12/06/10 01:54:44.01
ソース(BLOGOS、内田樹氏) URLリンク(blogos.com)
(※抜粋・要約した文章です。内田樹氏が書いた全文はソース元でご確認下さい)
片山さつき議員による生活保護の不正受給に対する一連の批判的なコメントが気になる。「相互扶助」ということの本義に
照らして、この発言のトーンにつよい違和感を持つのである。
複雑な問題である。複雑な問題には、複雑な解決法しかない。「複雑な問題」に「簡単な解決法」を無理に適用する人は、
「散らかっているものを全部押し入れに押し込む」ことを「部屋を片付けた」と言い張る人に似ている。そのときは一瞬だけ部屋は
片づいたように見える。だが、そのままにしておけば、押し入れの中はやがて手の付けられないカオスになる。
生活保護の問題は「相互扶助」という複雑な問題にかかわりがある。複雑な問題に簡単な解決法は存在しない。弱者の処遇
についての考え方は、単純化すれば二つしかない。
(1)社会的弱者は公的な制度が全面的にこれを扶助する。
(2)社会的能力の多寡は本人の自己責任であるので、公的制度がこれを扶助する理由はない。
「大きな政府」論と「小さな政府」論も、「コミュニズム」と「リバタリアニズム」の対比も論理的には同型である。私たちが経験的に
言えることは、「落としどころはその中間あたり」ということである。ある程度公的な支援を行い、ある程度は自己努力に頼る。
そのさじ加減はときどきの政治状況や景況や、何を以て「弱者」と認定するかについての社会的合意にかかわる。
慈愛の実践のためには制度だけでなく、「個人的創意」の参与が不可欠である。「正義がさらに義であるように」「社会的公正が
さらに公正であるように」するためには、生身の個人が、自分の身体をねじこむようにして、弱者支援の企て関与することが必要
である。
けれども、「個人的創意」ばかりを強調すると、今度は「公的制度による支援は無用」というリバタリアンのロジックに歯止めを
かけることができなくなる。
苦しむものは勝手に苦しむがいい。それを見ているのが「つらい」という人間は勝手に身銭を切って、支援するがいい。オレは
知らんよ。
今回、一部の政治家たちと一部のネット世論が求めている「生活受給条件の厳正化」は、ある意味でリバタリアン的である。
親族による扶養を強調しているが、その趣旨は「相互扶助」ではない。問題になっているのは、「いかにして、孤立した弱者を救うか」
ではなく、「身内のことは、身内で始末しろ(他に迷惑をかけるな)」という、弱者(とそれを親族内に含むものたち)の公的制度からの
「切り離し」である。
なぜ「親族間の扶け合い」をうるさく言い立てる保守派が、その舌の根も乾かぬうちに「公的制度にすがりつくな」というリバタリアン的
主張をなすことができるのか。これは矛盾しないのか?もし「相互扶助」ということの大切さを言いたいのなら、公的制度を介しての
「相互扶助」の必要も指摘すべきではないのか。
でも、彼らは「親族間の扶け合い」は人間として当然のこととして求めるが、公的支援は「本来ならやらずに済ませたいこと」という
表情をあらわにする。というのは、リバタリアンにとって、「公」というのは国家や地方自治体という非人格的な行政組織のことであって、
それ以外は全部「私」に分類されるからである。そして、親族は「私」なのである。どれほどの規模でも、所詮は「私」なのである。
だから、「親族間で」弱者の面倒を見ろと言うのは、要するに「自助しろ」と言っているのである。彼らは「相互扶助」ということ
それ自体に「価値がある」とは思っていない。この世界は本質的には無数の「私」たちの競争と奪い合いだと思っている。
弱者への支援は「ゴミ収集」とか「屎尿処理」と同じような「面倒だけれど、やらなければいけない仕事」だと思っている。個人の
責任に任せてしまうと、かえって市民一人あたりの社会的コストがかさむから、やむなく行政が引き受けている仕事だと思っている。
(>>2以降に続く)