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作家、司馬遼太郎氏は産経新聞に入社する前、京都の「新日本新聞」で記者をしていた。昭和21年6月からのことだ。
発行部数5万、編集記者15人という新聞である。
その15人の中に青木幸次郎という背の高い男がいた。長崎県の対馬出身で、戦前は韓国・釜山で新聞記者をしていたという。
司馬氏はこの「対馬の人」にかなりひかれていたらしい。「街道をゆく」シリーズの『壱岐・対馬の道』には彼のエピソードが何度も
出てくる。「新日本新聞」の編集局ではこんなことがあった。真ん中に立ちはだかり、新聞を読んでいた青木が急に大声をあげた。
「対馬は朝鮮領だと李承晩大統領はいってるよ」「おれの故郷(くに)もあぶないわい」
司馬氏によれば、九州人独特の諧謔(かいぎゃく)をこめていたという。周囲は大声で笑った。誰もがブラックユーモアとしか
受けとらなかったのだ。
司馬氏は昭和22年の暮れか23年のことだという。李承晩が韓国の初代大統領となるのは23年夏だから、どんな立場での
発言かはハッキリしない。ただ李承晩が本気で対馬を韓国領にしようとしていたらしい「証拠」は後に見つかる。
『壱岐・対馬の道』が週刊朝日に連載中の昭和53年4月、米国務省が公表したアジア・太平洋に関する昭和26(1951)年
の外交文書である。『壱岐・対馬の道』にも書いてあるが、53年当時の新聞でもう少し詳しく調べてみた。
サンフランシスコ講和条約を2カ月後にひかえた26年の7月9日、韓国の梁裕燦駐米大使が米国務省にダレス顧問を訪ね、
こう聞いた。
「対馬は韓国領だが、講和条約の下で韓国に引き渡されることになっているのか」
ダレスは答える。「対馬は極めて長い期間、日本の完全な統治下にあり、講和条約でも、現状に変わりははない」(会談メモ)
梁大使は7月19日にもダレスを訪問、対馬の領有権主張は取り下げる代わりに「竹島」を持ち出す。「独島(竹島)と波浪島は
日韓併合以前に韓国領だった」。ダレスは明確な返事を避けたが、国務省はその後8月10日付でこれを否定する覚書を韓国側
に送った。
「我々の情報では、竹島は1905年ごろからこの方、韓国の一部として取り扱われたことはなく…それ以前にも韓国が領有を
主張したことはないようだ」というものだ。
1951年はすでに李大統領の専制政治が定着しており、梁大使の一連の動きが大統領の意を受けてのものだったことは
間違いあるまい。
竹島を不法に「占拠」するためのダミーとして対馬を利用した可能性もある。しかし22年か23年にもそうした発言があったと
すれば、終戦のドサクサ、火事場泥棒的に対馬を手に入れようという野望を持っていた可能性は強い。
李承晩は日本にとり、勝手に「李承晩ライン」を引き、多数の漁船を拿捕(だほ)する「とんでもない」大統領だった。韓国国内でも
その傲慢な人柄や専制政治がたたり、1960年辞任に追い込まれ、石もて追われるようにハワイに亡命した。今でも許せないという
韓国国民も多い。
しかし竹島への国をあげての異常な執着や、韓国資本による対馬での土地買収の事実などを見ると、島への「野望」はしっかり
引き継いでいる気がする。
ソース(MSN産経ニュース、論説委員・皿木喜久氏)
URLリンク(sankei.jp.msn.com)