10/10/18 10:04:39
>>575
あのね、非宗教・・・つまり宗教から離脱した論理が成立すると、なぜ考えられるのか・・・
と云う話なんだが。
人が何かを「正しい」と確信するためには、その核となるものが必要であるという意味は
わかるかい?例えば、反復して検証可能な科学的事象に関する論理は、反復して検証し
たという事実をしてその論理が正しいであろうことを確信するわけだよね。
ところが社会に関するシステムについては反復して検証することは出来ないわけだ。
経験則としてうまくいった…と云うのは、そりゃだれかにとってうまくいったことはだれかに
とってはうまくいっていないというのが実際なわけで、社会に関する制度において、そもそも
「うまくいっている」という評価さえ相対的なものだというのもわかるかい?
そういう中で主に西欧において発展してきた社会に関する論理は、「人が理性によって
見出せる正しさ」という代物がある・・・と云う前提があるでしょう?
その前提こそ、キリスト教徒たちにおいて納得でき、ほかの宗教を信じる人には納得できない
前提なんだよ。
キリスト教徒たちは、イスラムの分かりやすく矛盾がない聖典に対抗して「人の理性に基づく思考」
が神の摂理の一部を知ることが可能である」との論理を提示し、それは結果的に宗教経典など
に基づかない論理も是とする…と云うか神を除外しても成立するかのように見せているけれども
それは、そもそもの前提たるキリスト教徒たちが対イスラムのために提示した理性への確信
という宗教的な前提を一歩も出ていないことに気付いてほしいなぁ。