【新説?】部落学序説 吉田向学【珍説?】at RIGHTS
【新説?】部落学序説 吉田向学【珍説?】 - 暇つぶし2ch231:名無しさん@お腹いっぱい。
09/07/01 19:15:49 /6NajsUsO
自分の意見を書けよ

232:吉田無学の2
09/07/01 19:27:49 5Qn4UKvyP
>>231
吉田向学さん(本職:日本キリスト教団牧師)の部落学序説は、
私にとっては、驚天動地の魅力ある仮説。目から鱗が落ちる思い。
詳しくは、第4章の要約が終わってから書ければ、書きます。

233:名無しさん@お腹いっぱい。
09/07/02 15:28:54 DDyuXO250




歴史学者に一向に相手にされないトンデモをせっせとコピペする馬鹿( 嘲笑 )






234:第4章 太政官布告批判[
09/07/03 06:43:48 vdtaOcbTP
9節 警察と遊女と部落と(続き)

4項 その9 まぼろしに終わった警察制度(旧:近代警察における「番人」概念の変遷 その9)

明治5年2月、司法省は、外国人法学教師、フランス人ジュ・ブスケを雇用して
「警察概念・警察制度」の情報を入手し、「穢多非人等ノ称廃止」太政官布告から1年10ヶ月後の
明治6年6月、「警察規則案」を作成し太政官あて提出した。
しかし、「明治6年政変」により同年12月、この案は消滅したが、これは「外国の模倣」(川元)ではなく、
近世幕藩体制下の司法・警察である「非常・民」としての「旧穢多」・「旧非人」が行ってきた
「現場の警察の仕事、・・歴史を徹底的に研究し」、それを再評価の上、近代国家に相応しい
警察制度を創設しようとするこころみであった。

「警察規則案」第11条においては「行政警察官」の定義が、第19条には「司法警察官」の定義があり、
法文上「警察官」という概念の外延(誰が警察官に任命されるべきか)と内包(警察官は何を職務となすべきか)の
定義が明確になされていた。
第11条・第19条では、警察官の外延として「捕亡吏、番人小頭・番人・・」が規定され、
これは近世幕藩体制下の司法・警察である「非常・民」の外延(同心、目明し・穢多・非人、庄屋・畔頭)を意味し、
その内容においては、日本の近世幕藩体制下の司法・警察である「非常・民」制度をそのまま踏襲していた。

部落解放研究所は、『部落解放史』から、司法卿・江藤新平の指導で構築されていった
近代警察制度の構想を「無視」する。

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235:第4章 太政官布告批判[
09/07/04 15:11:51 08Cr3MnSP
9節 警察と遊女と部落と(続き)

4項 その10 もし、江藤新平の警察制度が実施されていたとしたら・・・
(旧:近代警察における「番人」概念の変遷 その10)

明治新政府は、明治5年に期日を迎える「不平等条約」(治外法権受容と関税自主権放棄)の
早期撤廃を目的として、その「要職」から多くの人員を外交使節団として欧米各国に送り出した。
明治4年11月岩倉使節団は日本をはなれたが、条約改正交渉は途中で打ち切られ、明治7年9月帰国した。

その間、「留守政府」を担った実務派・大隈重信と理論派・江藤新平は、主な長州・薩摩派閥「要職」不在中、
近代中央集権国家建設のため、日本の法制度・法制史の精神・伝統を保持しつつ、
取捨選択して諸外国の制度を導入する「予想以上に成績をあげた」「留守政府の施策」を実施した。
・・・・明治5年02月 近代的所有権の法認・・・明治5年04月 東京大阪間電信開通・・・ 
明治5年08月 近代教育制度創設・裁判所体系整備・・・明治5年09月 新橋・横浜間鉄道開通・・・
明治5年11月 徴兵告諭布告・太陽暦採用・国立銀行条例制定・・・明治6年06月 キリシタン禁制高札撤去
・・・他に、「国憲編纂と国会開設の計画、法典整備、・・・全国郵便制度実施 めまぐるしいばかりの新政策・・・」

大隈・江藤による「留守政府」(真正の明治政府)は、条約改正交渉のために放浪する
岩倉使節団のできなかったことを現実化して諸外国からその政策を支持された。
その肯定的評価を背景に、形の上で切り捨てた近世幕藩体制下の司法・警察であった
「非常・民」・「旧穢多・非人」を、あらためて近代中央集権国家の警察として再組織しようとした。

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236:第4章 太政官布告批判[
09/07/04 16:35:52 08Cr3MnSP
9節 警察と遊女と部落と(続き)

4項 その11 旧穢多を近代警察から排除する大久保利通の政策
(旧:近代警察における「番人」概念の変遷 その11)

(明治6年5月、岩倉使節団離脱・単身帰国の)大久保利通は、「明治6年政変」(クーデター)により、
政敵・西郷隆盛・板垣退助・江藤新平・後藤象二郎・副島種臣等を排除し、
同年11月、自らが設置を提案の内務省・内務卿に就任、明治7年1月「内務省職制及事務章程」を制定、
江藤が司法省(「司法権」)に設置した「警保寮」を内務省(「行政権」)に移管・帰属させた。

「警保寮」内務省移管は、近代日本の警察制度を決定的に方向づけ、
それ以降の近代日本の警察システムは「行政権」に帰属し、国内政治を担当する内務省に集中され、
権力の番人(「権力の走狗」)としての警察が成立した。
このことが後代に影響し、戦前の特別高等警察(政治警察)に至る民衆の弾圧機関になってしまった。
また、司法卿・江藤のもとで、窮地と失脚の淵にたたされた「山城屋和助事件・三谷三九郎事件の山県有朋・・
汚職・不祥事を続出させていた長州藩は・・・罪責をうやむやに」された。

内務省は、明治7年4月、司法省設定の警察官「番人」呼称の全国強制を撤回し、
司法省の近代警察機構構築に(組み込まれた)近世幕藩体制下の司法・警察である
「非常・民」としての「旧穢多・非人」をも、再び排除した。
明治8年3月、内務省「行政警察規則」制定により、「旧穢多・非人」の近代警察システムへの組込は表向きは
中止されたが、近世幕藩体制下300年間に渡って培われ継承されてきた
「旧穢多・非人」の専門的知識と技術なしでは、近代警察システムを充分運用することができないため、
新政府は極めて「いびつな形」(「半解半縛」)で彼らを近代警察システムの中に組み込んだ。

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237:第4章 太政官布告批判
09/07/04 19:23:57 08Cr3MnSP
9節 警察と遊女と部落と(続き)

4項その12 川路利良の指摘する「卑弱の傭夫」は旧穢多にあらず
 (旧:近代警察における「番人」概念の変遷 その12)

「日本警察の父」といわれる川路利良は、司法卿・江藤新平の命を受けて、西欧の警察制度の調査に渡欧し、
帰国後、江藤の政敵となった大久保利通に加担、後、内務省下の「大警視」(東京警視庁のトップ)として活躍した。
川路は、帰国後の明治6年10月「警察制度につき建議」を提出し、
司法卿・江藤のもとで設置された「番人制度」を全面的に批判し、「番人制度」の廃止、
即ち「卑弱の傭夫」(「番人」)を廃止し「邏卒」を採用することを提言した。
「番人」とは、東京府下に配置された1200人の、司法省警保寮の監督下にある「番人」のことで、
その大半は近世幕藩体制下で司法・警察に従事していた「穢多・非人」の類(自身番・番太等も含む)ではないかと思われる。

筆者は、ほんとうに、「番人」は「卑弱の傭夫」か疑う。
日本に駐留している外国人兵士が窃盗・殺人等の犯罪を犯しているのを、「番人」が現行犯逮捕して連行しようとしたとき、
その駐屯地から銃剣で装備した外国の軍隊(兵士)が出てきて、犯罪を犯した兵士だけでなく、
それを逮捕しようとした「番人」までその駐屯地に連行された。
その理由は、日本人が外国人に対して危害を与えた場合、多額な賠償金を請求されることを恐れた
明治新政府が、「番人」に剣・銃を持たせず、ただ「棒きれ」を持たせたに過ぎないからであった。

「卑弱の傭夫」とは、不平等条約改正に失敗した大久保や、その官僚の川路利良に他ならなかった。
やがて大久保独裁政権は、切り捨てた「旧穢多・非人」の「非常・民」としての
専門的知識と技術・経験に頼らざるを得ない事態に遭遇することになり、
政敵・江藤の政策のただしかったことを事実として認めざるを得なくなる。

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238:第4章 太政官布告批判
09/07/04 19:30:41 08Cr3MnSP
9節 警察と遊女と部落と(続き)

4項 その13 「エタ」(旧警察)と「ネス」(新警察)
 (旧:近代警察における「番人」概念の変遷 その13)

筆者が、「ネス」ということばに遭遇したのは、元徳山藩「北穢多村」の系譜をひく被差別部落の中で開かれていた
部落解放同盟新南陽支部の解放学級参加時であった。
その解放学級で、「部落と警察」、「部落と犯罪」というテーマが取り上げられ、
当時の支部長はこれらのテーマで話をされるとき、「警察」に対する親しみと懐かしさを持って語った。
支部長の話に「エタ」と「ネス」という一対のことばがあり、支部長によると、
「エタ」ということばを投げつけられて差別されたとき、相手に「ネス」ということばを投げかけていたという。

「エタ」は玄人(プロフェッショナル)、「ネス」は素人(アマチュア)の意味であるが、
「エタ」と言われて被差別部落のひとは、その差別語のために傷つくものの、
その応酬として差別する一般のひとに「ネス」と投げ返すとき、一般のひとはそのことばにどれだけ傷つけられるのか、
つゆも傷つけられるということはないのではないか。
この言葉のやりとりは、「差別」対「被差別」の言葉のやりとりではないのではないか。
「エタ」(=近世幕藩体制下の司法・警察である非常民としての穢多で、
明治4年の太政官布告以降非常民の職を解かれたひとのこと、「旧番人」)
「ネス」(=明治4年以降、警察官になった元常民及び元武士の一部、「新番人」)
「やあーい、首になった警察官!」、「素人警察官が何をぬかすか!」
又は、「旧番人!」と揶揄されて、「新番人!」と切り返す、意味ではないか。

筆者がそう考えたとき、当時の支部長が、楽しそうに懐かしそうに、
「部落と警察」、「部落と犯罪」の話をされる「生活の座」(Sitz in Leben)にたどりついたような気がした。

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239:第4章 太政官布告批判[
09/07/05 14:01:31 Lu4jr15OP
9節 警察と遊女と部落と

5項 「旧穢多」の受容と排除 その1(宮本常一のことば)

筆者の『部落学序説』開始後、これといった反論・批判もなく今日にいたる。
その中で、「穢多」という「差別語」を繰り返し使用しているにもかかわらず、「差別発言」であると指摘する者はなかった。
『部落学序説』は、「筆者の差別性を曝しながら、賤民史観を撃つ・・」、筆者の「差別性」を明確に自覚して
執筆するスタイルゆえに、部落差別の差別者・被差別者を問わず、
第三者的(ひとごと・たにんごと・えそらごと的)に関与してきた者にとっては、違和感の多いものになったのであろう。

この10日間、筆者が目を通した書籍の中で、宮本常一著『民俗学の旅』の次のことばが、こころの中に沈んできた。
宮本の父の「・・・あとからゆっくりついていけ、それでも人の見のこしたことは多く、・・」
「・・自分のえらんだ道をしっかり歩いていくことだ。」、宮本の師、渋沢敬三からの
「大事なことは主流にならぬことだ。・・・その見落とされたものの中に大事なものがある。それを見つけてゆくことだ。・・」

「常民の学」としての民俗学を構築してきた宮本と、「非常民の学」としての部落学構築を標榜する筆者との
共通点をあえて抽出すれば、それは宮本の「私は長いあいだ歩き続けてきた。・・・」のことば、
即ち、自分の足で歩き続けることにある。
筆者は、「常民の学」としての宮本が「見失った・・・」、「非常民の学」としての部落学構築の旅を続ける。

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240:第4章 太政官布告批判[
09/07/05 23:07:49 Lu4jr15OP
9節 警察と遊女と部落と(続き)

5項 「旧穢多」の受容と排除 その2(川元「部落学」と吉田「部落学」の比較一覧)

川元祥一著『部落学』と、吉田向学著『部落学序説』の「部落学」を比較した。
・・・(比較)36 部落問題のイメージ
川元:まだまだ暗くて重いイメージの中にある
吉田:学校同和教育における「部落民像」は「虚像」。被差別部落の青少年は、「虚像」を捨てて、「実像」に
基づいて生きるべき・・・。「過去」の歴史を直視するもののみ「未来」の歴史を栄光あるものにすることができる。・・・

比較・検証しながら、筆者は、ある仮説を想定した。
それは、「部落民であることは、部落民が何であるかを知ることができる絶対的要因ではない」・・・、
「部落民」であるがゆえに、かえって「部落民」が何であるかという認識に失敗している場合も少なくない。
学力・学歴補償により「大学」へ進学した「被差別部落」出身の青年は、
歴史の真実からほど遠い「賤民史観」を植えつけられ、「被差別部落」のひとは、
近世身分制度の中で最下層の「みじめで、あわれで、気の毒な存在・・・」というイメージを共有することを要求された。

無学歴・無資格の筆者の目からみると、「他者」・「第三者」・「世間」の「部落民」を見るまなざしを受け入れ、
その範囲で、「部落民」であることの負の遺産を克服しようとするいとなみは、極めていびつなものにしか見えない。
川元も、そのようなタイプの存在である。

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241:第4章 太政官布告批判[
09/07/07 06:47:21 VdkasDf3P
9節 警察と遊女と部落と(続き)

5項 「旧穢多」の受容と排除 その3(筆者がであった本当の教育者)

「「旧穢多」の受容と排除 その2」を書いてから約3週間、『部落学序説』の資料整理中、
林竹二著『田中正造の生涯』を読み、政治家・田中正造と教育者・林竹二の思想・生き方に深く打たれた。
もっと早く両者のことを知っていたら、『部落学序説』はより早く完成、その内容も充実できたのに・・、
林のような教育者がいたことに驚きの思いを持ちつつ、そのような教育者に出会わなかったことにさびしさを感じた。

しかし、筆者は、下関書店のMさんのことに気がついた。
それは、筆者が、今の小さな教会に赴任してまもなく、下関書店のMさんという人が尋ねてこられ、
以後、Mさんは、部落差別問題・三里塚問題・天皇制問題について、
読書指導を通じて筆者に対し「学問」の世界に目を開いてくれたからである。
そして、『部落学序説』執筆の基本的な資料が整うまでになり、
筆者の蔵書がある意味充実しているのは、Mさんによる。
筆者は、彼から真正の教育を受けることができた。その期間は8年間・・・。

『部落学序説』の方法論は、山口の地で、いろいろな人との出会いの中で構築されてきたものである。
筆者は、山口の地に「同化」することはできないが、山口の歴史と文化の本質を「被写体」として見続け、
記録していきたい。

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242:名無しさん@お腹いっぱい。
09/07/07 13:32:22 GDn+TtDBO
部落という日本語を特殊部落専用にするとは何たる横暴だ?

243:第4章 太政官布告批判[
09/07/08 05:19:36 dpJrmMVa0
9節 警察と遊女と部落と(続き)

5項 「旧穢多」の受容と排除 その4(図解)

「図1」「賤民史観」、部落研究・部落問題研究・部落史研究の一般説で、『部落学序説』の批判の対象である。
「図2」『部落学序説』は、近世幕藩体制下の身分制度は、「武士」(士・穢多・非人)身分と
「百姓」(農・工・商)身分から構成され、「穢多・非人」は、「武士」身分階層の末端に位置づけられた人々である。
「図3」は、維新後の明治4年廃藩置県までである。
「図4」は、廃藩置県後の、近世幕藩体制下の身分制度廃止と近代中央集権国家・明治天皇制下の
身分制度変遷、近世幕藩体制下の「非常・民」(藩士・士雇・穢多・非人・庄屋・名主)と
「常・民」(百姓・町人・その他)が、どのように近代的身分に組み換えられていったかを示す。
「図5」「明治6年政変」前のいわゆる「留守政府」は、、幕藩体制下の司法・警察である
「非常・民」(士雇・穢多・非人・庄屋・名主)を近代警察の中に再度取り込もうとしたが、
世襲制度を廃棄し「新非常民」(近代警察)になるためには採用試験合格が必要となった。
また、「新非常民」(軍人)になることができない人、女性・こども・障害者・病人・・・などは、
「新常民」として差別の対象に貶められていった。
「図6」は、「明治6年政変」後の「大久保利通の明治政府」では、「新平民」が「新非常民(警察)」になる道が急速に狭まれ、
「新非常民(警察)」から排除されることになった「旧非常民(穢多・非人)」も、女性・こども・障害者・病人などと同じく、
「差別的なまなざし」がむけられるようになった。

明治4年から昭和20年の敗戦まで、戦前の日本社会は、「非常・民」(軍人)としての生き方が尊ばれ、
「常民」としての生き方が「女々しい」として軽んじられた世界である。
敗戦後、「非常・民」(軍人)であることを強制されることがなくなった社会は、
近世幕藩体制下の日本の社会に酷似している。

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244:第4章 太政官布告批判[
09/07/09 06:49:44 QS3KyY3LP
9節 警察と遊女と部落と(続き)

5項「旧穢多」の受容と排除 その5

近世幕藩体制下の司法・警察である「非常・民」としてその職務にあたってきた「穢多非人等」は、
明治維新以降もその職務に従事していた。
これに関し、大日向純夫は、『日本近代警察の確立過程とその思想』
(岩波近代思想大系『官僚制・警察』の末尾添付論文)において、
明治4年の「廃藩置県」・「穢多非人等ノ称廃止」両太政官布告以降における
旧「穢多非人等」の受容と排除の両側面について言及している。

大日向は、旧「穢多非人等」の受容面について、次の「具体例を列挙」する。
【浦和県】「非常・民」としての「番非人」の旧「名称」は廃止しても、「非常・民」としての職務は継続。
【山梨県】「元非人」に対して、「非人」の呼称を廃止して、かわりに「番人と称して従来通りの役目を負わせる」。
【鳥取県】明治4年10月「鉢屋・非人の称を廃止」し、制度・組織そのものを解体する措置をとったと思われるが、
「穢多非人等」を「平民」同等とした上で、「新平民」のみを「捕手」という名目の下に新制度に組み込んだ。
【三重県】明治5年8月、「従来の番人ないし非人番からなる捕亡手先200人余りを管内各村に配置」。
「穢多非人ノ称」を廃止し、「捕亡手先」として「非常・民」を再配置した。

大日向がとりあげる、東日本、西日本各2例の具体例は代表的なものに過ぎず、明治4年の両太政官布告以降、
東日本においても西日本においても、旧「穢多非人等」の処遇には大きな変化はない。
「穢多非人等」の「非常・民」は、キリシタン禁教政策の宗教警察であったため、
北海道から沖縄まで、その本質において大きな違いがなかったものと思われる。

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245:名無しさん@お腹いっぱい。
09/07/09 20:15:44 +VxfH07uO
田布施

246:第4章 太政官布告批判[
09/07/10 19:58:56 IxbBe1zAP
9節 警察と遊女と部落と(続き)

5項 「旧穢多」の受容と排除 その6

大日向は、明治4年の両太政官布告以降における「旧穢多非人等」の「排除」の例として、
西日本の「兵庫県」・「鳥取県」・「島根県」をとりあげる。

【鳥取県】鳥取県においても、近世幕藩体制下では「鉢屋」が近世警察の一翼を担っていたが、
大日方は、明治5年、「鳥取県では、『捕亡取締』の設置を発表した際、往々『不正ノ弊』があるとして、
従来の鉢屋(被差別身分)を一切廃止した」という。
【島根県】明治5年8月、「士族からなる24人の邏卒を編成して松江市街を巡邏させることとしたが、
その際、各区レベルでは旧鉢屋が「取締下勤」などの名目で使用されていた」。
【兵庫県】「兵庫県」の「穢多非人等」は、近世幕藩体制下の「旧弊」・「弊風」を忘れることができず、
町や村の「祝儀」・「不祝儀」に際して「米銭」を要求したり、「祭礼」に際して「店から品物または金銭を取り上げたりする」
ので「不都合」であるとの理由で「非人番の廃止」が決定された。

明治4年の両太政官布告以降における「旧穢多非人等」の「受容」と「排除」は、
「兵庫県」の例をみても、近世幕藩体制下の司法・警察であった「非常・民」としての
「旧穢多」(包括概念としての「穢多」)に対する「差別」ではない。
「旧穢多」が既得権としての「旧弊」・「弊風」にこだわり、近代警察官たりえなかったこと、
即ち、「旧穢多」の近代警察システムへの「不適合」により、
近代中央集権国家の警察システムから「旧穢多」が「排除」されていったとするのが妥当な解釈である。

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247:第4章 太政官布告批判[
09/07/11 14:33:15 7nrXYsdrP
9節 警察と遊女と部落と(続き)

5項 「旧穢多」の受容と排除 その7(明治4年廃藩置県以前の山口県警察)

まず、「図1:長州藩の穢多非人の配置場所」は、近世幕藩体制下の長州藩組織図である、
「藩」の下に「宰判」(他藩の「郡」)があり、その下に「村」がある。
近世幕藩体制下の司法・警察である「非常・民」としての「穢多非人等」(穢多・茶筅・宮番)は、
ほとんどが「宰判」(「郡」代官所・御茶屋)の支配下にあり、宰判廻りの「穢多」(狭義の穢多)と
村廻りの「穢多」(茶筅・宮番)がいる。

図2は、廃藩置県前の明治4年3月の山口藩布告「御管内取締心得」「末文」から『山口県警察史』執筆者が
推測したことを、筆者が図式化したものである。
明治元年から明治4年の廃藩置県までの、山口藩庁・山口県庁の司法・警察の下部組織
(『部落学序説』の筆者は「警察本体」という)として、「打廻り」・「村方役人」とともに、
近代警察官として、「目明し」・「手先」(穢多・茶筅等)・「宮番」が組み込まれていた。

当時の警察業務を遂行していた「警察本体」は、宰判と村に配置された、
「内廻り」・「村方役人」・「目明し」・「手先」(穢多・茶筅等)・「宮番」であった。

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248:第4章 太政官布告批判[
09/07/12 05:21:56 ij/9j7wfP
9節 警察と遊女と部落と(続き)

5項 「旧穢多」の受容と排除 その8(明治4年廃藩置県後の山口県警察)

明治4年「穢多非人等ノ称廃止」太政官布告後も、近世幕藩体制下の司法・警察である「非常・民」としての
「穢多・非人・長吏・茶筅」・「村方役人・宮番」は、司法・警察の専門的知識と技術を要する職務に携わり続けた。

山口県は、明治9年10月「右ハ自今相廃シ候ニ付、、其旨当人ヘ申渡シ・・・。」通達により、
旧「穢多・非人・長吏・茶筅」を(制度上)廃止通告したが、完全な旧「穢多・非人・長吏・茶筅」の排除ではなく、
例外規定が付与されていた。
『山口県警察史』によると、「旧穢多」の近代警察システムへの「受容」・「吸収」が完了し、
その他の「旧穢多」の「排除」が確定されるのは、明治30年代前半になる。
図3は、江藤新平が初代司法卿に就任した直後の、明治5年5月頃の山口県警察を図式化したものである。
『山口県警察史』には、「聴訟課の捕亡掛のもとに打廻り・目明・手先を置いたほか、
地方村落には村役人や目明・手先・宮番(番太)の下部組織があって、
ほとんど藩政時代の制度がそのまま踏襲されてきたようである」とされる。

このことは、山口県の廃藩置県前後の司法・警察システムに大きな変更はなかったということを示唆する。

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249:名無しさん@お腹いっぱい。
09/07/12 10:26:08 harjuua9O
自分の意見を書けや

250:第4章 太政官布告批判[
09/07/15 06:27:02 ELGU+c/wP
9節 警察と遊女と部落と(続き)

5項 「旧穢多」の受容と排除 その9(明治4年「解放令」再検証)

明治4年廃藩置県・「穢多非人等ノ称廃止」太政官布告により旧「穢多非人等」は
、他の「武士」身分・「百姓」身分同様、「身分」・「職業」の「世襲制」から解放された。
しかし、「穢多非人等」は、「平民」とされたあとも近代中央集権国家の司法・警察である「非常・民」として、
その職務を継承させられ、職務遂行にあたっていた。

明治4年「穢多非人等ノ称廃止」太政官布告以後、旧「穢多非人等」の末裔は、「常民」化され、
「非常・民」であることを強制されなくなった。(図4の上から下へ)
それなのに、なぜ、司法・警察職務従事者本人だけでなく、その伴侶・祖父母・こども・孫まで
旧「穢多非人」として排除されるようになっていったのか・・・。
筆者は、明治政府が、実施している施策の本当の意味を民衆に知らせなかったこと、
「よらしむべくしてしらしむべからず」を民衆支配の道具として無制限に拡大したのが原因であると考える。

明治の近代警察は、近世幕藩体制下の司法・警察である「非常・民」としての「穢多・非人」を
受容・吸収・同化の後、同化されなかった旧「穢多非人等」の末裔に「特殊部落民」という概念を適用する。
「特殊部落」という言葉は、最初から、国家によって見捨てられた「棄民」を意味し、
「特殊部落民」は近代警察が作り出した警察用語(それゆえ行政用語)である。

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251:名無しさん@お腹いっぱい。
09/07/15 23:20:00 F3u8o5dIO
いらんわ

252:第4章 太政官布告批判[
09/07/16 03:25:06 H8AV2FFpP
9節 警察と遊女と部落と(続き)

5項 「旧穢多」の受容と排除 その10
(山口県における近代警察と「旧穢多」との関係にこだわる理由)

明治4年太政官布告が、「被差別部落」の人々に重大な影響を与えていればいるほど、
そのできごとは、何らかの形で語り伝えられていっているのではないか・・・。
「江戸時代300年間に渡って差別されてきました・・・」という日本歴史学に内在する差別思想である
「賤民史観」とは別な伝承が、現実に、存在しているのではないか・・・。

筆者は、「差別とは、そのひとの本当の歴史を奪い、
代わりに、みじめであわれで気の毒な他の歴史を押しつけることである・・・」と思う。

『部落学序説』第4章で、一生をかけて部落解放運動に従事してこられた
「被差別部落」の人々のこころのなかにさへ存在している沈黙と闇の世界(「賤民史観」)に光をさしこみ、
歴史の本当の事実・真実を明らかにしようと試みてきた。
隠されてきたことを明るみに出すこと・・・、「偽りのリアリティ(false reality)」・「共同幻想」を解体すること・・・、
その作業を続けていく。

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253:第4章 太政官布告批判
09/07/17 17:28:17 sGPkCk7cP
9節 警察と遊女と部落と(続き)

5項 「旧穢多」の受容と排除 その11(明治期山口県警察と「旧穢多」)

明治8年11月、山口県でも「邏卒」は「巡査」に改められ「1等巡査1名、2等巡査6名、
3等巡査8名、4等巡査31名の計46名であった」が、
「山口県では・・・引き続き『目明』『手先』を県の雇として採用し、…かっての職能を生かしていた。
このほか番人・宮番など・・認められていた。」(『山口県警察史』)。
「目明」は、山口県の部落史研究では「被差別民」に数えられ、「手先」は「穢多・茶筅・宮番」をさす。

明治9年10月新政府は、「行政警察規則の施行以来次第に警察組織が充実してきたのと、
ともすれば権力をかさに不法行為を働く手先などの弊害を除くための措置」として、
「従前定員目明ノ外・・・」、つまり、旧「穢多・茶筅・宮番」を廃止した。
「権力をかさに不法行為を働く手先・・・」の「不法行為」の主な要因は、山口県では、「目明手先」を
「日別米 五合宛」で再雇傭したことにあり、基本給の少なさを、「目明手先」が警察職務遂行上に入手する課金
(例えば、賭博摘発の没収金・若い女性の堕胎摘発による罰金等)で補おうとしたからである。

しかし、山口県においては、政府の指導にもかかわらず、実際は、「地方の治安維持機能が低下することをおそれて、
…制度は残され」、…目明・手先は「探偵」「探偵下使雇」と改称、山口県「警保課」・「各警察出張所」に
再配置され、明治10年8月、この「探偵」「探偵下使雇」は「巡査心得」と改めらた。

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254:253
09/07/17 18:28:14 sGPkCk7cP
訂正
○明治9年10月新政府の指導により山口県は、
×明治9年10月新政府は、


255:名無しさん@お腹いっぱい。
09/07/17 18:31:51 PeWP475FO
いらん

256:第4章 太政官布告批判
09/07/17 19:42:43 sGPkCk7cP
9節 警察と遊女と部落と(続き)

5項 「旧穢多」の受容と排除 その12(続・明治期山口県警察と「旧穢多」)

明治10年8月、「巡査心得」と改称された旧「目明・手先」は、
翌11年、「巡査心得」の前の「探偵雇」・「探偵下使雇」の名称に戻され、
山口県から「現在の警察手帳にあたる身分証明書である」「印鑑」が交付された(『山口県警察史』)。

その後、「治罪法の制定」により、「捜査上の権限が巡査にあたえられる」ようになり、
「山口県ではこれに対応するため『探偵専務巡査』を置くこととし、探偵雇を改めて巡査に採用」、
明治14年8月、山口県は、23名の「探偵専務巡査」を各部署に配置し、「探偵下使雇」は「全面的に廃止」された。
翌15年3月、改正「警察署職制」において、「巡査」は「署長及ビ警部・警部捕ノ指揮ヲ受ケ、
内勤・外勤及ビ探偵ノ事務ニ従事ス」と定められ、「探偵専務が制度化」され、
近世幕藩体制下の司法・警察の流れをくむ「探偵雇」は、近代山口県警察の正規の警察官として吸収・同化され、
明治24年当時、「旧穢多」は、探索・捕縛・糾弾に関する「特殊技能を持った適任者」として存在し、
明治30年、彼らは、「刑事巡査」として、近代警察システムの中核に組み込まれ、
「それから70年後の今日においても、刑事掛の警察官の一般に「刑事」の代名詞で呼んでおり、
このとき創設された名称が現在まで生き続けている・・」。

「私服刑事」は、近世幕藩体制下の「穢多」の正統な継承者であると確信でき、
旧「穢多」の伝統と歴史は現在の警察官の中に受け継がれている。
近世幕藩体制下の司法・警察に従事した「穢多・非人等」の「非常民」は、
その職務である探偵・捕縛・糾弾の知識と技術、経験が評価された場合は、
明治4年廃藩置県・「穢多非人等ノ称廃止」太政官布告以降も、近代中央集権国家の警察システムの中に、
同じ職務を担って生きていくことになった。時代の波に乗ることができず、
近世幕藩体制下の「非常民」の負の部分を受け継いだ旧「穢多」は、その職務から追われた。
それは、「部落学」の祖・川本祥一が指摘している「差別」が原因ではない。

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257:第4章 太政官布告批判
09/07/18 12:47:43 jdrU6gvsP
9節 警察と遊女と部落と(続き)

6項 賤民史観と「解放令」 その1(歴史観に関する一考察)

『部落学序説』においては、部落差別の完全解消を目的として「賤民史観」という「歴史観」を批判している。

この「賤民史観」の担い手である学者・研究者・教育者・政治家・運動家にとっては、
「歴史の過去的制約からのがれ、それを未来への可能性へと転換し、
現在における『歴史的現実』を意味あるものにする・・・」という動機により、
「賤民史観」を「指導原理」にしたものと思われる。
しかし、筆者は、「賤民史観」の担い手の「動機」がいかにあれ、その「過去を認識し、洞察する」ための
批判検証方法に重大な欠陥を内在させていたと考える。

日本の歴史学に内在する差別思想である「賤民史観」は、古代・中世・近世・近代に渡って、
社会の治安維持に従事してきた「非常・民」の正統な評価を破棄し、近代歴史学者の「造語」である
「賤民」概念を適用し、日本の歴史の中に登場するさまざまなひとを「賤民」として解釈しなおし、貶めていく。

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258:第4章 太政官布告批判
09/07/19 22:31:21 JWrm8y5NP
9節 警察と遊女と部落と(続き)

6項 賤民史観と「解放令」 その2(「賤民史観」について)

『部落学序説』の読者の批判を通じ、筆者の説、即ち、「賤民史観」の確立時期を明治中期に設定、
明治・大正・昭和・平成の部落史研究すべてに「賤民史観」が通底という説は、
筆者固有の可能性がある・・ということ、が分かった。

筆者の説の由来は、1983年出版の鹿野政直著『近代日本の民間学』(岩波新書)中の「常民史観」
(民俗学者・柳田国男の「史観」)ということばの使用に始まる。
また、鹿野が同書中「民間学の諸相」で触れた喜田貞吉は、「被差別部落」の問題を
「被差別部落」固有の問題としてではなく、「賤民」という「被差別層全体の中におい」て考察したという。
柳田のそれが「常民史観」と呼べるなら、喜田のそれは「賤民史観」と呼べるに違いない・・、
以降、「被差別部落」についての一般的・通俗的「史観」を「賤民史観」と呼ぶようになった。
筆者からみると、喜田に端を発する「賤民史観」は、戦後の「賤民史・部落史研究」、
沖浦和光(おきうらかずてる、桃山学院大学名誉教授)著『「部落史」論争を読み解く』において、
充分研究し尽くされ、展開されてきた。
沖浦は、「部落史研究」と表現すべきところで、いつも、「賤民史・部落史研究」という表現を用い、
部落史を部落史単独で研究するのではなく、「賤民」という大きな枠組みで部落史研究を遂行している。

筆者は、近世幕藩体制下の司法・警察である「旧穢多非人」を「賤民」概念、「賤民」世界に置いて
考察するのではなく、『部落学序説』でいう、「非常・民」概念、「非常・民」世界に置いて考察するとき、
部落差別完全解消への道が開かれるのではないかと考え、「賤民史観」の権化の沖浦を批判する。

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259:第4章 太政官布告批判
09/07/20 18:43:08 kAPKPLtxP
9節 警察と遊女と部落と(続き)

6項 賤民史観と「解放令」 その3(民俗学の中の「賤民史観」)

日本の民俗学は、「歴史学」、「社会学・地理学」、「宗教学」の学際的研究として創設された。
民俗学は、「歴史学」を必須の基礎科目とするため、「賤民史観」からの要請・影響にさらされ、
「民俗学」にも「賤民史観」が暗黙の前提として内在するようになった。
「民俗学」の中に「賤民史観」を描いた礫川全次は、柳田民俗学への批判から「常民」以外の民俗に関心を持つた
民俗学者8名の中に「赤松啓介」をとりあげている。

赤松は、その著書『差別の民俗学』(ちくま学芸文庫)で、「部落差別」と「売春」、
「穢多・非人」と「遊女・芸妓」を積極的に比較し、両者の属性を混同・融合して、「賤民史観」をより強固に形成する。
赤松の「賤民史観」が、同世代の他の民俗学者より先鋭化するのは、唯物史観・階級史観の無批判的受容と、
ある種の権威と化した柳田民俗学を含む「一般の民俗学」に対する激しい敵意と憎しみがある。
赤松は、柳田民俗学がいう「常民」に属する社会層のなかの、最低辺に位置づけられた「常民」を抽出し、
その他の「常民」との間に「画線」をひき、(最低辺)のかれらを「非常民」概念で把握しなす
(赤松民俗学の常民・非常民概念と『部落学序説』の常民・非常民概念はまったく異質である)。

赤松の、「常民」・「非常民」理解は、唯物史観・階級史観・発達史観によって構築されてきた
「賤民史観」の民俗学的焼き直しに過ぎない。

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260:259
09/07/20 18:48:49 kAPKPLtxP
訂正
○(最低辺)のかれらを「非常民」概念で把握しなおす
×(最低辺)のかれらを「非常民」概念で把握しなす


261:第4章 太政官布告批判
09/07/22 06:52:32 vphfLPTXP
9節 警察と遊女と部落と(続き)

6項 賤民史観と「解放令」 その4(既存の部落史研究批判に課せられる「要件」)

沖浦和光は、部落史研究「戦後第1期」を1948年「部落問題研究所」創立から『新版・部落の歴史と解放運動』
が出版された1965年までとし、「賤民史に関する歴史認識の枠組みが設定された・・」という。
第1期を最初から担った5人のうち、井上清(いのうえきよし、京都大学名誉教授、日本史専攻)の研究テーマ
の根底に流れるのは「天皇制国家のもとでの賤民差別の歴史を、通史的に描き出す・・・」という基本方針であり、
これは戦前の部落史研究の踏襲を前提とした「賤民史観」による部落史研究以外のなにものでもなかった。
井上は、部落史研究・部落解放理論の構築に際して、構築の動機であり目的である「部落」概念をあいまいにしたまま、
「部落」と「部落民」が直面している「緊急」事態に対処していった。

井上は、部落史研究・部落解放理論において「敵」「味方」の色分けを鮮明にし、「部落の当面する主要な
敵や敵の同盟者は何者であるか、それにたいする部落自身の味方はどんなものであり、
その味方と部落民はどんなふうに結合するか・・・」という「部落解放の根本」戦略を明らかにするために、
「部落史の現在の緊急の大きな課題」としての4点をとりあげた。
さらに、井上は、すくなくとも、既存の研究に対する批判は、「部落という日本の具体的な差別起源・・・性格」
(部落史研究上の革新)を明らかにし、「(部落)を解放する具体的な戦略戦術」(部落解放理論上の革新)
を提示する必要があるとした。

筆者は、『部落学序説』において、戦前・戦後を通じて、「被差別部落」のひとびとを差別につなぎ止めることになった、
日本の歴史学に内在する差別思想である「賤民史観」を批判するために、井上清の、
「部落という日本の具体的な差別起源・・・性格」を明らかにし、
「(部落)を解放する具体的な戦略戦術」を提示する必要があるとの指摘を念頭におかざるをえなかった。
そして、時間と労力をかけて、「常民・非常民論」や「新けがれ論」を構築してきた。

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262:第4章 太政官布告批判
09/07/26 07:56:50 0AD5L7W+P
節 警察と遊女と部落と(続き)

6項 賤民史観と「解放令」 その5(「賤民史観」の変遷)

賤民」概念は、日本の歴史学が古代・中世・近世・近代・現代を通じ、「民衆」の一部を通史的に
把握するために作り出した学術用語で、歴史研究の基本用語として、批判検証の対象になることはなかった。

明治初期の「部落史」に関する文献には「賤民」概念は使用されていない。
佐野学・喜田貞吉等による、「特殊部落民」の起源に関する研究は、当時の知識階級・中産階級が作り出した、
差別的な歴史観・「賤民史観」という推測・妄想であった。
佐野学著「特殊部落民解放論」の背後にあるのは「人種起源説」で
「賤業を強いられるものは被制服者たる奴隷群の子孫や浮浪民であった<であろう>・・・」と推測する。
戦後の「賤民史観」の担い手である井上清は、『部落の歴史と解放理論』で、被差別部落の歴史の発端において、
「賤民」は「賤民」として存在したとし、「賤民」が本源的「賤民」・「先天的賤民」であることを強調し、
「最初に『賤民』があり、ついで『賤業』ができ、両者が不可分に結びついて・・・その特定職業にしたがう
特定身分の人間集団の居住する特定地域、いわゆる特殊部落が成立」するという。
沖浦和光の研究は、この「賤民史観」の忠実な継承である。
沖浦は、「賤民」概念を「関係概念」としてではなく「本質概念」・「実体概念」として使用する。
『部落学序説』で論述しているように、「賤」という言葉は身分上の上下関係を示す「関係概念」であって「本質概念」ではない。

明治期に、歴史学の世界に、学術用語として登場してきた「賤民」概念は、当初の中立的概念から、
徐々に差別的色彩に染め抜かれ、現代においては、沖浦をはじめとする多くの部落史の学者・・・にみられるような、
本質概念・実体概念としての「賤民」の歴史と文化の研究が継続されている。
現代の部落史研究は、部落差別完全解消ではなく、部落差別拡大再生産の途上にあると断言しても間違いではない。

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263:第4章 太政官布告批判
09/07/28 02:09:35 3Wj3frWfP
9節 警察と遊女と部落と(続き)

6項 賤民史観と「解放令」 その6(「解放令」をめぐる南梅吉の論理)

水平社の初代中央執行委員長・南梅吉は、雑誌『水平』(第1巻第1号、1922年)の冒頭に
《改善事業より解放運動》を掲載した。

この中で、南は、「明治4年太政官布令により穢多の称を廃せられ、形式上所謂平民に列せられた・・・」が、
「穢多」の称は、新平民」・「少数同胞」・「後進部落」・「特種部落」という名前を変えて継続させられ、
明治4年太政官布令以降も「久しきに亘る迫害と侮蔑」に曝されているという。

次に、南は、明治4年太政官布令を「解放令」という表現は、「吾々の社会群の在らざるかの如く・・・」
間違った教説、「解放令がだされたのだから、もう、近世幕藩体制下の穢多身分はいない・・・」という「眩惑」を
「旧穢多」の末裔に与えるようになったという。
さらに、南は、「被差別部落」の人々が、集団「催眠」(その出自が「賤民」で、その歴史が「賤民史観」であること)の
受容により代償として提供される「改善事業」(融和事業・同和事業)(の受取)を拒否
(南梅吉は正当な事業まで否定していない)した上、なによりもまず、「被差別部落」の人々の、
とりわけ青少年たちの差別による「精神的苦痛」をとりのぞく「解放運動」の継続を訴えた。
南は、「被差別部落」のひとびとが自らの歴史をひもとき、みずからの歴史を構築することは、「正(義)と善の実行である」とした。

ブログ『すばらしき新世界』「吉田向学「部落学序説」を読む 3」は、
「「部落学序説」は・・二次資料を比較検討した研究論説で・・研究対象となった地域も西日本の一部であり、
部落問題に関する普遍的研究とは言いがたい・・多くの研究者によって一次資料に基づく
科学的検証がなされることを期待してやまない」という。
しかし、筆者は、「多くの当事者(部落民)によって一次資料に基づく科学的検証がなされることを期待」すると
言い換えざるを得ない。「被差別部落」の人々は、特に、「旧穢多」の歴史の継承者として、「賤民史観」を克服し、
それに変わる「史観」をみずからの手で構築していくべきと考える。

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264:第4章 太政官布告批判
09/07/28 02:27:40 3Wj3frWfP
9節 警察と遊女と部落と(続き)

6項 賤民史観と「解放令」 その7(「唯物史観」と「皇国史観」の共通属性としての「賤民史観」)

筆者は、最初から、日本の歴史学に内在する差別思想「賤民史観」を批判検証の対象にし、
「唯物史観」と「皇国史観」の共通属性として「賤民史観」をとりあげてきたが、「唯物史観」と「皇国史観」を自明の理として、何ら明確な定義をすることはなかった。

それが、本第6項の執筆をはじめて、「唯物史観」と「皇国史観」の「差異」を明らかにする必要が生じた。
戦前・戦後の部落史研究の主流は、「唯物史観」の影響を受け、どの論文・研究書をひもといても
なんらかの情報を入手することができる。
しかし、「皇国史観」についての論文・資料をほとんど持ち合わせていない。
『広辞苑』を調べても、「皇国史観」は収録されていない。
平凡社『世界大百科事典』(1972年版)の索引にも、「皇国史観」という項目はない。
「皇国史観」は、戦後、タブー視され、そして戦後60年経過した今日も、そのタブー視は継続されている。

筆者の次の手は、手元にある資料・論文に目を通して、「皇国史観」の断片的情報を収集し、
それを、筆者なりに再構成する以外に方法はない。
「皇国史観」を明らかにすることによって、「科学的」(学問的)歴史観といわれる「唯物史観」と、
「非科学的」歴史観といわれる「皇国史観」の、明治4年の太政官布告を解釈するときの「同質性」
(「賤民史観」)を明らかにしていきたい。

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265:第4章 太政官布告批判
09/07/28 02:57:31 3Wj3frWfP
9節 警察と遊女と部落と(続き)

6項 賤民史観と「解放令」 その7(続・「唯物史観」と「皇国史観」の共通属性としての「賤民史観」)

明治維新から敗戦までの「国家によって公認された歴史観」である「皇国史観」の文字通りの解釈は、
「天皇が統治する国」の「歴史観」である、
この「皇国史観」の視点・視角・視座からは、中世・近世において、「自然発生的に形成された」
(尾藤正英著『江戸時代とはなにか』)700年間に及ぶ「武家政治」は「変則的な政治形態」で、
「武士による政治権力の私的な占取」、「天皇を君主とする日本の国家のありかた(国体)に反する」ものとみなされる。

「皇国史観」は、明治維新を、「天皇」による、国家と人民に対する「変則的な政治形態」である
「武家政治」からの解放・奪回のいとなみとする。
明治維新において、天皇は、近世幕藩体制下の苦しみからの人民(士・農工商)からの解放者として表現される。
尾藤は、「皇国史観」は、「明治維新の後に成立した国家体制を正当化しようとする立場から唱えられた、
一種の政治的な主張であって、歴史の客観的な認識に反するものであることは、改めていうまでもない。」とし、
「このような歴史観が、とくに学校教育の場などで、ある種の強制力をもって通用していた」という。
尾藤は、「不敬罪などによって制約されていた戦前の時代に、この問題(皇国史観)についての研究の自由がなかった
ことは改めていうまでもない」が、「そのタブーが解けた戦後になってからも」、同じ状況が続いたことを示唆する。

尾藤の著から「皇国史観」とはなにか・・・何らかの解答を得たうえで、「皇国史観」から見た、
「明治4年の太政官布告」の姿を、現代の部落史研究者の論文を分析することで批判検証していく。

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266:第4章 太政官布告批判
09/08/03 06:38:52 8KPQ4G4+P
9節 警察と遊女と部落と(続き)

6項 賤民史観と「解放令」 その7
(続々・「唯物史観」と「皇国史観」の共通属性としての「賤民史観」)

『江戸時代とはなにか 日本史上の近世と近代』の著者・尾藤正英は、「皇国史観」について、
「『万世一系』の天皇を君主とする日本の『国体』が、古代以来不変であった」という歴史観とし、
「当時の国家権力の側での用語」としての「国体」を、反権力の側は「天皇制」という用語で呼んだという。

この「天皇制」ということばは、戦後、「左翼用語」から「学術用語」として位置づけられ、
日本史の通史叙述に使用され、「近代天皇制」(「狭義の「天皇制」」)という時代的制約を越えて、
古代・中世・近世、そして現代へと普遍化されて使用されるようになった(「広義の「天皇制」」)。
「皇国史観」に関する研究は、元「左翼用語」を用いて遂行され、「皇国史観」に関する言及・研究が、
元「左翼用語」で染色され、「国体」・「天皇制」の両概念の属性が相互に交差、混同が生じ、
「皇国史観」と「唯物史観」の<混合>・<融合>・<複雑化>をもたらしたと考える。

『いま、部落史がおもしろい』の著者・渡辺俊雄は、「唯物史観」と「皇国史観」を、
研究者としての彼の人格の中で統合・一体化して、その論を立てている。
渡辺は、「近代の天皇制はたんに政治制度としてだけではなく、社会や思想の面など、
私たちの生活の隅ずみにまで浸透しているのであり、そうした問題として考えなければ
天皇制と部落問題の関係は見えてこない・・・。」という。
彼の「そうした問題として考えなければ・・・」ということばは、渡辺が、
「唯物史観」と「皇国史観」の<混合>・<融合>・<複雑化>を、主体的に採用したことを示す。

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267:名無しさん@お腹いっぱい。
09/08/03 18:06:57 rJMSYTrw0
勉強になりますた

268:第4章 太政官布告批判
09/08/04 23:28:47 EUPOen1XP
9節 警察と遊女と部落と(続き)

7項 部落差別はなぜなくならないのか

部落差別解消にむけ、戦前において被差別側から「水平社宣言」が出され、
当事者による「水平運動」が展開され、戦後は同和対策審議会答申を踏まえ33年間15兆円の
同和対策事業・同和教育事業がなされたにもかかわらず、部落差別は、なぜなくならなかったのか。

最近の部落史研究・部落解放運動見直しの足跡を見ると、部落差別の対象を拡大、
「部落差別の拡大再生産」をしていこうとする姿勢が露骨に見られる。
「被差別部落民」という言葉の使用に代えて「被差別市民」(野口理論)という新語をつくり、
あらたな部落解放運動を画策する学者・研究者・教育者・運動家も登場している。
同和対策・同和教育事業の「再現」を望む被差別部落当事者は、少なくない。
また、「唯物史観」に立つ学者・研究者は、「士・農工商・穢多非人」という近世幕藩体制下の
「農工商」を素通り、無視して、「穢多非人」に対する明治政府の処遇(1銭の国家的補助もない)を
人口比6%弱の「士族」への処遇(現在の貨幣価値で5兆円支給)と比較する不合理を行っている。
その傾向は、戦後の同和対策事業・部落解放運動に引き継がれている。

そのような「不合理」に対して、「旧農民」(平民)から出てくる言葉は、
「同和対策事業」は「旧農民」(平民)に対する「逆差別」である・・という当然の批判である。
水平社の初代中央執行委員長・南梅吉は、部落差別は、「物質的の欠乏よりも精神的苦痛がより多く」
原因しているという。
部落差別をなくすために必要なのは、「同和対策事業」(差別に依拠した事業)の継続ではなく、
「部落解放運動」(差別史観からの解放)である。

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269:第4章 太政官布告批判
09/08/06 04:06:00 WAqN5Ci7P
節 警察と遊女と部落と(続き)

8項 部落差別はどうすればなくなるのでしょうか

「賤民史観」と「愚民論」は、日本の知識階級・中産階級である
「歴史」学者・研究者・教育者・政治家・運動家によってつくられ、継承・発展させられてきたが、
これらが日本歴史学に内在する差別思想であることを認め、これらを日本の社会から葬り去ることにより、
部落差別をなくすることができる。

「歴史学者」・「歴史研究者」は、国家権力に対する奉仕の学として、権力の意志を先取り・追従し、
日本の社会の中に「部落差別」という幻想を捏造してきた。
戦後、民主化が進行していくなかで、彼らは、その差別的研究を払拭する機会を逸して、
戦前の「賤民史観」と「愚民論」を新しい装いで踏襲してきた。
戦前・戦後を通じて、「皇国史観」・「唯物史観」のいずれに立っているかに関係なく、
「歴史学者」等は、「賤民史観」的・「愚民論」的部落史研究を遂行し、その研究成果は、
「公教育」という「権力装置」を通し、「教育者」によって「愚民」とみなされる一般民衆・国民に教育・普及させられてきた。
一般民衆・国民は、「部落差別」をする正統(正当?)な理由がないにもかかわらず差別をする側に追いやられ、
「被差別部落」の側も「部落差別」される正統(正当?)な理由がないにもかかわらず差別を受ける側に追いやられてきた。

日本の知識階級・中産階級である歴史学者・歴史研究者が、日本歴史学に内在する
「賤民史観」・「愚民論」を払拭するときにのみ、日本の「権力装置」のひとつである「公教育」において、
教育者が、差別なき、ほんとうの教育実践を達成することができる。

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270:第4章 太政官布告批判
09/08/09 14:02:03 X+0281wyP
9節 警察と遊女と部落と(続き)

9項 部落差別完全解消への提言(図解)

「部落差別」は、「国家権力」によってつくられ、この権力を担ったのは「賤民史観」に立脚する学者・研究者・教育者たちである。
彼らは、「旧穢多」の末裔を「賤民」とみなし、「被差別部落」のひとびとを差別の奈落に突き落とした「戦犯」である。
戦後においても、日本の歴史学に内在する差別思想「賤民史観」は、ますます強固に主張されるようになった。

本項に掲載している図は、「賤民史観」を取り除くための方策を図示したものである。
Ⅰ(黄色の円):近代歴史学が、学術用語として「賤民」概念を導入する以前の歴史上の「穢多・非人」の状態である。
Ⅱ:Ⅰを核として、近代歴史学によって、「穢多・非人」をあらわす学術用語として「賤民」概念が導入され、
  皇国史観的「賤民史観」構築の基礎作りがなされた状況である。
Ⅲ:Ⅱの上に、「国内政治・外国交際」の要請から「旧穢多非人」を「特殊部落民」として(殻をかぶせ)、
  政府から「棄民」扱いされた時代の「賤民」概念をしめす。
Ⅳ:Ⅲの上に、戦後導入された「未解放部落」「被差別部落」「同和地区」概念の殻をかぶせた状態である。
Ⅴ:Ⅳからさらに、戦前の「賤民史観」(皇国史観・唯物史観)と戦後の「賤民史観」とが渾然一体となって、
  「被差別部落」の人びとを「賤民」的実体として描く、思想的に無節操な融合型の「賤民史観」の状態をしめす。
Ⅵ:Ⅴから「賤民史観」を取り除き、部落史の実証的研究を徹底する。(Ⅰに戻った状態)

「賤民史観」は、日本の歴史学に内在する差別思想で、これが「学者・研究者」の世界から取り除かれない限り、
「教育者・運動家」の世界からも差別思想が取り除かれることはなく、「教育者・運動家」から差別思想が除去されない
以上、一般のひとびとも、被差別部落のひとびとも、その差別思想から解放されることはない。

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271:第4章 太政官布告批判
09/08/10 06:41:39 ZiHYU/lmP
9節 警察と遊女と部落と(続き)

10項 「賤民史観」と遊女 その1 「遊女」に対する筆者の前理解

筆者は、「部落差別」より「女性差別」の方が、本質的に重い差別ではないのか・・と考える。
『部落学序説』が「序説」(プロレゴメナ)である以上、筆者が「遊女」(売春)について、
どのようなイメージ(あるいは偏見・予見)をもっているかを明らかにしたうえで、
《「賤民史観」と遊女》というテーマについて論述を展開する。

「遊女」・・そのことばは、筆者にとって、非常に重いひびきがある。
筆者が高校3年の冬、クリスチャンになり、教会学校の小学校5・6年クラスの助手をしたとき、
5・6年担当の教会員のAさんは、「遊廓に売られ」た過去を告白し、教会学校の教師を辞めようとした。
そのとき、「遊廓に売られる」・・・、それが女性にどんなに精神的苦痛と悲しみをあたえるものであるのかを知った。
また、筆者が、病院で臨床病理検査に従事していたとき、性病患者の入院する部屋には、
昔、遊廓にいた女性とかの、おばあさん2人が入院し、梅毒末期症状に入っていた。
筆者は、おばあさんの体重検査時に、おばあさんを両手で抱えて、体重計にのったが、もうひとりのおばあさんが
「わたしも、あのおばあさんのように、若い男の人に抱っこされて体重を測ってほしい・・・」と言い、
その声を聞いて、寒けが背中を通り過ぎ、その瞬間、自分の差別性に気づいて非常に落ち込んだ。

梅毒末期患者のおばあさんに対して投げかけた、自分の中にある差別的なまなざしが、いつも、ちらついてしまう。
筆者の記憶の中に刺さった刺(とげ)のようなもので、その刺は、抜こうとしても抜くことができない刺である。

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272:第4章 太政官布告批判
09/08/14 21:59:49 +LyjRzsgP
9節 警察と遊女と部落と(続き)

10項 「賤民史観」と遊女 その2 差別社会の中の「前理解」

筆者は、所属教団の中にあって、部落差別だけでなく、在日韓国人・朝鮮人、女性、労働者、人種、障害者などの
差別問題を担う「先進的」な牧師・信徒・運動家から筆者の「後進性」を指摘されてきたが、問われ続ける中で、
彼らの思想・言葉の背後の日本歴史学に内在する差別思想「賤民史観」・「愚民論」の存在に疑義の念を抱くようになった。

戦後、日本基督教団で最初に部落民宣言をした牧師で、現在も同教団部落解放センターの実質的指導者である
東岡山 治は、著書『盥の水を箸で廻せ』で、「貧乏と差別の苦しみにつきおとされた農民の心の安らぎは、『えた、非人』
を下におくということです。・・・『えた、非人』をさげすんで、それを徹底的に憎むことによって心の安らぎを覚えた・・」という。
筆者の視点からは、東岡山のことばは、「賤民史観」・「愚民論」の典型である。

近世・近代・現代を通じて、「貧乏百姓」の末裔である筆者は、そんな「なぐさめ」(部落差別)に依拠して生きたことはなく、
筆者の父の倒産により貧乏と病気の悪連鎖の中、家族全員が苦闘していたときも、
そんな「なぐさめ」(部落差別)に依拠したことはいちどもない。
東岡山が、「農民」を侮蔑的・差別的にみるのは、彼自身が被差別部落出身者といっても、ほんとうは
「被差別者」ではなく「差別者」の立場にたっている証拠である。
東岡山が「士族には、今日の金額で、5兆円の補助金を出し、救済の道を開いたのに、
被差別部落には何ひとつ援助しなかった・・・」といって、「農民」の存在を彼の視野の外に追いやるのは、
東岡山が農民に対する癒しがたい差別性をもっていることを物語る。

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273:第4章 太政官布告批判
09/08/15 10:49:02 cKQuI6qzP
10項 「賤民史観」と遊女 その2 続・差別社会の中の「前理解」

「遊女」の問題、女性差別の問題は、人間が考え出した差別中、最悪の差別である。

「遊女」になるということは、自己同一概念(自分は何者であり、何をなすべきかという個人の心の中に保持される概念)
の剥奪・破壊以外のなにものでもない。

明治5年10月、明治政府が司法卿・江藤新平のもとで公布した「太政官布告第295号」は、
その条文に、「娼妓・芸妓等年季奉公人一切解放致すべし」とあるところから、
「芸娼妓解放令」または「遊女解放令」といわれる。
これは、明治6年政変により江藤が大久保利通によって排斥され、
「芸娼妓解放令」「遊女解放令」が元の木阿弥にされるまで、明治新政府の近代的、民主主義的な
人間解放・人権宣言とされたものであり、明治4年「穢多非人等ノ称廃止」布告と、むしろ拮抗関係にある布告である。

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274:名無しさん@お腹いっぱい。
09/08/15 17:13:39 x96tywpq0
良スレあげ
みんなで勉強しよう

275:第4章 太政官布告批判
09/08/15 22:07:31 cKQuI6qzP
9節 警察と遊女と部落と(続き)

10項 「賤民史観」と遊女 その3 「遊女解放令」-日本歴史上最初の人権宣言

明治5年太政官布告第第295号、通称「遊女解放令」は、「日本歴史上最初の人権宣言」であること
に気づいたが、これは「水平社宣言」=日本歴史上最初の人権宣言という既存の説を否定するものである。

この「水平社宣言」=日本歴史上最初の人権宣言の説については、井上清著『部落の歴史と解放理論』1969年、
原田伴彦著『被差別部落の歴史』1975年、小森哲郎著『部落問題要論』1989年では、
部落史研究者が「水平社宣言」を「日本歴史上最初の人権宣言」とすることに、ある程度留保しながら、
このことばを使用する。
これに反し、部落解放運動の中では研究者の留保がはぎとられ、「最初の人権宣言」という水平社宣言に対する
評価は、確定的なことがらとして使用されるようになった。
研究成果が、トップダウン式に、「組織」を通じて一般被差別民衆に普遍化されていくとき、
思想的に丸められた形(簡略化)で伝達されていく傾向がある。
部落解放運動の一般的・通俗的担い手・東岡山治は、水平社宣言は、「日本に誇るべき人権宣言」であるといいきる。

水平社宣言は、ほんとうに、「人権宣言」なのか。
上野千鶴子著『ナショナリズムとジェンダー』に紹介のジェンダー史の視点から水平社宣言をみると、
水平社宣言は、近代日本歴史に内在する差別性を内包しているが故に、「人権宣言」といいきることは困難である。


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276:第4章 太政官布告批判
09/08/16 10:09:48 KOulo4bsP
9節 警察と遊女と部落と(続き)

10項 「賤民史観」と遊女 その3 続・「遊女解放令」-日本歴史上最初の人権宣言

井上清は、『部落の歴史と解放理論』で「・・西光氏の回想・・西光氏は・・水平社創立オルグ活動のために
・・島原の『すみや』・・遊廓のガス管をなおしたり・・物干台に上ることができるようになった。そこを秘密の仕事場
として・・手帳に宣言文案を書きつけた。・・水平社の宣言は、学者の書斎ではなく・・人身の自由をうばわれた
女たちの物干場で、労働者となったオルグによって書かれた・・」という。

しかし、西光万吉が、「水平社宣言」を「遊廓」の一角に身を置いて執筆したにもかかわらず、
「水平社宣言」では、「<最も>しいたげられ人身の自由をうばわれた女たち」に関する記述は欠落している。
西光によって書き下ろされた「水平社宣言」は、「姉妹」(女性)ではなく、「兄弟」(男性)にのみ向けて語りかけられ、
当時の「屠場の労働者」を念頭においた男性の問題として記述されている。
西光が「女性差別」については無頓着・無関心であったことは、あながち間違いではない。

上野千鶴子は『ナショナリズムとジェンダー』において、社会主義運動の女性たちについて、
「コミュニストの女性たちは『階級闘争』という最優先課題のために、女性としての自己の抑圧を
問題化することを妨げられた。彼女たちは『国家』を超えたかもしれないが、「ジェンダー」を超えなかった。
しかもそれは『男仕立て』の社会主義インターナショナリズムに忠実であったおかげなのである」。
「水平社運動」も、「男仕立て」の部落解放運動に過ぎず、「水平社宣言」は、「人権宣言」としては、
ジェンダー論的に「男性」に偏向したいびつな形態をとっており、
「女性解放」の視点・視角・視座を含んでいないという一点で、真の「人権宣言」とは認めがたい。

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277:第4章 太政官布告批判
09/08/16 18:23:54 KOulo4bsP
9節 警察と遊女と部落と(続き)

10項 「賤民史観」と遊女 その3 続々・「遊女解放令」-日本歴史上最初の人権宣言

明治5年10月太政官第布告295号は「娼妓・芸妓などの年季奉公人を一切解放いたすべし」とされ、
明治政府が出した法令中、身分・職業に関し「解放」ということばが用いられたのは、これのみで、
「人身の権利」を失った者に対し「人身の自由」を回復することから、この布告は、まさに「解放令」そのものである。
毛利敏彦は『明治6年政変』において、明治5年太政官布告第295号を
「永年の因習と束縛から弱者の人権を回復すると高らかに宣言した」ととらえ、「人権史上に特筆すべきものであった」
と評価し、また、同布告を具体化するための同年10月司法省布達第22号を「明快な社会的弱者の人権宣言」と評価する。

(明治4年「穢多非人等ノ称廃止」太政官布告に対する)「解放令」ということばの使用は、
水平社運動の前後から、皇国史観に基いてなされたことであり、同布告の明治4年発令時において
同布告は「解放令」とはみなされていなかった。
当時、「穢多非人等」は、「人身の権利」・「人身の自由」を剥奪された存在とは考えられておらず、近世幕藩体制下の
司法・警察である「非常民」としての「穢多非人等」は、人身の権利・自由を監視・制限する側に身を置いていたと思われる。
日本歴史学に内在の差別思想である「賤民史観」の学者・研究者・教育者たちは、やがて、「特殊部落民」の
解釈の中で、人身の権利・自由」を剥奪された遊女(娼妓・芸妓)等の属性をその歴史解釈の中に取り込み、
「穢多非人等」と「遊女」を「賤民」概念でくくる(上位概念として包括する)ことで、両者の属性を混同・融合して解釈するようになった。

「賤民史観」によって、「遊女解放令」にまつわることば(「解放令」)は、やがて、「窃取」
(広辞苑では「ひそかにぬすみ取ること」を意味する)されていく。

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278:第4章 太政官布告批判
09/08/16 19:28:17 KOulo4bsP
9節 警察と遊女と部落と(続き)

10項 「賤民史観」と遊女 その4 「遊女」と「部落民」の間にある深くて暗い溝・・・

明治4年「穢多非人等ノ称廃止」太政官布告と明治5年「芸娼妓解放令」・「遊女解放令」とは、
まったく異質の法令であり、前者が単なる旧制度廃止法令でしかないのに比べ、後者は現代においても
世界的に通用する人権宣言で、今日においても女性解放の先駆として、評価してあまりあるものである。

『被差別部落の歴史』の著者・原田伴彦のような歴史学者・部落史研究者ですら、
「芸娼妓解放令」・「遊女解放令」を正当に評価することはできない。
原田は、明治5年人身売買禁止令は、社会的弱者であった婦人・苦界にあった婦人たちの解放を
めざしたものではなく、外国への面子がからんでいた・・と断定する。
これは、原田の部落史研究には、「女性解放」や「ジェンダー」の視点が一顧だにされていないということの証左である。
部落史研究における「女性解放」・「ジェンダー」の視点過小評価・排除・排斥は、戦前・戦後の部落史研究を
きわめていびつなものにし、部落史研究全体を問題の核心からそらす結果をもたらすことになった。

筆者は、いままで、「被差別部落」出身の女性から、部落研究・部落問題研究・部落史研究の
「ジェンダー」・「ジェンダー史」的見直しがなされてこなかったのは、日本歴史学に内在の差別思想
「賤民史観」にからめとられ、「部落解放令」・「水平社宣言」・その系譜をひく「同和対策審議会答申」を
絶対視し、それに屈従してきたためではないかと推測する。
しかし、「遊女」と「部落民」の間にある深くて暗い溝・・・を見失うことなく、冷静に、客観的に見続けたひとびとに、
女性史・女性解放史・ジェンダー史の学者・研究者・教育者・婦人運動 家(女性運動家)がいる。

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279:第4章 太政官布告批判
09/08/16 21:44:04 KOulo4bsP
9節 警察と遊女と部落と(続き)

10項 「賤民史観」と遊女 その4 続・「遊女」と「部落民」の間にある深くて暗い溝・・・

総合女性史研究会編『日本女性の歴史 性・愛・家族』(角川選書)の一節にこのような記述がある。
「1924年には娼妓数は全国で約5万2000人をかぞえ(遊客数は推定3140万人)・・・・。
娼妓と貸座敷業者には・・・税金が課せられ・・地方税として県財政をうるおした。神奈川県では1888年に
県予算の20パーセント以上を占め、しかも、その一部は警察探偵費にあてられた。・・・
公娼制度とは国家による女性の性的収奪にほかならなかったのである」。

神奈川県をはじめ、日本の近代化が、日本女性の「性的収奪」・「人権収奪」の上に構築され、山口県も例外ではない。
『山口県警察史』には、「『芸妓・娼妓解放令』の出される1カ月前の明治5年9月大蔵省布達第127号によって、
明治政府は、遊女(娼妓)に対する課税と処分を許したのですが、・・・その『賦金』の処分は、・・
主として警察探偵費や検梅費に支出され・・明治21年8月に賦金制度ハ廃止・・・地方税に編入・・・
探偵(犯罪捜査)などの運営費として『警察機密費』が正式に県の一般財源に組み込まれることになった」とある。
山口県警察の「機密費」は、近世幕藩体制下の司法・警察としての「非常民」であった「旧穢多非人等」が、
「外国交際」上の止むを得ぬ措置によって解雇されたあとも、その職務の重要性から、「非公式」に再雇用する必要に迫られ、
その人権費の財源として、「遊女」に対する租税が使用されたことを「明言」する。

近代の部落史の本質は、近世幕藩体制下の司法・警察であった「非常民」としての「旧穢多」が、徐々に
その職務をうばわれ、「常民化」(非警察化・非警察権力化)されていった過程であるが、
不要のものとなった「旧穢多」は、「遊女」(娼妓・芸妓)同様、「臣民」にあらざる「国民」として、
「二流市民」として、・・・「棄民」扱いされるようになった。

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280:第4章 太政官布告批判
09/08/17 05:50:19 s2p5gEBPP
【第9節】警察と遊女と部落と
【第10項】「賤民史観」と遊女 その5 「遊女解放令」を瓦解させた明治の知識階級

筆者は、、一般的に「遊女解放令」・「芸娼妓解放令」と呼ばれる明治5年太政官布告第395号・
司法省布達第22号について、「日本歴史上最初の人権宣言」と評価してきた。
しかし、明治政府は、諸外国からも高く評価されていた、その「人権宣言」をなぜ撤回することになったのか・・・。
「遊女」(娼妓・芸妓)を、近代身分制度の「外」・「最下層」に押しやり、「人非人」(「人外の人」という意味)と
ラベリングしていった人々を具体的にとりあげる。

筆者が日本基督教団山口東分区の牧師でありながら、その牧師会から離脱していったきっかけは、
戦前・戦後を通じて教団指導者であった賀川豊彦の差別性
(「優性思想」、和製ブーカーティ・ワシントンとしての思想)を指摘したことにあった。
今回、『部落学序説』で、再び、賀川豊彦の差別思想を取り上げる。
賀川豊彦は、1923年に水平社の応援演説に奈良の被差別部落にでかけ、このように綴った。
「・・・あまりに虐げられている部落の人々の為に、私は涙が自ら出てそれ等の方々が過激になるのは
あまりに当然過ぎる程当然だと思ひました。私は水平社の為に祈るのであります。・・・
神様どうか、水平社を導いて下さい。雪の柱、火の柱を持って御導き下さい。アーメン」。

そのような賀川豊彦が、なぜ、被差別部落の人々に対し、差別的な言辞を多数残していったのか・・・。
賀川豊彦のなかの差別性は、賀川豊彦の内面から出てきたものであると集約することはできず、むしろ、
その時代の思想の潮流・「賤民史観」が大きく影響しているのではないか・・・と思った。

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281:第4章 太政官布告批判
09/08/19 05:05:20 fm7cnB96P
9節 警察と遊女と部落と(続き)

10項 「賤民史観」と遊女 その5 続・「遊女解放令」を瓦解させた明治の知識階級

明治5年太政官布告第395号・司法省布達第22号「遊女解放令」・「芸娼妓解放令」は、
日本の歴史上最初の人権宣言とよばれるにふさわしいものであり、
当時の司法卿・江藤新平ひきいる司法省は、「法治主義の番人」(毛利敏彦著『明治六年政変』)を自ら任じ、
「正当な法的手続き」(同書)に基づいて、権力を私物化、権益を追究する「長州汚職閥」の告発・糾弾に力を注いだ。

これに危機を感じた「長州汚職閥」は、薩摩藩・大久保利通をたてて明治6年政変により江藤を追い落として抹殺した。
その結果、「長州汚職閥」の山城屋和助事件(山県有朋)をはじめ井上馨、槙村正直らの「汚職・不祥事」の
「罪責」は不問にされ、それを批判・究明するものに対する言論弾圧が徹底された。
明治5年「遊女解放令」・「芸娼妓解放令」は、江藤・大久保の「政争」の中で、「公」を主張しながら
「私」腹をこやすことで、(大久保・長州閥と)その性質を同じくする「遊廓業者」によって、「まきかえし運動」が展開され、
業者の権益をまもるため、明治5年「遊女解放令」・「芸娼妓解放令」の事実上の破棄宣言「貸座敷渡世規則」が施行され、
その理由は「私娼の弊害」という理由にならない理由であった。

明治政府の私設「広報官」である福沢諭吉は、『学問のすすめ』(8編・明治7年)の中で、
「男も人なり女も人なり。・・・其功能如何にも同様」と宣言したが、『差別の諸相』の注解者・ひろたまさきは、
福沢諭吉の女性論は、「文明的な良妻賢母の要請を求める主張」であり、「娼婦的存在には同情を示さなかった」という。
福沢は、「遊女」(娼妓)は、「最も賤しく、最も見苦し」い存在であるとし、『品行論』において
売春制度に対する自らの主張を明らかにし「我輩は娼妓を廃せんとする者にあらず、却って之を保存せんと願」うという。
筆者からみると、明治政府の中には、江藤のように人権確立に努力したひともいれば、
彼を政争上の「反対勢力」として排除・抹殺した大久保・木戸孝允・井上・福沢のような人物もいたということである。

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282:第4章 太政官布告批判
09/08/20 05:07:21 kJtAIicxP
9節 警察と遊女と部落と(続き)

10項 「賤民史観」と遊女 その5 続々・「遊女解放令」を瓦解させた明治の知識階級

近世幕藩体制下の「遊女」は、多くは「百姓」身分(農・工・商)の末裔であった。
近世幕藩体制下の司法・警察である「非常民」としての「同心・目明かし・穢多・非人」から、
「遊女」(娼妓)をとるということは、権力に対する著しい逸脱と認識され厳罰が課せられ、
「同心・目明かし・穢多・非人」から、「遊女」(娼妓)が出ることはほとんどなかった。

明治維新によって、旧身分制度が撤廃され、その特権を失って、路頭に迷ったのは、中層の「武士」であった。
明治前期、幕府時代における100石から200石取りの小禄「旗本」など中層「武士」階級は、
職業的な知識・技術も持ち合わせず、経済的困窮・破綻に追い込まれ、
その娘たちを「遊廓」に身を沈ませることになった。
彼らが、明治期の中産階級・知識階級に復帰するに従い、その階級に所属する学者・研究者・教育者は、
その歴史を塗り替え、幕末・明治に生きた武士の「実像」を破棄して、「虚像」に生きるようになった。
明治30年代の、知識階級・中産階級である「旧武士」(軍事に関する非常民)の上昇と、
近世幕藩体制下の司法・警察であった「穢多・非人」(警察に関する非常民)の下降とは、軌を一にし、
幕末・明治初期の旧「武士」階級の悲惨と挫折は、すべて、近世幕藩体制下の「武士」支配の
下層に位置づけられていた「穢多・非人」に転化させられていった。
武士を限りなく「美しく」表現し、「穢多・非人」を限りなく貶めていくとき、このような等式が成立した。
           「穢多」=「売春種族」

この等式は、近世幕藩体制下の司法・警察である「非常民」としての「穢多」と、
その取締りの対象であった「遊女」という、まったく正反対の概念を、同等の概念として定義しなおすものであり、
日本歴史学に内在する差別思想の「賤民史観」が、はっきりとその姿をあらわした瞬間である。
筆者は、この等式を立てた思想家・賀川豊彦の差別性を取り上げたことがる。

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283:第4章 太政官布告批判
09/08/21 18:09:12 oku3bUkxP
9節 警察と遊女と部落と(続き)

10項 「賤民史観」と遊女 その6 「人身の自由」考察に関する今日的意味

『井上清は、「遊女」を「最もしいたげられ人身の自由をうばわれた女たち」と呼ぶ。
「最もしいたげられ・・た」とは、空間的には部落差別・・等の中で「遊女」に対する差別ほど、
ひどい「虐げ」(虐待)はなく、時間的には差別の歴史の中で「遊女」ほど虐げられたひとはなく、
「遊女」が経験した塗炭の苦しみを前にすると、その他の「虐げ」(虐待)・差別は、背後に退かざるを得ない。

日本歴史学に内在の差別思想「賤民史観」は、「遊女」も「部落民」も「賤民」概念で把握するため、
学者・研究者・教育者は、「遊女」が空間的・時間的に経験した塗炭の苦しみを、「部落民」概念にも
「周延(distribution)」させ、「部落民」の被差別経験にも波及させる。
しかし、「最もしいたげられ人身の自由をうばわれた女たち」の痛み・苦しみは、決して
「部落差別」のそれと混同・融合・同化してはならないものである。

また、人身の自由については、上野千鶴子は『ナショナリズムとジェンダー』の最後で、
「・・『わたし』の身体と権利は国家に属さない。そう女は-そして男も-言うことができる。・・」という。
上野の主張は、日本国憲法下では、自然法だけでなく実定法の範疇においても「立論することが可能」
であるが、自由民主党の『新憲法草案』では軍事的・政治的・社会的・文化的差異としての
「非常民」(男・女)と「常民」(男・女)の差異に基づき、「国家」と「非常民」(自衛軍)のために、
圧倒的多数の「常民」が、その戦争に巻き込まれ、さまざまな局面で軍事徴用され、その「犠牲」に供され、
圧倒的多数の「国民」の「人身の自由」が犠牲にされることになる。

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284:第4章 太政官布告批判
09/08/21 19:08:01 oku3bUkxP
9節 警察と遊女と部落と(続き)

10項 「賤民史観」と遊女 その7 見よ、しいたげられる者の涙を。

『部落学序説』は、今日現在、原稿用紙2700枚を超える長文の文章であるが、
論理・内容ともに致命的な矛盾は来していないようである。
これには、『部落学序説』を書きはじめてから今日まで、筆者の変わらざる「視線」がある。
筆者が学んだラートブルフ著『法学入門』の中表紙のウラには、次の『旧約聖書』「伝道の書」
(コヘレトの言葉)第4章1節が記されていた。

見よ、しいたげられる者の涙を。
彼らを慰める者はない。
しいたげる者の手には権力がある。

この聖書のことばは、法学者・ラートブルフの、法学者としての視線(まなざし)を語ったものである。
ラートブルフは、地面にひれ伏し泣く「しいたげられる者の涙」をまず見て、そのあと、なぜ、彼らが
しいたげられ涙をながさなければならないのか、涙の意味を知るために、彼らの上に立ちふさがる「しいたげる者」を見よという。
現役の法学者が、その学生に、このようなことばを語りかけることは、決して、ありふれたことではない。
なぜなら、多くの法学者は、この「伝道の書」第4章1節のことばと、まったく逆なことを教え、
また、その学生は、それを学ぶのが常だからである。
「まず、権力を見よ。権力の意志を慮ったのち、その権力によってしいたげられる者を見よ。」と教える。
まず、権力を仰いで、その下で苦しむ「しいたげられる者」を見るとき、その「しいたげられる者」は限りなく「賤しい」民に見える。

今日まで、筆者のかわらざる視線(まなざし)は、ラートブルフが、『旧約聖書』から切り出した
「伝道の書」第4章1節のことばに記された視線(まなざし)である。
筆者は、昨日・今日・明日と、この視線(まなざし)を終生もち続ける。

URLリンク(eigaku.cocolog-nifty.com)

285:吉田無学の2
09/08/22 09:30:05 TP4cavcgP
第4章第9節「警察と遊女と部落と」の要約掲載が、やっと終わりました。
この節はレス№214~284の71で、うち、要約外16を除くと、正味55レスを使用しました。
御本家さまの原文の量と内容は、要約する上で並大抵ではありません。
しかし、ゴールが近づいてきました。

さて、御本家さまが2009年1月16日、山口県周南市川崎地区の隣保館で
講演をした記録が「解放学級ろく舎ブログ版」ジゲ戦記2009年8月18日 (火)に
13分割で掲載されています。URLリンク(rokusya.cocolog-nifty.com)
御本家さまの原文より分かりやすいので、ご一読ください。

286:285 吉田無学の2
09/08/22 09:46:29 TP4cavcgP
神戸市で部落解放運動に携わってこられた運動家・田所蛙治氏は、
御本家さまの2009.1.16吉田向学講演録について、次のとおりコメントをしています。

「蛙独言」August 19, 2009 URLリンク(aogaeru.txt-nifty.com)
・・・
蛙が高く評価している山口の吉田向学さんの「講演録」がUPされてる。
・・・
向学さんは、資料にキチンと当たられて、「エタ」は「賤民」などではなかったってことを実証をされておられる。
取り組まれてこられたその努力には「舌を巻く」ってところだし、敬服のほかない。
ただ、こういう「視点」は、少数ではあるが、「部落史」を考える人々の中にはこれまでもあったし、
現在、大勢としても、そういう傾向が出てきているように思う。
・・・
「事実」がこうして「知られていく」ことは、「部落」の側でも「差別者」の側でも、
とても大切なことだし、おおきな勇気をもらえるってことはあるだろう。

正しくその評価をしながらも、ただ、蛙の場合、2点についての留保がある。

まず第1は、仮に蛙の祖先が、或いは実の父が「どうしようもない悪逆非道の人間」だったとして、
「それがどないやゆうねん!」ってことがある。人間は、本来、「その人」ということで評価されなければなるまい。

第2には、実際には、まだ年端もいかない内に「柔らかな肌」に「被差別の烙印」を押されるのであるから、
分別がついてから「事実」を知っても、その「スティグマ」は消えることは無いのだということだ。

「事実を知る」ことは「勇気」につながるが、それだけでは「武器」を掴むところまでは行けないと蛙は思う。

287:286 吉田無学の2
09/08/22 10:14:01 TP4cavcgP
田所蛙治氏の留保について、私は、こう考えます。

>>第1 人間は、本来、「その人」ということで評価されなければなるまい。

同感です。

>>第2 まだ年端もいかない内に「柔らかな肌」に「被差別の烙印」を押されるのであるから、
分別がついてから「事実」を知っても、その「スティグマ」は消えることは無いのだということだ。

子や孫の代に、「柔らかな肌」に「被差別の烙印」を押されることがなくなること、
それ自体が大きな前進です。

また、既にある「スティグマ」については、アーメンその他一神教の信仰による救い、
「個人の人格の尊厳」の回復があります。
御本家さまの教会で洗礼を受けてみるのも、ありです。

カトリックでは教父の時代から、中世神学者の時代を経て最近の教皇に至るまで、
「個人の人格の尊厳」は人間がいただいた恵みという観点から考えられてきました。
西方キリスト教に属するプロテスタントも同じです。
「個人の人格の尊厳」に中心価値を置く憲法学は、アーメンでなければ本当のところは分からないでしょう。

288:第4章 太政官布告批判
09/08/22 13:21:10 TP4cavcgP
A節 「非常民」から「常民」へ、その精神的葛藤

1項 田中正造と明治維新 その1

筆者は、小学生のときに社会科の授業で、足尾鉱山とその公害事件、
田中正造が村のひとと一緒になってたたかい、金原明善とともに偉大な人物であったことを習った。
田中正造、金原明善は、『広辞苑』(初版本)に次のとおり掲載されている。

【田中正造】政治家。栃木県の人。1890年(明治23)以来衆議院議員に当選。
足尾鉱山の公害問題解決に努力。1901年直訴。以後終生治水問題に意を用いた。
(1841~1913)
【金原明善】社会事業家。静岡県の人。養蚕・植林・牧畜の奨励、天竜川の治水、
免囚保護などに尽力。(1832~1923)

田中正造は、明治36年3月、谷中村に入る前の年、その日記に、
「大学廃すべし。腐敗の淵藪なり。」と記していたという。
権力を仰ぎ、権力に服従し、権力をおもんぱかって、その学識を披露する、そして、
「しいたげられる者の涙」を理解することなく、「惻隠の心」を棄ててかえりみない、
当時の中産階級・知識階級に対する、激しい田中正造の批判のことばである。
「しいたげられる」谷中村の農民の涙をみて、その涙の原因たる「しいたげる」国家
(中央政府・地方行政)の手の中にある「権力」の不正を、いのちをかけて追究した田中正造の
名をあげずして、他の誰の名をあげることができるのか。

田中正造を支えた思想は、皇国史観でも、唯物史観でもない。
「非常・民」であることを徹底的に棄てて、「常・民」として谷中村の農民と共に
生きようとした背景にあったものは、近世幕藩体制下で、身につけていった
「百姓」としての自信と誇りではなかったか。

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289:第4章 太政官布告批判
09/08/22 17:01:45 TP4cavcgP
A節 「非常民」から「常民」へ、その精神的葛藤(続き)

1項 林竹二氏の田中正造解釈(旧:田中正造と明治維新 その2 「田中正造穢多を愛す」の真意)

田中正造は、林竹二『田中正造の生涯』によれば、1841(天保12)年11月3日、
「下野国安蘇郡小中村(現在佐野市小中)」に生まれ、「・・生家・・の印象は、それがいかにも小さい・・、
到底豪農などいうことばとは無縁の、ささやかな家のたたずまいで、家族の農耕の営みによって生きている、
まごう方なき「下野の百姓」の家であった」。

林は、このように推測する。
「・・・はじめて名主となった祖父正造は・・・おそらく家の格式や財産によってではなく、
その能力が小中村の百姓の信望を集めて彼は名主に選ばれた・・・父は温厚な人であったが、
割元(名主のたばね役)として下野の六角領7ヶ村のたばねをするだけの器量をそなえていた。
田中家が苗字帯刀を許されたのは、父が割元に昇進してからのことである」。
「田中家が苗字帯刀を許された」のも、名誉職としてではなく、「下野の六角領7ヶ村」の
治安を担うだけの実力を持っていたからである。
「大庄屋」の権限は強大であり、殺人・強盗・火付などの「非常」に遭遇したときには、
「大庄屋」は、代官所指揮のもと、村役人や村番人を動員して、犯人の探索・捕亡・糾弾に従事するため、
近世幕藩体制下の司法・警察である「非常・民」としての知識・技術にも長けていなければならないからである。

田中正造という人物をはかるには、その生家の規模の大きさではなく、近世から近代への過渡期に、
田中家に担わされた「職務」(非常民としての職務)の大きさで判断すべきである。

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290:第4章 太政官布告批判
09/08/23 13:14:35 auMLighgP
A節 「非常民」から「常民」へ、その精神的葛藤(続き)

1項小松裕氏の田中正造解釈(旧:田中正造と明治維新 その3 続・「田中正造穢多を愛す」の真意)

筆者は、徳山市立図書館で『田中正造全集第1巻』、『田中正造全集月報』
(同図書館が付録を1巻にまとめたもの)、小松裕著『田中正造』の3冊を借り出した。
理由は、田中正造『回想断片』中の「田中正造穢多を愛す。6年出獄してより・・・」という
短文執筆前後の歴史的状況などを考察するのに、適当な史料が含まれているのではないかと想定したからである。

小松は、『田中正造』の「はじめに」において、「林竹二『田中正造の生涯』・・これらの著作においては、
田中正造の思想の特徴が充分に描かれているとはいいがたい。『田中正造の生涯』は、・・・
史料の歴史的背景と文脈を無視した強引な解釈も目立ち・・田中正造の思想の全体像とその独自性を
本格的に論じた研究書は皆無・・・」という。
しかし、筆者の目からみると、林の田中正造研究は、小松の指摘するのとはまったく逆で、
「史料の歴史的背景と文脈」を踏まえ、田中正造の内面の苦悩と葛藤、その思想を描き出してあまりあるもので、
林『田中正造の生涯』の「第1章 政治家田中正造の形成過程」では、その行間にすら、
田中正造の人格と思想が滲み出ている。
逆に、小松『田中正造』の内容は、軽佻浮薄としかいいえないような内容で、田中正造の思想と人格を無視し、
近代歴史学の一般的・通俗的見解「近代進歩史観」を、「強引」に適用したものにほかならない。

田中正造は、「・・明治4年2月から36カ月と20日間の牢獄生活を経験」し、明治7年4月の
出獄許可直後、故郷でのことばとして「田中正造穢多を愛す。」が語られている。
筆者は、当時の男が「愛す」と宣言するのは尋常ではなく、この「愛す」と宣言した田中正造の精神世界を
解明せずして、田中正造のほんとうのすがたを描くことは不可能ではないかと思う。

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291:第4章 太政官布告批判
09/08/23 22:08:19 auMLighgP
A節 「非常民」から「常民」へ、その精神的葛藤(続き)

1項】「田中正造穢多を愛す」(断片23)
(旧:田中正造と明治維新 その4 続々・「田中正造穢多を愛す」の真意)

昨日(2006.09.15)、徳山市立図書館で借りてきた『田中正造全集第1巻』(岩波書店)をひもときながら、
『部落学序説』で田中正造をとりあげる方向性にまちがいがないことを確認した。

『田中正造全集』を全巻精読すれば、これまでの学者・研究者・教育者がなそうとしてなすことができなかった
田中正造の精神世界を解明することができる、歴史研究において、従来の一般説・通説を根底から覆すことの機会・・・、
というのはそれほど多くはない。
たとえ、「自己満足でしかない・・・」と笑われようと、その機会が筆者の手元にある・・・、というのは痛快極まりない。

とりあえず、徳山市立図書館で借りた『田中正造全集第1巻』(自伝)の中から、『回想断片』に収録されている
「断片23」の全文を転載する。
「田中正造穢多を愛す。7年出獄してより郷里に帰り農業に従事す。夏麦打雇人に穢多を用いたり。
時に炎熱の侯麦打の労甚し。雇人等に与うるに清水を桶に盛り来り、一碗その内に投じ置、雇人をして交る交る
自由に其水を飲ましむ。穢多も飮み正造も飲めり。正造此穢多と一碗交る交るにす。衆皆之を卑しとしたり。
当時村中の流俗穢多を卑しみて床上に登らせず、また湯に入れず。正造即ち穢多を湯に入れ座上に登す。
毎日毎日日課卒りてより夜に入り穢多の労を慰め酒を与う。正造又其の盃を交換す。
当村老弱男女神仏を祈るの徒は正造の行為を賤しみて隣伍親戚又来らず。
正造穢多の人類中に区別すべからざるを説けり。而して説けば説くほど衆皆眉をひそめ唾を吐き、
終に正造をも穢多の如く正造に湯茶を飲ますることを忌みて正造不便多かりき」。

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292:第4章 太政官布告批判
09/08/28 05:52:24 /rxLPOk+P
A節「非常民」から「常民」へ、その精神的葛藤(続き)

1項田中正造の穢多理解
(旧:田中正造と明治維新 その5 続々々・「田中正造穢多を愛す」の真意)

田中正造の父・庄造は、(高家旗本)六角家2000石の割元(西日本では大庄屋ともいう)で、
六角家の財政再建に貢献したが、同家の筆頭用人・林三郎兵衛による「公共事業」に関する
不正を潰したため、「六角家騒動」が発生した。
この「六角家騒動」の際、田中正造は、3尺立方(縦横高さが各90センチ程度の)獄中にとらわれた。
「六角家騒動」の背景には、近世幕藩体制下の「武士」身分と「百姓」身分の葛藤があり、
「筆頭用人」と「割元」との抗争は、「支配」と「支配」の葛藤状態を意味する。
田中正造は、近世の司法・警察である「非常の民」(名主)として「非常の民」(武士)に対峙したと思われる。

釈放後、田中正造は、「陸中国在職中の殺人疑獄」の容疑者にされ、警察から厳しい取調と拷問を受け、
明治4年6月からほぼ3年間に亘って「江刺の獄」につながれてたが、無罪放免となって帰郷した。
このときの状況を、田中正造は、『回想断片』の21と23に記している。
「断片21」は、幕藩体制下の「武士」支配の頂点である「元領主」(六角雄太郎)に対する、
「断片23」は同じく幕藩体制下の「武士」支配の最下層である「元穢多」に対する、田中正造の真意が綴られている。
「武士」身分によって数々の辛酸をなめさせられた田中正造は、「旧武士」(軍人)に対して厳しく批判する一方、
「元名主」であった田中正造同様、「非常・民」として共に、六角家の領内の治安維持にあずかってきた
「旧穢多」(警察官)に対して限りない尊敬と愛着をもって接する。

それが、「断片23」の「田中正三穢多を愛す」の真意である。

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293:第4章 太政官布告批判
09/08/29 12:13:08 s0JSv7CfP
A節 「非常民」から「常民」へ、その精神的葛藤(続き)

2項 「庄屋」の目から見た「武士」と「穢多」

六角家の領地における「村」単位の治安の維持は、他の幕府領内と同じく、近世幕藩体制下の
司法・警察である「非常民」としての「穢多」と「村役人」(庄屋・名主等)によってになわれ、
「穢多」はおもに司法警察、「村役人」はおもに行政警察的な仕事をしていたと思われる。
「庄屋」・「名主」は、「百姓」に属する点では「武士」支配を受ける側にたたされたが、「非常民」としては
「百姓」を支配する側に身を置き、「支配」・「被支配」の両方の側にたって、その職務が遂行されなければならなかった。

明治7年、田中正造が故郷に帰って数ヶ月後、旧六角家の当主・六角雄太郎が
「困窮の為め・・・旧領民の救いを乞」いに来た。
これに対し、田中正造は、「・・専ら士道を研究せらるる余地もありながら、いたづらに座して何等の学文をも為さず・・・」
「よくもおめおめ来たり・・・一文半と雖も公に呈するものなし」と、元領主を「痛罵」して空手で帰した。
この「憤怒」のできごとは、近世幕藩体制下の「武士」に対する田中正造の深い失望の思いを伝える。

元領主を「痛罵」して空手で帰した田中正造が、旧「穢多」に対して、麦打ちの仕事を提供し、
休憩時にはつめたい水をさしだし、一日の労をねぎらって風呂に入れ酒を馳走し床につかしめ、次の日は給金を渡す・・。
筆者からみると、近世幕藩体制下の司法・警察である「非常民」として、「庄屋」・「名主」と「穢多」は
同じ「支配」の側に身を置いていたがゆえの、親近感と相互理解が存在していたのではないかと思う。

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294:第4章 太政官布告批判
09/08/30 13:43:04 c8r/e/MUP
A節 「非常民」から「常民」へ、その精神的葛藤(続き)

3項 「被差別部落」の人々の怒りの琴線に触れる・・・

この文章は、筆者の極めて主観的な文章である。
「琴線」ということばについて、『広辞苑』では、次のような説明がなされている。
【きんせん【琴線】①・・・②感じやすい心情。心の奥に秘められた、感動し共鳴する微妙な心情。「-に触れる」】

筆者「独断と偏見」からあえていえば、部落解放運動に従事している被差別部落のひとびとの
「心の奥に秘められた・・・微妙な心情」として、自らが直面している差別を「絶対化」する傾向があるのではないか、
「部落差別」は、他の差別と根本的に異なる「特殊」な差別である・・・、と。
「特殊部落」ということばは、明治政府・内務省・警察の「棄民化」政策によってつくられた差別的な用語である。
言葉としては、差別語として認識される「特殊部落」は、意識レベルになると、被差別部落の側に相当
受け入れられていったのではないか、「心の奥に秘められた・・・微妙な心情」としては、
被差別部落の人々は、自らを「特殊」という言葉で、絶対化していったのではないか、
その「特殊視」に乗っかって戦前・戦後、水平社運動・部落解放運動が展開されてきたのではないかと思われる。
誤解を恐れずにいえば、この「特殊視」を根拠にして、部落解放運動が実践され、
同和対策事業・同和教育事業という、「特殊視」にみあう事業・教育が推進されていったのではないかと思われる。

『部落学序説』は、最初から、「差別」と「被差別」の両者の間の精神的葛藤を前提とし、
「心の奥に秘められた・・・微妙な心情」としての「特殊視」(賤民史観)を否定し、「一般視」(常民・非常民論)を提案する。
部落差別を完全解消に導くためには、「部落差別は差別者にのみ問題がある、
被差別者はいわれなき差別を受けてきた被害者に過ぎない・・・」という「虚妄」を払拭し、
被差別・差別の両者に存在する「特殊視」(賤民史観)を破壊しなければならない。

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295:第4章 太政官布告批判
09/09/01 06:25:01 ltRzwjv6P
A節 「非常民」から「常民」へ、その精神的葛藤(続き)

4項 排除される「庄屋」の視点・・・

近親憎悪ということは、精神分析学の専門用語とのことで、『広辞苑』には見当たらない。
イタリアの社会学者・アルベローニの109の「人間性」パターンのうち、『他人をほめる人、けなす人』の
「他人を引きたてない人」について、「知的な高い才能を備えている」場合が多いが
「自分自身のこと、自分の成功、自分の声にしか関心がない。」と言われるものに、「近親憎悪」の持ち主はかなり類似性があると思う。

筆者からみると、部落解放の運動団体(同和会・部落解放同盟・全解連・全国連・・・)は、それぞれ、
「自分自身のこと、自分の成功、自分の声にしか関心がない。」ように見える。
「近親憎悪」とは、「近親」(部落解放のための運動団体、同和会・部落解放同盟・全解連・全国連・・・)が、
自分以外の「近親」との間に差別化を図り、自分の所属する運動団体の組織と方針のみを価値あるものとみなし、
それ以外の運動団体の組織と方針を、無価値なもの、否、害あるものとして、
「大仰な言葉を口にし、やたらに憤慨し、激しく批難する」ことによって、徹底的に叩き潰そうとする心情のことである・・。
部落差別問題・人権問題を標榜する運動団体の多くは、相互に、その組織の内外にむけ、「近親憎悪」的体質を持っている。
部落解放運動は、権力によって押し込められた「賤民史観」という、差別的思想の枠組みである「たる」の中で、
「近親憎悪」という「モンスター」に身をゆだね、お互いを暗くて深い、絶望の淵へ引きずり込んでいる。

近世幕藩体制下の司法・警察である「非常民」の中には、正規の武士階級「与力」も、準武士階級「同心」も、
警察・検察・司法の本体として組み込まれていた「穢多・非人」も、百姓身分の中には「庄屋・名主」という村方役人もいた。
部落差別問題・人権問題を、また、部落研究・部落問題研究・部落史研究を標榜する世界において、
旧「穢多・非人」の立場に身を置く現代の学者・研究者・教育者の多くは、旧「庄屋」の立場から「非常」を論じる
人々に対して、「近親憎悪」的批判を展開してきた。

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296:295訂正
09/09/01 06:30:44 ltRzwjv6P
○旧「庄屋」の立場から「非常民」を論じる
×旧「庄屋」の立場から「非常」を論じる

297:第4章 太政官布告批判
09/09/02 18:55:13 vH2+1fbvP
A節 「非常民」から「常民」へ、その精神的葛藤(続き)

5項 「非常民」から「常民」へ、その精神的葛藤

「非常民」から「常民」へ、その精神的葛藤に関して、田中正造をとりあげる。
田中正造は、近世幕藩体制下の司法・警察である「非常民」の一翼を担った村方役人・「名主」
(西日本では庄屋)の「役務」に主体的にかかわり、「常民」・「非常民」の両方に身を置く希有な経験をしたひとである。

林竹二は『田中正造の生涯』において、田中正造にとって、谷中村に入ることと谷中村の人民になることとは
異なることであり、「正造は谷中に入ったが、人民の中に入っていなかった・・・、自分の中に、・・
『人類以外に立って、人のためになにかをしようとしている』愚人を認めざるをえなかった」という。
田中正造は「愚民論」に立って、谷中の百姓のために何事かをなしとげようとする自分の中に「愚人」を見た後、
「愚民論」を払拭して「愚人」であることをやめるため、64歳にして「回心」、生きかたを変え、
73歳にいたるまで谷中村人民「百姓」・「常民」としての生きざまをまっとうする。
田中正造の晩年は、「非常民」意識・自らの「非常民」性を棄てて、「常民」としての生きかたを、
谷中村のひとびとと共有する旅であった。
田中正造は、「非常民」意識の放棄とともに、国家の事業や援助は人民のためにならず、
人民を腐敗させるのみであるとこれを拒否し、「百姓」(常民)の公道に生きようとする谷中村人民と共死共生の道をたどる。

林は、田中正造の生きかたを「生ける一貫性」、「自己の全存在と行動とで、その思想に責任をもつ」ことであるという。
筆者の『部落学序説』も、田中正造の「その都度、何度でも、根底に帰って出直すことができる」
ラジカルさを身に呈するものでありたいと思う。

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298:名無しさん@お腹いっぱい。
09/09/04 15:44:35 wfvrmgJD0
たまには良スレをageます

299:第4章 太政官布告批判
09/09/05 07:56:40 aeZSzCkRP
A節 「非常民」から「常民」へ、その精神的葛藤(続き)

5項 続・「非常民」から「常民」へ、その精神的葛藤

田中正造は、明治23年第1回総選挙で衆議院議員に当選したが、
足尾鉱山鉱毒問題と渡良瀬川周辺で生活する人民(百姓・平民・常民)の被った
公害とその被害の悲惨さを知った後、議員を辞職し谷中村に入り、そこで戦う「共同体」に身を置くようになる。

田中正造は、谷中村に入っても、谷中村の人民(百姓・平民・常民)と共に戦うことができず、
それまでの「非常民」としての、名主・国会議員としての意識を捨て、谷中村の「常民」としての
人民(百姓)になりきらなければならなかった。
林竹二の「田中正造は、9年にわたる谷中の苦学に堪えて、谷中人民の一人になった。」ということばは、
田中正造が、その死をもって、やっと「谷中人民の一人になった。」ことを意味する。
「非常民」から「常民」へ、生きざまの転換は、想像を絶する精神的葛藤を田中正造にもたらしたのであろう。

明治4年「穢多非人ノ称廃止」太政官布告によって、近世幕藩体制下の司法・警察である
「非常民」の本体であった「穢多・非人」は、どのように「非常民」意識(特権意識・選民意識)を捨て
「常民」意識を獲得していったのか。
筆者の手元資料では、田中正造と同じ精神的葛藤と苦闘を経験したことを記録に残した「旧穢多」の
存在を確認することはできず、「旧穢多」の多くは「旧百姓」の精神を共有することなく今日にいたっている
・・・と推測せざるを得ない。

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300:第4章 太政官布告批判
09/09/05 16:30:44 aeZSzCkRP
B節 「旧穢多」の精神史的考察

1項 「旧穢多」の精神史的考察は可能か

筆者は、「旧穢多」が、どのように「非常民」意識を棄て「常民」意識を獲得していったのか
・・・大いに関心をもつ。
「精神史」については、『広辞苑』でこのように説明がなされる。
 【精神史】(Geistesgeschichte)歴史的事実の背後に歴史を動かす力として精神的な力が
働いていると考え、この見地から歴史をとらえ、芸術・学問・宗教などの文化形象を
精神の歴史として考察するもの。とくにドイツ的な考え方。

近代的部落差別成立(を解明)するためには、近代国家建設の過程で部落差別をシステムに
組み込んだ側の精神史(「差別の精神史」・「被差別の精神史」)だけでなく、
その差別制度・差別政策・差別思想を受容し自らを国家公認の被差別民・
「特殊部落民」たらしめていった被差別側の精神史考察は不可欠と思われる。
「差別」は、差別する側だけで成立せず、差別される側がその差別を受容し差別側の
差別的な視線で自分自身を認識するようになったとき、「差別」は制度的・社会的に存在するようになる。

しかし、従来の部落研究・部落問題研究・部落史研究は、「旧穢多」の精神史を解明することには
熱心でなく、部落解放運動の基本方針・闘争理論によって私的思想統制と検閲によって捨象された
「イデオロギー」(「賤民史観」)的理解のみが要求された。
多くの学者・研究者・教育者は、この差別的な「イデオロギー」を受け入れ、「学問」の本質、真実を
探求するという学者・研究者・教育者としてのいとなみを放棄し、
「旧穢多」の精神史を解明する研究はなされてこなかった。

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301:第4章 太政官布告批判
09/09/06 12:57:13 KEwuMqXkP
B節 「旧穢多」の精神史的考察(続き)

2項 「旧穢多の精神史」と「差別(あるいは被差別)の精神史」の違い

この節で取り上げるのは「旧穢多の精神史」であって、「差別の精神史」あるいは「被差別の精神史」ではない。
「旧穢多の精神史」は、その研究対象が「旧穢多」(穢多とその末裔)という具体的な存在である。

この対象は、時間系列上では、1 近世幕藩体制下の司法・警察である「非常民」として「穢多の類」
(穢多・非人、以下「穢多」とよぶ)として活躍していた時代、
2 幕末期から明治4年以前の間に、近世幕藩体制下の「穢多」身分から
近代中央集権国家の「士族」身分・「平民」身分に移籍された人々と、明治4年の太政官布告以降、
近代中央集権国家の「平民身分」にされたが、それに先立つ「平民」(「常民」としての百姓・町人)と区別されて
「新平民」と呼ばれた人々の生きた時代、に限定する。
空間的系列上では、Ⅰ 明治4年の太政官布告公布以前に、近世幕藩体制下の「穢多」身分から
「武士」・「百姓」(町人)に移籍したり、明治以降、近代中央集権国家の「士族」・「平民」に移籍されたひとびと、
Ⅱ 明治4年の太政官布告以後、上記のⅠをのぞく「旧穢多」で、「新平民」とよばれた圧倒的多数のひとびとをさす。

この節で、筆者が耳を傾けようとしているひとびとは、「旧穢多」あるいは「旧穢多の末裔」たちである。

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302:第4章 太政官布告批判
09/09/06 20:00:30 KEwuMqXkP
B節 「旧穢多」の精神史的考察(続き)

3項】ある「旧穢多」の群像(部落地名総鑑・人名総鑑の問題の中で・・・)

今回、『部落学序説』で、「「旧穢多」の精神史的考察」を考察する際に使用する史料には、
「旧穢多」の地名・人名に関するリストが含まれる。
当然、筆者としても、その史料に出てくる「旧穢多」の地名・人名の取り扱い方について、
過去、どのような取り扱いかたがされてきたのか・・・、調べる。

その結果、遭遇したのが、「毛利源兵衛・吉富新蔵・・・」と記すべきところを、あえて、
「M源兵衛・Y新蔵・・・」と表した部落史研究者(石瀧豊美)のインターネット・ページ上の表現である。
『部落学序説』でいう「旧穢多」は、近世幕藩体制下の司法・警察である「非常民」として、
その職務に忠実に生きたひとびとで、「毛利源兵衛・吉富新蔵・・・」もその「旧穢多」に数えられるべきひとである。
「毛利源兵衛・吉富新蔵・・・」は、小川順藏・古賀菊次・古賀斉基地・島津覚念・梅津和三郎・松田太平次・
村井元半七・本田茂次郎・沢田甚之十・川越新次郎・津本茂八郎・津本亦次郎・巌平次・巌金次・
樋口関蔵・小川為次郎・小川森次郎・古賀京太郎・松田松次・吉田和吉・金沢安兵衛の21名の
「旧穢多」と共に、「旧穢多」とは何であるか・・・、その答えを内蔵する文章を残し、そこには彼らの在所まで記されている。

地元福岡県の研究者によっても、実名記載されず「M源兵衛・Y新蔵・・・」と記号化・暗号化されてしか
紹介されない史料は、まともな評価がなされているのか。
筆者は、上記23名の「旧穢多」に対し、日本歴史学に内在の差別思想「賤民史観」的まなざしを向けることなく、
彼らを、近世幕藩体制下の司法・警察である「非常民」として、その「非常民」であるがゆえに
、国家・社会から受容・排除を経験せざるを得なかった、「旧穢多」の精神史・・・に光をあてることができ、
「部落差別」を根底から解体し「部落差別」の完全解消にむけた道程の上に、彼らを位置づけることができる。

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303:第4章 太政官布告批判
09/09/07 06:37:13 4848yYAZP
B節 「旧穢多」の精神史的考察(続き)

4項 復権同盟結合規則に関する一考察

前項23名の「旧穢多」は、明治14年「復権同盟結合規則」発起人としてその名前が記され、
「部落上層あるいは部落指導者層」に属する人々であったといわれる(日本近代思想大系『差別の諸相』)。
「復権同盟結合規則」は、当時の福岡県令あて、明治13年「集会条例」(太政官布告第12号)に対し
上記23名が発起人として結成される「旧穢多」結社が合法的であるかいなかの打診をしたものであった。

「復権同盟結合規則」の「緒言」において、「如何ナル故ニヤ、未ダ濫觴ヲ審ニセズ」と
「どういう理由があってか、穢多が穢多であるのかその起源は不明である」・・という。
その背景には、明治4年から同14年の間、「旧穢多」が直面した歴史的経験・体験が存在しているように思われる。
「復権同盟結合規則」には、「世ニ人外視セラレテ而テ別ニ異界ヲナシ、
世ノ最モ穢ハシトスル所ノ業ニノミ従事スルヲ以テ我曹ノ当務トセシ事、年已ニ久矣。」と記されている。

従来の「復権同盟」に関する研究は、日本歴史学に内在の差別思想「賤民史観」に依拠して
解釈されてきた結果、「世ノ最モ穢ハシトスル所ノ業」ということばは正当な解釈を施されることなく、
「農民層の部落への差別感情」が強調されてきた。
「世ノ最モ穢ハシトスル所ノ業」とは何だったのか・・・。

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