【藤内】富山県の部落問題3at RIGHTS
【藤内】富山県の部落問題3 - 暇つぶし2ch122:名無しさん@お腹いっぱい。
12/01/25 12:47:10.42 Eu053YSU0
富山のタブー

越中富山は江戸末期まで人食(カニバリズムkannivalism)があった。

雪に閉ざされる富山は、江戸時代6回に亘る凶作大飢饉が起こると、餓死者が一日で1000人を遥かに超えたとされる。

犬猫家畜を処分し、いよいよ食べるものがなくなると、富山藩の人々は草木虫を食し飢えを凌いだが、雪が降るとそれすら許されなくなった。

雪や糞尿まで食しても絶えきれず絶滅した部落も多く、飢餓で弱り果て、餓死者を埋める体力さえ残っておらず、次の餓死を待つ状態であった。

道端に餓死した富山人の死体が無数に転がり、藤内(今の富山市民)が餓死者処分し、滋養強壮になる犬の肉と偽って人肉を売る商いも行われた。

(これが富山の薬売り商いを飛躍させたといわれる。しかし羊頭狗肉とは皮肉である。)

1695年の大飢饉では悪法の生類憐みの令により獣虫を殺し食せなくなり、逆に飢えに倒れた富山人を過保護され警戒心が無くなった野良犬が犯して食い殺し、富山人は抵抗も阻止も許されなかった。

浄土真宗が普及していたにも関わらず、飢餓の前には無力で、冷たい神通川に足手まといになる小さな子供を溺死させ、自分達は藤内や脱藩して非人小屋に身売りして飢えを凌ぐ夫婦も多かった。

(この富山藩出身の藤内非人達が、再び土地に戻り居座るのを、残った富山藩民は差別して嫌悪し、これが富山の排他的性格の一因とも解される。)

明日の食費のために人身売買も行われ、8歳くらいの娘は借金の肩代わりとして、越後や加賀に売られ女中として一生奉公で使われたり、14歳頃になると遊郭に売られた。

わずか数両で売られた割に利子は高く、逃げると利子が2倍になった。

この経験から明治に入ると富山の人は農業に頼っては飢餓のときに同じ苦しみを味わうことを学び第二次産業にも積極的に着手した。

富山の人が無効薬を普及させる商売上手、工業産業の普及、貯蓄率が高いのも、このような閉ざされてしまった悲痛な歴史背景に裏打ちされている。

飢餓地獄によって、家族・部落単位の結束意識が高まり、他の土地の人を信用できず排他し、自分達で生き抜くという自意識、自己中心の表れでもある。




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