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アメリカ流の自民主義は自由の過剰としての無秩序を、格差の過剰としての差別を、競合の過剰としての
弱肉強食をもたらした。それをみて日本の民主党は、アメリカの民主党と軌を一にし、社会(介入)民主
主義を、つまり社民主義を標榜(ひょうぼう)した。平成改革を強く要求したその舌の根も乾かぬうちに、
秩序回復、格差是正、友愛喚起を訴えるという二枚舌で、政権を奪取したのである。
昭和期の自民党も社民的政策を推し進めていたのだが、そこには、無自覚にせよ、国柄保守の態度が何と
か維持されていた。派閥や談合といった非公式の場において、少数派の立場にも配慮するという形で、国
柄の持つ多面多層の性格を保持せんとしていた。しかし、「改革」がその国柄をついに破砕したのである。
自民党を怯(おび)えさせ、また民主党を高ぶらせているのは「数の論理」である。「民主主義は多数決
だ」(小沢一郎民主党幹事長)という猛々(たけだけ)しい言葉の前で自民党は萎縮(いしゅく)してい
る。しかし、この文句はデモクラシー(民衆政治)の腐敗の明らかな兆候なのだ。
なるほど、民衆政治は「多数参加の下での多数決制」という数の制度である。しかし、これから正が出る
か邪が出るかは、「民意」なるものが優等か劣等かによる。たとえば、議会での議論が必要なのは、民意
によって選ばれた多数派の政権も、フォリビリティ(可謬性つまり間違いを犯す可能性)を免れえないか
らだ。またたとえば、ほとんどすべての独裁が民意によって、換言すると民衆政治を民衆自身が否定する
ことによって、生み出されもした。こういうものにすぎぬ民衆政治を民主主義の理念にまで昇格させたの
は、自民主義にせよ社民主義にせよ、近代の理念における錯誤だらけの模型であり流行である。
デモクラティズム(民主主義)は民衆という多数者に「主権」ありとする。主権とは「崇高、絶対、無制
限の権利」のことである。ただし、民衆が「国民」であるならば、国家の歴史に秘められている英知のこ
とをさして、主権という修辞を与えることも許されよう。しかし、平成列島人のように国家のことを歯牙
(しが)にもかけない単なる人民の民意に主権を見いだすのは、民衆政治の堕落にすぎない。これから誕
生する保守の最初の仕事は、民主主義を国民政治への最大の敵と見定めることであろう。