13/02/19 18:43:02.33
「私はもう日本には戻りません」
こう断言するのは、米国シカゴ大学の中村祐輔教授(60歳)。’12年4月に研究拠点を東京大学
医科学研究所からシカゴに移した。中村氏が開発した「がんペプチドワクチン」は、これまで
の抗がん剤のように副作用を起こさない新しいがん薬として世界中から注目を浴びている。日
本国内の臨床研究では非常に悪化した肺がん患者や、難治といわれるすい臓がんの患者も回復
させるなどの成果をあげている。シカゴに拠点を移したため、日本国内でがんワクチンの臨床
研究に支障が起こりつつある。しかし、なぜ中村氏は遠くシカゴに行ってしまったのだろうか?
昨年末に上梓した著書『がんワクチン治療革命』(講談社)に、その理由が書かれている。理由
の30%は「シカゴ大学に(自分の研究の)チャンスを見出したこと」。そして40%が「日本の政治
家に対する無力感」。残る20%が、「日本政府がゲノム研究をサポートしないこと」だという。
中村氏は’11年1月、政府に請われて国の『医療イノベーション推進室』室長への就任を二つ
返事で引き受けた。がんに対する新しい薬が、21世紀になって続々と登場している。だが、ほ
とんどが海外の企業で見つけられたものであり、日本では、これらのがん治療薬が国内で承認
されるのに数年以上遅れてしまう。新薬開発には、煩雑な手続きや膨大なデータを集めるため
に多大な時間を要する。がん難民を生むうえに、医薬品の輸入超過が1兆6千億円(2012年)にも
達している。
「推進室の目的は、製薬や医療機器をめぐる承認の遅さや開発の遅さを関係者で改善していこ
うというものでした。今の日本に必要な改革なので、クビにならなければ5年くらいは頑張る
つもりだったんです。ところが、室長といっても権限は与えられず、絵に描いた餅のような案
を作る仕事でした。会議に参加する省庁は互いの縄張りを主張するだけで、改革は一歩も進
まなかった」(中村氏)
無力感にとらわれた中村氏は10月に野田佳彦首相(当時)に「霞ヶ関には谷間があって、もうどう
にもなりません」と訴えた。すると野田首相は「そうですか。霞ヶ関に谷間ですか? 担当者に対
応するように伝えます」と回答しただけで、結局は何も変わらなかったという。
中村氏は同年末に室長を辞任。同時に米国へ渡ることを決めた。
>>2へ続く