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尼キチの語る武家屋敷街とは程遠い出屋敷の実態
池田の店は、地元のやくざ・高木組が沼地を埋め立てて造った市場のなかにありました。
この付近では敗戦直後から米や砂糖などの食料品を売る人があり、その多くは戦災者や
引き揚げ者であったと言われています。高木組はそういった人々からショバ代を集める一方で、
にらみをきかし、それなりの治安を保っていました。
統制経済下にあった当時、生鮮食料品は手に入りにくく、鮮魚の配給も、尼崎にその割り
当てが来ることはほとんどありません。
そんななか池田は仲間とともに四国や明石などで魚を買い付け、夜中に中在家〔なかざいけ〕
や東浜から陸揚げして小売業者に売りさばきました。市内はもちろん阪神間各地、遠くは京都
からも、買い手が集まって来たと言います。その繁盛〔はんじょう〕ぶりは当時を知る人々の語り草
となっていて、公務員の初任給が数千円であった昭和23、4年頃、池田の店の売り上げは1日
10万円を下らなかったという証言さえあります。
また彼は、警察や高木組などともうまく折り合いをつけ、界隈で大きな力を持つようになっていきました。
ドブ川の上でまで商売
バラック建ての市場は、池田の店を中心に、果物屋、昆布屋、雑貨屋、飯屋、寿司屋など百軒
近い店がひしめきあい、木組みのアーケードも作られました。市場のまわりにも露店が増え、ことに
玄番北之町を流れるドブ川の上には、板を渡して米・雑穀などの食料品や日用雑貨、古着などを
広げる店がひしめきあっていました。商人といっても戦災で焼け出された人など素人がほとんどで、
丹波や篠山〔ささやま〕あたりまで買い出しに行く人や、闇物資のブローカーから買い入れる人など、
仕入れ方法もさまざまでした。
闇市場の真ん中を通っていたというドブ川は、かつては田畑が広がる農村であった西難波〔なにわ〕
・東難波の間を通って、三和本通、玄番北之町を横切り、貴布禰〔きふね〕神社横の玄番堀へと
流れ込んでいた用水路でした。
闇商人たちが店を広げたあたりは、闇市となる以前は水はけが悪く、葦〔あし〕のはえる湿地であった
といいます。