12/08/09 10:43:14.16
(>>1)
―それでスッキリした気持ちになるの?
私は彼に尋ねた。
「するわけないじゃないですか」。
彼は即答した。
「ネットでは盛り上がるけれど、現実社会を見れば、いまだ政権を倒すことすらできていない。まだまだ負けているんですよ、僕らは」
そう訴えたときのやりきれない顔つきは、私がこれまで取材してきた多くのネット右翼の言葉や表情に重なった。生真面目さと憎悪、
焦燥。彼ら彼女らは危うい情熱に包まれていた。
この春、私はネット右翼と呼ばれる人々の姿を追ったノンフィクション『ネットと愛国 在特会の闇を追いかけて』(講談社刊)を
上梓した。取材の過程では、ネット社会から生まれた愛国者たちの怨嗟の声を聴き続けた。
シナ人を追い出せ。朝鮮人を追い出せ。叩き出せ。殺せ。
ネットに書き込まれる言葉が、そのまま口の端に上る。言語感覚にバーチャルとリアルの差異はなかった。
冒頭の青年と同じように、ネットを「主戦場」としている若者がいた。なぜ「戦って」いるのかと問う私に、彼は「日本を取り戻すため」だ
と答えた。彼は外国および外国人によって日本が「奪われた」と思い込んでいる。憤りの根底にあるのは異文化流入に対する嫌悪と、
外国籍住民が日本人の「生活や雇用」を脅かし、社会保障が“ただ乗り”されているといった強烈な被害者意識でもある。
いま自分が立っている場所は、あるべき日本ではないと考えれば、世の中のあらゆる理不尽を「敵」の責任として転嫁できる。
雇用不安も経済的苦境も福祉の後退も韓流ドラマやK-POPの隆盛も、すべては「敵」の陰謀なのだ。
「在日が日本を支配している」といった荒唐無稽な主張さえ、「奪われた者」たちにはもっともらしく耳に響く。支離滅裂だが明快では
ないか。在日など外国籍住民を略奪者にたとえるシンプルな極論は、一定程度の説得力を持つ。
ネットはそうした怒りの熱源を沸騰させるに最適なツールだ。
かつてネット空間はリベラルなアカデミズムによって独占されていた。いかなる検閲も制約も受けることのない言論空間として、カウンター
カルチャーの一種に数えられることもあった。しかし1990年代半ばからのパソコン大衆化に伴い、議論が感情の応酬へと変化するのは
必然だったといえよう。
※SAPIO2012年8月22・29日号
(終わり)