16/09/13 00:53:20.25 JA4SM0w6.net
>>242
柳の木は「昼のうちに」と書いてるが。
「確か南京入場式のあった日でしたが」「機関銃中隊の残余メンバーで特別な仕事を与えられ、
ノコギリやナタを持って、4キロか5キロほど歩いて河川敷にでかけたのです」
「実は捕虜を今夜解放するから、河川敷を整備しておくように。それに舟も捜しておくように……
と。そんな命令を受けていたんですよ」
「ノコギリやカマは、河川敷の木や枯れたススキを切り払っておくためだったんです 」
「 実は逃がすための場所設定と考えていたので、かなり広い部分を刈り払ったのです。刈り払い、
切り払いしたのですが、 切り倒した柳の木や、雑木のさまざまを倒したまま放ったらかしにして置いたんです。
河川敷ですから、切り倒したといっても、それほど大きなものはありませんでしたがね。
ところが、後でこれが大変なことになるのです 」
「兵舎のある上元門に戻って、まだ日のある時間でしたが。それから捕虜の連行が始まったのです」
「集結を終え、最初の捕虜たちから縛を解き始めました。その途端、どうしたのか銃声が……。
突然の暴走というか、暴動は、この銃声をきっかけにして始まったのです」
昼のうちに切り倒し、ただ散乱させたままにしておいた木や枝が、彼らの手に握られたからだ。近くにいた
兵士たちの何人かは殴り倒され、たたき殺された。
(阿部輝郎著『南京の氷雨』P99 第一機関銃中隊・箭内亨三郎准尉の証言 )
鈕先銘『還俗記』から
永清寺は寺の庭に石榴が多数生えているので名高い寺であり、別名石榴寺と呼ばれた。中国軍の将校であった
鈕先銘氏は日本軍を逃れて永真寺に潜伏した。十二月十七日の夕刻に日本兵が来て石榴の木をすべて切り払い、
枝を持って行った。 鈕先銘氏は日本軍が枝を「大叉子」の形に切り取って持っていったと考えた。その後に
大湾子で中国兵捕虜の夥しい死体が山となっているのを見て、あの枝は 「大叉子」として死体を積み上げる
ためのものであったと理解した。