アンチがtwitterであゆに喧嘩を吹っかけてるwwwat AMI
アンチがtwitterであゆに喧嘩を吹っかけてるwww - 暇つぶし2ch347:shimizu ◆Q/mpujoW3g
17/02/15 16:56:25.63 .net
5月になると空海は、密教の第七祖である唐長安青龍寺の恵果和尚を訪ね、以降約半年にわたって師事することになる。
恵果は空海が過酷な修行をすでに十分積んでいたことを初対面の際見抜いて、即座に密教の奥義伝授を開始し[9]、空海は6月13日に大悲胎蔵の学法灌頂、7月に金剛界の灌頂を受ける。
ちなみに胎蔵界・金剛界のいずれの灌頂においても彼の投じた花は敷き曼荼羅の大日如来の上へ落ち、両部(両界)の大日如来と結縁した、と伝えられている。
8月10日には伝法阿闍梨位の灌頂を受け、「この世の一切を遍く照らす最上の者」(=大日如来)を意味する遍照金剛(へんじょうこんごう)の灌頂名を与えられた。
この名は後世、空海を尊崇するご宝号として唱えられるようになる。このとき空海は、青龍寺や不空三蔵ゆかりの大興善寺から500人にものぼる人々を招いて食事の接待をし、感謝の気持ちを表している。
8月中旬以降になると、大勢の人たちが関わって曼荼羅や密教法具の製作、経典の書写が行われた。
恵果和尚からは阿闍梨付嘱物を授けられた。
伝法の印信である。
阿闍梨付嘱物とは、金剛智 - 不空金剛 - 恵果と伝えられてきた仏舎利、刻白檀仏菩薩金剛尊像(高野山に現存)など8点、恵果和尚から与えられた健陀穀糸袈裟(東寺に現存)や供養具など5点の計13点である。
対して空海は伝法への感謝を込め、恵果和尚に袈裟と柄香炉を献上している。
同年12月15日、恵果和尚が60歳で入寂。元和元年(延暦25年、806年)1月17日、空海は全弟子を代表して和尚を顕彰する碑文を起草した。
そして、3月に長安を出発し、4月には越州に到り4か月滞在した。
ここでも土木技術や薬学をはじめ多分野を学び、経典などを収集した。
折しも遭難した第4船に乗船していて生還し、その後遅れて唐に再渡海していた遣唐使判官の高階遠成の帰国に便乗する形で、8月に明州を出航して、帰国の途についた。
途中、暴風雨に遭遇し、五島列島福江島玉之浦の大宝港に寄港、そこで真言密教を開いたため、後に大宝寺は西の高野山と呼ばれるようになった。
福江の地に本尊・虚空蔵菩薩が安置されていると知った空海が参籠し、満願の朝には明星の奇光と瑞兆を拝し、異国で修行し真言密教が日本の鎮護に効果をもたらす証しであると信じ、寺の名を明星院と名づけたという[10]。

348:shimizu ◆Q/mpujoW3g
17/02/15 16:58:16.43 .net
虚しく往きて実ちて帰る[編集]
「虚しく往きて実ちて帰る」という空海の言葉は、わずか2年前無名の一留学僧として入唐した空海の成果がいかに大きなものであったかを如実に示している。
大同元年(806年)10月、空海は無事、博多津に帰着。
呉服町に東長寺を開基し、大宰府に滞在する。
日本では、この年の3月に桓武天皇が崩御し、平城天皇が即位していた。
空海は、10月22日付で朝廷に『請来目録』を提出。
唐から空海が持ち帰ったものは『請来目録』によれば、多数の経典類(新訳の経論など216部461巻)、両部大曼荼羅、祖師図、密教法具、阿闍梨付属物など膨大なものである。
当然、この目録に載っていない私的なものも別に数多くあったと考えられている。
「未だ学ばざるを学び、〜聞かざるを聞く」(『請来目録』)、空海が請来したのは密教を含めた最新の文化体系であった。
空海は、20年の留学期間を2年で切り上げ帰国したため、当時の規定ではそれは闕期(けつご)の罪にあたるとされた。
そのためかどうかは定かではないが、大同元年(806年)10月の帰国後は、入京の許しを待って数年間大宰府に滞在することを余儀なくされた。
大同2年より2年ほどは大宰府・観世音寺に止住している。
この時期空海は、個人の法要を引き受け、その法要のために密教図像を制作するなどをしていた。

349:shimizu ◆Q/mpujoW3g
17/02/15 17:46:24.09 .net
それでは、本日の講義です。
デフレからの脱却!脇雅史×西部邁2013年9月21日放送
URLリンク(www.youtube.com)
2013/09/29 に公開 語れ、聞けwaki-nomos【1】国力の抜き取りと価格の下落脇雅史〔参議院自民党幹事長〕
自民党の参議院幹事長を脇雅史参議院議員が御登場!
参議院自由民主党事長の脇先生から、waki-nomosを語っていただきます。
お相手をして下さるのは、厚生労働省御出身で元参議院議員の坂本由紀子先生です。
世間では、いわゆるアベノミクス(abe-no-mix)と呼ばれる現政権の経済政策に対して楽観と悲観あるいは期待と不信といか、こもごも至る、といった様相を呈しています。
アベノミクスへの評価における不安定な気分は、経済政策の土台、枠組あるいは前提となる国家論がどうなっているか、それがかならずしも明らかではない、ということに起因しているからではなでしょうか。
■この日本国家(国民と政府)に活力を吹き込むにはどうするべきか
■世界的に広がる危機の中で、デフレからどう脱却するか
■賃金、物価、税収も下がるデフレの怖さ
■人件費抑制で不定期、非正規雇用で若者達が将来展望を抱けない
■過去の蓄積も未来への展望もマーケットに任せれば何となるという嘘話

350:shimizu ◆Q/mpujoW3g
17/02/15 17:48:00.13 .net
PCのメモリが足りない。
古いからね。
それか、壊れてるか。
( ・x・)y─┛~~~

351:shimizu ◆Q/mpujoW3g
17/02/15 17:48:00.25 .net
PCのメモリが足りない。
古いからね。
それか、壊れてるか。
( ・x・)y─┛~~~

352:shimizu ◆Q/mpujoW3g
17/02/15 18:51:07.96 .net
それでは、本日の講義です。
脇雅史の国家経綸waki-nomos西部邁ゼミナール 2013年9月28日放送
URLリンク(www.youtube.com)
2013/10/06 に公開
語れ、聞けwaki-nomos【2】政府の強靭化と活性化―脇雅史〔参院自民党幹事長〕×坂本由紀子〔元参院議員〕
□政府の強靭化と国民の活性化―今、政治家が語るべき未来への展望
□語れ、聞けワキノモス!国家の「経綸」百年の大計
□戦後の物の考えた方、振る舞い方の混迷
□歴史を眺め返して前に進む
□国家の基盤を破壊する構造改革、規制緩和、小さな政府、公務員削減論
□自由と競争、保護と規制という二者択一ではない活力と公正のバランスとれた社会を如何につくるか
□国家の未来にヴィジョンを与えるためのインフラ構築
□日本国家に活力を吹き込むにはどうすればよいのか

353:shimizu ◆Q/mpujoW3g
17/02/15 19:30:55.69 .net
色々な妄言・・
色々な妄想・・



↓↓↓これら、どこの教科書に書いてあったのですか?
赤字の浜崎のツアー中止にした場合
売上高 10億
変動費、固定費 3億5000万円
営業利益 6億5000万円

赤字だって存続していくケースはあるw
まさに浜崎がコレにす当たる。
馬鹿ヲタ(笑)こんな事も知らないとかwww

354:shimizu ◆Q/mpujoW3g
17/02/15 19:33:44.73 .net
小学生の御小遣いみたいだね。
一桁の足し算は、合格かな。
( ・x・)y─┛~~~
↓↓↓
簡単な例として
エイベックスのライブ売上高
売上高 10億
変動費 固定費 2億
営業利益 8億
ハマ婆のライブ売上
売上高1億
変動費 固定費 2億
営業利益 ▲1億

355:shimizu ◆Q/mpujoW3g
17/02/15 19:53:39.38 .net
真言密教の確立[編集]
大同4年(809年)、平城天皇が退位し、嵯峨天皇が即位した。
空海は、まず和泉国槇尾山寺に滞在し、7月の太政官符を待って入京、和気氏の私寺であった高雄山寺(後の神護寺)に入った。
この空海の入京には、最澄の尽力や支援があった、といわれている。
その後、2人は10年程交流関係を持った。
密教の分野に限っては、最澄が空海に対して弟子としての礼を取っていた。
しかし、法華一乗を掲げる最澄と密厳一乗を標榜する空海とは徐々に対立するようになり、弘仁7年(816年)初頭頃には訣別するに至る。
2人の訣別に関しては、古くから最澄からの理趣釈経(「理趣経」の注釈書)の借覧要請を空海が拒絶したことや、最澄の弟子泰範が空海の下へ走った問題があげられる。
だが、近年その通説には疑義が提出されている。
大同5年(810年)、薬子の変が起こったため、嵯峨天皇側につき鎮護国家のための大祈祷を行った。
弘仁2年(811年)から弘仁3年(812年)にかけて乙訓寺の別当を務めた。
弘仁3年(812年)11月15日、高雄山寺にて金剛界結縁灌頂を開壇した。入壇者には、最澄も含まれていた。さらに12月14日には胎蔵灌頂を開壇。入壇者は最澄やその弟子円澄、光定、泰範のほか190名にのぼった。
弘仁4年(813年)11月23日、最澄が空海に「理趣釈経」の借覧を申し入れたが、密教の真髄は口伝による実践修行にあり、文章修行ではないという理由で空海は拒否した[11]。
弘仁6年(815年)春、会津の徳一菩薩、下野の広智禅師、萬徳菩薩(基徳の誤記か?)などの東国有力僧侶の元へ弟子康守らを派遣し密教経典の書写を依頼した。時を同じくして西国筑紫へも勧進をおこなった。この頃『弁顕密二教論』を著している。
弘仁7年(816年)6月19日、修禅の道場として高野山の下賜を請い、7月8日には、高野山を下賜する旨勅許を賜る。
翌弘仁8年(817年)、泰範や実恵ら弟子を派遣して高野山の開創に着手し、弘仁9年(818年)11月には、空海自身が勅許後はじめて高野山に登り翌年まで滞在した。弘仁10年(819年)春には七里四方に結界を結び、伽藍建立に着手した。

356:shimizu ◆Q/mpujoW3g
17/02/15 20:01:06.83 .net
この頃、『即身成仏義』『声字実相義』『吽字義』『文鏡秘府論』『篆隷万象名義』などを立て続けに執筆した。
弘仁10年(819年)7月、嵯峨天皇の勅命によって宮中の中務省に居住した(『高野雑筆集』)。
勅命の理由は不明であるが、中務省の役割から考えて詔勅などの文章作成の指導あるいは代筆を求められたと考えられ、
弘仁11年(820年)5月に『文鏡秘府論』を要約した『文筆眼心抄』を著しているのも中務省など官人の文章作成能力の向上という天皇の依頼に応えるためだったとみられている[12]。
弘仁12年(821年)、満濃池(まんのういけ、現在の香川県にある日本最大の農業用ため池)の改修を指揮して、アーチ型堤防など当時の最新工法を駆使し工事を成功に導いた。
弘仁13年(822年)、太政官符により東大寺に灌頂道場真言院建立。
この年平城上皇に潅頂を授けた。
弘仁14年(823年)正月、太政官符により東寺を賜り、真言密教の道場とした。
後に天台宗の密教を台密、対して東寺の密教を東密と呼ぶようになる。
東寺は教王護国寺の名を合わせ持つが、この名称は鎌倉時代以降に用いられる。

357:shimizu ◆Q/mpujoW3g
17/02/15 20:04:10.43 .net
天長元年(824年)2月、勅により神泉苑で祈雨法を修した。
3月には少僧都に任命され、僧綱入り(天長4年には大僧都)。
6月に造東寺別当。9月には高雄山寺が定額寺となり、真言僧14名を置き、毎年年分度者一名が許可となった。
天長5年(828年)には『綜藝種智院式并序』を著すとともに、東寺の東にあった藤原三守の私邸を譲り受けて私立の教育施設「綜芸種智院」を開設。
当時の教育は、貴族や郡司の子弟を対象にするなど、一部の人々にしか門戸を開いていなかったが、綜芸種智院は庶民にも教育の門戸を開いた画期的な学校であった。
綜芸種智院の名に表されるように、儒教・仏教・道教などあらゆる思想・学芸を網羅する総合的教育機関でもある。
『綜藝種智院式并序』において「物の興廃は必ず人に由る。人の昇沈は定んで道にあり」と、学校の存続が運営に携わる人の命運に左右される不安定なものであることを認めたうえで、
「一人恩を降し、三公力をあわせ、諸氏の英貴諸宗の大徳、我と志を同じうせば、百世継ぐを成さん」と、天皇、大臣諸侯や仏教諸宗の支持・協力のもとに運営することで恒久的な存続を図る方針を示している。
ただし、これは実現しなかったらしく、綜芸種智院は空海入滅後10年ほどで廃絶した。
現在は種智院大学および高野山大学がその流れを受け継いでいる。
天長7年(830年)、淳和天皇の勅に答え『秘密曼荼羅十住心論』十巻(天長六本宗書の一)を著し、後に本書を要約した『秘蔵宝鑰』三巻を著した。
天長8年(831年)5月末、病(悪瘡といわれている)を得て、6月大僧都を辞する旨上表するが、天皇に慰留された。
天長9年(832年)8月22日、高野山において最初の万燈万華会が修された。
空海は、願文に「虚空盡き、衆生盡き、涅槃盡きなば、我が願いも盡きなん」と想いを表している。
その後、秋より高野山に隠棲し、穀物を断ち禅定を好む日々であったと伝えられている。

358:shimizu ◆Q/mpujoW3g
17/02/15 20:08:33.55 .net
承和元年(834年)2月、東大寺真言院で『法華経』、『般若心経秘鍵』を講じた。
12月19日、毎年正月宮中において真言の修法(後七日御修法)を行いたい旨を奏上。
同29日に太政官符で許可され、同24日の太政官符では東寺に三綱を置くことが許されている。
承和2年(835年)、1月8日より宮中で後七日御修法を修す。
宮中での御修法は、明治維新による神仏分離による短期の中断をはさみ、東寺に場所を移し勅使を迎え毎年行われている。
1月22日には、真言宗の年分度者3人を申請して許可されている。
2月30日、金剛峯寺が定額寺となった。
3月15日、高野山で弟子達に遺告を与え、3月21日に入滅した。
享年62(満60歳没)。
伝真済撰[13]『空海僧都伝』によると死因は病死で、『続日本後紀』によると遺体は荼毘に付された(火葬された)ようである。
しかし後代には、入定した(即身仏となった)とする文献が現れる。
天長8年(831年)に病を得て以降の空海は、文字通り生命がけで真言密教の基盤の強化とその存続のために尽力した。
とくに承和元年(834年)12月から入滅までの3か月間は、後七日御修法が申請から10日間で許可されその10日後には修法、また年分度者を獲得し金剛峯寺を定額寺とするなど、密度の濃い活動を行った。
すべてをやり終えた後に入定、すなわち永遠の禅定に入ったとされている。
なお、空海生誕地の善通寺の産湯井戸と高野山奥ノ院(入定地)は同一緯度(東西)に並ぶ。

359:shimizu ◆Q/mpujoW3g
17/02/15 20:29:42.83 .net
風呂上り。
おやすみ。

360:shimizu ◆Q/mpujoW3g
17/02/15 20:35:24.27 .net
弘法大師[編集]

延喜21年(921年)10月27日、東寺長者観賢の奏上により、醍醐天皇から「弘法大師」の諡号が贈られた。
最初は「本覚大師」の諡号が贈られることになっていたが、「弘法利生(こうぼうりしょう)」の業績から、「弘法大師」の諡号が贈られることになった。
弘法大師は「空海」を越え、千年の時を越え、普遍化したイメージでもある。
歴史上、天皇から下賜された大師号は全27名におよぶが、一般的に大師といえばほとんどの場合弘法大師を指す。
空海を知らなくても「弘法さん」「お大師さん」を知る人は多いと言えるだろう。
真言宗では、宗祖空海を「大師」と崇敬し、その入定を死ではなく禅定に入っているものとする。
高野山奥の院御廟で空海は今も生き続けていると信じ、「南無大師遍照金剛」の称呼によって宗祖への崇敬を確認するのである。
ただし、大師の諡号を贈った立場の真言宗醍醐派、および醍醐派の系統を一部取り入れている智山派では、ときに「南無遍照金剛」と大師をつけずに呼ぶ場合がある。
故郷である四国において彼が山岳修行時代に遍歴した霊跡は、四国八十八箇所に代表されるような霊場として残り、それ以降霊場巡りは幅広く大衆の信仰を集めている。

361:shimizu ◆Q/mpujoW3g
17/02/15 20:38:38.34 .net
入定に関する諸説[編集]
高野山の人々や真言宗の僧侶の多くにとっては、高野山奥の院の霊廟において現在も空海が禅定を続けているとされており、そのように信じられている。
奥の院の維那(ゆいな)と呼ばれる仕侍僧が衣服と二時の食事を給仕している。
霊廟内の模様は維那以外が窺う事はできず、維那を務めた者も他言しないため部外者には不明のままである。
現存する資料で空海の入定に関する初出のものは、入寂後100年以上を経た康保5年(968年)に仁海が著した『金剛峰寺建立修行縁起』で、入定した空海は四十九日を過ぎても容色に変化がなく髪や髭が伸び続けていたとされる。
『今昔物語』には高野山が東寺との争いで一時荒廃していた時期、東寺長者であった観賢が霊廟を開いたという記述がある。
これによると霊廟の空海は石室と厨子で二重に守られ坐っていたという。
観賢は、一尺あまり伸びていた空海の蓬髪を剃り衣服や数珠の綻びを繕い整えた後、再び封印した。
また、入定したあとも諸国を行脚している説もあり、その証拠として、毎年3月21日に空海の衣裳を改める儀式の際、衣裳に土がついていることをあげている[14]。
以上のように肉身を留めて入定していると信じられているが、歴史学的文献には『続日本後紀』に記された淳和上皇が高野山に下した院宣に空海の荼毘式に関する件が見えること、
空海入定直後に東寺長者の実慧が青竜寺へ送った手紙の中に空海を荼毘に付したと取れる記述があることなど、火葬されたことが示唆されている。
桓武天皇の孫、高岳親王は、十大弟子のひとりとして、遺骸の埋葬に立ち会ったとされる。
後述のように空海に関しては史実に増して伝承が多く、開山伝説や開湯伝説に至っては無数にあるが、この入定伝説はその最たるものと言えよう。

362:shimizu ◆Q/mpujoW3g
17/02/15 20:41:44.95 .net
弟子[編集]
十大弟子[編集]
元慶2年(878年)11月11日に空海の弟子真雅が朝廷に言上した「本朝真言宗伝法阿闍梨師資付法次第の事」[15]によれば、空海の付法弟子は、真済、真雅、実恵、道雄、円明、真如、杲隣、泰範、智泉、忠延の10人とされる。
後に、この10人を釈迦の十大弟子になぞらえ、弘法大師(空海)十大弟子と称するようになった。
十大弟子の語の初出は慶長年間の成立とみられる頼慶『弘法大師十大弟子伝』。
その他の弟子[編集]
付法弟子とされる10人以外にも、多くの弟子の名が知られている。
貞享元年(1684年)成立の智灯『弘法大師弟子伝』は計20人、弟子すべてを網羅することをめざした天保13年刊の道猷『弘法大師弟子譜』は計70人を載せている。
『弘法大師弟子伝』(十大弟子のぞく)…堅恵、真泰、道昌、真紹、真然、如意尼、常暁、真際、真境、真体
『弘法大師弟子譜』(『弘法大師弟子伝』にない主な者)…円行、最澄、光定、円澄

363:shimizu ◆Q/mpujoW3g
17/02/15 20:47:26.09 .net
真言宗の開祖として[編集]
空海は、江戸時代を通して、お大師さんとして人々に親しまれていた。
しかし、純正の日本に仏教という外来の不純な思想を持ち込んだとして、本居宣長などによって批判された。
明治時代に入ると廃仏毀釈運動によって一時的にその評価が落ちることになった。
空海は、今もなお高野山に隠れているということから、空海が高野山に隠れてから50年ごとに「御遠忌」法要が営まれるが、明治17年(1884年)のそれは明治時代初頭であったため、上の理由から低調だったという。
そのためか、昭和9年(1934年)の1100年御遠忌は単なる宗教行事にとどまらず、大阪朝日新聞や東京日日新聞などの新聞社を巻き込んだ一大キャンペーンとなった。
このキャンペーンのなかで、かつて不純な思想を持ち込んだと批判された空海は、外来の思想を日本流に換骨奪胎して紹介し、日本文化の形成に一役買った人物として評価されるようになった。
昭和9年には、日本と中国の戦争すなわち日華事変がすでに開始しており、戦争に臨むにあたり、「英雄」という存在のもとで国民を団結させる必要があったことから、空海が再評価されたのである[16]。
日本統治時代の影響を受けてか、台湾には空海を祀る廟が存在する。
その後、昭和59年(1984年)の御遠忌までには高野山道路(当時は有料道路として開通・平成5年に国道370号・国道480号に指定される)が整備され、1150年御遠忌は参詣客が大幅に増え過去最高だった。
当時の高野山の宿坊の参籠者はどこも定員をはるかに超し、客室以外の場所でも宿泊するほどの人出であったと、高野山内寺院の関係者はいう。
これに合わせて映画「空海」(空海役:北大路欣也)が制作され、全国的な盛り上がりとなる[17]。

364:shimizu ◆Q/mpujoW3g
17/02/15 20:52:14.82 .net
書家として[編集]
書は在唐中、韓方明に学んだが、唐の地ですでに能書家として知られ、殊に王羲之や顔真卿の書風の影響を受け、また篆書、隷書、楷書、行書、草書、飛白のすべての体をよくした。
中国では五筆和尚といわれ、日本では入木道の祖と仰がれ、書流は大師流と称された不世出の能書家である。
真跡としては次のものがある。
聾瞽指帰(ろうこしいき)
『三教指帰』の初稿本に当るもので、2巻存し、入唐前、延暦16年(797年)24歳頃の書といわれる。
書はやや硬いが筆力があり、後の『風信帖』に見られる書風とは異なる。
金剛峯寺蔵。国宝。
『聾瞽指帰』から『三教指帰』への改訂については三教指帰#「聾瞽指帰」から「三教指帰」へを参照のこと。
灌頂歴名(かんじょうれきめい、『灌頂記』とも)
弘仁3年(812年)から弘仁4年(813年)にかけて、空海が高雄山寺で金剛・胎蔵両界の灌頂を授けた時の人名を記録した手記である。
処々書き直しているが、筆力、結構ともに流露している。
神護寺蔵。国宝。

365:shimizu ◆Q/mpujoW3g
17/02/15 20:57:19.32 .net
風信帖(ふうしんじょう)
国宝指定名称は『弘法大師筆尺牘(せきとく)』。
空海が最澄に送った書状3通を1巻にまとめたもので、1通目の書き出しの句に因んで『風信帖』と呼ばれる。
もとは5通あったが、1通は盗まれ、1通は豊臣秀次の所望により、天正20年(1592年)献上したことが巻末の奥書きに記されている。
現存の3通は、いずれも行草体の率意の書で、空海の書として『灌頂歴名』とともに絶品とされる。
年号は不詳であるが、弘仁3年(812年)頃とされている。
第1通目は、9月11日付で「風信雲書」の書き出し。書風は謹厳である。
第2通目は、9月13日付で「忽披枉書」の書き出し。書風は精気があり、また情緒もある。
第3通目は、9月5日付で「忽恵書礼」の書き出し。流麗な草書体である。全体は王羲之の体である。東寺蔵[18]。
崔子玉座右銘(さいしぎょく ざゆうのめい)
後漢の崔瑗の『座右銘』100字(五言二十句)を草書で2、3字ずつ、数十行に書かれたものである。
もとは白麻紙の横巻で高野山宝亀院の蔵であったが、今は同院に冒頭10字が残るだけで、ほかは諸家に分蔵され、100字中42字が現存する。
字径が12cm - 16cmもあるので古筆家は『大字切』(だいじぎれ)と称している[19][18]。
空海を含む讃岐の佐伯氏は、書と深く関わりを持っていた一族であったと考えられている。
空海の門人で同じ佐伯氏の出身である実慧は若い頃に同じ一族と思われる讃岐国多度郡出身の佐伯酒麻呂らに儒学を学んだとされている(『弘法大師弟子伝』)が、
実は酒麻呂は空海の実弟であり[20]、彼とその一族が平安時代前期において、長期に渡って書博士の地位を占めていた事が『日本三代実録』に記されている。

366:shimizu ◆Q/mpujoW3g
17/02/15 21:04:24.92 .net
文人として[編集]
空海は当代一流の文人としても知られる。
勅撰三集の一つ『経国集』に8首の詩が入集しているが、これは入集した詩人全体の中で4番目に多い[21]。
空海の著作の一つ『文鏡秘府論』は詩作法・作文法の解説書で、その序文によれば、当時、多くの若者が詩作・作文の教授を乞うため空海のもとを訪れていたらしい。
また、空海の詩文を弟子の真済が集成した『性霊集』の序文によれば、空海は詩、上表文、碑銘文、願文などあらゆる種類の文を、草稿なしですぐに書き上げるのが常であったという。
実際、『日本後紀』天長2年(825年)閏7月19日条(『類聚国史』巻177より)は、仁王会の東宮講師に配された空海が、通例では当代の著名な文人にあらかじめ作らせておく呪願文を、講説の直前に即座に書き上げたと伝えている。

367:shimizu ◆Q/mpujoW3g
17/02/15 21:27:08.52 .net
弘法大師の伝説[編集]
弘法大師に関する伝説は、北海道を除く日本各地に5,000以上あるといわれ、歴史上の空海の足跡をはるかに越えている。
柳田國男は大子(オオゴ、神の長男を意味)伝説が大師伝説に転化したという説を提出している。
また中世、日本全国を勧進して廻った遊行僧である高野聖が弘法大師と解釈されたことも有力な根拠である。
ただ、闇雲に多くの事象と弘法大師が結び付けられたわけではなく、その伝説形成の底辺には、やはり空海の幅広い分野での活躍、そして空海への尊崇があると考えられる。
弘法大師にまつわる伝説は寺院の建立や仏像などの彫刻、あるいは聖水、岩石、動植物など多岐にわたるが、特に弘法水に関する伝説は日本各地に残っている。
弘法大師が杖をつくと泉が湧き井戸や池となった、といった弘法水の伝承をもつ場所は日本全国で千数百件にのぼるといわれている[22]。
弘法水は、場所やそのいわれによって、「独鈷水」「御加持水」などと呼ばれている。

368:shimizu ◆Q/mpujoW3g
17/02/15 21:29:39.27 .net
発見したとされる温泉[編集]
弘法大師が発見したとされる温泉は、日本各地に存在する。以下にそれを記す。
あつみ温泉(山形)
大塩温泉(福島)
芦ノ牧温泉(福島)
出湯温泉(新潟)
瀬戸口温泉(新潟)
清津峡温泉(新潟)
関温泉(新潟)
燕温泉(新潟)
川場温泉(群馬)
法師温泉(群馬)
修善寺温泉(静岡)
伊豆山温泉(静岡)
湯村温泉(山梨)
鹿塩温泉(長野)
海の口温泉(長野)
赤引温泉(愛知)
龍神温泉(和歌山)
関金温泉(鳥取)
湯免温泉(山口)
千羽温泉(徳島・四国八十八か所23番札所近く)
清水温泉(徳島)
東道後温泉(愛媛)
まむし温泉(福岡)
杖立温泉(熊本)
熊の川温泉(佐賀)
波佐見温泉(長崎)
ただし上記には、後年、開湯伝説を作った際に名前が使われただけの温泉もある。
高野聖のうちには、その離農的な性格から、いわゆる山師的なものもおり、それらが温泉を探り当てた際に宗祖たる空海の名を借用したともいわれる。

369:shimizu ◆Q/mpujoW3g
17/02/15 21:33:40.01 .net
伝説・伝承[編集]
以下は弘法大師が由来とされる伝説や伝承があるものである。
平仮名
いろは歌

讃岐うどん
手こね寿司
九条葱
エツ - 日本では筑後川のみに生息する魚、絶滅危惧種
曜日
水銀鉱脈の発見
ダウジング
瀬戸大橋
見附島 (石川県)

370:shimizu ◆Q/mpujoW3g
17/02/15 21:36:52.76 .net
ことわざ・慣用句[編集]
弘法も筆の誤り
空海は嵯峨天皇からの勅命を得、大内裏應天門の額を書くことになった[23]が、「應」の一番上の点を書き忘れ、まだれをがんだれにしてしまった。
空海は掲げられた額を降ろさずに筆を投げつけて書き直したといわれている。
このことわざには、現在、「たとえ大人物であっても、誰にでも間違いはあるもの」という意味だけが残っているが、本来は「さすが大師、書き直し方さえも常人とは違う」というほめ言葉の意味も含まれている。
弘法筆を選ばず
文字を書くのが上手な人間は、筆の良し悪しを問わないという意味のことわざ。
ただし、性霊集には、よい筆を使うことができなかったので、うまく書けなかった、という、全く逆の意味の言及がある。
良い道具の選択が重要であることも世には多く、「弘法筆を選ぶ」のように全く逆に転じた言い回しもある。
護摩の灰
弘法大師が焚いた護摩の灰と称する灰を、ご利益があるといって売りつける、旅の詐欺師をいう。
後に転じて旅人の懐を狙う盗人全般を指すようになった。
生麦大豆二升五合(なまむぎだいずにしょうごんごう)
民間[どこ?]に伝わる呪文で、これを唱えれば難事を避けることができるという。
本来の字義からは離れてしまっているが、空海の御宝号「南無大師遍照金剛(なむだいしへんじょうこんごう)」が転訛したもの。

371:shimizu ◆Q/mpujoW3g
17/02/15 21:41:39.39 .net
それでは、本日の講義です。
小室直樹 - 宗教 「日本教」
URLリンク(www.youtube.com)

372:shimizu ◆Q/mpujoW3g
17/02/15 21:44:22.67 .net
初大師を、説明を、しようとしたら、
多少長くなったが、
聞けたキミラ、
ほんと、幸せ。
何げに、自分も学べた。
最澄と空海。
懐かしいね。
それじゃ、駄目なんですけどね。
( ・x・)y─┛~~~

373:shimizu ◆Q/mpujoW3g
17/02/16 09:24:04.26 .net
月齢 19.1
旧1月20日 中潮
友引 日の出6:27
甲戌 きのえいぬ
愚民の皆さま。
('-'*)オハヨ♪

374:shimizu ◆Q/mpujoW3g
17/02/16 09:27:56.86 .net
成田空港の保安検査員が大量離職した背景がネット上で話題に
資本主義の終焉に、向っているね。
それは、さておき、地震の夢を見たのなんだったのだろうか。
( ・x・)y─┛~~~

375:shimizu ◆Q/mpujoW3g
17/02/16 10:36:11.28 .net
飛行場の職員全員やめたらどうするんだろうね。
成田空港管制塔占拠事件
URLリンク(www.youtube.com)
折角、強引に推し進めたのに。
無理に反対しなくても、文化、伝統、文明が、
無意識に決めてるのかもね。
( ・x・)y─┛~~~

376:shimizu ◆Q/mpujoW3g
17/02/16 10:41:54.09 .net
成田空港倒産も時間の問題なのかな。
( ・x・)y─┛~~~

377:shimizu ◆Q/mpujoW3g
17/02/16 11:01:17.18 .net
40年目の三里塚(成田)闘争
URLリンク(www.youtube.com)

378:shimizu ◆Q/mpujoW3g
17/02/16 11:26:56.02 .net
愚民が、成田空港を利用し、幸せになれない。
そして、愚民が減る。
なるほど。
( ・x・)y─┛~~~

379:shimizu ◆Q/mpujoW3g
17/02/16 11:49:48.79 .net
成田空港、第三terminalが走りたくなる?
まぁ、おれにはよくわからん世界ですね。
(´ー`)y-~~

380:shimizu ◆Q/mpujoW3g
17/02/16 13:45:44.94 .net
昼寝してた。
('-'*)オハヨ♪
くそ眠い、
午後の日差しは、
いかがなものかな。
('0')/ハイ!

381:shimizu ◆Q/mpujoW3g
17/02/16 14:02:19.30 .net
丈夫な、如雨露が
欲しいなぁ。

382:shimizu ◆Q/mpujoW3g
17/02/16 15:45:09.97 .net
潅水。
耕耘。
疲れた。

383:shimizu ◆Q/mpujoW3g
17/02/16 15:48:24.37 .net
それでは、本日の講義です。
千思万考の一端を!西部邁ゼミナール 2013年10月5日放送
URLリンク(www.youtube.com)
2013/10/14 に公開
黒鉄ヒロシ×佐伯啓思×西部邁歴史についての千思万考の一端を―司馬史観をめぐって
今回は、歴漫つまり歴史漫画というジャンルを構築しつつある黒鉄ヒロシ先生をお招きし、京都大学教授にして思想家であられる佐伯啓思をお相手に、歴史哲学について語ります。
歴史の危機的な場面に登場した幾人もの人間の肖像画が、当時の状況を描写する黒鉄歴画の魅力とは・・・。
□黒鉄ヒロシ・漫画家×佐伯啓思・思想家が語る歴史哲学
□東京オリンピックで捨て去られた歴史
□武士道と士道とはどう違うのか?
□明治維新で国際化、近代化がはじまって良かったのか
□歴史を少しずつ忘却したのは明治維新のころではなかったか
□歴史の危機における人間から学び近代を顧みる

384:shimizu ◆Q/mpujoW3g
17/02/16 17:52:26.87 .net
気温差で風邪ひいても、
知らんよ。
だる過ぎる。

385:shimizu ◆Q/mpujoW3g
17/02/16 17:54:37.46 .net
腰にリボン稲田朋美防衛相 強面のはずがガーリーな実態に違和感
みんな、迷走してるのかな?
( ・x・)y─┛~~~

386:shimizu ◆Q/mpujoW3g
17/02/16 17:55:26.79 .net
一日 初詣
二日 初夢・書初め
五日 初水天宮
七日 七草
八日 初薬師
十日 十日えびす 初金毘羅
11日 鏡開き
15日 小正月
16日 薮入り
17日 土用
18日 初観音
20日 二十日正月
21日 初大師
24日 初地蔵
25日 初天宮
28日 初不動・旧元旦

387:shimizu ◆Q/mpujoW3g
17/02/16 17:59:19.89 .net
地蔵菩薩(じぞうぼさつ)は、仏教の信仰対象である菩薩の一尊。
サンスクリット語ではクシティガルバ(क्षितिघर्भ [Kṣitigarbha])と言う[1]。
クシティは「大地」、ガルバは「胎内」「子宮」の意味で、意訳して「地蔵」としている。
また持地、妙憧、無辺心とも訳される。
三昧耶形は如意宝珠と幢幡(竿の先に吹き流しを付けた荘厳具)、錫杖。種字は ह (カ、ha)。
大地が全ての命を育む力を蔵するように、苦悩の人々をその無限の大慈悲の心で包み込み、救う所から名付けられたとされる。
日本における民間信仰では道祖神としての性格を持つと共に、「子供の守り神」として信じられており[2]、よく子供が喜ぶ菓子が供えられている。
一般的に、親しみを込めて「お地蔵さん」、「お地蔵様」と呼ばれる。

388:shimizu ◆Q/mpujoW3g
17/02/16 18:02:31.83 .net
菩薩の居所は空居天である兜率天とされるが、地蔵菩薩は地居天である忉利天に在って釈迦仏の付属を受け、毎朝禅定に入りて衆生の機根(性格や教えを聞ける器)を感じ[要出典]、
釈迦の入滅後、56億7000万年後に弥勒菩薩が出現するまでの間、現世に仏が不在となってしまうため、その間、六道(地獄道・餓鬼道・畜生道・修羅道・人道・天道)を輪廻する衆生を救う菩薩であるとされる。
虚空蔵菩薩と地蔵菩薩が一対で安置される例は京都・広隆寺(講堂)などにあるが、一般的ではない。
皆さん、56億年後、何をしてるのですか?
( ・x・)y─┛~~~

389:shimizu ◆Q/mpujoW3g
17/02/16 18:05:07.93 .net
像容[編集]
一般には剃髪した声聞・比丘形(僧侶の姿)で白毫があり、袈裟を身にまとう。
装身具は身に着けないか、着けていても瓔珞(ネックレス)程度。
左手に如意宝珠、右手に錫杖を持つ形、または左手に如意宝珠を持ち、右手は与願印(掌をこちらに向け、下へ垂らす)の印相をとる像が多い(この場合、伝統的に彫像であることが多く画像はまれである)。
しかし密教では胎蔵曼荼羅地蔵院の主尊として、髪を高く結い上げ装身具を身に着けた通常の菩薩形に表され、右手は右胸の前で日輪を持ち、左手は左腰に当てて幢幡を乗せた蓮華を持つ(この場合、絵画で表現されることが多い)。

390:shimizu ◆Q/mpujoW3g
17/02/16 18:07:15.39 .net
功徳利益[編集]
地蔵菩薩本願経には、善男善女のための二十八種利益[3]と天龍鬼神のための七種利益[4]が説かれている。
二十八種利益
天龍護念(天龍が保護してくれる)
善果日増(善い行いの果報が日々増していく)
集聖上因(悟りの境地へ至る因縁が集まってくる)
菩提不退(悟りの境地から後退しない)
衣食豊足(衣服や食物に満ち足りる)
疾疫不臨(疫病にかからない)
離水火災(水難や火災を免れる)
無盗賊厄(盗賊による災厄に遭わない)
人見欽敬(人々が敬意を払って見てくれる)
神鬼助持(神霊が助けてくれる)
女転男身(女性から男性になれる[5])
為王臣女(王や大臣の令嬢になれる)
端正相好(端正な容貌に恵まれる)
多生天上(天界に生まれ変わることが多い)
或為帝王(あるいは人間界に生まれ変わって帝王になる)
宿智命通(過去世〈宿命、しゅくみょう〉を知る智慧を持ち、過去世に通ずる)
有求皆従(要求があれば皆が従ってくれる)
眷属歓楽(眷属が喜んでくれる)
諸横消滅(諸々の理不尽なことが消滅していく)
業道永除(地獄などの悪い場所に生まれ変わらせる業道(karma-patha)が永く除かれる)
去処盡通(赴く場所にうまくいく)
夜夢安楽(安らかな夢を見る)
先亡離苦(先祖が苦しみから解放される)
宿福受生(過去になした善行によって良い生まれを受ける)
諸聖讃歎(諸聖人が讃えてくれる)
聰明利根(聡明で利発になる)
饒慈愍心(慈悲の心に溢れる)
畢竟成佛(必ず仏になる)

391:shimizu ◆Q/mpujoW3g
17/02/16 18:10:10.34 .net
七種利益
速超聖地(速やかに聖地を超える)
悪業消滅(悪いカルマが消滅する)
諸佛護臨(諸々の仏が護ってくれる)
菩提不退(悟りの境地から後退しない)
増長本力(本来持っていた能力が増幅される)
宿命皆通(過去世の全てに通ずる)
畢竟成佛(必ず仏になる)

392:shimizu ◆Q/mpujoW3g
17/02/16 18:14:14.54 .net
中国における地蔵信仰[編集]
偽経とされる『閻羅王授記四衆逆修生七往生浄土経』(預修十王生七経)や『地蔵菩薩発心因縁十王経』(地蔵十王経)によって、道教の十王思想と結びついて、
中国においては地蔵菩薩が閻魔または十王の一尊としての閻魔王と同一の存在であるという信仰が広まった。
閻魔王は地蔵菩薩として人々の様子を事細かに見ているため、綿密に死者を裁くことができるとされ、泰山王とともに十王の中心に据えられた。
このため中国においては地藏王菩薩と呼ばれ、主に死後の(地獄からの)救済を願って冥界の教主として信仰される。
日本の神奈川県横浜市中区にも、死者の永眠を祀る地藏王廟(中華義荘)が華僑によって建立されている。
明の民間説話である『西遊記』でも冥界を司る地藏王菩薩が孫悟空(斉天大聖)の暴れっぷりを地獄から天の玉皇大帝に上奏する場面が描かれている。
地藏王菩薩の聖地は、安徽省にある九華山である。
これは、新羅の地蔵という僧(696年 - 794年、俗名金喬覚、俗姓と法名を連ねて、金和尚あるいは金地蔵とも呼ばれる)が、この地にある化城寺に住したことに因むものである。
齢99で、この地で入滅した地蔵は、3年後に棺を開いて塔に奉安しようとしたところ、その顔貌が生前と全く変わることがなかったことなどから、地蔵を地藏王菩薩と同一視する信仰が生まれ、その起塔の地が地藏王菩薩の聖地となったものである。
その故事によって、文殊菩薩の五台山、普賢菩薩の峨眉山、観音菩薩の普陀山と並ぶ中国仏教の聖地(中国四大仏教名山)として、今日まで信仰を集めている。

393:shimizu ◆Q/mpujoW3g
17/02/16 18:17:17.03 .net
日本における地蔵信仰[編集]
日本においては、浄土信仰が普及した平安時代以降、極楽浄土に往生の叶わない衆生は、必ず地獄へ堕ちるものという信仰が強まり、地蔵に対して、地獄における責め苦からの救済を欣求するようになった。
姿は出家僧の姿が多く、地獄・餓鬼・修羅など六道をめぐりながら、人々の苦難を身代わりとなり受け救う、代受苦の菩薩とされた。
際立って子供の守護尊とされ、「子安地蔵」と呼ばれる子供を抱く地蔵菩薩もあり、また小僧姿も多い。
賽の河原で獄卒に責められる子供を地蔵菩薩が守る姿は、中世より仏教歌謡「西院河原地蔵和讃」を通じて広く知られるようになり、子供や水子の供養において地蔵信仰を集めた。
関西では地蔵盆は子供の祭りとして扱われる。
また道祖神(岐の神)と習合したため、日本全国の路傍で石像が数多く祀られた。

394:shimizu ◆Q/mpujoW3g
17/02/16 18:19:43.52 .net
六地蔵[編集]
日本では、地蔵菩薩の像を6体並べて祀った六地蔵像が各地で見られる。
これは、仏教の六道輪廻の思想(全ての生命は6種の世界に生まれ変わりを繰り返すとする)に基づき、六道のそれぞれを6種の地蔵が救うとする説から生まれたものである。
六地蔵の個々の名称については一定していない。
地獄道、餓鬼道、畜生道、修羅道、人道、天道の順に檀陀(だんだ)地蔵、宝珠地蔵、宝印地蔵、持地地蔵、除蓋障(じょがいしょう)地蔵、日光地蔵と称する場合と、
それぞれを金剛願地蔵、金剛宝地蔵、金剛悲地蔵、金剛幢地蔵、放光王地蔵、預天賀地蔵と称する場合が多いが、文献によっては以上のいずれとも異なる名称を挙げている物もある。
像容は合掌のほか、蓮華、錫杖、香炉、幢、数珠、宝珠などを持物とするが、持物と呼称は必ずしも統一されていない。
日本では、六地蔵像は墓地の入口などにしばしば祀られている。
中尊寺金色堂には、藤原清衡・基衡・秀衡の遺骸を納めた3つの仏壇のそれぞれに6体の地蔵像が安置されているが、各像の姿はほとんど同一である。

395:shimizu ◆Q/mpujoW3g
17/02/16 18:19:43.56 .net
六地蔵[編集]
日本では、地蔵菩薩の像を6体並べて祀った六地蔵像が各地で見られる。
これは、仏教の六道輪廻の思想(全ての生命は6種の世界に生まれ変わりを繰り返すとする)に基づき、六道のそれぞれを6種の地蔵が救うとする説から生まれたものである。
六地蔵の個々の名称については一定していない。
地獄道、餓鬼道、畜生道、修羅道、人道、天道の順に檀陀(だんだ)地蔵、宝珠地蔵、宝印地蔵、持地地蔵、除蓋障(じょがいしょう)地蔵、日光地蔵と称する場合と、
それぞれを金剛願地蔵、金剛宝地蔵、金剛悲地蔵、金剛幢地蔵、放光王地蔵、預天賀地蔵と称する場合が多いが、文献によっては以上のいずれとも異なる名称を挙げている物もある。
像容は合掌のほか、蓮華、錫杖、香炉、幢、数珠、宝珠などを持物とするが、持物と呼称は必ずしも統一されていない。
日本では、六地蔵像は墓地の入口などにしばしば祀られている。
中尊寺金色堂には、藤原清衡・基衡・秀衡の遺骸を納めた3つの仏壇のそれぞれに6体の地蔵像が安置されているが、各像の姿はほとんど同一である。

396:shimizu ◆Q/mpujoW3g
17/02/16 18:22:22.68 .net
勝軍地蔵
愛宕権現の本地仏。
大宝年間、役小角が白山修験の開祖とされる泰澄と山城国愛宕山に登ったとき、龍樹菩薩、富楼那尊者、毘沙門天、愛染明王を伴い大雷鳴とともに現れ、天下万民の救済を誓った地蔵菩薩が、勝軍地蔵であったという伝承が残る。
また、敏達天皇の御代、日羅が勝軍地蔵を護持したとされ、さらに『元亨釈書』には清水寺の延鎮が勝軍地蔵と勝敵毘沙門天の両尊に坂上田村麻呂の戦勝祈願を行ったことが記されている。
しかしながら、儀軌などが現存せず、延鎮が行ったとされる修法を初め、固有の尊容も明確でない。
『地蔵本願経』『十輪経』『陀羅尼集経』にある「煩悩の賊、天魔の軍に勝つ」、「軍陣闘戦に際して、難を免れる」などの記述が、この尊を感得する依拠とされたと考えられている。
幡(軍旗)や剣などを持ち、甲冑姿であることは共通するが、踏割蓮華に立つ立像と、神馬にまたがる騎馬像とが存在する。

397:shimizu ◆Q/mpujoW3g
17/02/16 18:22:22.91 .net
勝軍地蔵
愛宕権現の本地仏。
大宝年間、役小角が白山修験の開祖とされる泰澄と山城国愛宕山に登ったとき、龍樹菩薩、富楼那尊者、毘沙門天、愛染明王を伴い大雷鳴とともに現れ、天下万民の救済を誓った地蔵菩薩が、勝軍地蔵であったという伝承が残る。
また、敏達天皇の御代、日羅が勝軍地蔵を護持したとされ、さらに『元亨釈書』には清水寺の延鎮が勝軍地蔵と勝敵毘沙門天の両尊に坂上田村麻呂の戦勝祈願を行ったことが記されている。
しかしながら、儀軌などが現存せず、延鎮が行ったとされる修法を初め、固有の尊容も明確でない。
『地蔵本願経』『十輪経』『陀羅尼集経』にある「煩悩の賊、天魔の軍に勝つ」、「軍陣闘戦に際して、難を免れる」などの記述が、この尊を感得する依拠とされたと考えられている。
幡(軍旗)や剣などを持ち、甲冑姿であることは共通するが、踏割蓮華に立つ立像と、神馬にまたがる騎馬像とが存在する。

398:shimizu ◆Q/mpujoW3g
17/02/16 18:24:38.06 .net
地蔵菩薩に関する伝承[編集]
古代インド王の転生[編集]
過去久遠の昔、インドに大変慈悲深い2人の王がいた。
一人は自らが仏となることで人を救おうと考え、一切智威(成就)如来という仏になった。
だが、もう一人の王は仏になる力を持ちながら、あえて仏となることを拒否し、自らの意で人の身のまま地獄に落ち、すべての苦悩とさ迷い続ける魂を救おうとした。
それが地蔵菩薩である。
地蔵菩薩の霊験は膨大にあり、人々の罪業を滅し成仏させるとか、苦悩する人々の身代わりになって救済するという説話が多い。

399:shimizu ◆Q/mpujoW3g
17/02/16 18:27:28.56 .net
子供の守護・救済[編集]
菩薩は如来に次ぐ高い見地であるが、地蔵菩薩は「一斉衆生済度の請願を果たさずば、我、菩薩界に戻らじ」との決意でその地位を退し、六道を自らの足で行脚して、救われない衆生、親より先に世を去った幼い子供の魂を救って旅を続ける。
幼い子供が親より先に世を去ると、親を悲しませ親孝行の功徳も積んでいないことから、三途の川を渡れず、賽の河原で鬼のいじめに遭いながら石の塔婆作りを永遠に続けなければならないとされ、
賽の河原に率先して足を運んでは鬼から子供達を守ってやり、仏法や経文を聞かせて徳を与え、成仏への道を開いていく逸話は有名である。
このように、地蔵菩薩は最も弱い立場の人々を最優先で救済する菩薩であることから、古来より絶大な信仰の対象となった。

400:shimizu ◆Q/mpujoW3g
17/02/16 18:29:43.18 .net
施餓鬼法要との関係[編集]
また後年になると、地蔵菩薩の足下には餓鬼界への入口が開いているとする説が広く説かれるようになる。
地蔵菩薩像に水を注ぐと、地下で永い苦しみに喘ぐ餓鬼の口にその水が入る。
仏教上における餓鬼は、生前嘘を他言した罪で燃える舌を持っており、口に入れた飲食物は炎を上げて燃え尽き飲み食いすることは出来ないが、
地蔵菩薩の慈悲を通した水は餓鬼の喉にも届き、暫くの間苦しみが途切れると言われている(その間に供養を捧げたり、徳の高い経文を聞かせたりして成仏を願うのが、施餓鬼の法要の一端でもある)。
これは六道全てに隔てなく慈悲を注ぐと言われる地蔵菩薩の功徳を表す説であり、施餓鬼法要と地蔵菩薩は深い関係として成立していった。
仏教上では、非道者で仏法を否定、誹謗する者を一闡提(略して闡提)というが、これには単に「成仏し難い者」という意味もあることから、
一切の衆生を救う大いなる慈悲の意志で、あえて成仏を取り止めた地蔵菩薩や観音菩薩のような菩薩を「大悲闡提」と称し、通常の闡提とは明確に区別する。

401:shimizu ◆Q/mpujoW3g
17/02/16 18:29:43.22 .net
施餓鬼法要との関係[編集]
また後年になると、地蔵菩薩の足下には餓鬼界への入口が開いているとする説が広く説かれるようになる。
地蔵菩薩像に水を注ぐと、地下で永い苦しみに喘ぐ餓鬼の口にその水が入る。
仏教上における餓鬼は、生前嘘を他言した罪で燃える舌を持っており、口に入れた飲食物は炎を上げて燃え尽き飲み食いすることは出来ないが、
地蔵菩薩の慈悲を通した水は餓鬼の喉にも届き、暫くの間苦しみが途切れると言われている(その間に供養を捧げたり、徳の高い経文を聞かせたりして成仏を願うのが、施餓鬼の法要の一端でもある)。
これは六道全てに隔てなく慈悲を注ぐと言われる地蔵菩薩の功徳を表す説であり、施餓鬼法要と地蔵菩薩は深い関係として成立していった。
仏教上では、非道者で仏法を否定、誹謗する者を一闡提(略して闡提)というが、これには単に「成仏し難い者」という意味もあることから、
一切の衆生を救う大いなる慈悲の意志で、あえて成仏を取り止めた地蔵菩薩や観音菩薩のような菩薩を「大悲闡提」と称し、通常の闡提とは明確に区別する。

402:shimizu ◆Q/mpujoW3g
17/02/16 18:32:14.08 .net
道祖神との関係[編集]
なすあり地蔵菩薩。1954年(昭和29年)水道工事の際、白川の川底から掘り出された。
以降この地に祀られている。
京都市東山区白川北通。
先に述べた「六地蔵」とは六道それぞれを守護する立場の地蔵尊であり、他界への旅立ちの場である葬儀場や墓場に多く建てられた。
また道祖神信仰と結びつき、町外れや辻に「町の結界の守護神」として建てられることも多い。
これを本尊とする祭りとして地蔵盆がある。
また道祖神のことをシャグジともいうことから、シャグジに将軍の字を当て、道祖神と習合した地蔵を将軍地蔵(勝軍とも書く)とも呼ぶようになった。

403:shimizu ◆Q/mpujoW3g
17/02/16 18:52:59.14 .net
ポスターは「スマホの時間 わたしは何を失うか」と問いかけ、「睡眠時間」「学力」「脳機能」
「体力」「視力」「コミュニケーション能力」の六つを挙げている。それぞれ文部科学省のデータや
イラストなどを使って解説。学力に関しては、全国学力・学習状況調査(2014年度)で、
小中学校とも普段スマホや携帯電話の利用時間が長い人ほど平均正答率が低い傾向がみられた。

404:shimizu ◆Q/mpujoW3g
17/02/16 18:56:00.99 .net
次、ブロッコリーは、成長するかな。
小さい、花蕾は、付き始めているんですけどね。
( ・x・)y─┛~~~

405:shimizu ◆Q/mpujoW3g
17/02/16 19:51:00.90 .net
天(てん)は、仏教の世界観の中で、神々や天人が住むとされる最上位の世界。
天界(てんかい、てんがい)、天道(てんどう)、天上界(てんじょうかい、てんじょうがい)、天上道(てんじょうどう)。
サンスクリットではデーヴァローカ (devaloka, deva loka)。
天の住人を意味するデーヴァ (देव, deva) も天と訳されることがある(あるいは天部、天神、天人、天部神)。
天の住人(天人)一般についてはここで併せて述べるが、信仰の対象としての仏教の神々については天部も参照。
なお、女性の天人を天女ともいう。

406:shimizu ◆Q/mpujoW3g
17/02/16 19:52:54.80 .net
六道の中の天[編集]
天道は、六道の最上位である(この文脈では天道と訳すことが多い)。
そのすぐ下位が人の住む人道である。
天人は長寿で、空を飛ぶなどの神通力が使える。
また、快楽に満ち、苦しみはない。
ただし、天道はあくまで輪廻の舞台である六道の1つであり、天人も衆生にすぎない。
天人は不死ではなく(天人が死ぬ前には天人五衰という兆しが現れる)、死ねば他の衆生同様、生前の行いから閻魔が決めた六道のいずれかに転生する。
天人は悟りを開いてはおらず、煩悩から解放されていない。
悟りを開いたものは仏陀であり、輪廻から解放され六道に属さない涅槃(浄土、極楽)へと行く。
現在の大乗仏教では人道の下に阿修羅が住む阿修羅道が位置するが、初期仏教では六道のうち阿修羅道がなく五趣とされ、阿修羅は天に住んでいた。
天台宗では六道の上に仏陀が属する仏界などの四聖を加え十界とするため、その上から第5位が天界となる。

407:shimizu ◆Q/mpujoW3g
17/02/16 19:53:54.19 .net
三界の中の天[編集]
三界も六道と同じく、輪廻の舞台となる世界の分類だが、分け方が異なる。
三界のうち上2つの無色界・色界と、最下位の欲界のうち上部の六欲天が、天に相当する。
天の分類[編集]
天はより細かく分けられる。
以下で上位から述べる28天が、日本の大乗仏教では標準的である。
これらの天の名の多くは、世界と同時に、その世界の住人をも意味する。
また、「~天」の「天」は省略されることもある。

408:shimizu ◆Q/mpujoW3g
17/02/16 20:23:57.55 .net
風呂上り。
おやすみ。

409:shimizu ◆Q/mpujoW3g
17/02/16 20:23:57.79 .net
風呂上り。
おやすみ。

410:shimizu ◆Q/mpujoW3g
17/02/16 20:29:33.36 .net
初天神(はつてんじん)
その年の最初の天神(菅原道真)を祀る神社(天満宮・天神社)の縁日。1月25日。
『初天神』(はつてんじん)は、古典落語の演目。
元々は上方落語の演目の一つである。
毎年1月25日に天満宮で行なわれる年の初めの祭りに出かけた、父親と息子の絆を描いている。
松富久亭松竹の作と伝わっており、3代目三遊亭圓馬が大正期に東京落語に移植した。
また、上方落語でもこの演目は演じられ続けている。
正月に好んで披露される作品である。
息子に振り回されて困惑気味の父を、やや冷めた目線でシニカルかつ風刺的に描いている。
またそれぞれのエピソードごとにオチがあり、どの箇所でもサゲられるようになっていて、時間調整が効く噺という利点もある。
このため最後のエピソードまで演じられることはそれほど多くはない。

411:shimizu ◆Q/mpujoW3g
17/02/16 20:32:26.24 .net
天宮じゃなく、天神でした。

412:shimizu ◆Q/mpujoW3g
17/02/16 20:33:08.90 .net
物語[編集]
良く晴れた1月25日、男が天満宮に参拝に出掛けようとした。
すると、女房が息子も連れて行ってくれと頼む。
男は、息子が物を買ってくれとうるさくせがむのが分かっており、乗り気ではなかった。
しかし、折悪しく、外から息子が帰ってくる。
男は、どうしても付いて行きたいと懇願する息子をつっぱねる。
すると、ヘソを曲げた息子は、隣の親父の家へ出かけて行く。
『面白い話聞きたくな~い? あのね、昨日の夜の、うちのおとっつぁんとおっかさんの、おはなし』男は、そんなことを外で話されてはたまらないと、大慌てで息子を連れ戻し、しぶしぶ初天神に連れて行くのだった。
天満宮への道を歩きながら、父は息子に買い物をねだるなと念を押す。
しかし、息子は「ね、おとっつぁん、今日はおいらあれ買ってくれーこれ買ってくれーっておねだりしないでいい子でしょ」「ああ、いい子だよ」「ねっ。いい子でしょ。ごほうびに何か買っておくれよ!」
これでは、いつもと同じである。
息子がさまざまな果物を買えと催促するが、父は「体に毒だから」と無理な理屈で拒否する。
しかし、息子が余りにうるさいので口塞ぎのために、やむを得ず飴玉を買うことにした。
店先で売り物の飴を散々ねぶり回して吟味する父に、飴屋の親父もあきれ顔。
飴を買ってもらって御機嫌の息子は、飴を舐めながら歌を歌う。

413:shimizu ◆Q/mpujoW3g
17/02/16 20:33:32.53 .net
二人は天満宮の参拝を終えた。
息子は、凧を買ってくれるよう催促する。
「あの1番大きいのがいい」「馬鹿だな、ありゃあ店の看板だい」「売り物ですよ。坊ちゃん、買ってくんなきゃあすこの水溜りに飛び込んで着物汚しちまうってお言いなさい」
「変な入れ知恵すんねえ!」父は、しぶしぶ凧を買い、天満宮の隣にある空き地に息子を連れて行く。
男は、凧揚げは子供時代に腕に覚えがあったこたを息子に自慢し、まず自分がと凧を揚げる。
そのうち、男は、すっかり夢中になってしまい、息子が「凧を揚げさせてくれ」と脇から催促するのに対して、「うるせえっ! こんなもなァ、子供がするもんじゃねえんだい!」と一喝して凧を渡そうとしない。
息子は、無邪気に遊ぶ父の姿を見て、「こんなことなら、親父なんか連れてくるんじゃなかった」とぼやくのだった。

414:shimizu ◆Q/mpujoW3g
17/02/16 20:35:46.22 .net
息子の造形[編集]
息子を非常に生意気な悪餓鬼として描く落語家(桂南光など)もいるが、反対に天使の様に無邪気で可愛い子供として描く落語家もいる。
演者によって、息子の人格が著しく異なる。
団子[編集]
父が息子に団子を買い与える場面もある。
先に父が団子を散々舐めて、蜜を舐め終えた団子を息子に渡す。
この場面を、汚くて不快であり、話すべきではないとする意見もあり、この部分を割愛する落語家も多い。
また、その逆にすっかり舐め終えた団子をまた蜜壷に漬けて子供に渡す場面までを面白おかしく演じ、そこでオチにつなげてしまう落語家も多い。

415:shimizu ◆Q/mpujoW3g
17/02/16 20:35:46.33 .net
息子の造形[編集]
息子を非常に生意気な悪餓鬼として描く落語家(桂南光など)もいるが、反対に天使の様に無邪気で可愛い子供として描く落語家もいる。
演者によって、息子の人格が著しく異なる。
団子[編集]
父が息子に団子を買い与える場面もある。
先に父が団子を散々舐めて、蜜を舐め終えた団子を息子に渡す。
この場面を、汚くて不快であり、話すべきではないとする意見もあり、この部分を割愛する落語家も多い。
また、その逆にすっかり舐め終えた団子をまた蜜壷に漬けて子供に渡す場面までを面白おかしく演じ、そこでオチにつなげてしまう落語家も多い。

416:shimizu ◆Q/mpujoW3g
17/02/16 20:37:56.31 .net
菅原道真(すがわら の みちざね / みちまさ / どうしん、承和12年6月25日(845年8月1日) - 延喜3年2月25日(903年3月26日))は、日本の平安時代の貴族、学者、漢詩人、政治家。
参議・菅原是善の三男。
官位は従二位・右大臣。贈正一位・太政大臣。
忠臣として名高く、宇多天皇に重用されて寛平の治を支えた一人であり、醍醐朝では右大臣にまで昇った。
しかし、左大臣藤原時平に讒訴(ざんそ)され、大宰府へ大宰員外帥として左遷され現地で没した。
死後天変地異が多発したことから、朝廷に祟りをなしたとされ、天満天神として信仰の対象となる。
現在は学問の神として親しまれる。
小倉百人一首では菅家。

417:shimizu ◆Q/mpujoW3g
17/02/16 20:41:24.35 .net
喜光寺(奈良市)の寺伝によれば、道真は現在の奈良市菅原町周辺で生まれたとされる。
ほかにも菅大臣神社(京都市下京区)説、菅原院天満宮神社(京都市上京区)説、吉祥院天満宮(京都市南区)説、菅生寺(奈良県吉野郡吉野町)、菅原天満宮(島根県松江市)説もあるため、本当のところは定かではないとされている。
また、余呉湖(滋賀県長浜市)の羽衣伝説では「天女と地元の桐畑太夫の間に生まれた子が菅原道真であり、近くの菅山寺で勉学に励んだ」と伝わる。
道真は幼少より詩歌に才を見せ、貞観4年(862年)18歳で文章生となる。
貞観9年(867年)には文章生のうち2名が選ばれる文章得業生となり、正六位下・下野権少掾に叙任される。
貞観12年(870年)方略試に中の上で合格し、位階を進め、正六位上となった。
玄蕃助・少内記を経て、貞観16年(874年)従五位下に叙爵し、兵部少輔ついで民部少輔に任ぜられた。
元慶元年(877年)式部少輔次いで世職である文章博士を兼任する。
元慶3年(879年)従五位上。
元慶4年(880年)父・菅原是善の没後は、祖父・菅原清公以来の私塾である菅家廊下を主宰、朝廷における文人社会の中心的な存在となった。
仁和2年(886年)讃岐守を拝任、式部少輔兼文章博士を辞し、任国へ下向。
仁和4年(888年)阿衡事件に際して、入京して藤原基経に意見書を寄せて諌めたことにより、事件を収める。寛平2年(890年)任地より帰京した。
これまでは家格に応じた官職についていたが、宇多天皇の信任を受けて、以後要職を歴任することとなる。
皇室の外戚として権勢を振るっていた関白・藤原基経亡き後の藤原氏にまだ有力者がいなかったこともあり、宇多天皇は道真を用いて藤原氏を牽制した。

418:shimizu ◆Q/mpujoW3g
17/02/16 20:46:03.90 .net
寛平3年(891年)蔵人頭に補任し、式部少輔と左中弁を兼務。
翌年従四位下に叙せられ、寛平5年(893年)には参議兼式部大輔(まもなく左大弁を兼務)に任ぜられ、公卿に列した。
寛平6年(894年)遣唐大使に任ぜられるが、唐の混乱や日本文化の発達を理由とした道真の建議により遣唐使は停止される。
なお、延喜7年(907年)に唐が滅亡したため、遣唐使の歴史はここで幕を下ろすこととなった。
寛平7年(895年)参議在任2年半にして、先任者3名(藤原国経・藤原有実・源直)を越えて従三位・権中納言に叙任。
またこの間、寛平8年(896年)長女衍子を宇多天皇の女御とし、寛平9年(897年)には三女寧子を宇多天皇の皇子・斉世親王の妃とするなど、皇族との間で姻戚関係の強化も進めている。
宇多朝末にかけて、左大臣の源融や藤原良世、宇多天皇の元で太政官を統率する一方で道真とも親交があった右大臣の源能有ら大官が相次いで没した後、
寛平9年(897年)6月に藤原時平が大納言兼左近衛大将、道真は権大納言兼右近衛大将に任ぜられ、この両名が太政官のトップに並ぶ体制となる。
7月に入ると宇多天皇は醍醐天皇に譲位したが、道真を引き続き重用するよう強く醍醐天皇に求め、藤原時平と道真にのみ官奏執奏の特権を許した[注釈 1]。
醍醐天皇の治世でも道真は昇進を続けるが、道真の主張する中央集権的な財政に、朝廷への権力の集中を嫌う藤原氏などの有力貴族の反撥が表面化するようになった。
また、現在の家格に応じたそれなりの生活の維持を望む中下級貴族の中にも道真の進める政治改革に不安を感じて、この動きに同調するものがいた。

419:shimizu ◆Q/mpujoW3g
17/02/16 20:49:06.12 .net
昌泰2年(899年)右大臣に昇進して、時平と道真が左右大臣として肩を並べた。
しかし、儒家としての家格を超えて大臣に登るという道真の破格の昇進に対して妬む廷臣も多く、翌昌泰3年(900年)には文章博士・三善清行が道真に止足を知り引退して生を楽しむよう諭すが、道真はこれを容れなかった[注釈 2]。
昌泰4年(901年)正月に従二位に叙せられたが、間もなく醍醐天皇を廃立して娘婿の斉世親王を皇位に就けようと謀ったと誣告され、罪を得て大宰員外帥に左遷される。
宇多上皇はこれを聞き醍醐天皇に面会してとりなそうとしたが、醍醐天皇は面会しなかった。
また、長男の高視を初め、子供4人が流刑に処された(昌泰の変)。
この事件の背景については、時平による全くの讒言とする説から宇多上皇と醍醐天皇の対立が実際に存在していて、道真が巻き込まれたとする説まで諸説ある。
左遷後は大宰府浄妙院で謹慎していたが、延喜3年(903年)2月25日に大宰府で薨去し、安楽寺に葬られた。
享年59。
道真が京の都を去る時に詠んだ「東風(こち)吹かば 匂ひをこせよ 梅の花 主なしとて 春な忘れそ」は有名。
その梅が、京の都から一晩にして道真の住む屋敷の庭へ飛んできたという「飛梅伝説」も有名である。

420:shimizu ◆Q/mpujoW3g
17/02/16 20:53:18.02 .net
家系[編集]
父は菅原是善、母は伴氏。
菅原氏は、道真の曾祖父菅原古人のとき土師(はじ)氏より氏を改めたもの。
祖父菅原清公と父はともに大学頭・文章博士に任ぜられ侍読も務めた学者の家系であり、当時は中流の貴族であった。
母方の伴氏は、大伴旅人、大伴家持ら高名な歌人を輩出している[注釈 6]。
正室は島田宣来子(島田忠臣の娘)。
子は長男・高視や五男・淳茂をはじめ男女多数。
子孫もまた学者の家として長く続き、特に高視の子孫は中央貴族として残り、高辻家・唐橋家をはじめ6家の堂上家(半家)を輩出した。
高辻家からは明治時代に、西高辻家が別家し、太宰府天満宮の社家として現代に至る。
高視の曾孫・道真五世の孫が孝標で、その娘菅原孝標女(『更級日記』の作者)は道真の六世の孫に当たる。

421:shimizu ◆Q/mpujoW3g
17/02/16 20:55:45.06 .net
事績・作品[編集]
百人一首 菅家(菅原道真)
このたびは幣もとりあへず手向山もみぢの錦神のまにまに
著書には自らの詩、散文を集めた『菅家文草』全12巻(昌泰3年、900年)、大宰府での作品を集めた『菅家後集』(延喜3年、903年頃)[6][7]、編著に『類聚国史』がある。
日本紀略に寛平5年(893年)、宇多天皇に『新撰万葉集』2巻を奉ったとあり、現存する、宇多天皇の和歌とそれを漢詩に翻案したものを対にして編纂した『新撰万葉集』2巻の編者と一般にはみなされるが、これを道真の編としない見方もある。
私歌集として『菅家御集』などがあるが、後世の偽作を多く含むとも指摘される。
『古今和歌集』に2首が採録されるほか、「北野の御歌」として採られているものを含めると35首が勅撰和歌集に入集する。
六国史の一つ『日本三代実録』の編者でもあり、左遷直後の延喜元年(901年)8月に完成している。
左遷された事もあり編纂者から名は外されている。
祖父の始めた家塾・菅家廊下を主宰し、人材を育成した。
菅家廊下は門人を一門に限らず、その出身者が一時期朝廷に100人を数えたこともある。
菅家廊下の名は清公が書斎に続く細殿を門人の居室としてあてたことに由来する。

422:shimizu ◆Q/mpujoW3g
17/02/16 20:59:24.51 .net
和歌[編集]
此の度は 幣も取り敢へず 手向山 紅葉の錦 神の随に(古今和歌集 羇旅歌。この歌は小倉百人一首にも含まれている)
海ならず 湛へる水の 底までに 清き心は 月ぞ照らさむ(新古今和歌集 雑歌下。大宰府へ左遷の途上備前国児島郡八浜で詠まれた歌で硯井天満宮が創建された。「海ならず たたえる水の 底までも 清き心を 月ぞ照らさん」)
東風吹かば にほひおこせよ 梅の花 主なしとて 春を忘るな(初出の『拾遺和歌集』による表記。後世、「春な忘れそ」とも書かれるようになった)
水ひきの白糸延へて織る機は旅の衣に裁ちや重ねん(後撰和歌集巻十九)〈今昔秀歌百撰23選者:松本徹〉
漢詩[編集]
駅長莫驚時変改 一栄一落是春秋(駅長驚くことなかれ 時の変わり改まるを 一栄一落 これ春秋。大宰府へ左遷の途上に立ち寄った駅家の駅長の同情に対して答えたもの。)
去年今夜待清涼 秋思詩篇獨斷腸 恩賜御衣今在此 捧持毎日拜餘香(去年の今夜清涼に待し、秋思の詩篇独り斷腸。恩賜の御衣今此こに在り、捧持して毎日余香を拝す。九月十日 太宰府での詠。)

423:shimizu ◆Q/mpujoW3g
17/02/16 21:07:14.12 .net
菅原道真の死後、京には異変が相次ぐ。
まず道真の政敵藤原時平が延喜9年(909年)に39歳で病死すると、続いて延喜13年(913年)には道真失脚の首謀者の一人とされる右大臣源光が狩りの最中に泥沼に沈んで溺死し、
更に醍醐天皇の皇子で東宮の保明親王(時平の甥・延喜23年(923年)薨去)、次いでその息子で皇太孫となった慶頼王(時平の外孫・延長3年(925年)卒去)が次々に病死。
さらには延長8年(930年)朝議中の清涼殿が落雷を受け、昌泰の変に関与したとされる大納言藤原清貫をはじめ朝廷要人に多くの死傷者が出た(清涼殿落雷事件)上に、それを目撃した醍醐天皇も体調を崩し、3ヶ月後に崩御した。
これらを道真の祟りだと恐れた朝廷は、道真の罪を赦すと共に贈位を行った。
子供たちも流罪を解かれ、京に呼び返された。
延喜23年4月20日(923年5月13日)、従二位大宰員外師から右大臣に復し、正二位を贈ったのを初めとし、その70年後の正暦4年(993年)には贈正一位左大臣、
同年贈太政大臣(こうした名誉回復の背景には道真を讒言した時平が早逝した上にその子孫が振るわず、宇多天皇の側近で道真にも好意的だった時平の弟・忠平の子孫が藤原氏の嫡流となったことも関係しているとされる)。

424:shimizu ◆Q/mpujoW3g
17/02/16 21:08:34.76 .net
清涼殿落雷の事件から道真の怨霊は雷神と結びつけられた。
火雷神が祀られていた京都の北野に北野天満宮を建立して道真の祟りを鎮めようとした。
以降、百年ほど大災害が起きるたびに道真の祟りとして恐れられた。こうして、「天神様」として信仰する天神信仰が全国に広まることになる。
やがて、各地に祀られた祟り封じの「天神様」は、災害の記憶が風化するに従い道真が生前優れた学者・詩人であったことから、後に天神は学問の神として信仰されるようになっている。
江戸時代には昌泰の変を題材にした芝居、『天神記』『菅原伝授手習鑑』『天満宮菜種御供』等が上演され、特に『菅原伝授手習鑑』は人形浄瑠璃・歌舞伎で上演されて大当たりとなり、
義太夫狂言の三大名作のうちの一つとされる。現在でもこの作品の一部は人気演目として繰返し上演されている。
近代以降は忠臣としての面が強調され、紙幣に肖像が採用された。
配所にても天皇を恨みずひたすら謹慎の誠を尽くしたことは、広瀬武夫の漢詩「正気歌」に「或は菅公筑紫の月と為る」と詠まれ、また文部省唱歌にも歌われた。
昭和3年(1928年)に講談社が発行した雑誌「キング」に、「恩賜の御衣今此に在り捧持して日毎余香を拝す」のパロディ「坊主のうんこ今此に在り捧持して日毎余香を拝す」が掲載されたところ、
不敬であるとの批判が起こり、講談社や伊香保温泉滞在中の講談社社長野間清治の元に暴漢らが押し寄せるという事件も発生している。

425:shimizu ◆Q/mpujoW3g
17/02/16 21:11:07.69 .net
薨去の地に関する伝承[編集]
鹿児島県薩摩川内市東郷町藤川の菅原神社で菅原道真が死去したとされたとの伝承と共に、道真のものと伝わる墓がある。
概要は、身の危険が迫り、筑前から船で水俣湾を経て鹿児島県薩摩川内市湯田町に上陸し、薩摩川内市城上町吉川を経て、同市東郷町の藤川神社で隠棲し薨去たとされる。
その経路には、船繋石・御腰掛石などの史跡が残っている。
また、吉川では菅原道真を奥座敷に納戸にかくまったことから、年中行事として村人が集まり女子は左右の袖を広げて男子を隠して奥座敷に潜ませる真似をする風習が残っている[8]。

426:shimizu ◆Q/mpujoW3g
17/02/16 21:15:56.16 .net
出生[編集]
道真の生誕地については諸説あり、各地に伝わる『天神縁起』によれば、菅生神社境内にある菅生池の菅の中より容顔美麗(振り分け髪をした薄桃色の着物を着る少女の姿[9])なる5・6歳の幼児が、
光を放ちながら飛び去り[10]、是善邸南庭に現れ「私には父母がいないのでそなたを父にしたい」と語った子供が、道真だという[9][注釈 8]。
長男次男を幼くして相次いで亡くした是善は、臣下の島田忠臣に命じ伊勢神宮外宮神官の度会春彦を通じて豊受大御神に祈願して貰った。
そうして生まれたのが道真だという。
その縁で、春彦は白太夫[注釈 9]として道真の守役となり生涯にわたり仕える事になったという。
菅原天満宮によれば是善が出雲にある先祖の野見宿禰の墓参りをした際、案内してくれた現地の娘をたいそう寵愛した。
そして生まれたのが道真だという。
滋賀県余呉町には、道真が天女から産まれたという天女の羽衣伝説が残されている。
あらすじは、あるとき、漁師の桐畑太夫[注釈 10]のところへ美しい天女が舞い降りる。
太夫は羽衣を隠し無理矢理その天女と夫婦になる。
そして、玉のような男の子が産まれるが、天女が羽衣を見つけ出して天に帰ってしまい、桐畑太夫もそのあとをおい天にのぼっていってしまう。
男の子は石の上に捨て置かれ、母恋しさに法華経のような声で泣きじゃくる。
そこに、菅山寺の僧・尊元阿闍梨が通りかかり憐れに思い引き取り養育することにした。
その後、菅原是善が菅山寺に参拝にきたさいその子供を養子にする。
この子供こそのちの菅原道真だという。
江戸時代に書かれた『古朽木』によれば、道真は梅の種より生まれたという。

427:shimizu ◆Q/mpujoW3g
17/02/16 21:23:55.54 .net
人物[編集]
“平安朝きっての秀才”ということで今日では学問の神様だが、当時は普通の貴族であり、妾も沢山おり、遊女遊びもしている。
また、詩作にも官能的で優美な表現を取り入れており、宮廷詩では美人舞妓の踊り乱れた姿や、髪・肌・汗・香・化粧・衣などの様子を詩で仔細に鮮やかに表現している。
ただし、常に浮かれていたわけではなく、特に盛り上がっている宴会のみで、普段の宴会では謹厳な態度を守り、自分の言行を抑える、というように二つの顔を使い分けていたという。[11]
学問だけでなく、武芸(弓道)にも優れ、若い頃は都良香邸で矢を射れば百発百中だったという伝承がある。
また、大蛇に苦しめられたため自ら矢で射て退治したという逸話もある[12]。
宝剣「天國」[注釈 11]、脇差「猫丸御剱」[注釈 12]、毛抜形太刀〈無銘/〉[17]、菅公御佩用の御太刀[18]など様々な太刀を常に佩刀していたという。
また、河童の大将や大鯰を斬り殺したという逸話も残っている。(後述参照)
子はおよそ23人[19]、またはそれ以上に上るとされ[20]、長男高視が産まれる以前の、文章得業生の頃には既に子があったという[21]。
子煩悩で子供に関しての詩を多く残しており、菅家文草「夢阿満」では、“阿満”という一番可愛がっていた子が亡くなると、神仏を恨み世界から天地がなくなった、と嘆くほど悲しんでいる。
しかし、最後に幼い阿満が三千世界に転生するときに迷わぬよう、観自在菩薩に祈っている。

428:shimizu ◆Q/mpujoW3g
17/02/16 21:25:41.54 .net
政治の合間に和歌を吟詠しては、その草稿を「瑠璃壺」に納めていたという。
左遷の時、その壺を携えて筑紫に下り、見るもの聞くものにつけて感じるままに和歌を詠み、百首を新たに壺に納め、道真が逝去後、壺は白太夫の手に渡ったという[22]。
また、別の伝承では、道真が大宰府へ赴いたとき、宇佐のほとりで龍女が現れ、「瑠璃壺」を承ったという[23]。
茶に関する故実を調査・研究し、世間に喫茶の習慣を広めたため、茶聖菅公と称されたという。[24]
乗馬を好み、通勤は馬でおこない、讃岐での遠出や右近の馬場での桜狩りなど、趣味でも馬を走らせていたという[25]。のちに、天神乗りという騎乗法が伝わり、馬術の師として祀られることになる[26]。
根っからの詩人で、詩が思い浮かぶとすぐさまその場で口ずさみながら、周りの物に書き付けるほどだったという。[27]
「一国丸ごと買い取ってしまいたい」と評するほど、越州国の風景を気に入っていたという。[27]
家族や気の置けない友人達との語らい、馬で自然を駆け巡ることなどを好んだが、大量の行政文書をかたづけるなど仕事に忙殺されることだけは嫌っていた。[28]
梅の花を好んだことで有名だが、桜花の美しさを「弥勒菩薩が悟りをひらくという龍華樹も遠く及ばない」と称えるほど好み[29]、菊の花も若い頃から栽培するほど好んでいた[30]。

429:shimizu ◆Q/mpujoW3g
17/02/16 21:42:47.10 .net
思想[編集]
『菅家文草』によれば、道真は願文作成によって、儒教的言説で世界の差異(身分差別[注釈 13]、男女差別など)を構造化し、仏教的基本原理(輪廻・化身・垂迹説)とアナロジー(解読コード)を用いることで、
隣接する概念間の差異を次々と消去していき、あらゆる存在の均質化と「存在の連鎖[注釈 14]」を生み出すことにより、道真の理想とした世界観を描き出そうとしたという。[31]
「和魂漢才」。
日本固有の精神「大和魂」と、中国伝来の学問「漢才」という対なる概念のことで、また、その両者を合わせるといった思想。
のちに和魂洋才という言葉が派生した。[注釈 15]
心だに 誠の道にかなひなば 祈らずとても 神や守らん(人は、心さえ誠の道にそっていれば、あらためて祈りを捧げなくても、神がきっと守ってくれるだろう。)[33]
未だかつて邪は正に勝たず(邪まなことはどんなことがあっても、結局正義には勝てないのである。)[34]
全ては運命の巡りあわせなのだから、不遇を嘆いて隠者のように閉じこもり、春の到来にも気づかぬような生き方はすべきではない。[35]
紀長谷雄にたいし、世間では偉そうにべらべら喋る大学者さまが我が物顔で通るたびに有難がられているが、君が口を閉ざしても君の詩興が衰えることはないから心配するな、と励ましの詩をおくっている。[36]

430:shimizu ◆Q/mpujoW3g
17/02/16 21:47:01.82 .net
交流[編集]
師であり義父である島田忠臣とは生涯に亘って交流があり、忠臣が死去した際に道真は「今後再びあのように詩人の実を備えた人物は現れまい」と嘆き悲しんだという。
紀長谷雄とは旧知の仲で、試験を受ける際に道真に勉学を師事したとされる。
また、道真は死の直前に大宰府での詩をまとめた「菅家後集」を長谷雄に贈ったという。
在原業平とは親交が深く、当時遊女(あそびめ)らで賑わった京都大山崎を、たびたび訪れている。
天台宗の僧相応和尚とも親交があり、大宰府に向う際に淀川にて、自ら彫ったという小像と鏡一面を渡し、後のことを和尚に託したという。
道真薨去後、和尚は小像・鏡を郷里の長浜市にある来生寺、その隣の北野社にそれぞれ祀ったという。
清廉剛直な武官の藤原滋実とも親交があった。
滋実は、元慶の乱の鎮圧に参加し俘囚に配給して懐柔し、反乱した夷俘を討たせる役を命じられ見事成し遂げる。
のちに陸奥国司となる。
死因についてははっきりせず、部下に不正を行っていた輩が多く呪詛され殺されたのではないか、という噂がなされたため道真は五男菅原淳茂に調査を命じている。
滋実が逝去したさい、誄歌「哭奥州藤使君」[37]をおくっている。
かつて道真は滋実より「私は、あなたさまよりひそかに恩恵をうけています。
私は、死のうが生きようが、生死を超えてあなたより受けたこのご恩に報いたいと思っております」と、熱い想いをつげられたという。
それを回顧した道真は、自身の正義の是非について裁いてくれるよう、また、正義をつらぬくための手助けになってくれるよう、滋実の霊に懇願し悲嘆にくれている。
ほかに、東国と中央政府の癒着した腐敗政治についても言及している。

431:shimizu ◆Q/mpujoW3g
17/02/16 21:50:16.74 .net
政敵となった兄藤原時平とは違い、弟の藤原忠平とは共に宇多天皇主催の歌会にでたり道真左遷時に励ましの手紙を送るなど、親交があったという。
絵に描いたものが飛び出して実体化するという逸話をもつ、宮廷絵師巨勢金岡とも親交があったとされる。
渤海使で日本に帰化したとされる王文矩とも親交があったという。
道真は、菅家廊下の弟子の中で文室時実を一番可愛がっていた。
時実は、若い頃から匏(能無しという意味)と言われる苦学生で、食べることもままならないほど貧しくそのうえ年老いた母親も抱えていた。
道真が讃岐赴任のためいなくなったあとも、独り努力を重ね見事難関の省試に合格しその報告をしにきた彼にたいし、道真は称賛と若い文章生にいじめられないか心配する詩を綴っている。[38]
13世天台座主法性坊尊意に教学を師事したとされる。
しかし、学者や貴族などの恨み妬みが凄まじく、『菅家文草』「博士難」では、道真が文章博士に就任するとき、父是善から味方がいなく孤独になることを助言されており、就任わずか三日目にして、まわりから誹謗中傷する噂がなされたことが書かれている。

432:shimizu ◆Q/mpujoW3g
17/02/16 21:53:56.81 .net
平安京[編集]
『菅家瑞応録』によれば、9歳で善光寺に参拝したおり、問答に才を顕し、10歳の時には、内裏での福引の御遊に集まった公卿たちに忠言したという。
17歳で清水寺に参拝したさい、田口春音という捨子を拾い養育したという。
春音は大宰府まで同行し、道真逝去後は出家し、道真の菩提を弔ったという。
応天門の変では、伴大納言が犯人とされたが、道真は、伴善男の家来、大宅鷹取の仕業だと見抜いたという。
元慶8年(884年)、道真が40歳の頃に叔母である覚寿尼のいる道明寺に4~7月まで滞在した。
その時、夏水井の水を汲み青白磁円硯で、五部の大乗経の書写をしていた。
すると、二人の天童が現れ、浄水を汲んで注ぎ写経の業を守護し、白山権現、稲荷明神が現れ、筆の水を運び、天照大神、八幡神、春日大明神が現れ、大乗経を埋納する地を示したという。
そこに埋納すると「もくげんじゅ」という不思議な木が生えてきたという。[39]
同年、畿内が大旱魃にみまわられたため、陽成天皇の勅命により道真が奉幣使として意賀美神社にて祈雨祈願したところ、たちどころに雨が降るという霊験があったという。[注釈 16]

433:shimizu ◆Q/mpujoW3g
17/02/16 21:57:54.68 .net
讃岐[編集]
道真は詩臣として中央で天皇のそばにお仕えし詩を作ることこそ菅原家の祖業であるという強い信念を持っていた。
その為、自分が地方官として讃岐に赴任することに葛藤していた。
赴任後、詩人として周りとの感性の違いに戸惑ったり、また、道真は家族愛が人一倍強かったので家族のそばにいれない寂しさも綴っている。
しかし、元来の生真面目で清廉な性格から、白居易の兼済(広く人民を救済)という志を信条とし、善政を執り行うよう努力したという。
また、『寒早十首』『冬夜九詠』などで民の悲惨な実情を見分し、のちに都でこの不遇に見まわれている民のことを回顧し同情している。[11]
のちに、清廉と謹慎を心がけた政治をしたが、不正腐敗に汚染された青蝿のような官吏たちを一掃できなかったことを悔いている。[40]
仁和4年(888年)讃岐の国で大旱魃が起こり、讃岐守に就いていた道真がこれを憂い、城山で身を清め七日七晩祭文[注釈 17]を読上げたところ、見事雨に恵まれたという。
それを、民衆が喜び踊り狂ったものが滝宮の念仏踊の起源とされている。
道真が讃岐守に就いていた頃、側に仕えていたお藤という女性と恋仲になり、愛妾にしたという。[42]
また、極楽寺の明印法師という僧と親交を深めたとされ、極楽寺の由緒を話したり、道真から寄付をうけたり、詩文を贈答されたり、道真が一時帰京した際には、わざわざ京まで逢いにいったという。

434:shimizu ◆Q/mpujoW3g
17/02/16 21:59:59.25 .net
おとぎ話『桃太郎』は、道真が讃岐守に就いていた時分に、当地に伝わる昔話をもとに作り上げ、それを各地に伝えた、という伝説が女木島に伝わっている。
また、『竹取物語』の作者が道真ではないかという説もある。
寛平2年(890年)の頃、與喜山で仕事をしていた樵夫の小屋に、何者かが「これを祀れ」と木像を投げこんだという。
樵夫はその頃、長谷寺に道真が参詣に来ていたので、「木像は道真公の御作ではないか」と思い、大切に祀ったという。
その像が與喜天満神社に現存する木造神像として伝えられている。
寛平7年(895年)に法華経や金光明経を手写し伊香具神社へ納経したという。[43][注釈 18]
寛平8年(896年)2月10日、勅命により道真が長谷寺縁起文を執筆していたところ、夢に3体の蔵王権現が現れ、「この山は神仏の加護厚く功徳成就の地である」と、告げられたという。[44]
昌泰元年(898年)10月17日、夢に祖父清公が現れ補陀落に行きたいと懇願されたので、道真は長谷寺で忌日法要したという。[45]

435:shimizu ◆Q/mpujoW3g
17/02/16 22:06:30.55 .net
左遷[編集]
大宰府へ左遷の道中には、監視として左衛門少尉善友と朝臣益友、左右の兵衛の兵各一名がつけられた。
また、官符に道真は“藤原吉野の例に倣い「員外帥」待遇にせよ”と明記され、道中の諸国では馬や食が給付されず、官吏の赴任としての待遇は与えられなかった。
大阪市東淀川区にある「淡路」「菅原」の地名は、道真が大宰府に左遷される際、当時淀川下流の中洲だったこの地を淡路島と勘違いして上陸したという伝説にちなんだ地名である。
出水市壮の菅原神社に関する伝承として、ジョウス(城須)という老夫婦が道真に三杯の茶を振舞い、そのため道真が追手から逃れることができたという。[46]
道真は、信州の 松原湖に逃げて来たことがあったという。
ここで家臣が連れていた鶏が鳴き出し、里人に発見されてしまった。
この家臣の家では代々鶏を飼ってはいけないという。[47]
道真が、失意の中で尼崎に立ち寄ると、悲しみで人だけでなく草木もしおれた。
だが、ネギだけがしゃんとしており、村人はそのネギを憎み、食べなくなったという言い伝えがある。[48]
延喜元年(901年)、道真がとりわけ愛でてきた梅の木が一夜のうちに主人の暮らす大宰府まで飛んでゆき、その地に降り立ったという飛梅伝説がある。
また、桜は、悲しみのあまりその場で枯れてしまい、松は、追ってきたが途中力尽きその地で根をおろしたという言い伝えもある。
901年道真が筑後川で暗殺されそうになった際、「三千坊」という河童の大将が彼を救おうとして手を斬り落とされ落命した、もしくは道真の馬を川へ引きずり込もうとした三千坊の手を道真が斬り落とした、
という伝承が福岡県の北野天満宮に、河童の手のミイラとともに残されている。
また、大宰府左遷のおり道真は兵主部という妖怪を助け、その返礼として「我々兵主部は道真の一族には害を与えない」という約束をかわした、という伝説も伝わっている。

436:shimizu ◆Q/mpujoW3g
17/02/16 22:07:54.10 .net
道真は左遷のさい、忠臣高田正期へ桜の木を与えた。
この桜の花が咲かなかった年に道真に何かあったのでは、と正期は不安になり大宰府へ赴いたという。
このことに感動した道真は、天拝山の土で自身の像をつくりそれを持ち帰らせた。
正期は、独鈷抛山の麓に祠をつくりそれを祀った。
正期の死後、桜は枯れてしまう。
それから300年後、積善寺の住職の枕元に天神となった道真が夜毎に立ったので、独鈷抛山の麓の祠を寺の境内に移動した。
すると桜の形をした石が桜の木が植わっていたまわりの石から浮かび上がってきたという。[49][50]
道真の側室は臨月であったが、道真との別れを惜しみ後を追ったという。
しかし、途中で産気を催したため、人家に立ち寄ろうとしたものの、間に合わず輿中で大量に出血しながら産んだという。
その時、道が真赤に染まった為、「赤大路」の地名由来となった。
その後、近くの民家で介抱したものの、産後の経過が悪く亡くなってしまう。
夫人は死期に臨むさい、里人の介抱を深く感謝し死後は安産の神になると遺言されたので、子安天満宮が建立されたという。[51]
また、道真の息子福部童子は、父の後を追って大宰府へ向かったが、山口で病気になり亡くなったという。[52]
娘の苅屋姫も父のあとを追いかけたが、あと少しの所で間に合わず、足摺り(=蹉跎)して嘆いたという。
のちに、大宰府でその話を聴いた道真は、三尺二寸の自身の木像を作って娘に送ったという。[53]
道真の六女で愛娘のみよこ姫は、宮城県丸森町にある宗吽院に輿入れしたという。[54]
道真の正室島田宣来子(または側室)が、岩手県一関市東山町に落ち延びたという落人伝説がある。[注釈 19]

437:shimizu ◆Q/mpujoW3g
17/02/16 22:13:04.28 .net
大宰府[編集]
『寛永諸家系図伝』によれば、道真が筑紫にいたとき、兄“前田”と弟“原田”2人の息子を授かったという。[55]
大宰府での生活は厳しいもので、「大宰員外帥」と呼ばれる名ばかりの役職に就けられ、大宰府の人員として数えられず、大宰府本庁にも入られず、給与はもちろん従者も与えられなかった。
住居として宛がわれたのは、大宰府政庁南の、荒れ放題で放置されていた廃屋(榎社)で、侘しい暮らしを強いられていたという。
讃岐時代と同様に北九州の庶民の暮らしぶりについても詩を綴っている。
延喜元年(901年)十月頃の作『菅家後集』「叙意一百韻」で、人を騙して銭をまきあげる布商人、何の苦もなく簡単に殺人を犯す悪党、のどかな顔をして肩を並べている群盗などがのさばっている様子を書いている。
また、自分のみじめな姿を見に来る野次馬への苦痛、自分の心が狂想におちいってること[注釈 20]、仏に合掌して帰依し座禅を組んでいること、
自身の体が痩せこけ白髪が増えていってることや、着物が色あせていくこと、政敵の時平一派にたいする憤り、かつて天皇へ忠誠を誓ったことへの後悔を綴っている。
『菅家後集』「讀家書」では、久しぶりに妻から手紙がきたことを書いている。
道真は、妻が薬(生姜)を送るなど自分を労わる気持ちは嬉しいが、家族の生活が苦しいことをひた隠しにしていることが、かえって自分を悲しめ心配させているのだと綴っている。
梅ヶ枝餅は道真が大宰府へ員外師として左遷され悄然としていた時に、老婆が道真に餅を供しその餅が道真の好物になった、或いは道真が左遷直後軟禁状態で食事もままならなかったおり、
老婆が軟禁部屋の格子ごしに梅の枝の先に餅を刺して差し入れたという伝承が由来とされる。

438:shimizu ◆Q/mpujoW3g
17/02/16 22:14:57.86 .net
左遷のおり、道真の母の霊が息子を心配し、京都伏見稲荷大社から稲荷神を遣わせ、大宰府の石穴神社に鎮まったとする伝承がある。
稲荷神は、道真の配所に稲穂を届け飢えを救ったという。[56]
あるとき、葦の生い茂る沼周辺で大鯰が顔を出して通行人の邪魔をしていた。
道真は、これを太刀で頭、胴、尾と三つに斬り退治したという。
その遺体がそれぞれ鯰石となり、後に雨を降らす雨乞いの石として地元の人々に大切にされたという[注釈 21]。
延喜2年(902年)正月7日に道真自ら悪魔祓いの神事をしたところ、無数の蜂が参拝者を次々と襲う事件がおきた。
そのとき鷽鳥が飛来して蜂を食いつくし、人々の危難を救ったのが鷽替え神事の由来とされる。
また他にも、道真が賊に襲われたとき牛が身をていして守ってくれた伝説や、道真が難破に巻き込まれたとき昔飼っていた愛犬の霊が宿った犬石が助けてくれたという犬島伝説が伝わる。
道真がいろは歌の作者とする説がある。
7段書きにした場合に下の部分が「咎なくて死す」となるため、『菅原伝授手習鑑』を契機に江戸時代中期頃広まったという。[57]
晩年、道真は無実を天に訴えるため、身の潔白を祭文に書き、七日七夜天拝山山頂の岩の上で爪立って、祭文を読上げ天に祈り続けた。
すると、祭文は空高く舞上り、帝釈天を過ぎ梵天まで達し、天から『天満大自在天神』と書かれた尊号がとどいたという。

439:shimizu ◆Q/mpujoW3g
17/02/16 22:17:13.53 .net
初天神を、説明を、しようとしたら、
多少長くなったが、
聞けたキミラ、
ほんと、幸せ。
何げに、自分も学べた。
菅原道真
懐かしいね。
それじゃ、全然駄目なんですけどね。
( ・x・)y─┛~~~

440:shimizu ◆Q/mpujoW3g
17/02/17 09:08:38.84 .net
月齢20.1
旧1月21日 中潮
先負 日の出6:26
乙亥 きのと い
愚民の皆さま。
('-'*)オハヨ♪
腰が筋肉痛。

441:shimizu ◆Q/mpujoW3g
17/02/17 10:07:27.41 .net
腰にリボン稲田朋美防衛相 強面のはずがガーリーな実態に違和感
84. 匿名 2017/02/16(木) 18:04:31 [通報]
飛行機移動中のTシャツファッションが浜崎あゆみみたい
迷走してる人、多いんだね。
( ・x・)y─┛~~~

442:shimizu ◆Q/mpujoW3g
17/02/17 10:35:50.08 .net
偽都民っぽいね。
( ・x・)y─┛~~~

443:shimizu ◆Q/mpujoW3g
17/02/17 13:02:25.39 .net
昼寝してた。
('-'*)オハヨ♪
くそ眠い、
午後の日差しは、
いかがなものかな。
('0')/ハイ!

444:shimizu ◆Q/mpujoW3g
17/02/17 14:39:11.58 .net
潅水。
暑い。

445:shimizu ◆Q/mpujoW3g
17/02/17 15:03:30.00 .net
昔、油絵とかやったな。
懐かしい。
どこにいったのだろう。

446:shimizu ◆Q/mpujoW3g
17/02/17 15:22:51.78 .net
それでは、本日の講義です。
明治維新、大東亜戦争めぐる歴史の解釈西部邁2013年10月12日放送
URLリンク(www.youtube.com)
2013/10/20 に公開
歴史について千思万考の一端を―歴史の危機における人間とは何か?―面相、人相に現れるその時代背景
■大塩平八郎の乱から明治維新へと連綿と繋がる歴史
■福澤諭吉と夏目漱石たちの顔や時代に表れている観相学の視点
■日本的精神の一番大切なものとは何か
■「学問のススメ」「痩我慢の説」の本質とその面白さ
■歴史についての千思万考の一端を
■大東亜戦争の本土決戦論についての解釈

447:shimizu ◆Q/mpujoW3g
17/02/17 15:54:29.79 .net
それでは、本日の講義です。
社会保障は市場のインフラ西部邁ゼミナール 2013年10月19日放送
URLリンク(www.youtube.com)
2013/10/27 に公開
「自助」の原則はどこまで有効なのか?社会保障と税の一体改革-消費増税について本質的な論点を俯瞰で見て考える
□ 市場メカニズム導入で効率化目指す、損得勘定だけの新自由主義
□ 社会の安定性、経済基盤としての中長期の社会保障制度を
□ 自己責任強調だけでは公共的な下支え機能が衰弱し社会が成り立たず
□ 自助、共助、公序、お互いの結びつきの調和で機能する
□ 死生観のあり方「老病死」にいかに対応するか、
□ 法制化や費用負担の側面だけでなく本質的論議を
□ 子供手当のバラマキと自己責任という世論のシーソーを省みる

448:shimizu ◆Q/mpujoW3g
17/02/17 15:59:40.33 .net
福沢諭吉の多事争論って、
凄いね。
話してると、一向に進まない。

449:shimizu ◆Q/mpujoW3g
17/02/17 16:58:07.91 .net
不動明王 (ふどうみょうおう)、梵名アチャラ・ナータ [2](अचलनाथ [acala naatha])は、仏教の信仰対象であり、密教特有の尊格である明王の一尊。
大日如来の化身とも言われる。
また、五大明王の中心となる明王でもある。
真言宗をはじめ、天台宗、禅宗、日蓮宗等の日本仏教の諸派および修験道で幅広く信仰されている。
五大明王の一員である、降三世明王、軍荼利明王、大威徳明王、金剛夜叉明王と祀られる。

450:shimizu ◆Q/mpujoW3g
17/02/17 16:59:00.05 .net
密教の根本尊である大日如来の化身、あるいはその内証(内心の決意)を表現したものであると見なされている。
「お不動さん」の名で親しまれ、大日大聖不動明王(だいにちだいしょうふどうみょうおう)、無動明王、無動尊、不動尊などとも呼ばれる。
アジアの仏教圏の中でも特に日本において根強い信仰を得ており、造像例も多い。
真言宗では大日如来の脇侍として、天台宗では在家の本尊として置かれる事もある。
縁日は毎月28日である。

451:shimizu ◆Q/mpujoW3g
17/02/17 17:00:37.04 .net
起源[ソースを編集]
不動明王の起源は、ヒンドゥー教の最高神シヴァ神にあるとの説が有力である。
梵名のアチャラナータもヒンドゥー教ではシヴァ神の別名とされている。
[要出典]密教がヒンドゥー教を取り込むために、シヴァ神を不動明王として大日如来の眷属とすることでその神格を吸収する一方で降三世明王がシヴァ神を屈服させたとしたものと思われる。
これは他宗教の神を吸収する際によく行われる事である。
梵名の「アチャラ」は「動かない」、「ナータ」は「守護者」を意味し、全体としては「揺るぎなき守護者」の意味である。
チベット仏教などではこの名よりもチャンダ・マハーローシャナ (चण्डमहारोषण [caNDamahaaroSaNa])即ち暴悪忿怒尊の名でより知られる。
しかし、こちらは三眼で毛皮を身に纏い髪が逆立っているなど、日本に伝えられた不動明王とは図像的にやや異なるものである。
空海(弘法大師)が唐より密教を伝えた際に、日本に不動明王の図像が持ち込まれたと言われる。
「不動」の尊名は、8世紀前半、菩提流志(ぼだいるし)が漢訳した「不空羂索神変真言経」に「不動使者」として現れるのが最初である。
「使者」とは、大日如来の使者という意味である。
大日如来の脇侍として置かれる事も多い

452:shimizu ◆Q/mpujoW3g
17/02/17 17:03:13.25 .net
密教では三輪身といって、一つの「ほとけ」が「自性輪身」(じしょうりんじん)、「正法輪身」(しょうぼうりんじん)、「教令輪身」(きょうりょうりんじん)という3つの姿で現れるとする。
「自性輪身」(如来)は、宇宙の真理、悟りの境地そのものを体現した姿を指し、「正法輪身」(菩薩)は、宇宙の真理、悟りの境地をそのまま平易に説く姿を指す。
これらに対し「教令輪身」は、仏法に従わない者を恐ろしげな姿で脅し教え諭し、仏法に敵対する事を力ずくで止めさせる、外道に進もうとする者はしょっ引いて内道に戻すなど、極めて積極的な介入を行う姿である。
不動明王は大日如来の教令輪身とされる。煩悩を抱える最も救い難い衆生をも力ずくで救うために、忿怒の姿をしている。
また、密教経典によれば、不動明王とは釈迦が悟りを開いた菩提樹下の坐禅中に煩悩を焼きつくしている姿だとしている。
釈迦が成道の修行の末、悟りを開くために「我、悟りを開くまではこの場を立たず」と決心して菩提樹の下に座した時、世界中の魔王が釈迦を挫折させようと押し寄せ、
釈迦に問答を挑んだり、千人の少女に誘惑させたりしたところ、釈迦は穏やかな表情のまま降魔の印を静かに結び、
魔王群をたちまちに説破し、超力で降伏したと伝えられるが、不動明王はその際の釈迦の内証を表現した姿であるとも伝えられる。[※ 1]

453:shimizu ◆Q/mpujoW3g
17/02/17 17:06:30.92 .net
伝承[ソースを編集]
唐の不空が訳した密教経典「底哩三昧耶不動尊聖者念誦秘密法」(ちりさんまやふどうそんしょうじゃねんじゅひみつほう)には、大自在天(ヒンドゥー教の最高神シヴァ)を不動明王が調伏する説話がある。
それによると、大日如来が悟りを開いて仏陀になったとき、ありとあらゆる三界の生き物たちが集会に来たが、自分こそ三千世界の主と考え慢心する大自在天だけは招集に応じなかった。
大自在天は「持明者(インドの魔法を使う精霊、ここでは夜叉明王)が使いとして来るだろうが、奴らは不浄なものを嫌うから、不浄なものを幻術で作り出し四方に張り、その中にいれば持明者の明術も役に立つまい」として結界を張り、近寄れないようにした。
不動明王が大自在天を呼びに行くと不浄の結界で覆われていたので、不動明王は不浄金剛(烏枢沙摩明王)を召還し、不浄を食らい尽くさせた。
そして、ただちに不動明王は大自在天を捕らえて仏陀の元へ連行する。
しかし大自在天は「汝らは夜叉に過ぎぬが、私は神々の王なのだ」と言い何回も逃げ続けた。
仏陀が「断罪すべし」と命ずると、大自在天とその妃(ウマー)を踏み殺し絶命させたのだった。(これが降三世夜叉明王の姿である)
そして、大自在天の処分を尋ねると仏陀は「蘇生させよ」と言うので、法界生真言を唱えて復活させた。
大自在天は喜び不思議がり「この夜叉は何者なのでしょうか?」と尋ねると、仏陀は「諸仏の主である」と答えた。
大自在天は感激し、万物の全てにおいて尊い諸仏の上に、さらに諸仏の主がいることを知り、また彼が不動明王という「大王」のお陰で将来仏になれる授記をも得たのだった。
ここでは、不動明王のことを、夜叉、大王、諸仏の主と呼んでいるのが特徴的である。

454:shimizu ◆Q/mpujoW3g
17/02/17 17:10:41.64 .net
像容[ソースを編集]
密教の明王像は多面多臂の怪異な姿のものが多いが、不動明王は一面二臂で降魔の三鈷剣(魔を退散させると同時に人々の煩悩や因縁を断ち切る)
と羂索(けんさく/けんじゃく。悪を縛り上げ、また煩悩から抜け出せない人々を縛り吊り上げてでも救い出すための投げ縄のようなもの)を持つのを基本としている
(密教の図像集などには多臂の不動明王像も説かれ、後述のように日蓮は四臂の不動明王を感得しているが、立体像として造形されることはまれである)。
剣は竜(倶利伽羅竜)が巻き付いている場合もあり、この事から「倶利伽羅剣」と呼ばれている。
また、その身体は基本的に醜い青黒い色で表現される像容が多い。
これはどぶ泥の色ともいわれ、煩悩の泥の中において衆生を済度せんことを表しているといわれる。
しかし底哩経などには、身体の色は青黒か赤黄とあり、頂は七髷か八葉蓮華、衣は赤土色、右牙を上に出し左牙を外側に出す、というのが一般的とされる。
人間界と仏界を隔てる天界の火生三昧(かしょうざんまい。人間界の煩悩や欲望が天界に波及しないよう烈火で焼き尽くす世界)と呼ばれる炎の世界に住している。
不動明王は多くの明王の中でも中心的な存在であり(五大明王の中でもリーダー格である)、像容は肥満した童子形に作ることが多く(『大日経』の出典による)、
怒りによって逆巻く髪は活動に支障のないよう弁髪でまとめ上げ、法具は極力付けず軽装で、法衣は片袖を破って結んでいる。
その装束は古代インドの奴隷ないし従者の姿を基にしたものとされ、修行者に付き従いこれを守る存在であることを表している。
右手に剣、左手に羂索を握りしめ、背に迦楼羅焔(かるらえん。迦楼羅の形をした炎)を背負い、貪・瞋・癡を許さんとする慈悲極まりた憤怒の相で、岩を組み合わせた瑟瑟座(しつしつざ)か、
粗岩(岩座ともいい、仏典では「磐石」。「金剛石」とあるのでダイヤモンドの原石である)の上に座して「一切の人々を救うまではここを動かじ」と決意する姿が一般的である(日本では坐像の他、立像も数多く存在している)。
以下に典型的な像の形を示す。

455:shimizu ◆Q/mpujoW3g
17/02/17 17:13:59.00 .net
東寺講堂像(坐像) - 空海(弘法大師)の創意に基づくという意味で「弘法大師様(よう)」と呼ばれる像容。
両目を見開き、上唇で下唇を噛み、両牙を下方に出すのが特徴。
後世多く作られた、天地眼(片目を半眼にする)・牙上下出(牙を片方は上、もう片方は下に出す)の不動明王とは図像的に異なっている。[4]
浪切不動(立像) - 高野山南院に伝わる、空海が唐から将来したと伝える像である。
頭部を右下方に向け、右目を見開き、左目をすがめ、両牙を下に出す。
空海が唐からの帰途、荒波に襲われた際にこの不動に祈ったところ波が去ったという伝説がある。[5]
黄不動(立像) - 園城寺に伝わる画像で、円珍感得像と伝える。
両目を見開き、上唇で下唇を噛み、両牙を上方に出す。
上半身裸形、体躯は筋骨隆々として肥満し、虚空を踏んで立つ。[6][※ 2]
インドで起こり、中国を経て日本に伝わった不動明王であるが、インドや中国には、その造像の遺例は非常に少ない。
日本では、密教の流行に従い、盛んに造像が行われた。
日本に現存する不動明王像のうち、平安初期の東寺講堂像、東寺御影堂像などの古い像は、両眼を正面に見開き、前歯で下唇を噛んで、左右の牙を下向きに出した、現実的な表情で製作されていた。
しかし時代が降るにつれ、天地眼(右眼を見開き左眼を眇める、あるいは右眼で天、左眼で地を睨む)、牙上下出(右の牙を上方、左の牙を下方に向けて出す)という、左右非対称の姿の像が増えるようになる。
これは10世紀、天台僧・安然らが不動明王を観想するために唱えた「不動十九観」に基づくものである。
また、日蓮宗系各派の本尊(いわゆる十界曼荼羅)にも不動明王が書かれている為、日蓮宗でも不動明王を奉安する寺院が存在する[※ 3]。
愛染明王と同様、空海によって伝えられた密教の尊格であることから、日蓮以来代々種子で書かれている。
なお日蓮の曼荼羅における不動明王は生死即涅槃を表し、これに対し愛染明王は煩悩即菩提を表しているとされる。

456:shimizu ◆Q/mpujoW3g
17/02/17 17:18:15.05 .net
不動三尊・不動八大童子[ソースを編集]
不動明王は、八大童子と呼ばれる眷属を従えた形で造像される場合もある。
ただし、実際には八大童子のうちの2名、矜羯羅童子(こんがらどうじ)と制吒(多)迦童子(せいたかどうじ)を両脇に従えた三尊の形式で絵画や彫像に表されることが多い(不動明王二童子像または不動三尊像と言う)。
三尊形式の場合、不動明王の右(向かって左)に制吒迦童子、左(向かって右)に矜羯羅童子を配置するのが普通である。
矜羯羅童子は童顔で、合掌して一心に不動明王を見上げる姿に表されるものが多く、制多迦童子は対照的に、金剛杵(こんごうしょ)と金剛棒(いずれも武器)を手にしていたずら小僧のように表現されたものが多い。
八大童子の残り六名は、慧光(えこう)童子、慧喜(えき)童子、阿耨達(あのくた)童子、指徳(しとく)童子、烏倶婆伽(うぐばが)童子、清浄比丘(しょうじょうびく)である。
これら八大童子の彫像の作例としては、高野山金剛峯寺不動堂に伝わった国宝の像がよく知られる。
なお、不動明王の眷属として八大童子を配することは、サンスクリット経典には見えないようで、中国で考案されたものと言われている。
この他に三十六童子、四十八使者と呼ばれるものがある。
また東寺のように五大明王と呼ばれる主要な明王の中央に配されることも多い。

457:shimizu ◆Q/mpujoW3g
17/02/17 18:24:49.70 .net
それでは、本日の講義です。
社会保障を軽んじるのか西部邁ゼミナール 2013年10月26日放送
URLリンク(www.youtube.com)
2013/11/04 に公開
社会保障を軽んじるのか、アベノミクス―バランスの取れた本質的な議論を
□ バランスの取れた社会保障についての本質論
□ 社会保障を軽んじるのか、アベノミクス
□ 社会保障の安定財源は不可欠であるが、消費税だけでは、引き上げばかりで問題が大きい
□ 負担能力の高い人たちの保険料率が低い 
□ 損得感覚ではなく国民全体で皆保険を支える負担と仕組みづくりを
□ 社会保障と税の一体改革を考えるヒント
□ 国民負担のあり方を考える

458:shimizu ◆Q/mpujoW3g
17/02/17 19:48:16.48 .net
風呂上り。
おやすみ。

459:shimizu ◆Q/mpujoW3g
17/02/17 20:29:09.63 .net
それでは、本日の講義です。
ビジネスマンの国家論【1】西部邁ゼミナール 2013年11月2日放送
URLリンク(www.youtube.com)
2013/11/10 に公開
西田昌司〔参議院議員〕×元谷外志雄〔アパグループ代表〕が語る国家観・歴史観・世界観
今回の企画は、西田先生と元谷さんが偶然、隣り合わせになった新幹線の車内での会話が切っ掛けになったものです。
日本の独立、歴史観、国家観、世界観まで話しが及んだとか、当ゼミナール主宰の西部先生を交えてどんな話しになるのか?
□ 政治家とビジネスマンが語る国家観、歴史観、世界観
□ 天下国家を論じていた古き良き財界人、中国進出で公を忘れた現代の経営者
□ 世界78カ国を歩き、要人との会話を通じて知った日本の素晴らしさ
□ 日本で教えられず、報じられていない歴史
□ 戦後レジームからの脱却とは何か?あの大いなる戦いを顧みる
□ 日米中の関係、自主独立・自主防衛なくして積極的平和主義なるか
□ 西洋国たらんとすることを憂いていた福澤諭吉と中江兆民

460:shimizu ◆Q/mpujoW3g
17/02/17 20:56:37.57 .net
中江兆民「フランスは、自由と平等に狂える瘋癲病院なり」
( ・x・)y─┛~~~

461:shimizu ◆Q/mpujoW3g
17/02/17 21:15:18.57 .net
それでは、本日の講義です。
ビジネスマンの国家論【2】西部邁ゼミナール 2013年11月9日放送
URLリンク(www.youtube.com)
2013/11/17 に公開
真の実業画家語る家族的経営哲学と日本の課題―ビジネスマンの国家論【2】西田昌司×元谷外志雄
■ 雇用創出、適正利益、納税、真の実業家の経営哲学と国家観
■ アパグループの元谷外志雄代表がみた日本の課題
■ 儲かれば良いという、長期的な視野が欠けた現代ビジネスマン
■ 中国進出から撤退後もつけ込まれる日本企業
■ 史実が歪んで伝えられる歴史
■ 株式上場せずして、赤字、リストラがない大きな理由とは
■ 酒場の論議、喧嘩の仲裁、非公式なコミュニケーションによる家族的集団の組織づくりが、経営も経済上も、国家としても問われている時代

462:shimizu ◆Q/mpujoW3g
17/02/17 21:15:18.78 .net
それでは、本日の講義です。
ビジネスマンの国家論【2】西部邁ゼミナール 2013年11月9日放送
URLリンク(www.youtube.com)
2013/11/17 に公開
真の実業画家語る家族的経営哲学と日本の課題―ビジネスマンの国家論【2】西田昌司×元谷外志雄
■ 雇用創出、適正利益、納税、真の実業家の経営哲学と国家観
■ アパグループの元谷外志雄代表がみた日本の課題
■ 儲かれば良いという、長期的な視野が欠けた現代ビジネスマン
■ 中国進出から撤退後もつけ込まれる日本企業
■ 史実が歪んで伝えられる歴史
■ 株式上場せずして、赤字、リストラがない大きな理由とは
■ 酒場の論議、喧嘩の仲裁、非公式なコミュニケーションによる家族的集団の組織づくりが、経営も経済上も、国家としても問われている時代

463:shimizu ◆Q/mpujoW3g
17/02/17 22:10:52.76 .net
2016年の初詣の参拝者数上位10社寺は以下のとおりである。
順位 社寺 所在地 参拝者数
1
明治神宮 東京 約317万人
2
成田山 千葉 約309万人
3
川崎大師 神奈川 約307万人
4
浅草寺 東京 約291万人
5
鶴岡八幡宮 神奈川 約250万人
6
住吉大社 大阪 約239万人
7
熱田神宮 愛知 約230万人
8
氷川神社 埼玉 約210万人
9
太宰府天満宮 福岡 約200万人
10
生田神社 兵庫 約150万人

464:shimizu ◆Q/mpujoW3g
17/02/17 22:12:55.18 .net
2016年の初詣の参拝者数上位10社寺は以下のとおりである。
順位 社寺 所在地 参拝者数
1 明治神宮 東京 約317万人
2 成田山 千葉 約309万人
3 川崎大師 神奈川 約307万人
4 浅草寺 東京 約291万人
5 鶴岡八幡宮 神奈川 約250万人
6 住吉大社 大阪 約239万人
7 熱田神宮 愛知 約230万人
8 氷川神社 埼玉 約210万人
9 太宰府天満宮 福岡 約200万人
10 生田神社 兵庫 約150万人

465:shimizu ◆Q/mpujoW3g
17/02/17 22:13:57.40 .net
明治神宮(めいじじんぐう)は、東京都渋谷区にある神社。
明治天皇と昭憲皇太后を祭神とする。
初詣では例年日本一の参拝者数を誇る。
正式な表記は「宮」の「呂」の中間の線が入らない「明治神宫[1]」。

466:shimizu ◆Q/mpujoW3g
17/02/17 22:14:46.26 .net
祭神(さいじん)とは、ある神社について、そこに祀られている神を指す言葉である。

467:shimizu ◆Q/mpujoW3g
17/02/17 22:17:17.40 .net
現在、多くの神社では、日本神話に登場する神を祭神としているか、日本神話の神と同神であるとしている。
元々神道は海・山・川などを畏敬の対象の神体とする自然崇拝から始まったものであり、初期の神社では、そこに祀られる神には特に名前はないか、不詳であった。
記紀や万葉集などでも、祭神の名が記されているのは伊勢神宮、住吉神社などごくわずかであり、ほとんどの神社の祭神は、鎮座地名や神社名に「神」をつけただけの名前で呼ばれていた。
延喜式神名帳でもほとんどの神社は社名しか記されていないことから、延喜式が編まれた10世紀初頭ごろまではほとんどの神社の祭神には特に名前がついていなかったことがわかる。

10世紀ごろから、それまでの氏神・地主神・岐の神としての性格だけでなく、火の神・水の神・木の神などの具体的な神徳・機能が附加されるようになった。
鎌倉時代末期になると、仏教による本地垂迹説に対する神本仏迹説が主に武家に支持されて隆盛となり、祭神も、
その神徳に合わせて地名・社名から日本神話に登場する神、あるいは「命・尊」「彦・比古」「姫・媛・比売」などをつけた人格的な神に移行するようになった。
また、稲荷・八幡などの有力な神を分霊(勧請)してそれを主神とすることも広く行われた。
この流れは江戸末期の国学者たちによる復古神道の提唱により神典が頻繁に引用されて行われ、さらに明治になり神仏分離として結実すると、村社末社無格社に至るまで浸透した。

そのため、神社の由緒には確実性に疑問が残ることとなり、式内社の論社においても伝承により後裔の可能性がきわめて高い論社という扱いとなっている。

468:shimizu ◆Q/mpujoW3g
17/02/17 22:19:29.94 .net
主神・配神[編集]

通常、神社では複数の神を祀っており、その中で主として祀られる神を主神(しゅしん)・主祭神(しゅさいじん)、それ以外の神を配神(はいしん)・配祀神(はいししん)・相殿神(あいどのしん)などという。

祭神を主神・配神に分けるのは、明治時代に官国幣社で行われるようになったのに始まるものである。
「主神とそれ以外の神」という観念はそれ以前からあり、「前」「相殿神」などと呼ばれていた。
配神は通常は主神にゆかりのある神だが、そのほか様々な経緯により共に祀られるようになった配神もある。
主神と同時に祀られるようになった配神もあれば、後で加えられた配神もあり、中には本来は配神だったのが後に主神に取って替わったものもある。
明治時代の神社合祀により、多くの配神を祀ることになった神社もある。

相殿(合殿とも)とは、主神を含めて複数の神が祀られた社殿のことを指す。
「相殿神」とは相殿に祀られる神のことだが、主神と配神とがある場合は配神のことを相殿神という。

469:shimizu ◆Q/mpujoW3g
17/02/17 22:21:46.66 .net
明治天皇と昭憲皇太后を御祭神とする[2]。
境内はそのほとんどが全国青年団の勤労奉仕により造苑整備されたもので、現在の深い杜の木々は全国よりの献木が植樹された。
また、本殿を中心に厄除・七五三などを祈願を行う神楽殿、「明治時代の宮廷文化を偲ぶ御祭神ゆかりの御物を陳列する」宝物殿、「御祭神の大御心を通じて健全なる日本精神を育成する」武道場至誠館などがある。
初詣では日本一の参拝者を集めることでも知られており、2010年(平成22年)現在、大晦日から正月三が日の間で300万人前後が参拝する。

470:shimizu ◆Q/mpujoW3g
17/02/17 22:21:46.71 .net
明治天皇と昭憲皇太后を御祭神とする[2]。
境内はそのほとんどが全国青年団の勤労奉仕により造苑整備されたもので、現在の深い杜の木々は全国よりの献木が植樹された。
また、本殿を中心に厄除・七五三などを祈願を行う神楽殿、「明治時代の宮廷文化を偲ぶ御祭神ゆかりの御物を陳列する」宝物殿、「御祭神の大御心を通じて健全なる日本精神を育成する」武道場至誠館などがある。
初詣では日本一の参拝者を集めることでも知られており、2010年(平成22年)現在、大晦日から正月三が日の間で300万人前後が参拝する。

471:shimizu ◆Q/mpujoW3g
17/02/17 22:24:43.63 .net
22万坪(約73ヘクタールに及ぶ広大な神域は、江戸時代初めには肥後藩藩主・加藤家の別邸であり、寛永17年(1640年)より彦根藩藩主・井伊家の下屋敷となっていたもので、
この土地が1874年(明治7年)、井伊家から政府に買い上げられて南豊島御料地となっていた[2]。
明治天皇は「うつせみの代々木の里はしづかにて都のほかのここちこそすれ」と詠んだ。

1912年(明治45年)に明治天皇が崩御し、立憲君主国家としては初の君主の大葬であったがその死に関する法律はなく、何らかの記念(紀念とも)するための行事が計画される[3])。
明治天皇は京都の伏見桃山陵に葬られたが、東京に神宮を建設したいとの運動が天皇を崇敬する東京市民から起こった。
続いて、1914年(大正3年)に皇后であった昭憲皇太后が崩御すると、政府は神社奉祀調査会を設置して審議し、大正天皇の裁可を受けて、1915年(大正4年)5月1日、官幣大社明治神宮を創建することが内務省告示で発表された[2]。

造営には全国から11,129人もの国民が労力奉仕に自発的に参加した[4]。
鎮座祭は1920年(大正9年)11月1日に行われ、翌2日には大正天皇の名代として皇太子裕仁親王(のちの昭和天皇)が行啓した[4]。
初代宮司は公爵一条実輝。

472:shimizu ◆Q/mpujoW3g
17/02/17 22:25:49.58 .net
神宮本殿は大東亜戦争末期の1945年(昭和20年)4月、アメリカ軍による空襲によって焼失した[2]。
その後全国から復興資金が寄せられ、仮殿が建設されて翌1946年(昭和21年)5月に還座祭が行われた[2]。
現在の本殿はその後、国内外からの寄付などによって造営が進められたもので、還座祭は1958年(昭和33年)10月31日に行われた[2]。
境内の旧御苑入口付近にはかつて、代々木の地名の起源ともなったモミの巨木「代々木」があったが、この名木も空襲の折、高射砲によって撃墜されたアメリカ軍機・B29の直撃を受けて焼失している[2]。
1966年(昭和41年)7月22日に大鳥居が落雷によって破損したため、新たな鳥居を1975年(昭和50年)12月23日に建立。
2代目の大鳥居も初代同様、台湾の阿里山連峰の大檜が用いられている[5]。
なお、落雷した鳥居は氷川神社の二の鳥居として翌年移設された。2008年(平成20年)10月26日-11月1日には、明治神宮御社殿復興50年記念の特別ライトアップ「アカリウム」奉納行事は開催された[6]。

第二次世界大戦後、宗教法人神社本庁の被包括宗教法人となり別表神社に指定された。
2004年(平成16年)に神社本庁との包括関係を一旦解消し単立神社となったが[7]、2010年(平成22年)8月23日、再び神社本庁との包括関係を設定した。


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