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「大阪会議」はおこがましい 論説委員・鹿間孝一
【日曜に書く】
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大阪・北浜の土佐堀川に面して老舗料亭「花外楼」がある。近代的なビルに生まれ変わったが、玄関前に建つ「大阪会議開催の地」の碑が歴史の舞台であったことを伝えている。
天保元年に加賀の国から出てきた初代の伊助が料理旅館「加賀伊」を始め、幕末には維新の志士たちが集ったという。
明治8(1875)年、ここで大阪会議が開かれた。
店の案内には「仲たがいしていた木戸孝允、板垣退助と大久保利通らの“和議”が整った。難しい問題が平和に上手(うま)くまとまった会議だった」とある。
会議の成功を祝して木戸が「花外楼」と命名し、自ら揮毫(きごう)した扁額(へんがく)が残されている。
◆まず和解の場として
維新の雄藩である薩長土肥によって成立した明治の新政府は、それぞれが思惑を秘めた呉越同舟で、しかも海図を持たずに船出したようなものだった。
庶民は時代の空気を敏感に察知していた。「上からは明治だなどといふけれど、治まるめい(明)と下からは読む」という当時の狂歌がある。
版籍奉還・廃藩置県という封建制度から脱却する大改革を成し遂げたものの、やがて征韓論をめぐる対立から西郷隆盛、板垣退助らが政府を去り、さらに台湾出兵に反対する木戸孝允が参議を辞任する。
薩摩の大久保、長州の木戸、土佐の板垣、それぞれが旧藩のリーダーだった。
大久保はとりわけ木戸に政府に戻ってほしかった。
徳富蘇峰は両人の関係を「性の合わない夫婦のように離れれば淋(さび)しさを感じ、会えば窮屈を感じる。要するに一緒にいる事もできず、離れることもできず、つかず離れずであるより、他に方便がなかった」と表現している。
その大久保が大阪会議では「三権分立」「二院制議会(元老院を上院とし、地方官会議を下院とする)」などの木戸の提案をのんだ。そして立憲政体という国家のグランドデザインが描かれた。
喜んだ木戸が会議の舞台を「花外楼」と名付けたのは前述した通りである。
参議に復帰した木戸は2年後に病に倒れ、翌年には大久保が暗殺されるが、定まった日本の針路に揺るぎはなかった。
伊藤は「大阪会議なるものは全く大久保さんの発議に基づき成立したものであって、その後、自分が勅命を奉じて憲法制定の事業に当たったのも、実は木戸、大久保両先輩の遺志を継紹したものに外ならない」と述懐している。
歴史を顧みたのは、現代の大阪会議があまりにも情けないことになっているからだ。
◆対立の次元が低すぎる
5月に行われた大阪市の住民投票で、橋下徹市長が提唱した大阪都構想への反対票が上回った。橋下氏は「敗北」を認めて政界引退を表明したが、わずか1万票余りという僅差は、府市の二重行政に対する批判が根強いことを浮き彫りにした。
そこで行政の広域的課題を話し合う場として大阪戦略調整会議(大阪会議)が設置された。
だが、7月24日に開かれた第1回会合から、早くも暗礁に乗り上げた。大阪維新の会と自民党、公明党などが会議の運営ルールをめぐって紛糾、罵(ののし)り合いになってしまった。
8月13日の第2回は自民党などが欠席して、定足数に満たずに流会になった。今後は維新が欠席戦術を取るとしているから、開催の見通しが立たない。
維新はこの会議を「二重行政解消」を提起した都構想の対案と位置付ける。一方、自民党などは住民投票で都構想が否決されたことから「二重行政などない」という立場である。これではかみ合うはずがない。
橋下氏は「いったい何なんですかこの会議は」と言ったが、そう言いたいのは大阪府市民である。
対立の背景には、11月に行われる予定の府知事・大阪市長のダブル選挙への各党の思惑もあるようだ。
明治の元勲たちと比べるべくもないが、それにしても次元の低いこと。「大阪会議」を名乗るのはおこがましい。 (しかま こういち)