悪く、両目は小さく、前脚は不完全で、前のめりになって歩いていた」と散々な言われようであり、1歳時のセリ�
535:フカタログでは「歩様が良い優れた子馬なのでもう1回よく見てください」といういかにも苦しいコメントを書かれる始末だった。 その甲斐があってか、アブドゥッラー王子のエージェントによって20万ドルと意外と?高額でセリ落とされた。 ところがその見た目を補って余りある柔軟な動きは競走馬としては本物であり、2歳10月にデビューすると危なげなく2連勝。 このシーズン終了時点で重賞未出走ながらクラシック初戦となる2000ギニーの前売り1番人気に支持され、3歳初戦のクレーヴンS(GIII・1マイル)を快勝して迎えた2000ギニー(GI・1マイル)では、 後にスピード系の種牡馬として有名になるグリーンデザートを子ども扱いして優勝。 この時点で既に「三冠馬ニジンスキーの再来」などと高く評価されるようになっていた。
536:名無しさん@お腹いっぱい。
21/06/11 10:07:24.63 rSsdqBR1.net
そして英ダービー(GI・1 1/2マイル)を迎えたが、ここではあまりの快速とマイルしか走ったことがないこれまでの戦績が距離不安の種になっていた。
それでも1.5倍の一番人気だったが、レース前に「この距離でも問題はない」と語った主戦のグレヴィル・スターキー騎手は内心では大事に行こうと思っていたのだろう、後方待機策を選択する。
しかし超スローペースが祟り、エプソム競馬場の直線を迎えた時、ダンシングブレーヴは先頭からはるか離された最後方だった。
こりゃ、もう駄目だ。
ところが、ダンシングブレーヴはそこからとてつもない末脚を繰り出したのである。
残り200mでは先を行くシャーラスタニから12馬身ほども離されていたが、ここからなんと1ハロン10秒3とも言われる豪脚を繰り出して半馬身まで迫ったのである。
「ええええ? エプソムの重い芝で10秒3?」と観衆は驚き、負けはしたがにわかには信じ難いパフォーマンスを見せ付けたダンシングブレーヴの評価は高まった。
しかし一方で、こんな末脚を使っても届かない位置にいたということでスターキー騎手は各方面からフルボッコにされてしまった。
さて、次走エクリプスステークス(GI・1 1/4マイル)では、愛2000ギニーを牡馬相手に勝ち、後に日本の富士ステークスで「なんじゃありゃあ!」と誰もが叫んだようなレースをやったことで知られる
「鉄の女」トリプティクを一瞬の脚で切り捨てて4馬身差完封し復活をアピール。キングジョージVI世&クイーンエリザベスダイヤモンドステークス(GI・1 1/2マイル)へと向かったのだが、
ここでスターキー騎手が首の怪我により戦線離脱し、パット・エデリー騎手を代打に迎える事態になってしまう。
このレースでは英ダービーで惜敗したシャーラスタニが愛ダービーを圧勝して出走してきており、ダンシングブレーヴは2番人気だった。
537:名無しさん@お腹いっぱい。
21/06/11 10:08:20.83 rSsdqBR1.net
しかし、かつてのライバルも本格化していたダンシングブレーヴの敵ではなかった。テン乗りも何のその、直線あっさり抜け出すと、2着馬シャーダリの猛追を見ながら余裕の3/4馬身。鞍上曰くこれでも早仕掛けになってしまったそうであるが、抜け出す時の切れ味は圧巻である。
凱旋門賞のステップレース、セレクトステークス(GIII・1 1/4マイル)をノーステッキのまま10馬身差で圧勝し、
もはや不動の大本命となって凱旋門賞(GI・2400m)へと向かったダンシングブレーヴだったが、このレースは面子が凄かった。
シャーラスタニとトリプティクは可愛いもので、5連勝中の仏ダービー馬ベーリング、12連勝中の独ダービー馬アカテナンゴ、チリのオークス馬マリアフマタ、
日本ダービー馬シリウスシンボリと、近年最高の豪華メンバーと言われるメンバーだったのだ。
ベーリングやアカテナンゴはその後種牡馬としても活躍している。
その豪華メンバーを相手に、ダンシングブレーヴは今でも語り草になってい�
538:驪ーるべきレースを展開する。 スタートから後方をのんびり進んだダンシングブレーヴは勝負所に入ってもまだ最後方だった。 直線に入って大外に持ち出した頃には、先頭集団は猛烈な叩き合いを演じていた。 「あああ、いくらあいつが化け物でも、これはとても届かない……」とでも思ったのか、カメラもダンシングブレーヴを視界から切ってしまう。 前ではシャーラスタニとベーリングが並んで抜け出しを図り、誰もがこの二頭で決まりと思った、その瞬間! 突如として外から画面に割り込んできた1頭の馬が、衝撃的な爆発力で内側の馬を置き去りにした
539:名無しさん@お腹いっぱい。
21/06/11 10:08:35.50 m+arlBif.net
>直接ここで違法サイトを晒さないで、第三者だったり正式サイトのリンクページを貼ったりパッケージやレビューを見せて作品が気になやすいるように仕向ける
そして気になった新規があっちこっち検索するであろう事を見越しTwitterなどで宣伝
風が吹けば桶屋が儲かる以上に迂遠
どうしてこんなアクロバット的発想ができるんだ
540:名無しさん@お腹いっぱい。
21/06/11 10:13:07.69 rSsdqBR1.net
よっぽど、広告代理店がアフィを操ってると知られるのは都合が悪いそうだw
それは誰あろう、ダンシングブレーヴだった。並ぶ間も無くベーリングをかわすとそれだけでは飽き足らず1馬身半突き抜け、2分27秒7のレースレコードで圧勝。
最後の200mは10秒8とも言われ、いずれにしてもロンシャンの歩くにも難儀な芝で繰り出されるものとは思えない、桁違い、問答無用、
唖然呆然といった感じの末脚だった。現在でも欧州競馬ファンに「末脚」と言うと「ダンシングブレーヴ」と返ってくるらしい。
この後アメリカ遠征したダンシングブレーヴだが、ブリーダーズカップ・ターフ(GI・1 1/2マイル)で4着に凡走。そのまま引退した。
有力説として「土塊が目に入った[1]」や「猛暑から来る脱水症状」の2つ、他にも「連戦の疲れ」「遠征で体調を崩した」などの説があるが、真相は不明。
いずれにしても実力を発揮出来ていなかったのは明らかだったので評価は下がらず、
インターナショナル・クラシフィケーションは彼に史上最高となる141ポンドのレーティング(後のエルコンドルパサーは136ポンド)を与えたのだった。
追い出してからたったの2完歩でトップスピードに達したというその切れ味は、どちらかと言うとパワーと持続する脚で押し切る競馬の多いヨーロッパ競馬としては異質のものだった。
欧州競馬は見ていると息が詰まるようなジリジリした競馬が多いものだが、彼のレースは笑ってしまうようなスカッとさわやか切れ味ドライな物が多いので是非関連動画で御覧あれ。
541:名無しさん@お腹いっぱい。
21/06/11 10:14:34.34 rSsdqBR1.net
レーティング
ところで、先に書いた通りダンシングブレーヴのレーティングは「141」という当時最高のものだったが、このレーティングを超える馬は長きにわたっ
て現れることがなかった。というよりレーティングの最高値は原則140ポンドであり、
それを超える141ポンドを得たダンシングブレーヴが例外のようなものだった。
状況が変わったのは2013年である。この年、「昔の馬に甘いんじゃないの?」と頻繁に批判されていた国際クラシフィケーションが見直され、
年によって一律に下方修正が施された結果、ダンシングブレーヴのレーティングは「138」とされた。
これだけなら良かったのだが、実は2012年に140ポンドの馬が1頭出現していた。
ダンシングブレーヴと同じくアブドゥッラー王子の所有馬で、14戦14勝という戦績で引退したその馬の名はフランケル。
フランケルのレーティングは当然据え置きだったため、この時点でダンシングブレーヴは歴代トップレートから陥落してしまった。
両馬を所有していたアブドゥッラー王子はまだしも、ダンシングブレーヴを管理していたガイ・ハーウッド調教師はこの処理に猛反発。
「フランケルが上位ならダンシングブレーヴより高い数値にすればいいだけであって、わざわざ数値を下げるというのは意味が分からない」
「数十
542:年も世代が違う馬は比較しようがないから、ダンシングブレーヴが最高なのは変わりない」と激怒し、 これに追従する形で世界中で大論争が巻き起こった。 ただし両馬の名誉のために書くならば、フランケルはマイル戦線で活躍した馬であり、一概にダンシングブレーヴと同じ土俵で比較できる馬ではない。 中長距離においては、やはりダンシングブレーヴは現代でも色褪せない歴史的名馬の1頭であったと言ってしまっても良いのではないだろうか。
543:名無しさん@お腹いっぱい。
21/06/11 10:15:58.39 rSsdqBR1.net
種牡馬としての概要
さて、これだけの超名馬である。当然種牡馬としても期待され、イギリスで当時としては破格の1400万ポンド(約35億円)のシンジケートが組まれて種牡馬入りした。
しかし種牡馬入り初年の1987年秋、ダンシングブレーヴはマリー病という奇病に罹患してしまう。これは鳥の結核の一種で、馬が罹るのは極めて珍しい。
この病気は骨が肥大化したり、関節が腫れたりするのであるが、これに伴い発熱、むくみ、激痛が身体中を苛むという惨いものである。
ダンシングブレーヴは徹底した投薬治療で一命を取り留めたが、後遺症は残り、受胎率も下がってしまう。
しかも初年度産駒がさっぱり走らなかったこともあって、シンジケートは彼の売却を検討するようになった。
それに名乗りを上げたのが日本のJRAだった。
日本でも「このような名馬を格安で購入できるチャンスを逃すべきではない!」という意見と「そんな病気の馬を何億円も出して買ってきて、
すぐに死んだらどうすんだ!」という意見が真っ二つに対立して大揉めに揉めたらしいが、結局JRAは購入を決断。
1991年、350万ポンド(約8億2千万円)でダンシングブレーヴは日本にやってきた。
ちなみに、この時日本が購入を断っていれば、ダンシングブレーヴは安楽死させられる可能性が高かったと言われている。
病気持ちのダンシングブレーヴは非常に見栄えが悪く、病気が遺伝するのではというデマが乱れ飛んだこともあって、
1991年の種付けにはほとんど優秀な牝馬が集まらず、優秀な馬はオークス馬のマックスビューティとエイシンサニーくらいのものだった。
544:名無しさん@お腹いっぱい。
21/06/11 12:15:17.12 K9LHoZWH.net
今日は誰で抜こうかな?
545:名無しさん@お腹いっぱい。
21/06/11 12:16:26.04 mPTzFiWl.net
画質がよい割れサイト教えてクレメンス
546:名無しさん@お腹いっぱい。
21/06/11 12:19:53.46 rSsdqBR1.net
その頃、イギリスの競馬界は「やれやれ、厄介払いが出来た」と思ったかどうかは知らないが、
ともかくさっさとダンシングブレーヴを忘れてしまった。……いや、忘れてしまえる筈だった。
ところがである。1993年、前年にフィリーズマイル(2歳GI)を制したイヴァンカこそ故障で夭折してしまったものの、
欧州クラシック戦線ではダンシングブレーヴ産駒が大活躍。
英愛ダービーを制したコマンダーインチーフに始まり、ホワイトマズルが伊ダービー、ウィームズバイトが愛オークス、他にも重賞勝ち馬が続出し、
結局この世代の39頭中8頭がステークスウィナーになり、その年のサイアーランキングはなんと2位につけた。
イギリス関係者は唖然呆然、競馬ファンは怒り心頭となり、ある一般紙が「早計な判断から起きた国家的な損失」と書き立てたと言われる。
一方の日本ではもちろん大喜び。輸入前に輩出した外国産馬ダンシングサーパスが1994年の宝塚記念で3着に入ったことも追い風となり、
ダンシングブレーヴには打って変わって良血牝馬の種付け依頼が殺到し、後にホワイトマズル、コマンダーインチーフも輸入されるなど非常に高い期待を集めた。
そして期待通りに1997年のクラシック戦線ではキョウエイマーチが桜花賞を勝つなど活躍。
その後もキング�
547:wイロー、エリモシック、テイエムオーシャンがG1を制覇。流石の貫禄で超一流種牡馬の地位を確立したのであった。
548:名無しさん@お腹いっぱい。
21/06/11 12:20:56.76 rSsdqBR1.net
しかし1995年、恐れていた通りマリー病が再発。懸命な治療で一命は取り留めたが、馬房に空調を付ける、
スタッフが24時間付きっ切りで看病するなどほとんど重病人扱いを受けざるを得なくなった。
こんな状態では満足な種牡馬生活など送れるはずがなく、種付け数は40頭(のちに50頭)に制限された。
キョウエイマーチが桜花賞を勝つ前年の1996年は20頭止まりと寂しいものだった。そんな中でもリーディングサイアーランキングは最高5位を記録した。
サンデーサイレンスなどが200頭レベルで種付けしていたことを考えれば、まさに欧州最強馬の面目躍如といったところであろう。
産駒はキングヘイローのように気性の激しい馬が多かったが、ダンシングブレーヴ自身は従順な我慢強い馬であったそうである。
マリー病再発後は身体中が痛むだろうに、それにじっと耐えていたのだそうだ。
1999年8月2日、病状が急変してダンシングブレーヴは死亡した。
痛みに耐え、死してなお脚を屈することなく仁王立ちで絶命したという。「勇者」に相応しい死に様だったと言えよう。
549:名無しさん@お腹いっぱい。
21/06/11 12:21:51.02 rSsdqBR1.net
病に苦しみながら残した産駒はそう多くない。しかし、ホワイトマズル、コマンダーインチーフ、キングヘイローという非常に優秀な後継種牡馬に恵まれており、父系は細々とでも伸びて行くことだろう。
母の父としても二冠馬メイショウサムソンを出すなど有望である。
いつの日かその血を引いた馬が欧州を席巻する日が来るかもしれない。
その時ヨーロッパ競馬は再びあの末脚を思い出すことになるだろう。楽しみである。
血統表
Lyphard
1969 鹿毛 Northern Dancer
1961 鹿毛 Nearctic Nearco
Lady Angela
Natalma Native Dancer
Almahmoud
Goofed
1960 栗毛 Court Martial Fair Trial
Terlingua
Barra Instantaneous
La Favorite
Navajo Princess
1974 鹿毛
FNo.3-d Drone
1966 芦毛 Sir Gaylord Turn-to
Somethingroyal
Cap and Bells Tom Fool
Mountain Flower
Olmec
1966 栗毛 Pago Pago Matrice
Pompilla
Chocolate Beau Beau Max
Otra
父Lyphardはジャック・ル・マロワ賞、フォレ賞と2つのGIを制しているが、アメリカとフランスでリーディングサイヤーを獲得するなど種牡馬としてのほうが有名。
母Navajo Princessはアメリカで走り、大レースには手が届かなかったが、モリーピッチャーS(GII)など35戦16勝の成績を残している。
母父Droneは4戦4勝し底を見せないまま引退している。
550:名無しさん@お腹いっぱい。
21/06/11 13:00:29.23 NTi1EVVo.net
5ちゃんの泡沫スレをたまに興味本位で覗いている40おっさんだが、
このスレも狂気に染まっていってるな
ながらえても、まず意味がないと思うが
退廃してゆくスレ
病理を抱えた戯言ばかり
社会不適合者の巣窟
冗談じゃなく、病むぞ?
まず、抜け出そう
長居は無用、吐き気をもよおす
精神的に問題を抱えた人ばかりだ
551:名無しさん@お腹いっぱい。
21/06/11 13:06:50.76 YfxctfWO.net
源結菜しか勃たん!
552:名無しさん@お腹いっぱい。
21/06/11 13:10:07.11 QO/vEEdn.net
98年 宝塚記念。
最速の機能美
553:、サイレンススズカ。 速さは、自由か孤独か。 ―2011年宝塚記念CMより ※当記事では、サイレンススズカの活躍した時代の表記に合わせて、年齢を旧表記(現表記+1歳)で表記します。 サイレンススズカ(1994年5月1日生、1998年11月1日死亡)は日本の元競走馬。 父サンデーサイレンス、母ワキア(母の父miswaki)。生涯成績16戦9勝。橋田満厩舎所属。 主な勝鞍:宝塚記念(GⅠ)中山記念、金鯱賞、毎日王冠(GⅡ)小倉大賞典(GⅢ) しかしテレビで見ていた者やテレビカメラを見ていた実況は気が付いていた。彼の足に異変が起こったことを。 そして失速し、サイレントハンターに、後続にかわされていくサイレンススズカ。 ようやく彼の異変に気付いた大観衆から悲鳴が上がった。 レース自体は続いていたが、そのレースを、その決着を見ていた観衆は果たしてどれだけいただろうか…… 結果は左前脚の手根骨粉砕骨折による競走中止。 直ちに予後不良の診断が出され、「このまま引退でもいい。せめて種牡馬に……」というファンの祈りもむなしく、 安楽死処分が下された。 こうして彼はこの日、まだ行ってはならない別のゴールを駆け抜けてしまった。 サイレンススズカexitとの思い出は、たくさんあります。語るべきことも、まだ、まだ、あります。でも、今もまだ、その傷口は膿んでいて、瘡蓋をはがすと、血が噴き出してきます。 忘れることは生涯ないと思いますが、いつか……そう、いつか……傷が癒え、瘡蓋を剥がしても血がにじむ程度になることがあったら、そのときは、彼の話をしたいと思います。 ---武豊『名馬たちに教わったこと ~勝負師の極意III~』(2018)
554:名無しさん@お腹いっぱい。
21/06/11 13:12:26.10 QO/vEEdn.net
サイレンススズカ(1994年5月1日生、1998年11月1日死亡)は日本の元競走馬。
父サンデーサイレンス、母ワキア(母の父miswaki)。生涯成績16戦9勝。橋田満厩舎所属。
主な勝鞍:宝塚記念(GⅠ)中山記念、金鯱賞、毎日王冠(GⅡ)小倉大賞典(GⅢ)
半弟に天皇賞(春)2着で種牡馬のラスカルスズカがいる。
愛称は『スズカ』『ススズ』など。4歳時は騎手が転々としていたが、5歳以降は武豊騎手が主戦騎手となっている。
他馬に影も踏ませぬ大逃げで大勝するというそのレースぶりから、一般に最強候補の快速馬として知られる。
ただし、正確には足がとてつもなく速い馬なのではなく、短距離馬並みのスピードで中距離を走れるという特殊な性格の馬。
そのため抑えて使ったり距離が短いと普通の速い馬にしかならない(といっても一流クラス)のだが、中距離で同じように逃げた時この馬のペースを乱すことは事実上不可能で、
マイペースで最後まで行かれてしまうため、レース展開を狙って負かすのが非常に難しいという恐ろしい馬である。
名手、武豊をして「一番勝ちやすい馬」と言わしめる鮮烈な存在であった。
出生:偶然から生まれた快速馬
種付けが行われた93年の春、生産者の藤原氏は、ウイニングチケットやベガらの初年度産駒が春のクラシック路線で大活躍していたトニービンの種付け権利を持っており、ワキアに配合する予定だった。
しかしワキアの発情期を見計らって意気揚々と社台の繋養所につれて行ったところすでにその日のトニービンの種付け予定は埋まっていた。
既に種付シーズン終了が迫ってきており、もう今年トニービンをつけられる機会は来ないかも……とがっかりしていたところへ
「サンデーサイレンスなら今日予定が空いてますが……」
と社台側が助け舟をだしてくれたのである。……2年後の95年であれば到底あり得ない助け舟ではあるが、サンデーサイレンスの産駒がデビューするのは翌94年の6月であり、
当時は種牡馬としての才は未知数で、後の驚異的人気はまだなかった。むしろ、92年に生まれた初年度産駒はどれも馬体が薄いと、この頃はまだ大きな期待はなかったのである。
とはいえサンデーサイレンスも競走成績ではトニービンに引けを取らない実績を持つのは間違いないので、牧場長もこの提案を承諾してこの年はワキアにサンデーサイレンスを配合することになった。そうして生まれたのがサイレンススズカである。
幼いころはそれほどの才気を見せていなかった。目立つ所と言えば、やたら人懐っこいところと、馬房内で左回りにやたらクルクル回る癖があったくらいであったのだが……
555:名無しさん@お腹いっぱい。
21/06/11 13:14:32.15 QO/vEEdn.net
4歳 ~東京優駿:才能だけで走る日々
やや遅生まれだったこともあり、デビューはやや遅めの4歳2月。しかしこのころから調教段階での好時計の連発が評判となる。
サンデーサイレンス産駒の初仔がデビューして以降、クラシック戦線の中心には常にサンデーサイレンス産駒がいたのだが、1997年は皐月賞を2カ月後に控えたこの時期になっても
目立った実力馬がおらず、牡馬クラシック戦線はハイレベルではない混戦模様。ファンもメディアもスターホースの出現を待ち望んでいた。
そんな中、好タイムを連発するサンデーサイレンス産駒が現れる。これにより「遅れてきたサンデー産駒の大物現る」「今年のダービーはこの馬で決まり」と大盛り上がり。
後に主戦を務めることになる武豊にも「皐月賞もダービーも全部持っていかれる」と危機感を抱かせた。その前評判通りデビュー戦では圧勝、そしてクラシック出走のため果敢にも皐月賞トライアルの弥生賞に挑戦する。
デビュー2戦目にもかかわらず2番人気に支持されたことから見ても、いかに期待されていたかがよく分かる。
しかし、そこで見せたのはゲート内で鞍上の上村騎手を振り落とし、ゲートの下から潜り抜け、その後ゲートに入り直してようやく発走したと思ったら10馬身も出遅れ、という大失態であった。
後で厩務員が語ったところによると、ゲート入りまでついてきてくれた厩務員が発馬前にその場を立ち去ったことで、それを追いかけようとしてゲートをくぐったのでは?とのこと。
幼駒時代からの人懐っこい性格がこんなところで仇となってしまった。そんな状況から8着まで持ってきた能力(とゲートをくぐっても筋肉痛すら残さなかった身体の柔軟性)は
さすがと言えるが、ゲート再試験と20日間の出走停止処分が下され皐月賞出走は不可能に。
そしてこの後の条件戦も圧勝したことにより「ダービーこそは」の思いは強くなり、軽度の故障を発症したもののダービートライアルのプリンシパルステークスに強行出走。
橋田師曰く「この後に来るのがダービー以外のレースなら使っていなかった」とのこと。サイレンススズカはその思いにこたえて見事ここを勝利し、日本ダービーに駒を進めることができた。
しかしそこで待っていたのは、皐月賞馬であり、同じ逃げを得意とするサニーブライアン陣営によるスズカ封じの作戦だった。スズカが逃げたら控える気満々だったのにもかかわらず、
「何が来ても逃げる」「スズカが来ようが関係なし」などと吹いたため、スズカ陣営は潰し合いを恐れて控える競馬をすることを選択してしまう。
さらにレース間隔が短かった影響からイレ込みまくったサイレンススズカは掛かりまくって自滅し(9着)、楽な逃げで競馬ができたサニーブライアンの二冠達成を前に辛酸をなめるしかなかった。
556:名無しさん@お腹いっぱい。
21/06/11 14:10:08.51 ilnvp5K3.net
割れてるの以外で頼む
557:名無しさん@お腹いっぱい。
21/06/11 14:30:03.61 m+arlBif.net
>>477
見�
558:驍スびに吐き気を催せ
559:名無しさん@お腹いっぱい。
21/06/11 14:34:25.35 m+arlBif.net
>>478
一穴主義っていいよね 穴じゃないけど
560:名無しさん@お腹いっぱい。
21/06/11 14:42:17.72 QO/vEEdn.net
4歳 ~香港国際カップ:名手との出会い
秋は神戸新聞杯(G2)から始動。しかしここで鞍上の上村騎手が「勝利を確信して抑えたらマチカネフクキタルに差されてました(キリッ」という大失態を犯したため、当然橋田師の怒りを買い、上村騎手は鞍上から降ろされることに。
弥生賞のゲートくぐりの際、外傷こそなかったものの全身に激痛を発しながら「もしここで乗れないとなったらこの弥生賞に騎乗馬のなかった岡部幸雄への乗り替わりになる。
岡部さんが一回でもこの馬に乗ったら絶対手放さないし、二度と自分は乗れなくなる」という執念で鞍上を譲らなかった上村であったが、これを最後にサイレンススズカに乗ることはなかった。
その後は鞍上に河内洋を迎え、距離適性を考慮し菊花賞ではなく天皇賞(秋)に向かった。そこでサイレンススズカは、いままでにない大逃げをみせる。
5歳時の片鱗を見せる走りであったが、この未完成の段階ではまだ荷が重かったか、エアグルーヴとバブルガムフェローの叩きあいについていけず6着と敗れた。
とはいえこの2頭の叩きあいが抜けていただけで3着からは0.1秒しか離されておらず、本格化の兆しは見せていた。
この後、余裕を持って京阪杯(G3)を使う予定であったが、招待されると思っていなかった香港国際カップ(現香港カップ、当時はG2)の招待状が届いたため急きょ日程を組み直すことになった。
その影響で調教過程はちぐはぐになってしまう。しかも、前述の馬房内で左回りしまくる癖を直そうと畳やタイヤを吊るしたらものすごくストレスを溜めてしまった。そういう経緯もあり急遽出走したマイルCSは15着惨敗。
その後目標にしてきた香港国際カップは、同日同コースで開催された国際G1香港マイルの勝ち時計を上回る1600m通過タイムで逃げるも、最後に後続に捕まり5着。
G1レースどころか重賞レースも勝っていない馬なら善戦といえなくもないが、騒ぐほどのことでもない。翌日のスポーツ新聞の片隅に載った小さな記事のその扱いは、当時の競馬ファンの評価とイコールだった。
561:名無しさん@お腹いっぱい。
21/06/11 14:43:41.63 QO/vEEdn.net
デビュー当時は大物と騒がれても、その後鳴かず飛ばずという馬は枚挙にいとまがない。
「才能はあるがこの気性難では馬券は買えない。」そんな評価が大勢を占めており、競馬ファンの話題は有馬記念や翌年のクラシック予想へと移っていった。
しかし、そんな世間とは真逆の評価をした男がいた。他でもない、香港国際カップでサイレンススズカの騎乗を任された武豊騎手である。
先述の通りデビュー前から同馬を高く評価しており、「依頼を待つのが騎手」という自身のスタイルを崩して自ら騎乗を申し出たのだ。日本を代表する名手はレース後こう述べた。
「この馬は、化け物だ……」「来年は、この馬で勝ちますよ」と。
5歳 ~金鯱賞:覚醒。伝説の金鯱賞
明けて5歳、オープン特別のバレンタインSから始動。武騎手はわざわざサイレンススズカ騎乗のためだけに関東へ遠征してきた(武騎手は関西所属であり、
重賞でもないオープン特別のためだけに関東に来るのは異例のこと)。実績的に抜けている相手関係であり、まずは4馬身差の逃げ切りで圧勝。
次の中山記念(G2)はG1馬イシノサンデーら強敵が集まったが、最後やや足が止まったものの1馬身3/4で勝利。距離的に不安な天皇賞(春)は避け、小倉大賞典(G3)へ。ここも3馬身差の
562:快勝。 ……こうしたレースの中で、武騎手は「一時息を入れる」ということを覚えさせていった。そうして一時落ちつかせてしまえば、この馬は再度気合を入れた時に逃げていた時の足をもう一度使える……という考えであった。 「スタート後はペースもコース取りも他馬の妨害をしない限り自由」という競馬のルール上、どんな名馬であっても他馬の影響で自分の走りが出来ずに敗れるというのはザラにある。 それが競馬の面白さでもあり、武豊騎手自身も"ライバル馬に自分の走りをさせない"ことで勝ち星を積み上げてきた。
563:名無しさん@お腹いっぱい。
21/06/11 14:44:57.94 QO/vEEdn.net
だからこそ、「最速のスタートを決めて、並ばれないくらいに大逃げし、最短コースでレースを進め、最後の直線でも後続と同等のタイムで走る」という
「ライバルに何もさせない走り」は理想であり、空想の世界でしか存在しない走り方なのだが、武豊騎手の指導によりサイレンススズカはこの「競走馬の理想の走り方」を
会得しつつあった。長きにわたりファンに愛され、武豊騎手にして「ディープインパクトに勝てるとしたらこの馬」と言わしめたゆえんである。
その走りをファンに見せつけたのが、今も語り継がれる1998年の金鯱賞(G2)。
このレースはサイレンススズカ自身も含め連勝中の馬が数多く参戦していた。重賞2勝を含む5連勝中のミッドナイトベット。
休み明けながら前年に4連勝で菊花賞を制したマチカネフクキタル。こちらも休み明けながら重賞含む4連勝中のタイキエルドラド。
いずれ劣らぬ強敵たちにサイレンススズカがどういったレースをするのかが注目された。
レースはいつも通りのサイレンススズカの大逃げで始まった。もちろん1000m通過が58秒1のハイペースである。ファンや後続の騎手は「どこかでスズカはペースを落とすだろう。
その間にどれだけ後続が差を詰めるか、そしてスズカはどこまで持ちこたえるか」などと考えていただろう。
しかし3コーナーを回れど、4コーナーを回れど詰まるのは2番手の馬と後続の間だけ。サイレンススズカは未だ悠々の一人旅。どよめきは次第に大きくなり、笑い出す人もいたとか。
サイレンススズカが直線に入るといつしか沸いていた観客の拍手が出迎えた。そして混戦の2着以下を尻目に、拍手の中ただ1頭先頭でゴール板を駆け抜けた。有無も言わせぬ大差勝ちである。
564:名無しさん@お腹いっぱい。
21/06/11 16:02:42.37 3hIdCUrB.net
ウマ娘にハマってんの?
565:名無しさん@お腹いっぱい。
21/06/11 16:20:03.14 QO/vEEdn.net
この強いメンバーに対し、これほどのレースをしたことでこの金鯱賞は伝説となり、サイレンススズカの名はトップクラスに躍り出るようになった。
5歳 ~毎日王冠:強豪にすら踏ませぬ影
ここまで連戦続きの上、武騎手には宝塚記念に出走するエアグルーヴに騎乗の先約があり、これまでの戦積と例の旋回癖から右回りがやや苦手なのでは、
ということもあって宝塚記念は回避も検討されたが、ファン投票の急浮上、そしてサイレンススズカの調子の良さから今度はマイルCS以来のG1出走を決めた。
武騎手の代打として白羽の矢が立ったのは南井克己騎手である。しかし、この難しい馬を、テン乗りで手の内をつかめていない状況で
武騎手と同じ乗り方をすることは南井騎手でも不可能と判断したのか、南井騎手は橋田師に「一度後続を引きつけます」と宣言していた。
その宣言通り、南井騎手は3コーナーから4コーナーあたりで後続を引きつけた。サイレンススズカは普段と違う指示に戸惑ったか、はたまた苦手の右回りの影響か、
シルバーコレクターステイゴールドとエアグルーヴに追い詰められるも、3/4馬身しのいでG1タイトルの栄冠を手にした。
この不利な条件が重なった中での勝利に、中距離最強の座はもはやゆるぎないものと思われた。
この後の最大目標はもちろん、サイレンススズカが最も得意とすると思われる左回り2000mという絶好の条件で行われる天皇賞(秋)である。
しかし、その前哨戦の毎日王冠(G2)で2頭の無敗馬がサイレンススズカに挑戦状を叩きつける。
1頭は1997年の朝日杯3歳ステークスを完勝し、4戦4勝の前年3歳王者グラスワンダー。もう1頭は1998年のNHKマイルカップをこちらも無敗で制し、5戦5勝の4歳マイル王エルコンドルパサーである。
566:名無しさん@お腹いっぱい。
21/06/11 16:21:07.83 QO/vEEdn.net
この2頭は圧倒的な実力がありながら外国産馬であったため、当時天皇賞やクラシックに出走を許されておらず、その憂さを晴らすべく、中距離最強馬のサイレンススズカの玉座を狙いに来たのであった。
サイレンススズカは調子が今一つではあったが、玉座に座るものとしてこれだけ明確な挑戦状から逃げるわけにはいかず、ここに最初で最後の名勝負が幕を開ける運びとなる。
「外国産馬出走制限問題」ー。
持込馬のマルゼンスキーをはじめ古くから議論されており、特に目新しくもないのだが、これまで「1サラブレッドの不運」という枠を超えて語られることは稀だった。
ところが1990年代後半にきて外国産馬(マル外)が日本競馬界を席巻。1998年に至っては最終的に、マル外が出走可能なG1・13レースのうち、
その半数を超える7レースをマル外が勝つことになり、日本競馬全体の問題として認識されるようになる。
「安くて走る。しかも早熟傾向で若いうちから賞金を稼ぐからリスクも少ない。」
そんなマル外を買い求めるのは馬主として当然のことではあるのだが、
「クラシックや天皇賞までマル外に開放しては、日本の馬産産業が壊滅してしまう。」という保護派と、
「G1に強い馬が出走できなくてはその魅力が失われ、競馬そのものの人気が衰退する」という開放派で議論は紛糾する。
ただ、意見は違えど日本競馬を思う心は同じ。
天皇賞(秋)の重要なステップレースに位置付けられている毎日王冠をマル外に勝たれてしまっては、
本番の天皇賞(秋)は「マル外に負けた馬達による中距離王者決定戦」になってしまう。
ここはサイレンススズカに勝ってもらい、天皇賞の格を守ってほしいと願うファンは多かった。
567:名無しさん@お腹いっぱい。
21/06/11 16:22:28.94 QO/vEEdn.net
こうして1998年の毎日王冠は、
「中距離王者 vs 無敗の4歳馬」という意味合いはもちろん、
「日本国内産馬 vs 外国産馬」というこれからの日本競馬はどうあるべきかを占うレースにもなるのである。
事実、サイレンススズカ陣営はここを回避して天皇賞に勝ったところで「グラスワンダーやエルコンドルパサーに負けることがわかってて逃げた」と言われることを嫌って毎日王冠に出走した経緯がある。
1998年10月11日。王者サイレンススズカとそれに挑む2頭の若き怪物、それを一目見ようと府中競馬場にはG2競走にもかかわらず13万人の大観衆が詰めかけた。
また「この3頭相手に勝てるわけがない」として回避した競走馬も多く、毎日王冠史上でも珍しい10頭未満という少頭数での開催となった。
とはいえ1頭を除き全員が重賞勝利の実績を持っており、3頭以外も決してレベルの低い争いではない。この豪華ぶりをフジテレビで実況していた青嶋達也は「もう二度と見られない顔ぶれ」と評した。
後述の通り、この発言は現実のものとなってしまう。
レースはもちろんサイレンススズカがいつも通りハイペースで引っ張る形。しかしそこはライバルたちも歴戦の強者。しっかりとマークして離されずについていく。
……そして第3コーナー、この先のためにわずかに息を入れるサイレンススズカ。
と、そのわずかな隙をついて先頭に並びかけんとする馬がいた。グラスワンダーである。
この「息を入れる」という一瞬の隙をついてサイレンススズカに並びかけ、叩きあいに持ち込む。それがグラスワンダー陣営の作戦だった。
しかし、その並びかける前にサイレンススズカは再加速を始めてしまった。グラスワンダー陣営の作戦は空振りに終わった。
再加速したサイレンススズカに並びかける力はグラスワンダーには残されておらず、乾坤一擲の策を潰され後退していくグラスワンダー。
568:名無しさん@お腹いっぱい。
21/06/11 16:47:02.50 K9LHoZWH.net
不能者のくせにレスだけは朝からギンギンで大量放出だなw
569:名無しさん@お腹いっぱい。
21/06/11 16:49:17.16 QO/vEEdn.net
それと入れ替わりで上がっていったのはエルコンドルパサーである。
策を弄したグラスワンダーとは異なり、こちらは「自身の一番強い競馬をすればサイレンススズカ相手でも勝てるはずだ」という真っ向勝負で挑んだ。
しかし、現実に鞍上の蛯名騎手が馬群を抜けた先で見たのは、あまりに遠いサイレンススズカの姿。しかも坂を上っても全然差がつまらない。
最後ようやく差を少し詰めたものの、2馬身半という余裕の差をもって、この3強対決はサイレンススズカに凱歌が上がった。
名手達の駆け引きと名馬達による全力勝負。
未来永劫語り継が得るであろう名勝負を見せてくれた感謝の証として、
ファンはユタカコールで勝者をたたえ、
武騎手もG2では異例のウィニングランでそれに応えた。
この勝利は「日本もマル外に勝てる強い馬をつくることができる」と馬産地に勇気を与えた。
またファンは名勝負の興奮冷めやらぬまま彼の将来について熱く語り合った。
「天皇賞(秋)で日本レコードはでるか?」
「日本産馬初の海外G1制覇は?」
「マイルCSに出たらタイキシャトルとどちらが勝つか?」
「今なら2400mのジャパンカップも勝てるのでは?」
「サンデーサイレンスの後継種牡馬になれるか?」
サイレンススズカの未来は明るく、その可能性はどこまでも広がっており、夢を語り合うその笑い声はいつまでも続いていた。
なお同日、西の京都競馬場ではこちらも秋の戦線を占う重要なG2京都大賞典が開催されており、こちらも東に劣らず豪華な顔ぶれを見せていた。セイウンスカイ、
メジロブライト、シルクジャスティス、ステイゴールドといった面々が揃う中、こちらも逃げ馬であるセイウンスカイが逃げ切りを披露。G1競争が開催されない土曜日にもかかわらず、
東西で大きな盛り上がりを見せた。この日の熱狂ぶりは日本中央競馬史上でも稀なことである。
こうして2頭の不敗神話をまとめて斬って捨てたサイレンススズカ。毎日王冠で負かした2頭は天皇賞(秋)には出られず、鞍上の関係で懸念となっていたエアグルーヴも
武騎手に配慮してかここを回避しエリザベス女王杯に向かった。彼を脅かす馬はもはやいなかった。
570:名無しさん@お腹いっぱい。
21/06/11 16:51:31.11 QO/vEEdn.net
5歳 天皇賞(秋)、そして……
そして迎えた天皇賞(秋)は日程の都合上、久々の11月、それも11月1日開催となった。そしてサイレンススズカの枠は1枠1番に。
もちろん馬券の売り上げも圧倒的にサイレンススズカが1番人気(単勝1.2倍)である。11月1日東京11R1枠1番1番人気。誰もがレース後、ここに加わるもう一つの「1」を想像したに違いない。
しかしその一方で、この天皇賞(秋)は「1番人気が勝てない」という不気味なジンクスがあった。しかもその内容も尋常ではなく、11年前にニッポーテイオーが1番人気で勝った後の1番人気の馬は
3度1番人気に支持されながら一度も勝てなかったオグリキャップ
1位入線を果たしながら進路妨害により18着降着の憂き目をみたメジロマックイーン
驚異のハイペースに巻き込まれて失速したトウカイテイオー
レース中の屈腱炎により連続連対記録ごと競走生命を断たれたビワハヤヒデ
鞍上の騎乗ミスにより脚を余して敗退したサクラローレル
他にもライスシャワー・ナリタブライアン・バブルガムフェローとそうそうたるメンバーが敗れ去っているのである。曰く、「府中には、魔物が住んでいる。」
だが、スズカなら……スズカならきっとこんな糞みたいなジンクスなど打ち破ってくれる……そういう空気がファンの間に漂っていた。
大きな期待と、わずかな不安の中スタートした天皇賞(秋)。もちろんサイレンススズカはいつも通りのハイペースの大逃げ。
しかも今回は2番手サイレントハンターの位置ですら大逃げといえる状況である。もはやカメラの引き具合が限界を超えるのではないかと心配になるレベルである。そしてサイレンススズカの姿が大欅の向こうに消えた。
そして再び姿を現したサイレンススズカ。ややペースを落としておりいつも通りここは息を入れる時間か……大観衆はそう思った。
しかしテレビで見ていた者やテレビカメラを見ていた実況は気が付いていた。彼の足に異変が起こったことを。そして失速し、サイレントハンターに、後続にかわされていくサイレンススズカ。
ようやく彼の異変に気付いた大観衆から悲鳴が上がった。
レース自体は続いていたが、そのレースを、その決着を見ていた観衆は果たしてどれだけいただろうか……
ゴールの瞬間、オフサイドトラップの馬券を買ったであろう人の『やったー!』という言葉がどこか遠くから鮮明に聞こえました。それが聞こえるほど静かだったんです。G1レース後は本命が勝ったら歓声が、穴馬が勝ったら悔し紛れの怒声が響きますが、騒々しさに変わりはありません。
ところがあのレースの後は、G1とは思えない、興奮とは正反対のどよめきと、信じられないという
戸惑いが競馬場全体を覆っていました。皆一様に勝者がいる第1コーナーではなく第4コーナーを凝視していました。(当時競馬場にいたファン)
571:名無しさん@お腹いっぱい。
21/06/11 16:53:41.33 QO/vEEdn.net
結果は左前脚の手根骨粉砕骨折による競走中止。直ちに予後不良の診断が出され、「このまま引退でもいい。せめて種牡馬に……」というファンの祈りもむなしく、
安楽死処分が下された。こうして彼はこの日、まだ行ってはならない別のゴールを駆け抜けてしまった。
残されたものたち
サイレンススズカの故障は落馬してもおかしくないほどのものであった。もし、鞍上の武豊騎手が故障時点で振り落とされていたら、
いくら大逃げとは言っても猶予は数秒しかなく、後続の馬群との接触で大事故に繋がっていた可能性がある。
実際には安全な場所に誘導してから馬を降りたためそれを免れたが、武豊騎手は「サイレンススズカが僕を助けてくれた」と語っている。
このレースの模様をフジテレビ「スーパー競馬」で放送していたが、レース後サイレンススズカの競走中止理由すら発表されていないにも関わらず、番組アナウンサーの斉藤陽子は終始号泣しっぱなしで仕事にならなかった。
また脇では解説者大川慶次郎が「これだから競馬には絶対がない」と予想を外した悔しさを滲ませていた。
武騎手の落胆ぶりは相当な物で、その晩には知り合いとともに泣きながらワインをあおり続け、生まれて初めて泥酔するまで痛飲したという。
その様子を複数の一般人が目撃しており、騎手仲間にも「あれだけ落ち込んだ豊さんは見たことがない」と言われたほどである。
翌年の天皇賞(秋)を勝ったのはスペシャルウィーク。絶好調とは言えない彼を、見事に優勝に導いたその鞍上は武豊騎手である。
毎日王冠で破ったエルコンドルパサーは、その年のジャパンカップを快勝し、翌年は欧州遠征を敢行。
世界最大のレースの一つである凱旋門賞2着など輝かしい成績を残し、1999年は日本で1度も走らなかったにもかかわらず、その年の年度代表馬に選ばれる。欧州遠征の際のコメントは、「国内の馬との勝負付けは済んだ」
……もしサイレンススズカが生きていたら、と思わずにはいられないコメントである。事実、国内のレースでエルコンドルパサーに先着した馬はサイレンススズカしかいない。
同じくグラスワンダーは、この年の有馬記念を制し見事復活を遂げる。1999年も宝塚記念と有馬記念を連覇し、グランプリ3連覇を達成。
金鯱賞で下したミッドナイトベットは、前年にサイレンススズカが敗れた香港国際カップに1998年挑戦、14頭中12番人気という低評価ながらレコードで勝利する。更に翌1999年には金鯱賞でのリベンジを果たした。
全弟ではないが弟が存在する。コマンドスズカとラスカルスズカ(共に父コマンダーインチーフ)で、兄のあとを継ぎ、ファンの夢を背負って走ることになる。特にラスカルスズカは事故の翌年にデビューしてから無傷の3連勝。
同じ勝負服で鞍上は武豊騎手、先行して押し切るというその走りは兄を彷彿とさせ、条件戦にもかかわらず紙面での扱いも大きく、「夢の続きを!」とファンの期待も一気に高まった。
その後菊花賞3着、ジャパンカップ5着、天皇賞(春)2着と、兄とは違い長距離戦線で堅実な走りを見せ、引退。
重賞未勝利にもかかわらず種牡馬になり89頭も産駒を残せたのは、「サイレンススズカの血統を後世に」という関係者の願いがあったからに違いない。
572:名無しさん@お腹いっぱい。
21/06/11 17:03:06.45 kdCDJa83.net
中距離馬としてはサイレンススズカは記憶に残る史上最強馬の1頭だろう
ゲートが開き先頭に出るとそのまま押し切り先頭のままゴールするんだからレース展開に左右されないから強い
573:名無しさん@お腹いっぱい。
21/06/11 17:19:32.51 QO/vEEdn.net
本馬の後に大逃げで活躍した例にはダート馬ではあるがスマートファルコンがいる。同馬はレース中の大逃げや圧勝ぶりから「砂のサイレンススズカ」とも称される。こちらも晩年は武豊騎手が主戦を務めた。
金鯱賞出走の予定を変えて安田記念を使うプランも存在した。この年の安田記念はタイキシャトルの独壇場とみられていたが、
連勝中のサイレンススズカが参戦するとなれば俄然その対決が面白くなる……
とその動向が注目された。実現はしなかったが、最終登録にサイレンススズカの名前があったことから、こちらは最後まで悩んだようだ。
記録上ではG1・1勝のみ。1線級のライバルを破ったのも宝塚記念と毎日王冠の2レースのみで、金鯱賞で破ったライバルのその後の活躍がミッドナイトベットを除き芳しくないこと、
距離や左回りなど実力を発揮できる条件が限られていることから、「名馬とはいえない」という意地悪なファンの評価も間違ってはいない。
だが、JRA主催のファン投票「20世紀の名馬100選」で、トウカイテイオー(G1・4勝)、シンボリルドルフ(同7勝)などを抑えて見事4位にランクイン。
2012年に優駿主催で行われた距離別最強馬アンケートでは、当該距離のG1勝利が無いにも関わらず、2000m部門で2位以下に圧倒的な差をつけて1位に選ばれた。
人々の記憶に残る要因は成績だけではない、というのもまた事実で、サイレンススズカは間違いなく「かってないほど多くのファンに夢をみせた馬の1頭」なのである。
サイレンススズカ死後翌年の宝塚記念で実況を務めた杉本清は恒例である「私の夢」にサイレンススズカを挙げた。
登録していない馬を挙げた例は後にも先にもこれしかなく、「元気だったらまたここで走って欲しかった」という思いを吐露している。
中京競馬場開設60周年記念で行われたファン投票「思い出のベストホース」では、オグリキャップなどを抑えて、
金鯱賞を制したサイレンススズカが選ばれ、記念モニュメントのあるエリア一帯が「サイレンススズカ広場」と命名された。
574:名無しさん@お腹いっぱい。
21/06/11 17:24:00.03 QO/vEEdn.net
サクラバクシンオー(1989年4月14日 - 2011年4月30日、22歳没)とは、日本の競走馬、種牡馬である。
父サクラユタカオー、母サクラハゴロモ、母父ノーザンテーストという血統。
父サクラユタカオーは個別記事があるので詳細はそちらに譲るが、歴代サクラ軍団の中で良馬場2000mの条件で走らせれば最強との呼び声高い快速馬。
母サクラハゴロモの全兄には天皇賞・春と有馬記念を制したアンバーシャダイがいる良血。なので社台ファーム産まれなのだが、サクラ軍団の有力馬を預かる境勝太郎調教師がサクラハゴロモを是非購入したいと交渉したが、アンバーシャダイの活躍から基礎牝馬にしたいという社台の事情もあり断念。
しかし、競走馬として預かるならばという条件でお金を払って3年間貸出しという形で譲って貰ったものの、骨折もあり2年で16戦2勝の成績で引退。その埋め合わせとして、初仔のバクシンオーを無償で譲って貰ったというエピソードがある。
父親からは父父テスコボーイから連なる日高の配合を、母からは新進気鋭の頃の社台の配合を合わせた当時の内国産馬の結晶とも言える血統である。
管理体制は上記の経緯もあり境勝太郎調教師、小島太騎手が全てのレースで手綱を握った。
デビュー~4歳まで
デビューは4歳(当時は数え年表記の為・3歳馬を4歳と呼んでいた。以下も数え年表記で表記する)の1月12日の中山ダート1200m。脚元に不安があった為にダートでという事なのだろうが、スピードの違いで2着に5馬身差つける逃げ切り勝ちで圧勝。
続く条件戦は中山芝1600mだったが、スタートで後手を踏み、道中捲るように上がっていくも先頭の馬を交わせずに2着。次走は中山1200mの芝に短縮すると逃げて上がり最速を記録する走りで4馬身差圧勝。
575:名無しさん@お腹いっぱい。
21/06/11 17:24:56.97 QO/vEEdn.net
既に短距離向きである事は分かっていたが、一度中距離路線を試してみるべく、皐月賞の前哨戦スプリングSに参戦する。卓越したスピードから3番人気に支持されたが、
重馬場でスピードを殺された上に、相手はサイボーグことミホノブルボン。付いて行く事すら出来ずコーナーでバランスを崩し失速して12着と大敗する。
これでクラシックには見切りを付け、ダビスタでやたらと登録されるクリスタルカップ(中山芝1200 GⅢ)に出走し、ここでも逃げて3馬身1/2付けるパフォーマンスを披露し優勝する。
ここまで中山でしか走ってないが、次走からは府中のレースに出走し始め、芝1400mのOPレースを逃げて勝利したが、1600mのNZT4歳Sはスタミナが持たず前に7着と敗れる。
休養に入り、秋は中山と府中の芝1600mのレースを3着、7着と敗れるが、府中芝1400mのレースに距離短縮すると2馬身1/2付けて快勝。
満を持してスプリンターズステークス(当時は12月開催)に出走したが、まだ馬体が本格化していない上に、ニシノフラワー、ヤマニンゼファー、ダイタクヘリオスら当時を代表するスプリンターがいて且つ、
前半600mを32.8という超ハイペースの中では粘り込めず、現役生活の中で1400m以下のレースで唯一の敗戦となる6着に終わってしまう。
それだけでなく、以前から不安を抱えていた脚部不安がついに見過ごせなくなり、翌年の春~夏を全休する事となった。
しかし、この休養が功を奏したのかバクシンオーの本格化が始まり、飛躍へと繋がっていく。
576:名無しさん@お腹いっぱい。
21/06/11 19:14:55.15 BinTeeD8.net
>>478
ゆいにゃんいいよね
あー俺も今日はゆいにゃんで抜こうかな
577:名無しさん@お腹いっぱい。
21/06/11 19:20:03.48 QO/vEEdn.net
歳秋~6歳冬 驀進開始
5歳秋、バクシンオーが返ってきたのは10月20日の中山芝1200mのOPレースだった。今までのバクシンオーはスタートから一気に逃げるスタイルだったが、
このレースでは2.3番手に控えてから抜け出し勝利。今までにない控えるスタイルを身に着ける事に成功したバクシンオーだったが、
続く府中芝1600mのレースはスプリングS同様、重馬場でスピードを生かせず4着に敗れる。
仕切り直しの府中芝1400mは2番手から問題なく抜け出し勝利し、大本命のスプリンターズステークスに出走する。
1番人気はこの年安田記念、天皇賞秋を制し、スプリンターズステークスを制する事で短距離・マイル・中距離の3GⅠ制覇を目論むヤマニンゼファー、2番人気がサクラバクシンオー、3番人気が去年の覇者ニシノフラワーという人気であった。
スタートするとバクシンオーは3番手に付け、ヤマニンゼファーがその後ろに控え、ニシノフラワーは中段8番手でレースが進み、
最後の直線でバクシンオーが一気に抜け出すと、追い縋るヤマニンゼファーを突き放し、2馬身1/2の差を着けて優勝、サクラユタカオー産駒初のGⅠ馬となった。
また、レース8日前にはサクラ軍団の総帥・全演植氏が死去してしまっており、オヤジと慕っていた小島太は「これまでの騎手人生で最高の仕事になったと思う。オヤジの墓前にいい報告ができる。」と声を震わせた。
春の目標は高松宮記念ではなく、安田記念に定める事となった。高松宮記念でない理由は、当時は芝2000mのレースであった為である。ちなみに現在の1200mになるのは1996年から。
578:名無しさん@お腹いっぱい。
21/06/11 19:21:08.20 QO/vEEdn.net
初戦のダービー卿チャレンジトロフィー(当時は芝1200m、現在は1600m)に出走し、2番手から抜け出すと手綱を緩める余裕を見せながら勝利。安田記念に出走したが、マイルの女王ノースフライトの前に屈し4着と敗北。
夏は休養に充て、天皇賞・秋への出走へ可能性を見るべく府中芝1800mの毎日王冠に出走し、逃げ込みを図るがネーハイシーザーの当時日本レコードの走りの前に4着敗戦。
しかしながら今までマイルでも厳しいかと言われていた中で1800mを走り切った事、バクシンオー自身も日本レコードを0.1秒上回るタイムを見せていたことから陣営は「大きな収穫」と称えた。
その後は短距離路線に戻り、阪神芝1400mのスワンステークス(この時期京都競馬場は改修の為、阪神競馬場で代行)でノースフライトと再度対戦するが、
バクシンオーは当時初となる芝1400mで1.20.0の壁を破る1.19.9の日本レコードで優勝する。(このタイムは翌年のスワンステークスでヒシアケボノが1:19.8で塗り替える。
ただしコースレコードは2017年の阪神カップでイスラボニータが走破タイム1:19.5を記録するまで23年間保持された)
その後、改修が終わった京都競馬場で行われたマイルチャンピオンシップでは、ノースフライトに逆襲され2着。これが最後の1600m以上のレースとなったが、最後まで1着にはなる事が出来なかった。
引退レース これが最後の愛のムチ
連覇が掛かるスプリンターズステークスで結果に関わらず引退する事が発表された。
この年から国際競走となった事で3頭の外国馬が参戦してきたが、バクシンオーは単勝オッズ1.6倍と断然の支持を受ける。レースがスタートすると、
前の馬達が前半600mが32.4と超ハイペースで逃げる中4番手で進み、残り200m手前で一気にスパートを掛けると実況の塩原アナの「これが最後の愛のムチ!」の声を受け独走、
追い込んできたビコーペガサスに4馬身差を付ける大楽勝で勝利。勝ちタイムも1.07.1と当時の日本レコードを更新した。
579:名無しさん@お腹いっぱい。
21/06/11 19:21:38.48 QO/vEEdn.net
通算成績は21戦11勝。下記の通り、現役競走馬時代は1400m(7ハロン)以下のレースで圧倒的スピードと強さを発揮するスプリンターであった。1993年と1994年のスプリンターズステークス連覇、1200mと1400mの当時レースレコード樹立、1994年JRA賞最優秀短距離馬を受賞する等、名実共に「日本競馬史上最強最速短距離馬」と評価する競馬ファンは多い。
惜しむらくは当時日本の競馬はスプリント路線が整備されておらず、GⅠはスプリンターズステークスのみ、海外遠征もまだ活発化する前で、香港スプリントも1999年からと悉く短距離路線に恵まれていなかった事で、もし何年か後に産まれていればもっと勲章を手に入れたであろう馬であった。
しかしながらバクシンオーが出てきたことで、スプリント路線の活発化が進み、高松宮記念が1200mに短縮し、アグネスワールドやシーキングザパールといった短距離馬が海外に進出するきっかけを作ったと言えよう。
JRAが2000年に実施したキャンペーン『Dream Horses 2000』の第一弾企画『20世紀の名馬大投票』及び『20世紀の名馬100』では、第74位(投票数1183票)に選出された。
種牡馬時代
引退後、当時サンデーサイレンスやトニービンといった外国種牡馬全盛期の中で、内国産馬は極僅かしか入れない社台スタリオンステーションで種牡馬となった。
産駒もやはり短距離の成績が顕著であったが、高松宮記念を制したショウナンカンプ、ビッグアーサーを輩出し、自身が勝てなかったマイルGⅠを制したグランプリボス、意外な所では中山大障害・中山グランドジャンプを制したブランディスがいる。
母父としては快速スプリンター・ハクサンムーンを始めやはり短距離の実績が多い中、キタサンブラックが菊花賞や天皇賞春を連覇といった長距離馬も輩出している。
580:名無しさん@お腹いっぱい。
21/06/11 19:38:01.70 nVyzEd7m.net
鎌倉まなつ。この子もshowcaseに飾っておきたい美人で、ピンクのビキニ姿が可愛い
ピンクの小さなお尻は未熟な桃でも形は美しく魅力的で、がぶっとかじりつきたい
がびゅっ、、と出ちゃいました
581:名無しさん@お腹いっぱい。
21/06/11 19:45:43.45 QROa9mUb.net
また、幾多の名馬でも成績が落ちていけばレックススタッドやブリーダーズ・スタリオンといった日高へ移動するのが大多数な中、社台スタリオンに繁用し続けられ、毎年100頭以上の牝馬を集める人気種牡馬でもあった事も特筆すべきであろう。
2011年4月30日の午前11時頃、繁用先での試験交配中に心不全の為死亡。死亡から8日後のNHKマイルカップでは産駒のグランプリボスが優勝した。奇しくも全氏の時と同じ8日後である。
2021年現在のサイアーラインの状況は、ショウナンカンプは後継を残せず2020年死亡、グランプリボスも成績が奮わずかなり厳しく、残るは今年産駒がデビュー予定のビッグアーサーに全てが掛かっているという状況である。
ビッグアーサーには幸いサンデーサイレンスが入っていないので母馬は集まりやすい状況にあるが、果たしてバクシンオーの直系は繋いでいく事は出来るであろうか。
主な勝ち鞍
第6回夕刊フジ賞クリスタルカップ(GIII) - 1992年4月18日
第27回スプリンターズステークス(GI) - 1993年12月20日
第26回ダービー卿チャレンジトロフィー(GIII) - 1994年4月3日
第37回スワンステークス(GII) - 1994年10月29日
第28回スプリンターズステークス(GI) - 1994年12月18日
競走成績
生涯成績:21戦11勝(11-2-1-7)
1400m以下:12戦11勝(11-0-0-1)
1600m以上:9戦0勝(0-2-1-6)
獲得賞金:5億1549万2000円
582:名無しさん@お腹いっぱい。
21/06/11 19:46:13.62 QROa9mUb.net
血統表
サクラバクシンオーの5代血統表
テスコボーイ系
Hyperion 4×5 9.38%、Nasrullah 4×5 9.38%、Lady Angela 5×4 9.38%、Nearco 5×5 6.25%、Bull Lea 5×5 6.25%
サクラユタカオー 1982
北海道静内町 栗毛 *テスコボーイ 1963
イギリス 黒鹿毛 Princely Gift 1958
イギリス 鹿毛 Nasrullah 1940 Nearco
Mumtaz Begum
Blue Gem 1943 Blue Peter
Sparkle
Suncourt 1952
アメリカ 黒鹿毛 Hyperion 1930 Gainsborough
Selene
Inquisition 1936 Dastur
Jury
アンジェリカ 1970
北海道静内町 黒鹿毛 *ネヴァービート 1960
アメリカ 栃栗毛 Never Say Die 1951 Nasrullah
Singing Grass
Bride Elect 1952 Big Game
Netherton Maid
スターハイネス 1964
日本 黒鹿毛 *ユアハイネス 1958
栗毛 Chamossaire
Lady Grand
スターロツチ 1957
鹿毛 *ハロウェー
コロナ
サクラハゴロモ 1984
北海道早来町 栗毛
F-No.4-m *ノーザンテースト 1971
カナダ 栗毛 Northern Dancer 1961
カナダ 鹿毛 Nearctic 1954
カナダ 黒鹿毛 Nearco
Lady Angela
Natalma 1957
カナダ 鹿毛 Native Dancer
Almahmoud
Lady Victoria 1962
カナダ 黒鹿毛 Victoria Park 1957
カナダ 鹿毛 Chop Chop
Victriana
Lady Angela 1944
カナダ 栗毛 Hyperion
Sister Sarah
*クリアアンバー 1967
アメリカ 黒鹿毛 Ambiopoise 1958
アメリカ Ambiorix 1946
フランス Tourbillon
Lavendula
Bull Poise 1948 Bull Lea
Alpoise
One Clear Call 1960 Gallant Man 1954 Migoli
Majideh
Europa 1949 Bull Lea
Sicily
583:名無しさん@お腹いっぱい。
21/06/11 19:52:06.76 QROa9mUb.net
19年ぶりの三冠馬
果たしてミスターシービーも夏に蹄を傷め、夏風邪を生じて調整が遅れに遅れる。どうにか出走した京都新聞杯では期待を裏切る4着に敗れてしまう。「ああ、やっぱり三冠馬は無理か」多くのファンはこの時点で偉業達成の目撃を諦め始めていた。しかし、このレースの勝ち馬はあのカツラギエースであり、展開が向かず、調整不足(プラス12kg)だった事を考えれば悲観するほどの内容では無かったのである。
そして菊花賞。前走よりも人気を落としたとはいえ、一番人気のミスターシービー。・・・だったのだが。
なんと、スタートから抑えて最後尾を追走する形になったのである。なんとも良い度胸だよなぁ吉永騎手。そのままのんびり2コーナーをシンガリで通過。場内は大きくざわめいた。おいおい、あんなところから届くのか・・・
更にとんでもない事が起こったのは、向こう正面であった。吉永騎手は馬群を追走しながら仕掛けのタイミングを計っていた。その時、斜め前方にアテイスポート鞍上の菅原騎手を認めたのである。菅原騎手はこの前年、ホリスキーで菊花賞を勝っていた。吉永騎手は声を掛けた。
「ヤッさん!ヤッさんが去年行ったのはこの辺だったかな!」すると菅原騎手は後ろを振り返って怒鳴った。
「おう!ぼちぼち行けや!」
それを聞いて、吉永騎手はほんの少し、シービーの手綱を緩めた。
すると、それまで行きたいのに吉永騎手に手綱を絞られていたミスターシービーは「待ってました!」とばかりにスパートを始めてしまったのである。ボチボチどころでは無い。慌てて手綱を絞る吉永騎手だったが、火がついたシービーは止まらない。京都競馬場の3コーナーの坂の上り、シービーは大外を通って一気に先頭に並び掛けてしまう。
584:名無しさん@お腹いっぱい。
21/06/11 19:52:40.26 QROa9mUb.net
それを聞いて、吉永騎手はほんの少し、シービーの手綱を緩めた。
すると、それまで行きたいのに吉永騎手に手綱を絞られていたミスターシービーは「待ってました!」とばかりにスパートを始めてしまったのである。ボチボチどころでは無い。慌てて手綱を絞る吉永騎手だったが、火がついたシービーは止まらない。京都競馬場の3コーナーの坂の上り、シービーは大外を通って一気に先頭に並び掛けてしまう。
「なにやってんだ~!」ありえないレース運びに京都競馬場に悲鳴が満ちる。しかし今回驚いたのはファンだけではない。松山康久調教師も「なんて事をするんだ!」と思わず立ち上がってしまったという。京都の3コーナーからの上り下りは「ゆっくり上り、ゆっくり下る」のが常識。しかしシービーは下りでは早くも先頭。直線で20頭の追い込みを受けて立つ事となった。
いくらなんでも駄目だろう。捕まるに決まってる。馬主は絶望し、ファンは思わず目を閉じた。
しかしシービーの脚は衰えない。それどころか更に脚を伸ばす。「大地が、大地が弾んでミスターシービーだ!」「史上に残る、史上に残るこれが三冠の脚だ!」杉本清アナウンサーは叫び、ファンは奇跡を目撃して歓喜の声を上げた。
3馬身差をつけてミスターシービーが優勝。この瞬間、19年ぶり、史上三頭目の三冠馬が誕生したのであった。この時代、既にほとんどの競馬ファンはシンザンのレースを実際に目にした事が無かった。ミスターシービーはつまり、競馬ファンにとって初めて現実に現れた三冠馬だったのである。場内実況が「この瞬間に立ち会え、お伝えできた事は本当に幸せです」と言ったという。当時の感動がどれほどのものか分かろうというのものである。
四冠獲得とライバルたちの動き
文句無く競馬界の英雄になったミスターシービー。菊花賞の直後には第3回のジャパンカップが行われる事になっていた。ミスターシービーにも当然、参戦の期待が掛かったのであるが、シービーは回避。外国人記者から「なぜ日本最強馬が参戦しないのか?」と不満の声が上がったという(「うちの日本最強馬が相手してやる!」とキョウエイプロミス陣営が息巻いたが)。シービーは有馬記念も回避。その後どうも蹄の状態が思わしくなくなってしまったらしい。翌年春は全休になってしまうのである。
585:名無しさん@お腹いっぱい。
21/06/11 23:51:32.20 WuSj0Uwl.net
【たとえば顧問なんかやってる人達や名義貸してるのも実際にそこで仕事をしてないのに金が振り込まれる 】
↓
なぜか駐車場経営や会社顧問の仕組みを力説
で、実際のお前はそういうやつらに憧れてる貧乏人なんだろ?
今の経済動向を全く理解してないから金持ちのイメージが昭和で止まってる
【俺の友人でもいるぞ駐車場を経営してて 
日がな一日詰め所でワイドショー見ながらコーヒー飲んてタバコ吸いながら一日中ネットしてる 】
↓
何しろ駐車場に詰め所がある時代だからな
いつの時代のどこの都会ですかあ?w
【広告代理店(工作業者)の保守さん 
それでいくらの稼ぎ? 
現代の底辺仕事広告代理店さんw 】
↓
そもそも広告業界がこんな絶滅産業の底辺スレ相手にするかよ
まさしく貧乏人の発想
一連の文章から低学歴・下層階級 が滲み出ている
おおかたオクで小金稼いでいたがBANされて、白ディスク出品者や著作権侵害サイトに恨み募らせてる同類のクズだろう
586: 広告代理店への異様な憎悪もコンプレックス丸出しでイタい
587:名無しさん@お腹いっぱい。
21/06/12 00:02:37.23 lH0r2Y9E.net
結菜の初めてのchuで抜くわ
588:名無しさん@お腹いっぱい。
21/06/12 00:04:46.51 Z7bICBns.net
割れてないので抜けよゴミドモ
589:名無しさん@お腹いっぱい。
21/06/12 00:13:20.36 AsTcaMJ+.net
94年 菊花賞。
ナリタブライアン、七馬身差の衝撃。
群れに答えなどない。
―2011年菊花賞CMより
ナリタブライアンとは、日本の元競走馬、元種牡馬である。1994年に日本競馬史上5頭目の牡馬クラシック三冠馬となった馬で、主な勝ち鞍は朝日杯3歳ステークス(現在の朝日杯フューチュリティステークス)、皐月賞、日本ダービー、菊花賞、有馬記念である。通算成績は21戦12勝。
この記事では実在の競走馬について記述しています。
この馬を元にした『ウマ娘 プリティーダービー』に登場するキャラクターについては
「ナリタブライアン(ウマ娘)」を参照してください。
父ブライアンズタイム、母パシフィカス。半兄に菊花賞・天皇賞(春)・宝塚記念を制したビワハヤヒデ、全弟にラジオたんぱ賞(GⅢ)を制したビワタケヒデ、従妹に二冠牝馬のファレノプシス、従弟に日本ダービー馬キズナがいる。
愛称・呼称は「ブライアン」「ナリブ」「シャドーロールの怪物」。
馬主は「ナリタ」と「オースミ」の冠名を使い分けることで知られる山路秀則。管理調教師は関西・栗東の大久保正陽(まさあき)だった。
※当記事では、ナリタブライアンの活躍した時代の表記に合わせて、特に記載が無い限り年齢を旧表記(現表記+1歳)で表記します。
デビューからデイリー杯3歳ステークス~ビワハヤヒデの弟として
ナリタブライアンが栗東・大久保正陽厩舎に入厩した時、すでにナリタブライアンは注目の3歳馬の一頭だった。
これはブライアンの能力よりも半兄のビワハヤヒデが皐月賞・日本ダービーと二着していたのが大きい。大久保厩舎は栗東トレーニングセンターの中でも馬に強めの調教を課すことで知られ、この時期はメジロパーマーやナリタタイシンといった活躍馬を輩出する絶頂期にあったが、言い換えれば超良血の期待馬を預かる機会の乏しい厩舎であり、ハードトレーニングもそれ故のものであった。ナリタブライアンは生後1ヶ月くらいの段階で早々に調教師と馬主が決まったのだが、後に大久保調教師は「ビワハヤヒデが活躍した後だったらブライアンは自分のところには来なかった」と語っている(実際、ブライアンの妹・弟は1頭も大久保正陽厩舎には入っていない)。
590:名無しさん@お腹いっぱい。
21/06/12 00:13:53.70 AsTcaMJ+.net
3歳の5月に栗東トレーニングセンターに入ったナリタブライアン。大久保調教師はナリタブライアンによほど自信を持っていたようで、関西のトップ騎手であった南井克巳にズバリと「君はダービーを勝ったことがあるか?ないなら、うちの馬でダービーを勝ってほしい」と主戦騎手の依頼をしたと語り継がれている(もっとも大久保調教師は「南井騎手のようなトップ騎手がダービーを勝っているかいないかなんて当然知ってるし、そんな失礼なことをベテランに面と向かって言うわけがないでしょう」とこの話を否定している)。
南井もナリタブライアンに調教をつけてすぐ「この馬はモノが違う」と感じたらしい。ナリタブライアンの特徴的な「首を低く振り上半身の重心をグッと下げて低い姿勢で鋭く伸びる」スパートのフォームはすでにこのときほぼ完成されていたようで、「あ、オグリキャップの感覚だ」と言わしめるほどの乗り心地であったという。
ただ、ブライアンには「臆病で自分の影を怖がる」という精神面の弱点があった。これが災いしてデビュー戦で2着、2戦目に勝つも函館3歳ステークス(GⅢ)6着、4戦目は後のダービー馬としては相当に異例となる秋の福島開催の条件戦に出て勝つが、続くデイリー杯3歳ステークス(GⅡ)では3着とここまで5戦2勝に留まり、能力の片鱗を見せることしか出来なかった。
シャドーロールの怪物誕生
自分の影を恐れるという欠点を抱えていたナリタブライアンだが、そのための対策として陣営はシャドーロールを装着させることを決定。京都3歳ステークスに駒を進める。
するとさっそくシャドーロールの効果がてきめんに現れる。視線のすぐ前にある白の塊を見つめたブライアンはレース中に周りを気にすることなく集中し、このレースを従来の3歳レコードを1.1秒縮める好タイムで完勝。さらに兄が勝てなかった朝日杯3歳ステークスを圧勝し、名実共に3歳王者の座についた。黒鹿毛の馬体の鼻先に鎮座する白いシャドーロールは、ファンにとってもレース中ひと目でブライアンの所在がわかる、この馬のシンボルとなった。後に精神面も成長し、周りに怯えないたくましさを備えた後でも、このシャドーロールは引退まで外されることはなかった。
591:名無しさん@お腹いっぱい。
21/06/12 00:15:35.33 AsTcaMJ+.net
圧倒的な能力の差を見せ付けた春のクラシック街道
3歳王者に輝いたナリタブライアンは4歳初戦を「ダービー前に東京競馬場でのレースを経験させておきたい」という理由から2月の共同通信杯4歳ステークス(GⅢ)に決定。
降雪によりレースが月曜日に順延されるというアクシデントがあったもののここを楽勝。皐月賞へ直行するとレース間隔が空きすぎるという理由から皐月賞トライアル・スプリングステークス(GⅡ)に出走するとこれも完勝。
兄の勝てなかった皐月賞・日本ダービー制覇への期待のみならず、トウカイテイオーもミホノブルボンもなしえなかったシンボリルドルフ以来の三冠馬誕生への機運も高まっていった。
ただ、3歳時に7戦、4歳になってからも2戦を戦い、皐月賞で10戦目となる戦績には「レースの使いすぎによる消耗」を危惧する声もあった。1991年のトウカイテイオーと1992年のミホノブルボンは皐月賞を5戦目で迎え、
1993年のウイニングチケットは皐月賞を6戦目で迎え、1993年のビワハヤヒデは皐月賞を7戦目で迎えている。これは、もう一つのブライアンの精神面の弱点である「トレーニングセンターでのテンションの高さ」に起因するものであった。
常に張り詰めた雰囲気のトレーニングセンターの空気の中で、敏感なブライアンは常に自らの気を緩めず、そして賢さも持ち合わせたブライアンは、自分のレースが近づくとそれを察知してますます興奮してしまう。
これでは肉体以前に精神がすり減ってしまうと危惧した大久保調教師は、「短い間隔でレースを使い続け、体を疲れさせることで緊張をほぐそう」としたのである。
そして迎えた牡馬クラシック第一戦・皐月賞。前哨戦の弥生賞を逃げて2馬身1/2の着差で快勝したサクラエイコウオーが有力馬の一角とされており、
そのサクラエイコウオーがハナを切ったので各馬も放置できずに飛ばしていくことになり、前半1000m58.8秒のハイペースとなった。
ブライアンは上手にスタートして好位から追走し、向こう正面で8番手から4番手に押し上げていく。そして4コーナーで上手く外に持ち出して直線で抜け出すと最後方から追いこんできた
サクラスーパーオーら後続勢に3馬身1/2差をつけてゴールインし、前年の菊花賞を制したビワハヤヒデに続いて兄弟クラシック制覇を達成した。
土埃が舞い上がる傷んだ馬場で勝ち時計1分59秒0を記録し、1993年にナリタタイシンが記録した2分0秒2という皐月賞レコードを1.2秒も更新している。
ちなみに1993年のナリタタイシンは既存の皐月賞レコードを0.9秒更新して2分1秒0の壁を初めて破る快挙を成し遂げていたのだが、その快挙をわずか1年で大幅に上回った。
そして、1994年にナリタブライアンが皐月賞で2分の壁を破ったあと、2001年まで7年連続で2分の壁を破る皐月賞馬が出現しなかった。
また、ナリタブライアンの記録した1分59秒0というタイムは、古馬を含めた中山2000mのコースレコードを0.5秒も短縮するものだった。
592:名無しさん@お腹いっぱい。
21/06/12 00:26:40.39 931UsYb7.net
クラシック第二戦・日本ダービーでは単勝1.2倍に推された。日本ダービーで単勝1倍台の前半になったのは歴史的名馬ばかりで、1973年のハイセイコー1.1倍、2005年のディープインパクト1.1倍、1984年のシンボリルドルフ1.3倍、2020年のコントレイル1.4倍といったところである。
大外の17番枠に入ったナリタブライアンの近くの15番枠にノーザンポラリスがおり、スタート直前に激しく暴れていた。ノーザンポラリスが興奮して立ち上がった瞬間にゲートが開いたのだが、ナリタブライアンは全く集中力を切らすことがなく、ゲートが開いた途端に半馬身ほどの差を付ける抜群のスタートを切めて、6番手あたりの絶好位に進出した。
ナリタブライアンの直後に位置していたアイネスサウザーが2コーナーで思い切り引っかかって先頭に駆け上がっていったが、それにもブライアンは全く動じず、騎手との折り合いを完璧に保った。アイネスサウザーが引っ掛かって逃げたため、前半1000m60.0秒の平均ペースとなった。アイネスフウジンが勝った1990年ダービーの59.8秒、ウイニングチケットが勝った1993年ダービーの60.0秒とほぼ同じである。
4コーナーで他馬に邪魔をされない大外に持ち出すと、東京競馬場の長い直線でほとんど左右にヨレることもなく、首を沈める美しいフォームで真っ直ぐ駆け抜けていき、エアダブリンら2着以下を5馬身突き放す圧勝となった。
大歓声に包まれて東京競馬場の直線を疾走するナリタブライアン。その上で、南井克巳は雄叫びを上げてブライアンを追っていたという。この1年前の1993年日本ダービーで、南井克巳はマルチマックスに騎乗したが、スタート直後に落馬するという屈辱的体験をしていた(動画)。まさに地獄から天国へはい上がる形となった。
土埃が巻き上がるボコボコの馬場で、大外をぶん回して距離を大きく損したにもかかわらず、2分25秒7の時計を記録した。これは1990年にアイネスフウジンが記録した2分25秒3のレコードタイムに0.4秒しか遅れていない。
593:名無しさん@お腹いっぱい。
21/06/12 00:27:27.86 931UsYb7.net
皐月賞とダービーの尋常ではない勝ちっぷりから史上最強馬の声も出始め、三冠達成、兄・ビワハヤヒデとの現役最強の座を賭けた対決への期待が高まっていった。ビワハヤヒデは皐月賞の1週間後に天皇賞(春)を1馬身1/4差で優勝し、ダービーの2週間後に宝塚記念を5馬身差で勝っており、しかも道中先行して4コーナーで先頭に立って押し切るというブライアンにそっくりな勝ち方をしていて、1994年の春競馬を兄弟で席巻していたのである。
4歳の夏~立ち込める暗雲
ダービー後のナリタブライアンは避暑のために札幌・函館競馬場へ移送(通常ならば出走しない競走馬の競馬場滞在は許されないが、ナリタブライアンは実績が考慮されて特例で許可された)
しかし、全国的に深刻な米不足を招いた前年1993年の冷夏とは一転してこの1994年の夏は酷暑となる。それは北海道も例外ではなく、ナリタブライアンは夏負けで体調を崩してしまい、一時期は陣営が菊花賞回避を考えるほどに状態が悪化していた。
これが原因となって調整が遅れてしまい、ナリタブライアンは秋緒戦の京都新聞杯(GⅡ)でスターマンにまさかの差し切り勝ちを許してしまう。
さらに菊花賞の1週間前に行われた天皇賞(秋)で、兄のビワハヤヒデがレース中に故障発生となり、同レースを5着に敗北した。屈腱炎を発症していたビワハヤヒデはそのまま引退し、有馬での夢の兄弟対決は幻となってしまった。
ミスターシービーのように秋初戦で大敗した後、体調を立て直して三冠に輝いた例もあるが、タニノムーティエのようにもはや立て直しもままならず惨敗した例もある。また1992年のミホノブルボンのように、京都芝3000mのスペシャリストのライスシャワーに阻まれたという例もある。過去に何頭もの二冠馬が挑戦を前に挫折し、また挑んでは敗れた菊花賞。三冠馬になるには絶対的な能力だけでなく、当日の体調、そして運も必要である。ナリタブライアンの能力を以ってしても三冠の壁は厚いのか、それとも……僅かな不安を抱えたまま、1994年11月6日を迎えることになる。
菊花賞から有馬記念~弟は大丈夫だ!
しかし、そんな不安はナリタブライアンにとって杞憂にすぎなかった。
594:名無しさん@お腹いっぱい。
21/06/12 00:28:15.51 931UsYb7.net
パラパラと小雨が降る京都競馬場で行われた菊花賞は、稍重の馬場となった。スティールキャストが勢いよく飛びだして最初の1000mを61.2秒のペースで引っ張り、稍重なら平均ペースといったところで、緩みのないレースとなった。1~2コーナーでスティールキャストがさらに加速して後続を引き離して大逃げを打つという展開となり[1]、ナリタブライアンは7番手で追走した。ブライアンの直前を走るヤシマソブリンが坂の下りで先にスパートを掛けてインを縫っていくと、ブライアンもすかさずペースアップして外を回っていく。最後の直線の入口でヤシマソブリンに馬体を合わせると、そのままヤシマソブリンに影さえ踏ませぬ7馬身差の完勝を果たした。故障で引退した兄に続く菊花賞制覇、そして10年ぶり5頭目の牡馬クラシック三冠制覇を達成した。
勝ち時計は3分4秒6で、1993年に良馬場でビワハヤヒデが記録した3分4秒7の菊花賞レコードを0.1秒更新した。滑りやすい稍重の馬場でレースレコードを更新するという偉業を達成した。
クラシックの3戦を続けるたび、3馬身1/2差、5馬身差、7馬身差と着差を広げていった。そのうち2戦はレコード更新のおまけ付きであった。
最後の直線で差を広げるたびにフジテレビ系列放送実況の杉本清が「弟は大丈夫だ!」との台詞を喋った。このとき杉本清の隣にはビワハヤヒデを管理していた濱田光正調教師がゲストとして座っていた。 濱田調教師はどのような思いでこの台詞を聞いたのだろうか。
ウィニングランをするブライアンと南井克巳に「南井!南井!」との南井コールが湧き上がる。ブライアンに対してのファンの歓声は「南井!」が定番だった。
ナリタブライアン陣営は年末の有馬記念への出走を決め、初の古馬との対戦となった。スタート直後から先頭を爆走するツインターボから大きく離れた2番手集団の先頭には、天皇賞(秋)を勝ったばかりのネーハイシーザーが立った。
「ツインターボは全盛期を大きく過ぎているので放置しても大丈夫だろう。ネーハイシーザーは2000mまでが得意の中距離馬なので[2]、ペースを上げると終盤にスタミナ切れになる」といった計算がネーハイシーザー鞍上の塩村克己騎手のなかに働いていたのか、ネーハイシーザーはやや遅めのペースとなった。ツインターボの最初の1000mは推定で58.7秒で、ネーハイシーザーの最初の1000mは推定で61.0秒だった[3]。向こう正面に入ってからブライアンがじわっと進出し、2番手ネーハイシーザーの直後3番手に付ける。
595:名無しさん@お腹いっぱい。
21/06/12 00:39:47.44 9/1nB4AP.net
>>511
この辺は割れてないか
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596:名無しさん@お腹いっぱい。
21/06/12 00:44:43.80 931UsYb7.net
3コーナーでブライアンは加速し、先頭に躍り出た。それに対してヒシアマゾンが凄い勢いで3~4コーナーの外をマクっていき、直線入り口でブライアンに並びかけようとしたが、ブライアンも末脚を発揮し、ヒシアマゾンをスッと引き離す。追いすがるヒシアマゾン以下に3馬身の差を付けて完勝。この年、文句無しの年度代表馬に選ばれた。
故障発生と低迷
年が明け、5歳になったナリタブライアンは京都3000mで行われる阪神大賞典(GⅡ)に登場した。菊花賞や有馬記念とは違って最初の1000m63.8秒の超スローペースとなったが全く引っ掛からず、7馬身差で圧勝。この年の古馬戦線はナリタブライアンが主役だというのは疑いようのない事実であるはずだった。
しかし、天皇賞(春)へと向けた調整中に右股関節炎を発症。春シーズンの全休が決定し、天皇賞(秋)を目標に調整されることになった。更に追い討ちをかけるように、主戦を務めていた南井克巳騎手が落馬負傷。そして迎えた秋、ブライアンは天皇賞(秋)へ直接向かうことになるのだが……
主戦の南井克巳の落馬負傷の影響で、天皇賞(秋)は的場均に乗り替わる。1番人気に支持され、1000m通過59.6秒という天皇賞としてはやや遅いペースの中を好位6番手で追走した。
4コーナーでは4番手に進出するが、直線に入ったらぴたりと止まり、馬群に呑み込まれた。その馬群の外をサクラチトセオーが鬼のような末脚で駆け上がりハナ差の優勝を果たしているので、末脚の差が余計に印象に残った。
結果は12着で、圧倒的な三冠馬が二桁着順になったことで衝撃が広がった。ただしナリタブライアンの勝ち馬との時計差は0.6秒差なので「それほど離されておらず、次に期待」という声も見られた
597:名無しさん@お腹いっぱい。
21/06/12 00:45:22.98 931UsYb7.net
さらに続くジャパンカップは武豊に乗り変わり、1番人気に支持される。タイキブリザードが逃げて1000m通過が61.0秒というスローペースとなり、ブライアンは7番手あたりの好位を追走した。3~4コーナーではなかなか良い手応えで、ス~っと加速してコーナリングし、4コーナーでは勝ったランドのすぐ隣に位置していた。しかしそこから末脚が炸裂せず、ランドに置いていかれる。有馬記念で一蹴したはずのヒシアマゾンが怒濤の末脚を炸裂させて2着に食い込んだのとは対照的な姿だった。ナリタブライアンは6着と敗退し、2戦連続で掲示板にも入れないという屈辱を味わった。しかし勝ち馬との時計差は0.7秒差で、故障からの復帰2戦なら悪くない気もする。
5歳最終戦となった有馬記念では、久々に2番人気になり、1番人気をヒシアマゾンに譲った。「明らかに馬の調子がおかしい」「いや、0.6秒差と0.7秒差で内容自体は悪くない」という思いが交錯しており、ナリタブライアンは馬券購入者たちに試練を与える存在となった。逃げ馬らしい逃げ馬が不在と見られていたレースだったが、それまで逃げの経験がなかった菊花賞馬マヤノトップガンが逃げ、最初の1000mを推定62.1秒で走るという超スローペースで引っ張っていく。ナリタブライアンは好位6番手を軽快に追走し、3~4コーナーで加速して2番手にまで上がっていき、マヤノトップガンの田原成貴騎手に「やはり来たか」と思わせた。ただしこのレースでもナリタブライアンの見せ場はそこまでで、武豊の鞭を浴びても直線で加速せず、先行馬のタイキブリザードに差し返され、最後方から追い込んできたサクラチトセオーにも抜かれ、0.5秒差の4着に敗北した。勝ったのはマヤノトップガンで、ナリタブライアンと同じブライアンズタイム産駒であり、ナリタブライアンと同じ菊花賞馬であった。
天皇賞は少し出遅れたがジャパンカップと有馬記念のスタートダッシュは絶好だった。秋3戦とも道中は軽快に走り、騎手との折り合いも上々だった。秋3戦とも3~4コーナーの手応えは素晴らしく、コーナリングが巧みでス~っと加速していき、軽々と上位に進出することができた。
しかし、とにかく直線で伸びない。「ナリタブライアンは賢いので、怪我することを恐れて全力走行できなくなっているんじゃないか」といわれるようになった。
598:名無しさん@お腹いっぱい。
21/06/12 00:45:55.66 931UsYb7.net
ちょうどこの秋3戦は主戦の南井克巳騎手が落馬負傷で不在だった。大川慶次郎は「南井君ならブライアンに活を入れられる。南井君ならブライアンの走らせ方を分かっている」と力説していた。南井は「豪腕」「ファイター南井」といわれるような乗り方をする騎手なので、大川慶次郎もそこに期待をしていたのであろう。
「あの強かったナリタブライアンはもう戻ってこない」という予感と、「4コーナーまでは一流馬の走りになっている。何かのきっかけで復活するかもしれない」という願望を競馬ファンに与えつつ、ナリタブライアンの5歳シーズンは終わった。
復活、そして高松宮杯
6歳になり、復活を期した陣営が緒戦に選んだのは前年に圧勝している阪神大賞典。楽勝が予想された前年と違い、有馬記念を勝ったマヤノトップガンが出走していることもあってナリタブライアンは2番人気。
4コーナーでマヤノトップガンと共に抜け出したブライアンはマッチレースの末下し、1年ぶりの勝利を挙げる。
このレースを指して日本競馬史における名勝負の一つとする声があるものの、一方では全盛期のナリタブライアンならばマッチレースにすらならず楽勝していたとしてそれを否定する意見もある。(一方でマヤノトップガン側も「ナリタブライアンは復活勝利を期してある程度仕上げてきたはずだがこちらは調整段階。結果も気にしていないからこうなっただけの事」とこちらもその意見に負けずに吹いている。まあ仕上げたらめっちゃイレ込んだんですけどね)
599:名無しさん@お腹いっぱい。
21/06/12 00:48:24.68 Z7bICBns.net
>>518
トレントであるで
600:名無しさん@お腹いっぱい。
21/06/12 00:48:57.41 931UsYb7.net
ともあれ、直線における強さが完全に影を潜めていた前年秋と比べればブライアンが良化していたのも事実であった。ブライアンが直線で根性を発揮するようになったのはファンが夢にまで見ていた光景である。
次走の天皇賞(春)では一昨年の有馬記念以来のGⅠ制覇を期待されて1番人気に推された。そして鞍上には久々に南井克巳が復帰した。
しかし、同レースでブライアンはトップガン共々折り合いを欠き、3コーナーでスパートしたこともあってか直線でサクラローレルの末脚に抵抗できず、2馬身1/2差の2着に敗退。レース後の大久保正陽調教師は「武豊なら折り合っていただろう」と憤怒しており、このレースかぎりで南井克巳を降板させた。
「この後、ブライアンは阪神2200mで行われる宝塚記念に向かう」と誰もが思っていた中、発表された次走は、なんとこの年に中距離2000mのGⅡから1200mのスプリントGⅠに変更されたばかりの高松宮杯(現・高松宮記念)だった。
過去に天皇賞馬タケシバオーが19
601:69年のスプリンターズステークスを勝利した例があったものの、距離体系の確立された現代競馬において中長距離のトップクラスの馬がスプリントGⅠに向かうのは異例中の異例で、ファンや専門家から抗議の声が上がるほどだった。 そして同レースでナリタブライアンは勝ったフラワーパークから0.8秒差離された4着に終わった。前走が3200mで、1200mを走るのが2年8ヶ月ぶり、そんな馬が“本職”の一流短距離馬たちに混じって4着になったので、「高い能力を生かして善戦をした」と言ってもいいのだが・・・
602:名無しさん@お腹いっぱい。
21/06/12 00:49:22.14 931UsYb7.net
そしてレース後、ナリタブライアンは屈健炎を発症。引退し、種牡馬となるものの1998年に胃破裂により安楽死の処置がとられる。
享年僅か8歳(現表記で7歳)の早すぎる死だった。
早逝の影響で産駒は2世代しか残されておらず、重賞を勝った馬はいない。GⅠでの最高戦績もダイタクラフラッグの皐月賞4着だということもあって、2021年4月現在、コントレイルの産駒の種牡馬入りが未定であることを除けば後継種牡馬を残せなかった唯一の三冠馬となっている。
スタートが抜群に上手く、競走に対する集中力の高さを感じさせる馬だった。「1600mのマイル戦でも先行できるだろう」と南井克巳が言ったことがあるほどスタートダッシュが速く、どのレースでも難なく先行でき、しかも騎手とぴったり折り合う賢さがあった。騎手の指示通りに馬群の中に入ってペースを落ち着かせることができ、また勝負所の3~4コーナーでは騎手の求めに応じてグングン加速できた。コーナリングが上手で、直線はヨレずに真っ直ぐ走り[4]、走行フォームは首を目一杯使って重心を下げる美しいもので、競走馬の一種の理想形といっていい馬だった。
5歳春までの後続に影を踏ませないぶっちぎり勝利劇と、負傷した後の精彩を欠く走りのコントラストが鮮やかな馬生だった。
大川慶次郎は後にナリタブライアンを評して「精神力のサラブレッド」と言った。「ぶっちぎれ、ナリタブライアン」とパドックの横断幕に掲げられた彼の豪快な走りを支えた、その健気な魂の安らかならんことを祈る。
ローテーションへの批判論と擁護論
ナリタブライアンを語るときに必ず指摘されるのが、「山路秀則オーナーや大久保正陽調教師が無理なローテンションを組んだのではないか」というものである。
603:名無しさん@お腹いっぱい。
21/06/12 00:50:10.47 931UsYb7.net
3歳(現在の2歳)で7戦を消化するのはレースを使いすぎているように見えた。股関節炎からの復帰レースでいきなり天皇賞(秋)を走らせたのも「調教代わりにレースを使っている」と批判された。
負傷の原因とも噂されたレースキャリアと、状態が戻っていないのを承知で負傷後も走りを続けさせたことから、「管理する人のエゴの罪」が問われた馬でもある。もっとも、その精悍な肉体に宿っていた精神は、すでに見てきたようにとても繊細なものであり、それを「戦える馬」に仕上げた厩舎の功績は当然讃えられなければならない。
といったふうに、厳しい批判が書かれることがある。
しかし、後述するように、ナリタブライアンを初めとするロベルト系の競走馬は、レースを使いまくる厩舎に入ると成績が伸びるという傾向が見られるのも事実である。「ロベルト系は叩き良化型、レースを使うごとに良くなる」という格言もある。そういう格言を知ったあとだと、山路秀則オーナーや大久保正陽調教師の判断を簡単に批判できなくなると言える。
高松宮杯出走への批判論と擁護論
3200mの天皇賞(春)を走ったばかりのナリタブライアンを1200mの高松宮杯に出走させるという大久保正陽調教師の判断に対して、激しい批判を行った者が多く存在した。そのうちの一人が競馬予想家の大川慶次郎である。
それに対して、「長距離レースを得意とする競走馬を短距離レースに出走させて馬に喝を入れるというのは、競走馬の調整方法の1つである」という擁護論が存在する。
604:オーストラリア競馬では、1200mのGⅠレースに出走した馬が、その3日後に3200mのGⅠレースに出走することがある[5]。競馬予想家の田端到は、オーストラリアの調教師に対して「なぜ2000m以上の大レースの前に短距離レースを使うのか」と尋ねたら「それがいちばんいいステップなんだ」と返答されたという[6]。
605:名無しさん@お腹いっぱい。
21/06/12 00:51:52.44 9/1nB4AP.net
>>522
なかなか割れのないのは見つからないな
あれなんのためにアップするんだろう やはり広告収入稼ぎか
606:名無しさん@お腹いっぱい。
21/06/12 00:53:00.00 Z7bICBns.net
>>526
買う奴がいるからだね
売る奴もいるね
607:名無しさん@お腹いっぱい。
21/06/12 00:53:29.96 931UsYb7.net
香港にインディジェナスという馬がいる。1999年3月に1000mのレースを使ったあと、2週間後の香港ゴールドカップ(香港のGⅠ)という2000mのレースで優勝している。1999年11月6日に1000mのレースを使ったあと、3週間後にジャパンカップ(日本のGⅠ)という2400mのレースでスペシャルウィークに次ぐ2位に入っている。
大久保正陽調教師はナリタブライアンの高松宮杯出走から2年後に同じようなことをしている。ナリタルナパーク[7]を2600mの条件戦に出走させたあと、なんと1200mの条件戦に出走させた。そのあと2000mのローズS(GⅡ)を走らせて5着になり、2000mの秋華賞(GⅠ)を走らせてファレノプシスに次ぐ2着に食い込ませている。
忙しい短距離のレースを走らせて競走馬に刺激を与える「ショック療法」は、オーストラリアや香港の競馬界や日本の競馬界の一部においてごく普通に行われているのであり、そんなに異様なことではない。
血統表
*ブライアンズタイム
1985 黒鹿毛 Roberto
1969 鹿毛 Hail to Reason Turn-to
Nothirdchance
Bramalea Nashua
Rarelea
Kelley's Day
1977 鹿毛 Graustark Ribot
Flower Bowl
Golden Trail Hasty Road
Sunny Vale
*パシフィカス
1981 鹿毛
FNo.13-a Northern Dancer
1961 鹿毛 Nearctic Nearco
Lady Angela
Natalma Native Dancer
Almahmoud
Pacific Princess
1973 鹿毛 Damascus Sword Dancer
Kerala
Fiji Acropolis
Rififi
608:名無しさん@お腹いっぱい。
21/06/12 00:54:17.64 931UsYb7.net
父はブライアンズタイム。アメリカ合衆国で競走生活を送って日本で種牡馬になった。1994年にクラシックを迎える世代が第一世代で、この世代にはナリタブライアンの他にチョウカイキャロルというGⅠ牝馬がいる。
ブライアンズタイム産駒を含むRoberto系の競走馬は、「レースを調教代わりに使う」「できるだけレースを走らせる」というスパルタタイプの厩舎に入ると才能が開花すると言われることが多い。3歳(現在の2歳)で7戦を消化したナリタブライアンはRoberto系の競走馬の典型例とされる。
母はパシフィカス[8]。イギリスで競走生活をしてイギリスで繁殖入りし、シャルードというイギリスの種牡馬と交配してから日本に輸入された。そのシャルードの子としてナリタブライアンの1年前に産まれたのがビワハヤヒデである。またパシフィカスは、ナリタブライアンの4年後にビワタケヒデを産んでいる。ビワタケヒデはナリタブライアンの全弟で、1998年にクラシックを迎えたスペシャルウィーク世代の一員であり、ラジオたんぱ賞(GⅢ)を優勝した。
母母Pacific Princessはキャットクイルという牝馬を産んだが、そのキャットクイルは1998年の桜花賞などGⅠ4勝したファレノプシスや2013年のダービー馬キズナの母である。つまり、ファレノプシスやキズナはナリタブライアンと母母が共通している。
パシフィカスの父が競馬界に革命をもたらしたノーザンダンサーで、ナリタブライアンはノーザンダンサーの血が濃い。1990年代は「日本にはノーザンダンサーの血を持つ繁殖牝馬が多い。○×という種牡馬はノーザンダンサーの血を持っていないので、ノーザンダンサーの血を持っている繁殖牝馬にいくらでも種付けすることができ、有利である」と言われることが多かった。実際に、この当時大活躍した種牡馬御三家のサンデーサイレンスとブライアンズタイムとトニービンはノーザンダンサーの血を持っていない。ナリタブライアンはノーザンダンサーの血が濃いので、繁殖牝馬の選択肢の幅が狭くて苦しい立場だった。たとえば、この当時の日本にはノーザンテーストを父に持つ優秀な繁殖牝馬が多かったのだが、そういう繁殖牝馬にナリタブライアンを付けると、ノーザンダンサーの3×3のクロスになり、かなりのインブリード(近親交配)になり、体質の弱い馬が生まれる可能性が強まってしまう
609:名無しさん@お腹いっぱい。
21/06/12 00:54:54.74 931UsYb7.net
レイズアネイティヴ(Raise a Native)とはアメリカの競走馬。
故障により早々に引退したが種牡馬として大成功を収め、かのMr. Prospectorを輩出した。
……けど何か影が薄い。ミスプロいなくても十分名種牡馬なんだけどなぁ。
概要
短き競走生活
父Native Dancer、母Raise You、母父Case Aceという血統。
父ネイティヴダンサーは22戦21勝を挙げた「グレイ・ゴースト」との異名を持つ全米のアイドルホース。母レイズユーは24戦5勝、ステークス競走3勝。母父ケースエースは9戦6勝を挙げイリノイダービーを勝利している。
そのレイズアネイティヴだが通算成績は4戦4勝。アグネスタキオンかフジキセキを思わせる成績。
故障により2歳時しか走っていないが、2戦目の一般競走をレコード勝ちすると、続く同コースのジュヴェナイルSを同タイムで走破。7月のグレートアメリカンSではアケダクト競馬場ダート5.5Fのレコードタイムを繰りだして優勝。
しかし次戦に向けた調教中に故障を発生し、2歳半ばで現役引退となった。
種牡馬入り後
さっさと引退し、馬主の所有するフロリダ州の牧場で種牡馬入りすると、初年度のExclusive NativeがアーリントンクラシックSを勝利。これにより米国最大の馬産地であるケンタッキー州へ栄転と相成った。
翌年以降も活躍馬が沢山出る出る。
Majestic Princeが無敗で二冠達成、弟の*クラウンドプリンスが欧州2歳チャンピオンとなり、Alydarが三冠競走全て2着と活躍。Alydarは種牡馬として二冠馬Alysheba、*サンデーサイレンスのライバルEasy Goerを輩出している。Exclusive Nativeは前述のAlyderをひとしきり弄んだ三冠馬Affirmedや史上2頭目となる牝馬のケンタッキーダービー馬Genuine Riskを輩出。
610:名無しさん@お腹いっぱい。
21/06/12 01:02:05.72 fsHVAoBt.net
ナイスネイチャとは、日本の元競走馬である。
性別:牡(現在はせん馬)
品種:サラブレッド
毛色:鹿毛
生誕:1988/4/16
生産:渡辺牧場
父:ナイスダンサー 母:ウラカワミユキ
調教師:松永善晴(栗東)
生涯成績:41戦7勝(うち重賞4勝)
獲得賞金:6億2358万5600円
主な勝鞍:京都新聞杯(GII)、鳴尾記念(当時はGII)、小倉記念(GIII)、高松宮杯(当時GII)
主戦騎手:松永昌博(現調教師)
有馬記念(G1)を3年連続3着(1991年~1993年)した事で有名なブロンズコレクターである。
概要
1990年に3歳でデビューし、2戦目の新馬戦で初勝利。年明けの自己条件戦を経て、若駒ステークスでトウカイテイオーの3着になった。その後脚部不安で休養に入り、7月に復帰すると不知火特別から京都新聞杯まで4連勝で重賞ウィナーの仲間入りを果たす。菊花賞ではレオダーバンの4着と振るわなかったが、小倉記念で古馬相手に勝利。鳴尾記念でも勝利を収め、1回目の有馬記念で3着に入る。
しかしその後は好走するも勝ちきれないレースが続き、出走するレースほとんどで2着、3着、4着と惜敗、その間の有馬記念を3年連続で3着となり、ここから「ブロンズコレクター」「善戦マン」と呼ばれるようになった。
1回目 1991年 「これはびっくり」ダイユウサクの3着
2回目 1992年 メジロパーマーの3着
3回目 1993年 「奇跡の復活」トウカイテイオーの3着
上記のことを受け、「大偉業」ならぬ「大異業」と別称される。
しかも3回目の3着は10番人気という人気薄からビワハヤヒデとテイオーには離されたがマチカネタンホイザには抜かれず3着に粘ったといった内容で、むしろ健闘した結果である。
ちなみに4回目はナリタブライアンの5着で、3着はライスシャワーだった。
611:名無しさん@お腹いっぱい。
21/06/12 01:02:40.51 fsHVAoBt.net
他にも毎日王冠2年連続3着だったり、マイルCSと阪神大賞典でも3着獲得してたりする。
そんなナイスネイチャが久々に勝利を挙げたのは7歳時の高松宮杯(当時GII、今のGI高松宮記念。なお当時は1200mではなく2000m走で、現在の金鯱賞に相当する条件のレース)だった。
この高松宮杯、前年ダービー勝ったウイニングチケットや、その年のジャパンカップを制するマーベラスクラウン、なんか似た雰囲気を感じるアイルトンシンボリが混ざっていた中の勝利である。
実に2年7ヶ月振りの勝利だったが、その後はまた不調になり、9歳まで現役を続けたが、6年連続有馬記念出走を前に引退。種牡馬も引退し、現在は故郷の渡辺牧場で余生を送っている。2018年5月現在、30の大台(人間に例えるとおよそ90歳に相当)に突入してまだ存命である。
母ウラカワミユキは2017年に亡くなったが、サラブレッドの牝馬最長寿記録36歳0ヶ月1日(誕生日没)を保持している。
ナイスネイチャが日本におけるサラブレッド牡馬最長寿記録3位以内に入るには最低でも35歳と3ヶ月11日まで生きなければいけないが、果たして…(ちなみに1位はシャルロット(競走馬名アローハマキヨ)の40歳2ヶ月20日。2位は大福(競走馬名ミナガワボルード)の35歳3ヶ月22日、3位がシンザンの上記の数字、となっている)。
612:名無しさん@お腹いっぱい。
21/06/12 01:03:03.97 fsHVAoBt.net
2021年1月30日にマイネルダビテが死亡したことで、この時点での存命中重賞勝ち牡馬としては最年長となった。また同年2月24日にメインキャスターが死亡したことで、この時点での存命中重賞勝ち馬として第2位の長寿となった(1位はラビットボール:1987年3月20日生まれ。主な勝ち鞍:1993年中山牝馬ステークス)。
余談だが有馬記念5年連続出走は当時の最多記録タイである(他はスピードシンボリとメジロファントム)。現在の記録はコスモバルクの6年連続出走である。
また重賞連続出走記録34回、GI出走16回と言った当時の最多記録も保持している。
勝ちきれないレースが多かったが、GI戦線で長らく活躍し、ほとんどのレースで掲示板入りしている事からレース自体は安定した走りを見せていた。そのためGI未勝利ながら累計獲得賞金は6億円を超えている。91年クラシック世代に限って言えばあのトウカイテイオーに次いで2位なのだ。無事是名馬である。
「20世紀の名馬100」でも71位にランクインされており、競馬ファンからも愛されていた馬であった。その人気と3着に縁のあることを評価されてか、99年に発売されたワイド馬券のキャンペーンキャラクターにも選ばれた(ワイドは3着でも当たる可能性がある複勝に次ぐ馬券である)。
613:名無しさん@お腹いっぱい。
21/06/12 01:03:38.82 931UsYb7.net
近所のスーパー銭湯でおじいちゃんに連れられてJS3~4のスレンダーな可愛い子とその弟が入ってきた
弟はチンコ全開でハシャギまくってるけど女の子は羞恥心が少し芽生えてたのかタオルで前を一生懸命隠してる
でも所詮子供だからガードが甘くなってきて胸はなんとなく隠してるけど下が完全に無防備で
湯船の縁に軽く足開き気味に座った際に少し開いている真ピンクの綺麗なアソコが丸見え状態になった
特にロリ属性じゃない俺もちょっと興奮したよ最初に隠そうとしてた恥じらいが更に興奮させたんだろうね見ちゃいけないもの見た的に
軽く周り見渡したら10人近い男達全員ガン見してた皆オカズにしただろうな
614:名無しさん@お腹いっぱい。
21/06/12 01:04:05.14 931UsYb7.net
福島にも混浴あるんだけど、その時石田ゆり子さん?が来てたことあったんだ。まじキレイで逆に立たない。風呂の入り方も慣れたもんで体を斜めにさせて入ってきて前も胸も絶妙に見えないんだ。
周りにも会釈して、かと言って近寄らず、いや近寄らせない距離を保つんだ。そんで俺が上がろうとした時、ちょうど彼女も上がろうとしたんで俺はちょっと待ったんだ。
それで彼女が先に上がった。今思うと彼女が先にどうぞって手で合図してた様な気もする。後ろから見られるのも嫌だよね。
俺は気づかないで止まっちゃったから、仕方なく行ったのかも。後ろ姿見ちゃったんだけど、意外にお尻が大きいんだ。でも垂れてないキュッとした感じ。上半身は華奢なんだけどね。胸もそんなにない感じ(ぱっと見)。思わず、オウって言いそうになったよ。
615:名無しさん@お腹いっぱい。
21/06/12 01:04:36.89 931UsYb7.net
混浴の浴室でたっぷりとまんこを見せたあとで食堂に行くと、さっき浴室で私のまんこをガン見してた男性が目の前の席にいた。
私はさっきこの男性にまんこを全部見られたんだよねって思うとまんこがキューってなって来てオナニーしたくなった。
周りを見ると、他にも浴室で見かけた男性が何人もいて、こんなに何人もの見知らぬ男性達に私はまんこを全部見られちゃったんだ、どうしよう?ってますます興奮が高まった。
部屋でオナニーして一息ついてからまた浴室に行くと、何人も女性がいて、私はおかげで気軽にさっきよりも大胆にまんこ見せれた。
616:名無しさん@お腹いっぱい。
21/06/12 01:52:34.17 n9n8aOQN.net
ひとりでできるもんの子 亡くなってたのか
昔見てたな
合掌
617:名無しさん@お腹いっぱい。
21/06/12 01:54:29.42 931UsYb7.net
しかしながら、デビューするとこれがもうモノが違う。ほとんど追われることなく、イギリスの2歳チャンピオン決定戦のデューハーストSまで5戦5勝。アイルランドとイギリス両国の最優秀2歳牡馬に選出され、この時点で既に英ダービーの大本命と目されるようになった。なお、騎手はアイルランドではリアム・ウォード騎手が、それ以外の国ではレスター・ピゴット騎手が務めるという分担が引退まで続いた。
3歳になり、一叩きを古馬相手に楽勝して臨んだ2000ギニーはこれもほとんど追われることなく抜け出して圧勝。ダービーはそれまでのレース振りから距離不安が言われた上、発走30時間を切った頃に疝痛を起こすという不運に見舞われたが、中団から圧倒的な脚で突き抜け史上2位のタイムで完勝。アイリッシュダービーも入れ込みながら馬なりで3馬身差で勝利。
キングジョージVI世&クイーンエリザベスSでは馬なりで、直線で鞍上が相手を見ちゃう余裕があるというあきれたレースぶりで優勝。ちなみに負かした馬は全部古馬で、必死に追いまくって2着したブレイクニーは前年の英ダービー馬である。
あまりの強さにこの時点で早々に種牡馬入りシンジゲートが組まれたのも無理からぬ話。544万ドルは当時の世界レコードだった。
618:名無しさん@お腹いっぱい。
21/06/12 01:54:55.38 931UsYb7.net
次の目標は当然、凱旋門賞だった。しかしキングジョージから凱旋門賞までには2ヶ月以上あった上、夏の間に白癬を患ったニジンスキーの調整には狂いが生じていて、手頃なステップが見当たらなかった。どうしようかと思っていた
619:オブライエン調教師。そこに「是非、セントレジャーSに出て三冠馬になってくれ!」という要望が聞こえてきたのである。 セントレジャーが行われるドンカスター競馬場の関係者だった。当時、既に三冠路線は形骸化しており、特に14ハロン115ヤード(約2920m)も走らなければならないセントレジャーは中短距離がメインになりつつあった競馬の流れから外れてしまって、有力馬がことごとく回避する有様だったのである。実はニジンスキー以前にも二冠馬は何頭か出ていたのだが、どれもセントレジャーに出ていなかった。最後に三冠を達成したのはバーラムという馬で、なんと1935年の話だった。 ニジンスキーが出て三冠馬になれば話題になり、再びセントレジャーに陽が当たる時代が来るかもしれない。そういう目論見らしかった。オブライエン調教師は渋ったが、結局馬主のエンゲルハードが了承してニジンスキーはセントレジャーに出走。直線抜け出してあっさり勝利し、35年ぶりの三冠馬となったのであった。 どう見ても楽勝だったのだが、騎手のレスター・ピゴットは直線が長く感じたという。やはり距離がニジンスキーには長かったのだろう。ニジンスキーはレース後馬体を減らしてしまい、回復に手間取ってしまう。
620:名無しさん@お腹いっぱい。
21/06/12 01:55:22.19 931UsYb7.net
そして凱旋門賞。オッズは単勝1.4倍の圧倒的な1番人気であり、アイルランドでの騎乗を担当したウォード騎手が「もし負けたら裸でアイルランドまで帰ってやるよ」と言い放つなど、大多数はニジンスキーの勝利を信じて疑わなかった。しかしニジンスキーは直線で先を行くササフラを交わしたもののいつもの伸びが無い。鞍上のピゴット騎手が思わず鞭を入れると、大きく左によれて体勢を崩し、ササフラに頭差差し返されてしまったのである。
無敗の名馬の敗戦はいつだって衝撃的だが、ニジンスキーの敗戦はアイルランドやイギリスで大ニュースになり、大きな議論を呼んだ。あれほど強かったニジンスキーが負けた理由の一つに「距離不向きであった過酷なセントレジャーの疲れ」があったのはどう考えても明白であるとしか思われず、「セントレジャーに使うべきではなかった」という非難がオブライエン調教師の元に舞い込む騒ぎになった。実際には白癬の影響などもあったようなのだが、結局この騒動のおかげでセントレジャーは「凱旋門賞を目指す馬なら出てはいけない」レースに成り下がってしまったのだった。逆効果にも程がある。
もっとも、凱旋門賞の後に出走したチャンピオンS(元からここで引退する予定だったらしい)でも2着に敗れており、その際に陣営は「もはや闘志を失っている」と口を揃えたので、一概にセントレジャーを悪者にするのもどうかと思う。そもそもニジンスキーは3歳時、4月から10月のチャンピオンSまで8戦も走っている。欧州の山坂ある競馬場で、厳しい12ハロン以上のGIレースを5回も走っているのだ。そりゃ疲れるだろう。パドックでファンに取り囲まれたりしたら尚更である。凱旋門賞ではなんか大汗かいて泡吹いているのが動画で確認出来る。
ニジンスキーはこれで引退。13戦11勝2着2回の連対率100%を達成している。動画で見た感じ、3歳前半の強さは桁違いであり、特にキングジョージの遊んでいるようなレースは一見の価値がある。
621:名無しさん@お腹いっぱい。
21/06/12 01:59:02.46 9MlLDSf5.net
「馬」←あぼーん
622:名無しさん@お腹いっぱい。
21/06/12 02:02:42.03 931UsYb7.net
>>541
バーカw
Northern Dancer
1961 鹿毛 Nearctic
1954 黒鹿毛 Nearco Pharos
Nogara
Lady Angela Hyperion
Sister Sarah
Natalma
1957 鹿毛 Native Dancer Polynesian
Geisha
Almahmoud Mahmoud
Arbitrator
Flaming Page
1959 鹿毛
FNo.8-f Bull Page
1947 鹿毛 Bull Lea Bull Dog
Rose Leaves
Our Page Blue Larkspur 
Occ