小沢昭一の小沢昭一的こころ 6本目のこころだぁat AM
小沢昭一の小沢昭一的こころ 6本目のこころだぁ - 暇つぶし2ch494:ラジオネーム名無しさん
15/03/20 01:18:26.67 TRKcpLS0.net
>>493
終戦直前の8月12日、療養所を出た足で大阪に向かった。上演されていた文楽を見るためだった。
芸事を生きる糧にしていた青年は、終戦後は会社に勤めながら新作落語を書き、落語会の世話をした。
そして47年、ついに弟子入りして落語家になる。継承の糸が細くなっていた上方落語界に身を投じた。
「ええかっこして言うたら情熱、義務感。やっぱり、落語が好きやったことですな」
上方きっての知性派の師・桂米団治は入門からわずか4年で病死。
これと相前後して、大看板が相次ぎ亡くなった。ラジオから流れるのは、もっぱら東京落語。
危機感をバネに、少年時代から蓄えた知識と観客のニーズを踏まえて、戦後社会に通じる落語のあり方を模索した。
文献や古老の証言をもとに古きを受け継ぎつつ、わかりづらい表現を改める。
趣味の俳句で培った情景描写力や、余韻を残す言葉選びのセンスも生かした。
伝統を引き継ぎ、いかに新しい命を吹き込むのか。
永遠のテーマに対する節度ある答えを米朝さんは示そうとした。
その問題意識を上方芸能の同志と結成した「上方風流(ぶり)」の同人誌にこう記している。
「先人の型を大事に然(しか)も、今の大衆に古い芸能の良さを伝える為(ため)に、少しでも解(わか)らせる方法を」
仕事は、高座にとどまらなかった。落語の歴史や魅力を伝える知識や芸論を惜しみなく書き表す。
楽屋で芸人同士で遊びに興じている時間も惜しんだ。
「滅んでしまっては、あまりにもったいない」。ただ、その一心だった。
40代からは全国各地のホールで独演会を重ね、テレビの司会者としても活躍する。
多忙を極めるようになっても、40歳の時に京都で始めた「桂米朝落語研究会」を続け、
後進たちをテニヲハから厳しく指導した。休むことのなかった行動力の裏側には、自らの人生への切迫感もあった。


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