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慶応四年八月二十一日 会津直撃を目指して
三千人の征討軍が殺到した。
この奇襲部隊の道案内をしたのは
峠のふもとの石筵集落の農民たちだった。
その前日、会津藩兵は、敵が隠れる所を
なくすために、放火して集落を焼き払ってしまった。
家を焼かれた農民たちが恨みを晴らすために
道案内を買って出たのである。
会津盆地から流れ出す阿賀野川の
下流、新潟県安田町でも
会津藩兵は六野瀬という集落を焼き払った。
その翌日の八月一日、会津藩兵は
阿賀野川に面した砦を守っていた
二十四人のうち、二十三人が戦死したのだが
六野瀬集落の人々は、「会津のやつらは……」
と言いながら、遺体を阿賀野川に投げ捨てた。