16/10/29 14:49:47.74 T3Tb7NmK.net
>>751
>一方肯定説は山田日記を骨格にして
>小野が20年かけて集めた史料などによって肉付けされたものだからなw
小野が集めた史料には、事前に「逃ぐる事暴れる様なる事あれば直ちに射殺する」という警告が与えられていた事、その警告にもかかわらず捕虜が騒ぎを起こした事、
それによって「最後の取るべき手段を決し」とされた事、三千(宮本省吾陣中日記)から七千(近藤栄四郎出征日誌)、もしくは六千弱(遠藤高明陣中日記)が射殺された事が書かれていますw
つまり小野の日記に書かれているのは「事前の警告に従わず騒ぎを起こした捕虜が射殺されただけ」という事になりますw
どこから見ても虐殺ではありませんねw
宮本省吾 陣中日記
十二月十四日
夜半又々衛生隊が二百余の捕虜を引率し来る、巡警二百余もあり隊長もあり相当訓練的にて人員をしらべる等、面白き事である、少佐とか参謀とか云ふ者もあり通訳より
「日本軍は皆に対し危害を与へず唯逃ぐる事暴れる様なる事あれば直ちに射殺する」
との事を通じ支那捕虜全員に対し言達せし為一般に平穏であった、唯水と食料の不足で、全く閉口した様である。
十二月十六日
午食事中俄に火災起り非常なる騒ぎとなり三分の一程延焼す。
午后三時大隊は最後の取るべき手段を決し捕虜兵約三千を揚子江岸に引率し之を射殺す。
近藤栄四郎出征日誌
十二月十六日
二万の捕虜が火災を起し警戒に行った中隊の兵の交代に行く。
遂に二万の内三分の一、七千人を今日揚子江畔にて銃殺と決し護衛に行く。
遠藤高明陣中日記
十二月十六日
午後零時三十分捕虜収容所火災の為出動を命ぜられ同三時帰還す。
捕虜総数一万七千二十五名。夕刻より軍命令により捕虜の三分の一を江岸に引出しⅠに於て射殺す。