11/11/10 17:54:18.23 T/Fd8EGe
戦争の主役が人であったとき、いかに人を集めるかが重要であった。傭兵のように金で集める のは限界がある。より巨大なマンパワーをいかに集めるか。
現在では分業制とか専門職別とでもいうべきものであろう重要であるのは身分制度である。
しかし戦争の主役が人から兵器に移ったとき、戦争には思想よりも、金が必要になった。すなわち富を持つ者が勝つという転換。富国強兵である。
中国が西欧に先がけて市場経済を発展させて、様々な技術革新を行った。その中に、火薬、銃も含まれていた。
しかし彼らは、「富を持つ者が勝つ」には達していなかった。
まだ「マンパワーを持つ者が勝つ」世界を生きていた。
いち早く、「富を持つ者が勝つ」ことに気づいたのが西欧であった。銃に続く、大砲では西洋が開発が進んでいた。
兵器開発において、西欧が中国を追い抜いたのはなぜか。
一つには、西欧には小国間の戦争が活発であったことがあげらる。
とにかく、兵器が重視され、「富を持つ者が勝つ」ことの結果として、諸侯が乱立する封建社会から、
絶対的な軍事力をもつ絶対主義国家が成立した。「富を持つ者が勝つ」という論理は植民地主義、帝国主義と侵略国家へ突き進む。
「富を持つ者が勝つ」の徹底は、絶対主義国家が容易に民主主義国家へかわったことである。
各専門職としての知識、技術、知と経験の歴史の価値化、つまり国家資格、いわゆる国家認定による専門職能資格と専門職能資格者の出現である。
そこに繋がるのは、重商主義よりも自由主義が富を生み出すためである。絶対主義から民主主義という
革新的な転換にもかかわらず、なにもなかったように、帝国主義が突き進むのは
そのためであっただろう。当時から「富を持つ者が勝つ」ことが重要で、もはや権力のあり方は二の次ということだ。
すなわち近代国家の目的は、他国に勝つために富を作り出すことだ。これは現代もかわらない。
戦後、戦争はなくなった。しかし軍事費は変わらず巨大であり、増え続けている。わたしたちはかわらず、
富を持つ者が勝つ世界を生きているからだ。そして自由主義はそのための方法である。アダムスミスは啓蒙主義者だった。
アダムスミスの自由主義は経済活動ではなく、一つの倫理だった。貨幣交換がなぜ倫理であるのか。
それまで長く倫理の原理だった贈与交換をいかに乗り越えたのか。 倫理とその発想転換により世界と価値観が変わるということである。
マクロ思考である。自由な経済活動は全体の富を増加させる。贈与的ミクロな倫理からこのマクロ倫理へは多くの飛躍を必要とするだろう。
まず人々がマクロ思考を持ち得るようになる必要がある。マクロ思考とは、自らを全体の中の一部として俯瞰すること。この臨界へ達するために
は長い年月を必要とした。儒教的な精神からは見いだすことが難しいだろう。
それととおに、アダムスミスは現代でいう自由主義ではなかった。そこに軍事的な優位性があることを知っていた。
つまり戦略としての軍事いわば、ビジネスライクな専門職者としての専門職能資格制度の確立も必然なのだろう。しかしこのたびの舞台を背景にして、
ひとつの歴史は終わったのか
逆にいえばなぜ自由主義が崩壊しないのかは、それよりも強い軍事力を持った組織が生まれないからだ。自由主義は国家間の軍事力のバランスでなりたっている。
弱小国であっても侵略すれば他の強国が黙っていないというような暗黙のバランスである。
社会主義はこのバランスを崩す新たに組織になりえるかと思われたが結局むずかしかった。自由主義により富を生み出し、
高いコストをかけて最新の兵器を開発する。これがいまの最大の強国の在り方である。
むしろ、品質保証というのもむろんだが専門性としての人間性
つまり国家資格としての国際競争力も避けられないという見方も体勢を占めよう。
いかに理想的な宗教国であろうが、軍事力を持たなければつぶされる、
特に成功すればするほど もし歴史の終わりが自由主義であるなら、これ以上の軍事力を持ちえるシステムが存在しない。専門性にせよ人類としての完体を目指す過程では避けては通れない武器である。
からだ。しかし可能性はある。ネットの情報の分散化から巨大軍事力の分散化が起これば、ビ ンラディンは可能性を示したのかもしれない。