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中国でテレビが普及し始めた70年代末頃、大量の日本のテレビアニメが中国に入ってきた。
例えば、「花の子ルンルン」や「聖闘士星矢」、「一休さん」、「ドラえもん」などだ。
この時代、日本のアニメ・漫画作品が大量に中国市場に流れ込み、中国人は日本アニメ・漫画に
夢中になった。当然、このような作品は当時の学生たちにも影響を与えた。日本のアニメ・漫画は
独特な魅力と人を感動させる力を持っていたため、当時世界でも「anime」という新しい英単語までが
作られたほどだ。日本のアニメ・漫画産業は、かくも発展し、影響力を持っている。
しかし、アニメ産業はもともと米国で生まれたもので、アジアの国にとって、アニメ産業は輸入産業である。
日本のアニメ産業はいかにしてこのように大きく発展し、他のアジア諸国を大きく引き離してトップに
君臨しているのか、不思議に感じている人も多い。光明日報が伝えた。
■昆虫が大好きだった「昆虫博士」こと手塚治虫の漫画改革
日本のアニメ創世記である1918年に、日本初のアニメ作家である北山清太郎によるアニメ映画
「桃太郎」の製作が始まった。出来上がった映画は当時大ヒットとなり、多くの観客たちが映画館に
詰め掛けた。その中に、後に「漫画の神様」と呼ばれることになる手塚治虫の姿もあった。
手塚治虫は小さい頃から漫画を描くことや昆虫が好きだった。手塚治虫の名前に「虫」という文字が
加えられているのはこのためだ。
50年代、手塚治虫は漫画の連載をスタートさせる。この時期に描いた漫画は主に子供向けの
4コマ漫画と伝統的な長編漫画で、子供たちに大人気だった。手塚治虫の漫画はいつも瞬く間に
売り切れ、赤本ブームを巻き起こした。しかし、まさしく赤本ブームを巻き起こした頃の手塚治虫は、
子供向け4コマ漫画家のトップという立ち位置にはまったく満足しておらず、その後日本の漫画の
新しい時代を築くための二つの偉大な改革を成し遂げた。
一つ目は、映画の手法であるコマ割りの概念を平面の漫画の中に取り入れたこと。二つ目は、
漫画のテーマや内容面において、結末にオチを持ってきて、読者を笑わせる起承転結タイプから、
もっと多元的な内容を持つ漫画に変革したこと。以前の漫画は常に物語の最後にオチやギャグを
用いて読者を笑わせるスタイルだった。現在見られる多くの4コマ漫画は今でもこのような物語の
構成をとっている。しかし、手塚治虫は、漫画は物語を語るものであり、一口に物語といっても、
幅広く豊かな内容を持ち、人生の悲喜こもごもが描かれるべきで、常に一様にハッピーエンディング
である必要はないと考えた。
これらの改革を経て描かれた新たな漫画は、おのずと以前の漫画の様相とは大きく異なった。
以前より増したインパクトやテンポ、豊かな感情などが、人々、特に若い世代を魅了し、
手塚治虫の漫画の人気は瞬く間に日本を席巻した。
■漫画がもたらした弊害によって、漫画追放運動が起こる
しかし、このような少年たちを魅了した漫画は同時に弊害をもたらし、青少年の学習に悪影響を
与えるようになった。1956年頃、日本の文化人を中心とした団体が漫画の追放運動を開始した。
多くの親たちは学生が漫画ばかり読むことで、文学作品を読まなくなり、学習の邪魔になると考えた。
もちろん、これには原因がある。若い読者は青春のまっただ中にあり、経験も少なく、何かに
夢中になりやすい。当時の児童文学作品のテンポは緩慢で、青少年たちに刺激を与えることは
できなかった。しかし、漫画はまさしく刺激的という特徴を持ち、感覚的にも容易に受け入れられたことで、
青少年たちは漫画を読むことをより好み、文学作品を読まなくなった。
手塚治虫は漫画家として初めてこの問題に気付き、漫画に本質的に含まれる文学性に手を加えた。
手塚治虫は、「今後、必ず児童文学と肩を並べるような文学的な内容を備えた児童漫画が
出現するはずだ」と語った。漫画家たちの奮闘もあって、手塚治虫を中心とした物語性に富んだ
漫画は子供の文化として最終的に日本社会から受け入れられた。そしてさらに20年がたち、
漫画は子供たちだけでなく、大人も好む一種の文化となった。
日本の漫画が新しい時代に向けて踏み出したことで、社会への影響力が増し、国民もまた
手塚治虫が作り出した新しい漫画言語を受け入れることになった。
(>>2へつづく)
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