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<<人肉を食へて出世>>
事件の一端が明らかになったのは、中国・広西省武宣県である。
ここだけで「殺され、迫害によって 死んだ人間は524人、その内、食われた者は百数十人。武宣県の食人者は推定1万~2万人にのぼる」。
ここでは上からの犠牲者割り当てに応じて、走資派や実権派をデツチ上げ、
「まず批判闘争宣言があり、糾弾集会を行い、その後、人間を殺して、生きているままに人肉を削ぎ、生きている人間が絶命すると、
人間の心臓、肝臓、胆嚢、腎臓、胸肉、骨髄、太もも、足、筋、・・人間の骨肉を切り取り、削ぎ取って、それを煮たり、揚げたり、炒めたり、そして酒にゆっくりと漬けたりして、
さまざまな調理方法で、豊かな献立にしたのである。
また<人肉宴会>では酒を飲み、杯を交わし、論功行賞を した。」
「こうして食人の嵐がうずを巻き、集会があるごとに闘争があり、闘争があるごとに死者が出て、死者が出れば、かならず食われ、惨劇が繰り広げられたのだ」。
例えば、1968年7月1目、 武宣県の桐嶺中学副校長・黄氏は、同中学の教室で開かれた批判糾弾大会に引きずり出され、
棍棒で殴 り殺され、生徒から教師達までが副校長の人肉を切り取って、大々的に食べられた。頭は殴られ、真 っ黒にはれ上がり、
大腿骨とすね、そして手の肉は全部、切り取られ、肝、心臓、性器もすべてとら れ、胸部は空っぼで、はらわたも流れ出していた。
そして学校の食堂や廊下、区役所の炊事場で、教員宿舎や女子学生宿舎で人肉を煮たり、焼いたりして人肉料理の宴会が行われたのである。
女子民兵 ・王文留は、「人肉を食べたことによって、共産党から認められ、だんだんと地位が上がり、最終的には武宣県革命委員会の副主任になった。
彼らは人殺しから出世しただけではなくて、人間を食って出世した」のである。