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★【河村直哉の国論】日教組教師発言に見る左傾「紀元節は嘘だらけ」 日本を否定する教育の異常
2015.2.12 15:00
またあきれる左巻き、もとへ左向きぶりを聞いた。「紀元節(建国記念の日)は嘘だらけの日」。
ある中学校男性教諭の、授業での発言。山梨県で開かれた日本教職員組合(日教組)の
教育研究全国集会で報告された。天皇制批判などもしていたという(2月7日付産経新聞朝刊)。
古典的な左翼教師がまだ教育の現場にいるものだと、改めて知った。
・日本の成り立ちを否定したGHQ
紀元節とは2月11日、いまの建国記念の日に当たる。明治6年に定められた。
戦後、連合国軍総司令部(GHQ)はこれを祝日とすることを認めず、昭和23(1948)年の
祝日法からはずされた。建国記念の日が祝日となるのは、ようやく昭和41(1966)年のことである。
こうしたいきさつがどれほど周知されているか、筆者は知らない。建国を祝う気配がこの日、
この国に満ちているかと街を見渡せば、残念ながらあまり感じられない。じつは紀元節から
建国記念の日への変遷は、戦後日本の左傾ぶりをよく示す事例なのだ。この機会に振り返っておきたい。
そもそも紀元節とは、初代天皇である神武天皇の即位の日。国の成り立ちに思いをはせ祝う日である。
いろいろと形は違っても、どの国家にもあってしかるべきものであり、大切にされるべきものだ。
戦後、昭和23年に当時の総理庁(後の総理府=現・内閣府)が行った世論調査では、
国民の8割はこの日を祝日とすることを望んでいた。そのくらい人口に膾炙(かいしゃ)した日だった。
これを認めなかったGHQの見解は次のようなものだ。「この日が許さるべきでない根拠は、
それが神話的起源の日であるからだけではなく、むしろそれが…超国家主義的概念を公認し、
かつ一般占領目的に背くものだからである」(所功氏「『国民の祝日』の由来がわかる小事典」)。
GHQは日本の「精神的武装解除」を占領方針のひとつとし、神道や神話を敵視した。
昭和23年の祝日法では、それまでの祝日の宗教色は薄められた。たとえば収穫に感謝する
11月23日の新嘗祭(にいなめさい)は、「勤労感謝の日」というわけのわからないものになった。
繰り返しになるがこのとき、建国の日は祝日からはずされた。
・日本人による日本の否定
ところで、日本が独立を果たしたあとも昭和41年まで、建国記念の日が祝日とならなかったのは
なぜだろうか。この日を祝日とする議論は独立後、国会でもなされた。しかし実を結ばなかった。
ここに戦後日本の左傾があった。GHQが定めた方針を拡大再生産し、日本という国を批判して
やまない勢力が、日本のなかで猛威をふるってきたのだった。建国記念の日の制定に反対する
集会が開かれ、各団体から反対声明が出された。
建国記念の日が祝日となった翌年に出された、「紀元節問題」という冊子がある。
進歩的知識人らの名前が並ぶ。寄稿文や座談会にはこんな惹句(じゃっく)がついている。
「紀元節復活をかちとった右翼は、つぎの計画として明治節-明治維新百年-安保危機突破をめざし…」
「二月十一日は日本人にとって悪夢再現の日となった。反動政策の環が着々とつながれつつある今日…」。
国の成り立ちを祝うことは「右翼」であり「反動」とされている。
あるいは、「紀元節復活問題は、対米従属下の日本に軍国主義復活の軌道が設定された時期に、
そのイデオロギー的核心の一つとして登場した」。少し戦後史に関心のある人なら、こうした文言に
典型的な左翼臭をかぎとるだろう。しかしこの文章がいうように、果たして日本はその後、
軍国主義の道を歩んだのだろうか。
このような言説が猛威をふるってきたのである。このたぐいの言説は、戦争への反動から、
戦争につながるとみなされるものをことごとく否定する。共産主義のイデオロギーが根底にあるか、
ないしは容共的なのだが、表層的な部分では、日本を否定することが「進歩的」であると訴える。
戦争反対、憲法護持という点でこの言説は、集団的自衛権の行使や憲法改正に反対する論調として
現在も続く。歴史観の点でいえば、慰安婦問題に見られるような自虐史観もこの思潮の延長にある。
・神話は国民統合の物語
冒頭の「紀元節は嘘だらけの日」という中学教師の発言は、この偏った戦後日本の思潮を、
よく示している。中学教師はこう言ったという。「神武天皇という実在しなかった天皇が、
空から高天原に降りてきて日本を治め始めた、という嘘だらけの日」。ニニギノミコトの
天孫降臨神話と混同しているだけでなく、基本的に、神話を敵視するGHQ的史観を
そのまま現在に持ち出しているといってよい。
神話は史実であるかどうかより以前に、国民が神話を持てるということが重要なのだ。
国民を統合する物語が、神話なのである。そのような物語を持っているということは、
国民の大きな幸なのだ。
このような左傾教師の言葉を教室で聞かされる生徒こそ、不幸である。(大阪正論室長)
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