13/05/29 17:54:17.19
山内一豊の若き日からの良き競争相手、堀尾、中村。
関ヶ原直前の石高は、堀尾=中村>山内
51:名乗る程の者ではござらん
13/05/29 18:01:04.94
山内、堀尾、中村が秀次事件に連座しなかったのは3人とも秀次の監視役だったから、と何かに書いてあった(史実はどうだかは知らないけど…)
52:名乗る程の者ではござらん
13/05/29 18:05:57.09
稲葉山城落城後の不破市之丞(演:津川雅彦)の髪型は、まるで化学実験に失敗した化学者のようだ
53:名乗る程の者ではござらん
13/05/29 19:01:41.27
おんな太閤記と功名が辻の共通点
桶狭間の戦いからドラマがスタート
54:名乗る程の者ではござらん
13/05/29 19:06:10.57
第12回ナレーション「(略)信玄。戦国のキーマンが今宵遂に!」
↓
↓
信玄登場せずw
国盗り物語(テレビ東京)のように信玄が息を引き取るシーンだけ登場させるという手があったと思うけど…
55:名乗る程の者ではござらん
13/05/29 19:16:18.36
足軽五十石の身分の一豊の妻である千代がお市の方と交流があったという設定は少し強引か、と。
金ヶ崎の殿軍で山内一豊一行が家康に助けられたとき、「これは…後年の関ヶ原に絡んでくる」という予想は当たった。
56:名乗る程の者ではござらん
13/05/30 07:03:06.70
万福丸(浅井万福丸)処刑実行者
蜂須賀小六@おんな太閤記
山内一豊@功名が辻
57:名乗る程の者ではござらん
13/05/30 09:31:34.58
ドラマや小説に登場しない武将・藤掛永勝
永禄10年(1567年)ころ、織田信長に仕える。
織田氏と浅井氏との婚儀に際しては、永勝は信長の妹お市に随伴して小谷城に入る。小谷落城時はお市や浅井三姉妹を救出して岐阜城に帰参した。
58:名乗る程の者ではござらん
13/05/30 10:01:02.57
日本を近代化したのは山内一豊だった!
山内一豊、土佐を与えられる
↓
長宗我部の元家臣に「郷士」として土佐に残る事を許可する
↓
郷士の中から坂本竜馬、誕生
↓
江戸幕府終了
59:名乗る程の者ではござらん
13/05/30 10:04:59.11
土佐20万石ってのは、山内家が移封後に検地し直した数値であって、
家康が与えた時点では9万8千石しかなかったんだが。
20万石じゃーとかありえませんから。
地方の土佐一国9万8千石と
東海道の要所、遠江掛川5万1千石とじゃ
どうみても左遷です。本当に(ry
60:名乗る程の者ではござらん
13/05/30 10:10:01.13
一豊が「ワシには千代だけじゃ」と言ったり
側室をとらなかったことを美化したり…
女向けの恋愛ドラマの要素を随所に盛り込んでいたのがイタかった。
61:名乗る程の者ではござらん
13/05/30 10:21:59.46
ドラマでお馴染みのシーン&逸話(&後世の創作)
新井白石編『藩翰譜』元禄15年(1702年)
小山評定に先立ち、堀尾忠氏が親しい関係にあった山内一豊に家康の歓心を買うために
居城を献上する案を話していたが、当の評定の場でその案を一豊に先んじて提案されて
しまった旨を記載。忠氏は「日ごろの篤実なあなたにも似ない行為だ」と笑ったという。
62:名乗る程の者ではござらん
13/05/30 11:53:25.35
あいみ‐たがい〔あひみたがひ〕【相身互い】
《「相身互い身」の略》同じ境遇にある者どうしが同情し、助け合うこと。また、その間柄。「武士は―」
63:名乗る程の者ではござらん
13/05/30 12:16:20.99
堀尾「武士は相身互いじゃ」
64:名乗る程の者ではござらん
13/05/30 12:44:26.43
名軍師の最期。
竹中半兵衛「安土様(信長)に天下はとれませぬ。今少し命がござれば殿(秀吉)が天下をとる夢を共に楽しめましたものを」
65:名乗る程の者ではござらん
13/05/30 12:54:06.87
第20回
OP語り「(略)秀吉軍は危機を迎えていた」
まるで『太閤記』w
66:名乗る程の者ではござらん
13/05/30 12:59:43.41
>>60
利家とまつでも側室の話はかなり美化されてる
利家には側室が50人規模でいた
67:名乗る程の者ではござらん
13/05/30 13:00:17.91
松寿丸イベント
秀吉「長浜に帰って松寿丸を消せ」
「殺せ」と言わずに「消せ」と言った秀吉の機転
68:名乗る程の者ではござらん
13/05/30 13:11:31.67
功名が辻が人気ないのは種崎浜の悲劇が最大の原因だろうなぁ。こればかりは山内一豊を美化できないのであった。
民放のドラマならば「土佐一国拝領」で、めでたしめでたしでエンディングにできただろうに。
69:名乗る程の者ではござらん
13/05/30 13:36:53.11
>>66
利家とまつは通好みの作品だった
佐脇良之(利家の実弟)の存在を知ってる視聴者は一割もいなかったと思う
70:名乗る程の者ではござらん
13/05/30 13:44:30.84
功名が辻 第21回「開運の馬」
濃姫が伴も連れずに安土城下を歩いているなんて有りえないw
しかも、千代に保護されるとは。
71:名乗る程の者ではござらん
13/05/30 13:45:50.39
>>68
全然違うがな
てか、お前はそれ言いたかっただけたろ
72:名乗る程の者ではござらん
13/05/30 13:47:50.87
黄金10両の馬。現代に換算すると100万円の馬を一豊がゲット
73:名乗る程の者ではござらん
13/05/30 13:52:00.47
信長、濃姫、光秀の三角関係は国盗り物語と全く同じだな
74:名乗る程の者ではござらん
13/05/30 14:00:09.91
糞ドラマの女信長ともな
75:名乗る程の者ではござらん
13/05/30 14:05:40.90
名馬のお蔭で一豊夫婦は濃姫から砂金を貰えた
76:名乗る程の者ではござらん
13/05/30 14:13:35.01
金ヶ崎で一豊に討たれた三段崎勘右衛門(みたざき かんえもん)
三段崎氏の子孫は後に医師・谷野一柏に弟子入りし、朝倉氏の滅亡後は、福井県で代々医業を生業としたという。
77:名乗る程の者ではござらん
13/05/30 14:25:58.31
三段崎勘右衛門は刀禰坂の戦いで織田家臣山内一豊に挑まれ、重傷を負わすも逆に殺された。首は織田家臣の大塩正貞が取り、一豊に渡したという。
78:名乗る程の者ではござらん
13/05/30 14:36:00.34
第22回に、秀吉「さすが黄金10両の馬じゃ」って台詞があるけど、
この馬はドラマに2度と登場しないのであった
79:名乗る程の者ではござらん
13/06/03 10:51:59.05
秀吉が主役に見えてしまうドラマ(秀吉没後は家康)
80:名乗る程の者ではござらん
13/06/03 11:35:23.26 YYVJEXkd
国盗り物語(大河)☆☆☆☆
国盗り物語(テレ東)☆☆☆
功名が辻(大河)☆☆☆☆
関ヶ原(TBS)☆☆☆☆☆
真田太平記(NHK)☆☆☆☆☆
81:名乗る程の者ではござらん
13/06/03 17:40:22.68
特別面白いとは思わなかったが、全話完走した。
印象に残っているのは
・武田鉄矢の最期
・玉木宏のメガホン
・声が出てない舘信長
・ノリノリでハマり役の永作淀
・役不足の近藤正臣
・恵まれた容姿から糞みたいな発声の成宮秀次
・唐沢利家再登場
・西田家康の腹黒さ
・なぜか出演してる梅雀
82:名乗る程の者ではござらん
13/06/03 17:41:23.11
まともな原作、まじめな脚本、奇をてらわない演出、普通の演技、
戦嫌いだけど「御武運を」と言って夫を戦場に送り出すヒロイン
21%弱の超安定無難視聴率で、空気大河といわれたけど
今となってはそれがまぶしい
83:名乗る程の者ではござらん
13/06/03 18:48:25.73
ゲン助と八重の弟は馬鹿死にだな
84:名乗る程の者ではござらん
13/06/03 19:14:40.56
品川徹の松永弾正や、ガラシャを介錯する小笠原少斎役の嶋田久作とか
一話限りの脇役でも魅力的な人が多かったな
放送当時はMVPスレを覗くのが楽しみだった
85:名乗る程の者ではござらん
13/06/04 16:15:26.56
test
86:名乗る程の者ではござらん
13/06/20 08:27:13.58
寧々「山内家はおんな大名」
87:名乗る程の者ではござらん
13/06/20 13:03:33.78
影武者の存在は普通は記録に残らないが
山内一豊の場合は影武者の存在が公式に記録されている稀有な例。
土佐平定が大変だったことが想像される。
88:名乗る程の者ではござらん
13/06/25 21:12:03.29 cM0mJipD
山内一豊をライバル視してた2人はその後どうなるの?
89:名乗る程の者ではござらん
13/06/26 00:44:40.51
>>88
URLリンク(ja.wikipedia.org)
URLリンク(ja.wikipedia.org)
90:名乗る程の者ではござらん
13/06/28 22:28:27.86
>>89
結局は徳川から改易されてるのか
91: 【大凶】
13/07/01 14:53:18.82
ポンポコポンポン
92:名乗る程の者ではござらん
13/07/03 15:43:58.72
千代「あがろまいかーと~んどい」
93:名乗る程の者ではござらん
13/07/03 16:21:47.22
♪あがろまいか~と~んどい♪
これは近江の農民の歌か?
94:名乗る程の者ではござらん
13/07/03 22:33:51.08
国盗り物語(大河)☆☆☆☆
国盗り物語(テレ東)☆☆☆
功名が辻(大河)☆☆☆☆
関ヶ原(TBS)☆☆☆☆☆
真田太平記(NHK)☆☆☆☆☆
葵徳川三代(大河)☆☆☆(関ヶ原と大坂の陣のみ☆☆☆☆☆)
徳川家康(大河)☆☆☆(家康を美化し過ぎ)
戦国自衛隊(映画)☆☆☆
天と地と(映画)☆☆
武田信玄(大河)☆☆☆☆☆
95:名乗る程の者ではござらん
13/07/03 22:36:33.41
>>91
ポンポコポンポンで三法師をてなづけた千代
96:名乗る程の者ではござらん
13/07/03 23:14:23.44
山内一豊の見せ場のひとつである「馬ぞろえ」がカットされてしまっていたのが残念
97:名乗る程の者ではござらん
13/07/03 23:26:14.10
ロングバージョンってあったのけ?
98:名乗る程の者ではござらん
13/07/04 09:36:15.19
ない
99:名乗る程の者ではござらん
13/07/08 01:22:01.45
お命の持ち帰りこそ功名の種に御座います
100:名乗る程の者ではござらん
13/07/08 01:23:20.48
100
101:名乗る程の者ではござらん
13/07/08 01:27:59.50
浅井を「あざい」と発音しているところがイイ
102:名乗る程の者ではござらん
13/07/08 01:34:04.33
オープニングのCGが素晴らしいね
103:名乗る程の者ではござらん
13/07/08 01:36:05.28
新右衛門の三男&長女・次女・三女・四女はいつのまにか消えてしまい最終回まで登場なし
104:名乗る程の者ではござらん
13/07/08 17:16:55.24
>>89を見る限り
豊臣政権下では堀尾氏や中村氏より格下だったのか?
105:名乗る程の者ではござらん
13/07/08 22:34:23.47
本山一揆を鎮圧した山内一豊であったが、土佐国内には未だ多くの一揆の与党が隠れ潜んでいる
という情報が多く入ってきた。
参考
本山一揆勃発顛末
URLリンク(iiwarui.blog90.fc2.com)
そこで一豊は謀をなし、国中に触れをだした
『浦戸において、相撲を取らせ一見すべし!上下によらず、望み次第にまかり出よ!』
これに、男伊達するほどの者は、我も我もと馳集まった。
見物の貴賎も群集しこれを見る。
相撲始まり、上下目を澄まして楽しんでいた
と、ここに、かねてから目付けを付けて監視してあった者達で、この場に来ていた者たちへ
捕手を向け、一揆の残党七〇余人を搦め捕り、種崎の浜にて磔とした。
この時、岡豊の城下、八幡村の名主は、これも一揆に組した者であったが、相撲の場に出向かず
用心の体で自宅に取り籠っていたが、ここにも若侍を差し向け生け捕りにして、同罪とされた。
これにより悪党どもも懲り、土佐は在所在所の山の奥まで、豊かに治まったのである。
(土佐物語)
例の浦戸相撲事件ですが、土佐物語では無差別に鉄砲を撃ちかけたわけではなく、
捕物で捕らえたという、印象で言えば、鉄砲に比べれば穏健なものになっています。
106:名乗る程の者ではござらん
13/07/08 22:35:56.38
>>104
堀尾、中村は「三中老」だから山内より格上
107:名乗る程の者ではござらん
13/07/08 23:01:46.98
大塩金右衛門の男の気配り
元亀元年四月二十日、朝倉義景征伐のために羽柴秀吉配下として山内一豊も従軍していた。
金ヶ崎の戦において、強弓をもって織田軍勢を追撃する朝倉軍に先頭に立って進んだ山内一豊は、敵の矢を受け
左眥(まなじり・目じり)から右奥歯に貫通する深手を負いながら、
槍を振るって立ち向かい、朝倉一門の大剛三段崎勘左衛門を組みしいた。
しかし顔の重傷と疲労困ぱいのため、首級をあげる気力を失って呆然としているところを
友人で味方の兵将大塩金右衛門が通りかかって首を打ち落とし、
「加勢したまでで手柄は貴殿のもの」と言いおいて先へ進んだ。
108:名乗る程の者ではござらん
13/07/09 15:25:59.51
>>106
やっぱりそうなのか
予告でやってたが来週あたりから地位の逆転おこるのかな
109:名乗る程の者ではござらん
13/07/10 15:21:41.91
豊臣政権下
中村一氏:14万石>堀尾吉晴:12万石>山内一豊:5万石
110:名乗る程の者ではござらん
13/07/10 18:52:38.55
かなりの差がつくんだな
中村や堀尾のどこで褒美が貰えたかも描いてくれてるといいな
111:名乗る程の者ではござらん
13/07/10 21:44:53.33
土佐一国拝領後
山内一豊「いまわしには天運がついておる。鉄砲の玉とてよけて通るのではないか」
112:名乗る程の者ではござらん
13/07/10 22:45:56.98
山内一豊
1570後半 播磨有年700石
1580~1584 播磨印南3200石
1585~1589 近江長浜3万石
1590 遠江掛川5万石
1600 土佐高知20万石
堀尾長晴
1570後半 播磨姫路1500石
1580~1584 若狭高浜17000石
1585~1589 近江佐和山4万石
1590 遠江浜松12万石
1600 隠居 嫡男忠氏が出雲・隠岐24万石
中村一氏
1570後半 近江長浜200石
1580~1584 和泉岸和田石高不明
1585~1589 近江水口6万石
1590 駿河府中17万5千石
1600 死亡 嫡男一忠が伯耆米子17万5千石
113:名乗る程の者ではござらん
13/07/10 22:47:37.94
誤:堀尾長晴
正:堀尾吉晴
114:名乗る程の者ではござらん
13/07/10 23:02:36.62
ドラマにおける山内一豊の石高
50石
200石
400石
3千石
3千数百石
2万石
掛川5万石
20万石
115:名乗る程の者ではござらん
13/07/10 23:11:53.31
>>114
千三百石(@馬を勝った頃)が抜けていた
116:名乗る程の者ではござらん
13/07/11 02:38:15.35
ドラマにおける山内一豊の石高
50石
200石
400石(中村や堀尾をリード)
千3百石(馬を買った頃)
3千石(三木城落城後。山内、中村、堀尾同時。3人同格)
3千数百石(出世脱落。中村、堀尾は早くも大名)
2万石(小牧長久手後)
5万石(北条攻め後)
20万石(関ヶ原後)
117:名乗る程の者ではござらん
13/07/11 13:29:19.22
>>112-116
丁寧にまとめてくれて、ありがとう
Wikiなどを読むと関ヶ原の恩賞としてもらえたのは10万石で
家康としては土佐は10万石の価値として与えたのかな
118:名乗る程の者ではござらん
13/07/13 01:50:24.19
家康が井伊直政に向って「な~お~ま~さ~、な~お~ま~さ~」と言うシーンがあるけど、家康と若き日の直政の衆道を意識した台詞だろうなぁ
119:名乗る程の者ではござらん
13/07/14 04:25:37.41
>>116
稲葉山城攻めの功で50石。
三段崎勘右衛門を打ち取った功で200石。
小谷落城で400石。
120:名乗る程の者ではござらん
13/07/14 04:37:47.66
ドラマにおける山内一豊の石高の推移
50石(稲葉山城落城後)
200石(金ヶ崎後)
400石(小谷落城後。中村や堀尾をリード)
千3百石(三木城落城後。山内、中村、堀尾同時。3人同格)
3千石(忘れた…)
3千数百石(出世脱落。中村、堀尾は早くも大名)
2万石(小牧長久手後)
5万石(北条攻め後)
20万石(関ヶ原後)
121:名乗る程の者ではござらん
13/07/14 04:46:44.43
千石(1、000石)が現代の1億円相当(多分)
つまり50石は500万円相当。
その50石の身分のときに祖父江新右衛門の妻子8人(妻&男児3人&女子4人)を呼び寄せてしまったので山内家の生活は困窮を極めた。
122:名乗る程の者ではござらん
13/07/14 04:53:11.32
一豊が、堀尾、中村に先んじて400石の身分になったときに
「400石を物見に来たか」とか「風呂を貰いに来た」とか大騒ぎになったのは
400石(現代の4千万円相当)が相当リッチだったからだと思う。
123:名乗る程の者ではござらん
13/07/14 05:27:25.86
討死した五藤吉兵衛の弟である五藤吉蔵は山内家の家老となり、
山内一豊が土佐入国をした際には、安芸土居を与えられて周辺を支配した。
その後も五藤氏は幕末まで代々山内氏の家老を勤めた。
124:名乗る程の者ではござらん
13/07/14 16:56:22.52
後藤象二郎は全く関係ないらしいね
125:名乗る程の者ではござらん
13/07/14 23:41:13.04
>>120
これは分かり易い
126:名乗る程の者ではござらん
13/07/15 01:23:59.17
ドラマにおける山内一豊の石高の推移
50石(稲葉山城落城後)
200石(金ヶ崎後)
400石(第14回『一番出世』。小谷城落城後。150石の中村や堀尾をリード)
千3百石(三木城落城後。山内、中村、堀尾同時。3人同格)
3千500石(忘れた…)
3千8百石(賤ヶ岳後。第28回『出世脱落』。中村は2万石、堀尾は1万7千石の大名)
2万石(小牧長久手後)
5万石(北条攻め後)
20万石(関ヶ原後)
127:名乗る程の者ではござらん
13/07/15 04:10:49.52
長浜城番になりそこねた話があったけど、城主と城代と城番の具体的な違いって何ですか?
128:名乗る程の者ではござらん
13/07/15 06:16:29.80
城代と城番は主君から預かった城であり、自分自身の城ではないということでは?
129:名乗る程の者ではござらん
13/07/15 06:36:36.37
近江長浜X万石の城主=X万石は自分のもの。
近江長浜X万石の城番=X万石は主君のもの。
こんな違いじゃないかと(自身なし)
130:名乗る程の者ではござらん
13/07/15 06:40:45.17
Wikiより
城代(じょうだい)とは、城主の留守中に代理として城を管理した者。
城番(じょうばん)は、戦国時代から江戸時代に掛けて城の守衛にあたった兵士、及び江戸幕府の下で城代を補佐した役職。門番頭、番手衆、在番衆とも呼ぶ。
131:名乗る程の者ではござらん
13/07/15 07:11:17.83
>>127
【疑問】スレ立てるまでもない質問11【戦国時代】
スレリンク(sengoku板)l50
戦国時代板の↑のスレで質問するのがいいかも
132:名乗る程の者ではござらん
13/07/15 15:00:43.11
ドラマの流れで言うと当時いくつかの城持ちになってた秀吉から城代に任じられるてことは実質城持ちになったと俺は解釈してた
もちろん見当違いかもしれない
133:名乗る程の者ではござらん
13/07/15 17:23:00.04
それは城持ちではないです
134:名乗る程の者ではござらん
13/07/15 19:28:04.46
今週で2万石か
135:名乗る程の者ではござらん
13/07/15 19:34:01.07
ドラマにおける山内一豊の石高の推移
50石(稲葉山城落城後)
200石(金ヶ崎後)
400石(第14回『一番出世』。小谷城落城後。150石の中村や堀尾をリード)
千3百石(三木城落城後。山内、中村、堀尾同時。3人同格)
3千石(山崎の戦い後)
3千500石(時期不明)
3千8百石(賤ヶ岳後。第28回『出世脱落』。中村は2万石、堀尾は1万7千石の大名)
2万石(小牧長久手後)
5万石(北条攻め後)
20万石(関ヶ原後)
136:名乗る程の者ではござらん
13/07/15 20:32:40.72
何が改定されたか間違い探しじゃw
137:名乗る程の者ではござらん
13/07/16 00:40:29.71
細川家のうち江戸時代大名でなかったほうの子孫には
ガラシアの血、明智光秀の血が流れているんだよなー
138:名乗る程の者ではござらん
13/07/16 02:37:11.72
「わしらが300石そこそこのとき伊右衛門は既に1、000石」
1、000石(時期不明)(中村、堀尾は300石)
139:名乗る程の者ではござらん
13/07/16 05:38:05.31
ドラマにおける山内一豊の石高の推移
50石(稲葉山城落城後)
200石(金ヶ崎で三段崎勘右衛門を打ち取った恩賞)
400石(第14回『一番出世』。小谷城落城後。150石の中村や堀尾をリード)
千石(時期不明。中村、堀尾は300石)
千3百石(三木城落城後。山内、中村、堀尾同時。3人同格)
3千石(山崎の戦い後)
3千500石(時期不明)
3千800石(賤ヶ岳後。第28回『出世脱落』。中村は2万石、堀尾は1万7千石の大名)
2万石(小牧長久手後。身をていして秀次をかばった恩賞)
5万石(北条攻め後。中村は14万5千石、堀尾は12万石)
20万石(関ヶ原後)
140:名乗る程の者ではござらん
13/07/16 17:26:02.94
今回は改定箇所が分かり易かったw
141:名乗る程の者ではござらん
13/07/18 02:22:13.73
「山内一豊 戦場では何の功も無かったが、この一言で土佐二十四万石を手に入れた」TBS関ヶ原
142:名乗る程の者ではござらん
13/07/18 03:17:14.83
中村一氏の子孫
現当主・中村義和は千葉県に在住し、分家の中村忠文(中村家の会会長)は鳥取市で中村歯科医院を開業しているという。
143:名乗る程の者ではござらん
13/07/18 07:54:24.32
中村家は表向き断絶したことになってるけど中村一忠の側室(梅里)が男子(中村一清)を産み後に鳥取藩主池田光仲に仕え禄高150石で鳥取藩家老池田知利の客分となる。
URLリンク(blogs.yahoo.co.jp)
144:名乗る程の者ではござらん
13/07/18 07:58:57.85
>佐々木一雄編中村記によりますと、一氏は天文ニ年生まれとされています。
>ですから、功名が辻の一豊とは12歳年上になります。
>ご先祖中村甚左衛門は、私の推定で天文20年頃の生まれで、禁裏北面の武士から、細川家に仕えます。
>一氏の子供は他にニ男の正吉は、肥後熊本中村家になります。甚左衛門は三男とされています。
>また、一氏の弟に一栄と右近がいます。右近の孫が歌舞伎の初代中村勘三郎になるそうです。
145:名乗る程の者ではござらん
13/07/18 08:12:59.54
堀尾吉晴の歩み紹介 松江歴史館 裁断橋擬宝珠の展示も
2013.7.12 02:18
URLリンク(sankei.jp.msn.com)
松江城を築城し「松江開府の祖」といわれる堀尾吉晴(1543~1611年)の企画展「戦国武将 堀尾吉晴の軌跡」が、松江市の松江歴史館で開かれている。
吉晴の子・堀尾金助への母の気持ちが記された名古屋市指定文化財「裁断橋擬宝珠(さいだんばしぎぼし)」などを展示。15日まで。
松江城大手前広場の一角に吉晴の銅像が先月、建立されたのに併せて開催。「裁断橋擬宝珠」の銘文は、元和8(1622)年、金助の母が尾張国熱田(現名古屋市)にあった裁断橋四隅の擬宝珠に刻んだ。
この地で母に見送られ戦地に出発したが帰ってこなかった金助を思ったもので、日本女性三大名文の一つとされる。
このほか、皿などの遺物や、吉晴の戦功を記した覚書なども紹介している。観覧料は大人300円、小中学生150円。
146:名乗る程の者ではござらん
13/07/18 08:36:34.99
一豊から豊範まで60点 山内家資料館で藩主展 2013年07月13日08時18分 URLリンク(www.kochinews.co.jp)
初代一豊から16代豊範までのゆかりの品を展示した「土佐藩歴代藩主展」が12日、高知市鷹匠町2丁目の土佐山内家宝物資料館で始まった。武具や文書、絵画など約60点が並ぶ。9月23日まで。
夏休み恒例の特設展。15歳で亡くなった7代豊常の体格に合わせた小さめの甲冑(かっちゅう)、15代豊信(容堂)の白と金の数珠の柄をあしらった真っ赤な陣羽織など、藩主の好みや時代背景が垣間見える資料がそろった。
【写真】7代豊常の甲冑などが展示された土佐藩歴代藩主展(高知市の土佐山内家宝物資料館)
147:名乗る程の者ではござらん
13/07/18 08:57:00.37
高浜七年祭 四百年の伝統、次代に残そう
(2013年6月27日午前9時41分)
URLリンク(www.fukuishimbun.co.jp)
抜粋
6年に一度行われる福井県若狭地方最大級の祭り「高浜七年祭」(県指定無形民俗文化財)が30日幕を開ける。7月6日までの1週間、太鼓や笛の音が響き、みこしや曳山(ひきやま)が巡行、各種芸能が繰り広げられ、高浜町内は祭り一色に染まる。
始まりについては諸説ある。山内一豊が高浜城主のころ、長浜の曳山祭りを模したという説や、高浜城主・逸見昌経が織田信長の怒りを買い、謹慎を命ぜられたため、住民が昌経を慰めようと始めたという説も。
曳山祭りを模した説については、浅野長吉が長浜から高浜に国替えになった際に持ち込んだという話もある。いずれにしても、四百年以上の伝統がある祭りだ。
148:名乗る程の者ではござらん
13/07/18 11:27:22.60
永作博美の淀は好演なんだけど、
夏目雅子の淀(大河ドラマ徳川家康)や
池上季実子の淀(大河ドラマおんな太閤記、TBS大型時代劇スペシャル・「徳川家康」)
に比べると1ランク落ちる感じだ
149:名乗る程の者ではござらん
13/07/18 12:55:26.55
>>139
第28回33分あたり
山内一豊「あの頃秀吉様はまだ足軽でござった。それがしは20石であったが(後略)」
第43回22分あたり
井伊直政「お言葉ながら僅か6万石の小勢では先陣と言うても」
↓
NHKが「掛川5万石」と「掛川6万石」どちらを採用しているのか不明
150:名乗る程の者ではござらん
13/07/18 13:17:12.16
ドラマにおける山内一豊の石高の推移
20石(仕官時、スタート)
50石(稲葉山城落城後)
200石(金ヶ崎で三段崎勘右衛門を討ち取った恩賞)
400石(第14回『一番出世』。小谷城落城後。150石の中村や堀尾をリード)
千石(時期不明。中村、堀尾は300石)
千300石(三木城落城後。山内、中村、堀尾同時。3人同格)
3千石(山崎の戦い後)
3千500石(時期不明)
3千800石(賤ヶ岳後。第28回『出世脱落』。中村は2万石、堀尾は1万7千石の大名)
2万石(小牧長久手後。身をていして秀次をかばった恩賞)
5万石or6万石(北条攻め後。中村は14万5千石、堀尾は12万石)
20万石(関ヶ原後)
151:名乗る程の者ではござらん
13/07/18 13:37:58.77
土佐郷士(土佐藩)
関ヶ原の戦い以前に四国を支配していた長宗我部家の旧臣一領具足層を懐柔するため郷士に取り立てた。
一方、掛川衆や山内侍と呼ばれる上士は、山内一豊が掛川城主だった時からの家臣や、土佐入封前に大坂牢人を取り立てたものである。
土佐藩における郷士は、武士とはいえ他藩に比べると徹底した差別下にあったため、土佐藩上士とは同じ藩士でありながら潜在的には対立、敵対関係にあったとされる。
幕府や藩の権威が衰えた幕末には、土佐郷士の多くが尊皇攘夷運動に身を投じた。
著名な人物には、土佐郷士をまとめ土佐勤王党を結成した武市瑞山(半平太)や、海援隊の結成や薩長連合の斡旋、大政奉還の実現に尽力した坂本龍馬、初代衆議院議長の中島信行がいる。
藩には土佐郷士の懐柔政策の一つとして、特別な家系や功績によっては上士扱いの白札とする制度があった。武市半平太は白札であった。
152:名乗る程の者ではござらん
13/07/18 18:38:10.60
>>148
顔が淀ではないな
153:名乗る程の者ではござらん
13/07/20 12:23:46.65
>>150
山内一豊公初領地、近江唐国400石。
史実のままに三段崎勘右衛門を討ち取った功で400石で『一番出世』としたほうが
インパクトがありそうだが、脚本家の思惑が何かあったんだろうなー。
このドラマだと浅井攻めの功で400石にしてしまっているのがチト残念。
ちなみに山内一豊と堀尾吉晴は、石高で終始リードする堀尾を山内が追いかける関係だった。(織田家に仕官したのは一豊よりも堀尾のほうが遥かに早く、堀尾が先輩格)
154:名乗る程の者ではござらん
13/07/20 12:40:16.48
堀尾吉晴は最初から一豊よりも格上です。
年齢も一つ上、信長に仕えたのも先、秀吉付きになったのも先、戦の采配の評価も上、なので石高も常に上でした。
中村一氏は戦上手として知られ、最初は一豊や堀尾よりも石高は低かったようですが
一向一揆の鎮圧などで武功を重ね、急速に出世していきます。
155:名乗る程の者ではござらん
13/07/20 15:54:02.33
>>153
>>154
こうして読むと堀尾吉晴、中村一氏も興味深いね
大河でももう少し掘り下げてくれてたらと思うが数字取れなくなってしまうかな
156:名乗る程の者ではござらん
13/07/21 02:05:11.13
ロンブー敦は仲間に近づくために出たんだよな
157:名乗る程の者ではござらん
13/07/21 08:07:24.20
堀尾吉晴(ほりおよしはる)…生瀬勝久(なませかつひさ)
一豊の親友。一豊と同世代の武将で、同じく信長・秀吉に仕え出世を競う、サラリーマン社会になぞらえればいわば一豊の「同僚」。
その誠実な人柄は衆目の一致するところで「仏の堀尾」とあだ名される一方、本能寺の変の後の山崎の戦いでは天王山を制するなど武勲も高く、
豊臣政権の三中老の一人となる。一豊との友情は終生変わることがない。
中村一氏(なかむらかずうじ)…田村 淳(たむらあつし)〈ロンドンブーツ1号2号〉
NHKドラマ初出演。一豊の「同僚」。信長・秀吉に仕え、怜悧な切れ者として知られるが、一豊や堀尾には熱い一面を見せたりもする。
秀吉から「自分が考えていた通りのことを、指図する前にやっている」と評価され、小田原城攻めの後の論功行賞では、一豊 掛川五万石、堀尾 浜松十二万石に対し、
中村は駿河十七万五千石をあて行われ、出世競争では一歩リード。豊臣政権を支える三中老の一人となる。
158:名乗る程の者ではござらん
13/07/21 08:37:26.09
信長ファン、秀吉ファン、家康ファン
光秀ファン、竹中半兵衛ファン、三成ファンらに支えられ
『功名が辻』は視聴率で健闘したのである。
平均視聴率20.9%(視聴率は関東地区・ビデオリサーチ社調べ)
159:名乗る程の者ではござらん
13/07/21 12:50:11.84
>>158
あと濃姫ファンや寧々ファンや細川ガラシヤファンや淀ファン
160:名乗る程の者ではござらん
13/07/21 15:57:16.52
さらぬだに うちぬるほどの 夏の夜の
別れを誘う ほととぎすかな
市
161:名乗る程の者ではござらん
13/07/21 16:09:31.68
大河ドラマ「功名が辻」各回のあらすじ
URLリンク(www.nhk.or.jp)
162:名乗る程の者ではござらん
13/07/22 16:34:26.58
山内家先代当主に司馬さんは、
「あれは若い時に書いた物だから、(大河にするには)書き直したいと思ってるが、時間がない」
と、仰ったそうだ。
163:名乗る程の者ではござらん
13/07/22 19:31:08.77
このドラマの井伊直政には猛将の「も」の字もない。
本多正純と錯覚する井伊直政になってるな。
164:名乗る程の者ではござらん
13/07/22 20:53:09.45
細川ガラシャの最期をしっかりと描いている作品
関ヶ原(1981年 TBS)
葵徳川三代(2000年 大河)
功名が辻(2006年 大河)
165:名乗る程の者ではござらん
13/07/23 08:57:39.05
.
166:名乗る程の者ではござらん
13/07/26 18:27:59.53 aLgNNagB
>>155
堀尾や中村の活躍を描くと…
「一豊は出世レースで終始堀尾、中村にリードされてるじゃんw」
って、ばれてしまうから無理ですw
167:名乗る程の者ではござらん
13/07/27 14:46:56.24
第1話で描かれた、桶狭間の戦い(1560年)の時点で、メインキャラが、実際には何歳だったのかを、列挙してみましょう。
江守徹氏の、今川義元 41歳
館ひろし氏の、織田信長 26歳
柄本明氏の、木下藤吉郎 23歳
西田敏行氏の、徳川家康 18歳
上川隆也氏の、山内一豊 15歳
…に、西田敏行氏が、じゅうはっさい…
(山内一豊の生年には諸説ありますが、1545年説に拠りました。)
しかしのう。一豊、たったの15歳で、単身、信長に対峙していくなんて、当時の男はハー、かっこいいぜ。信長も、こうして見ると、実年齢、若いよなあ。
168:名乗る程の者ではござらん
13/07/27 15:46:27.48
かなり平均年齢の高いキャスティングだ。反射的に『葵 徳川三代』の悪夢がよぎる。
さらに見進めて、歴代秀吉が揃っていることに気がついた。
『おんな太閤記』の西田敏行、『徳川家康』の武田鉄矢、『利家とまつ』の香川照之と早々たる顔ぶれ。
そして今度の秀吉=まだ藤吉郎役である柄本明の登場となるのだが、馬で行く信長(舘ひろし)の後を走って追いかけるシーンには大いに気の毒になる。
169:名乗る程の者ではござらん
13/07/27 16:16:04.01
語り(三宅民夫アナウンサー)「群雄割拠の戦国時代。当時最強と噂されていたのが武田信玄。
様々な陣形や軍政をしき、常勝軍団を率いた伝説の大名だ。
信玄は徳川幕府に受け継がれる軍学を築き、最強軍を形成していた。
(中略)様々な部隊や戦法を用いた信玄。戦国のキーマンが今宵遂に!」
信玄登場せず…。
170:名乗る程の者ではござらん
13/07/27 16:35:05.93
信玄の挙兵に乗じて信長に反旗を翻す足利義昭(三谷幸喜)と
それをいさめようとする明智光秀(坂東三津五郎)が対決するシリアスなシーンでも、
どうしたことか義昭は随所にかわいらしさを発揮して笑いをとる。足利氏滅亡。
浅井の豪族・宮部善祥房のもとに一人で乗り込んだ秀吉(柄本明)は甥・治兵衛(柴井伶太)を人質に出す条件で、織田方に寝返らせることに成功。
171:名乗る程の者ではござらん
13/07/27 17:53:38.60
浅井長政の嫡男・万福丸の命を助けることを秀吉に約束させ、小谷城を出ることを承知したお市だったが、結果的に万福丸は信長の命により、一豊の手で磔刑に処される。
そのことに涙する一豊を励ます千代の健気さよ。
あれほどお市には黙っていると言っていたのに、万福丸の死をもらすあたりもらしいと言えばらしい。
172:名乗る程の者ではござらん
13/07/27 18:31:07.90
吉兵衛「なるほど四百石を物見に来たというわけか。よ~く見ていけ」
とし(中村の妻)「我ら150石では大したお祝いもできませんが」
秀吉は琵琶湖畔に長浜城を築き、光秀に続いての城持ち大名となる。
一豊は四百石に加増、千代の生まれ故郷の近くに新しい家を賜るも、風呂掃除を欠かさぬ千代の働き者ぶりは変わらず。
百五十石据え置きの堀尾茂助と中村一氏はそんな一豊の出世が面白くない。
そんな夫たちの思いを知ってかしらずか、いとととしは引っ越し祝いを口実に、趣のある湯殿で昼っぱらから湯浴み。
そのことに対する堀尾、中村両家の反応は正反対で、一氏はとしを叱りつけるも、茂助はその後いとと一緒に湯殿を借りに行く朗らかぶり。
茂助といとが一緒に湯浴みするラストシーンのほのぼのしさは捨てがたいところ。
173:名乗る程の者ではござらん
13/07/27 18:48:08.04
なか(菅井きん)の登場シーンは、泥だらけに畑仕事をしている様がまさか秀吉の実母とはわからずに、というこれまでに何回も見たようなお決まりパターン。
なか「うちの寧々さんは、きつうて、きつうて」
千代「うちの寧々さん?」
なか「うちの寧々さんだがね。日吉の嫁の」
千代「秀吉様の御幼名は確か…」
一豊「日吉じゃ」
174:名乗る程の者ではござらん
13/07/27 19:41:19.28
ドラマでは不破市之丞(演:津川雅彦)には子がなかったことになっているけど
実際は実子・不破重正がいて、山内家の家臣となった。
その点から考えると千代を養女としていたのは史実のようだ。
175:名乗る程の者ではござらん
13/07/27 20:17:01.88
URLリンク(ja.wikipedia.org)
妻は明智光秀家臣・石川小四郎の娘で、その姪にあたる見性院(山内一豊の妻)を養女にしたという。実子には不破重正がおり、やはり山内家に仕えている。
176:名乗る程の者ではござらん
13/07/27 20:51:23.32
中村一氏の妻・としが男子を出産。
1年ぶりに六平太が姿を現したちょうど時、タイミングよく産気づいて千代もそれに続いて女子を出産。
しかし、一豊は転戦につぐ転戦で長浜には帰れず。娘・よねとの顔合わせはその1年後って、やっぱり戦国の世は大変だったんですね。
177:名乗る程の者ではござらん
13/07/27 20:56:02.04
「生きていること自体がつらいこと」と嘆くようなキャラクターゆえに、光秀(坂東三津五郎)は女に人気がある
178:名乗る程の者ではござらん
13/07/28 15:18:01.91
清州会議後の領地配分を図解した地図がどこかにないかな?
179:名乗る程の者ではござらん
13/07/28 19:40:37.84
第28回『出世脱落』
秀吉が普段「かんべえ」と言っている黒田官兵衛のことを一回だけ「かんぴょうえ」と言ったけど何気に細かい部分がよく出来てるドラマだと思った。
秀吉が官兵衛に当てた書状に「かんぴょうえ」と書いてあるものがある。
宣教師ホアン・ロドリゲスが記した『日本小文典』。「kwanbyoue yoshitaka」=「くぁん『びょうえ』よしたか」
180:名乗る程の者ではござらん
13/07/28 20:00:21.68
>>178
賎ケ岳の戦い―「秀吉vs勝家」覇権獲得への死闘 (歴史群像シリーズ 15)
↑の付録
181:名乗る程の者ではござらん
13/07/29 16:31:30.97
山内一豊が仕えた主君
浅井新八郎→前野長康→牧村政倫→山岡景隆→織田信長→豊臣秀吉→豊臣秀次→豊臣秀頼→徳川家康
182:名乗る程の者ではござらん
13/07/29 18:51:23.74
家康と旭姫はやったのかな?!
183:名乗る程の者ではござらん
13/07/29 21:22:02.18
>>182
家康は律儀につとめたwww(by TBS関ヶ原)
184:名乗る程の者ではござらん
13/07/30 15:02:40.49
家康、恐るべし
185:名乗る程の者ではござらん
13/07/31 19:07:04.14
秀吉「光秀殿が援軍に参られるのか。わしとお主で(…)ヒヒヒw」
光秀「うぬっ…お主何たることを!」
秀吉「お主は武田攻めでの御折檻、丹波で母堂を…の数々をお忘れかな?」
光秀「…わしには出来ぬ」
秀吉「さようか。まあよくよくお考え召され。」
光秀「…」
秀吉「…キンカン頭の石頭めがw乗って来い乗って来い…そしてお前を討てば天下はわしの物、という寸法じゃw」
(以上5月17日~27日の間の秘密会見)
秀吉「一刻も早くお館様御自らのご出陣をいただきたく…」
信長「…猿め!○日の内に安土を発つと(ry
秀吉「お館様が安土を発たれる。殿の傍にはお主しかおらぬゆえ…かねてからの…の時は今じゃ」
光秀「…敵は本能寺にあり!」
秀吉「ハゲめ!やりおったわw笑いが止まらんw」
「あの稀代の不忠者を討つのだ!お館様の敵を討つ!我等は正義の軍ぞ!」
186:185
13/07/31 19:07:34.41
誤爆
187:名乗る程の者ではござらん
13/08/01 20:58:19.28
山内、堀尾、中村の3人の中で堀尾吉晴、中村一氏は生駒親正とともに豊臣政権での三中老(五大老と五奉行の間の調整役)でした。
そして3人に田中吉政・一柳直末を加えた5人は豊臣秀次の宿老でした。
山内一豊と堀尾吉晴の父はともに岩倉織田氏の重職であり同僚でした。
2人とも主家が滅んだ後に浪人したので、秀吉の家臣になったのも同時期で、年齢も1つ違いでした。
中村一氏は生年不詳ですが死亡した年からすると3人とも同年代であったようです。
そしてなによりも3人に共通する歴史的共通点は、関ヶ原の時点で、3人とも東海道沿いの領主であったことでしょう。
山内一豊は遠江掛川5万1千石、堀尾吉晴は遠江浜松12万石、中村一氏は駿河駿府14万石でした。
家康が下野から畿内で挙兵した石田三成と雌雄を決する為に、東海道を登るには3人の領地を抜けなければなりません。
3人とも秀吉恩顧の大名で、もしも家康が大坂に攻め上る場合には、家康の旧領に連なる3人が各々の城に立てこもり、秀吉が軍勢を整えて来るまでの時間稼ぎをする役目がありました。(実際には役に立ちませんでしたが・・・)
そんな3人なので仲も良く情報の交換なんかもしてたようですね。
188:名乗る程の者ではござらん
13/08/01 21:23:49.71
>>167
ちょっと出てすぐ消える今川義元役に江守徹さん起用とは豪華ですな
189:名乗る程の者ではござらん
13/08/04 23:22:01.07
>>182
「旭に子が生まれても徳川の世継ぎにはさせぬ」という条件を付けたうえでの
婚儀承諾だったから、肉体関係はあったと想像される
190:名乗る程の者ではござらん
13/08/05 09:14:32.07
そんな条件あったのか?まじで初耳
191:名乗る程の者ではござらん
13/08/07 02:03:34.04
家康の将軍任官と同じ慶長8年(1603年)、池田輝政が右近衛権少将に任じられているが、
これは「豊臣朝臣輝政」としての任官である。
また同年山内一豊が従四位下に叙せられ土佐守に任官しているが、
これも「豊臣朝臣一豊」としての叙任である。
また、これも慶長8年(1603年)のこと、加藤清正主計頭から肥後守に転任しているが、
同時にそれまでの「平朝臣清正」から「豊臣朝臣清正」である。
武断派が徳川将軍に対して対決姿勢を示しているのである。
しかし、その後、有力親豊臣大名は次々と死去していくのである。
192:名乗る程の者ではござらん
13/08/08 01:44:50.10
大河ドラマ春日局の小山会議のシーン
一豊の出番なしw
193:名乗る程の者ではござらん
13/08/10 00:41:35.35 e1d34EvM
日本の母、佐久間良子の名演技
194:名乗る程の者ではござらん
13/08/10 00:58:58.49
そんな異名があったのか
195:名乗る程の者ではござらん
13/08/10 03:58:09.35
春日局(大河ドラマ)
おふく(のちの春日局)の8歳の息子が竹千代(のちの三代家光将軍)の小姓として取り立てられ、いきなり500石。
功名が辻で400石(@一豊)がいかに裕福であるかを知っているので、8歳で500石とは…将軍家は違うと思い知らされた。
功名が辻を見て以来、他のドラマで禄高が台詞やナレーションで出てくると、チェックする癖がついてしまった。
196:名乗る程の者ではござらん
13/08/11 11:43:01.23
>旭(旭姫)
30過ぎれば「おしとね辞退」という習慣があったんだよ。当時は。
それが43だからなw
家康が呆れたのも無理ねえや。
「葵徳川三代」では「御器量芳しからず」っつってた。
ブスだったらしいw
197:名乗る程の者ではござらん
13/08/13 08:12:20.65
「徳川家康」(大河ドラマ)を久しぶりに見てみた
山内一豊「内府!我らは掛川6万石の総勢 残らず引き連れて参りまする。
それゆえ城には内府御家臣のうちより城代を入れ、戦いが済むまでお預かり頂きたい」
山内一豊@小山会議
1位 TBS関ヶ原
2位 功名が辻
3位 徳川家康
198:名乗る程の者ではござらん
13/08/14 00:22:47.40
山内家:おんな大名
京極家:ほたる大名
199:名乗る程の者ではござらん
13/08/14 15:39:38.92
筒井道隆の台詞棒読みが竹中半兵衛のおとなしいキャラにぴったりしているという配役の妙
200:名乗る程の者ではござらん
13/08/14 21:11:39.67
200石頂戴仕り候
201:名乗る程の者ではござらん
13/08/15 09:55:57.73
>>195
四百石や五百石というのは現代人の想像以上にリッチですからな。
202:名乗る程の者ではござらん
13/08/15 13:30:22.00
歴代織田信長マイベスト3
1位:役所広司(「徳川家康」)、2位:藤岡弘(「おんな太閤記」、「春日局」)、3位:舘ひろし(「功名が辻」)
203:名乗る程の者ではござらん
13/08/15 13:31:12.63
大河で信長を演じた役者
・太閤記(1965年 演者:高橋幸治)
・天と地と(1969年 演者:杉良太郎)
・国盗り物語(1973年 演者:高橋英樹)
・黄金の日日(1978年 演者:高橋幸治)
・おんな太閤記(1981年 演者:藤岡弘)
・徳川家康(1983年 演者:役所広司)
・武田信玄(1988年 演者:石橋凌)
・春日局 (1989年 演者:藤岡弘)
・信長 KING OF ZIPANGU(1992年 演者:緒形直人)
・秀吉(1996年 演者:渡哲也)
・利家とまつ~加賀百万石物語~(2002年 演者:反町隆史)
・功名が辻(2006年 演者:舘ひろし)
・風林火山(2007年 演者:佐久間二郎)
・天地人(2009年 演者:吉川晃司)
・江~姫たちの戦国~(2011年 演者:豊川悦司)
204:名乗る程の者ではござらん
13/08/15 16:07:14.99
舘信長は意外と良かったな
205:名乗る程の者ではござらん
13/08/17 22:44:36.04
佐久間良子
「おんな太閤記」夫・秀吉死後出家
「春日局」娘の結婚後出家
「功名が辻」出家
206:名乗る程の者ではござらん
13/08/19 10:04:34.41
本能寺の信長様がかっこよすぎたので
舘ひろしに惚れました
207:名乗る程の者ではござらん
13/08/19 13:01:34.34
竹中半兵衛が千代に惚れていたという設定は強引杉w
208:名乗る程の者ではござらん
13/08/19 18:59:33.71
毎回のようにお市に気に入られまくる戦国大河
若干一名は除く
209:名乗る程の者ではござらん
13/08/22 14:10:07.06
本能寺の変の直後の秀吉の家族の逃避行を描いている大河ドラマ
「おんな太閤記」、「功名が辻」
210:名乗る程の者ではござらん
13/08/23 15:10:46.98
歴代大河 信長 vs 光秀
1965 太閤記 高橋幸治 vs 佐藤慶
1969 天と地と 杉良太郎 vs
1973 国盗り物語 高橋英樹 vs 近藤正臣
1978 黄金の日日 高橋幸治 vs 内藤武敏
1981 おんな太閤記 藤岡弘 vs 石濱朗
1983 徳川家康 役所広司 vs 寺田農
1988 武田信玄 石橋凌 vs
1989 春日局 藤岡弘 vs 五木ひろし
1992 信長 緒形直人 vs マイケル富岡
1996 秀吉 渡哲也 vs 村上弘明
2002 利家とまつ 反町隆史 vs 萩原健一
2006 功名が辻 舘ひろし vs 坂東三津五郎
2007 風林火山 佐久間二郎 vs
2009 天地人 吉川晃司 vs 鶴見辰吾
2011 江 豊川悦司 vs 市村正親
211:名乗る程の者ではござらん
13/08/23 15:12:35.42
秀吉が登場する『大河ドラマ』一覧
放送年(作目) 番組名 秀吉を演じた人
1965年(3) 太閤記 緒形 拳(※主役)
1969年(7) 天と地と 浜田光夫
1971年(9) 春の坂道 中村芝鶴
1973年(11) 国盗り物語 火野正平
1978年(16) 黄金の日日 緒形 拳
1981年(19) おんな太閤記 西田敏行
1983年(21) 徳川家康 武田鉄矢
1987年(25) 独眼竜政宗 勝新太郎
1989年(27) 春日局 藤岡琢也
1992年(30) 信長 KING OF ZIPANGU 仲村トオル
1993年(31) 琉球の風 仲村トオル
1996年(35) 秀吉 竹中直人(※主役)
2002年(41) 利家とまつ~加賀百万石物語~ 香川照之
2006年(45) 功名が辻 柄本 明
2009年(48) 天地人 笹野高史
2011年(50) 江~姫たちの戦国~ 岸谷五朗
212:名乗る程の者ではござらん
13/08/23 17:01:27.28
「内府」と呼ばれたことのある人たち
織田信雄
豊臣秀吉
徳川家康
213:名乗る程の者ではござらん
13/08/23 17:15:49.89
内府 織田信雄 大河ドラマ功名が辻
内府 豊臣秀吉 大河ドラマ徳川家康
内府 徳川家康 枚挙にいとまなし
214:名乗る程の者ではござらん
13/08/23 17:20:53.60
内府は内大臣の唐名(中国風の呼び方)。
右大臣は右府(例:織田信長)、左大臣は左府。
では、太政大臣は太府か?といえば、そういう言い方はしません。
太政大臣の唐名で、今日、一般的なのは、相国です。
215:名乗る程の者ではござらん
13/08/24 20:14:23.92
A 原作のオリキャラ
B ドラマオリキャラ
C モデルはいるがほぼオリキャラ
A/六平太・小りん B/祖父江徳次郎・もよ・たき・せつ・加乃・ちぐさ・英二郎 C/とし、いと
五藤吉蔵
URLリンク(ja.wikipedia.org)
五藤吉兵衛
URLリンク(ja.wikipedia.org)
216:名乗る程の者ではござらん
13/08/24 20:23:09.45
祖父江新右衛門
URLリンク(ja.wikipedia.org)
司馬遼太郎の小説『功名が辻』では、祖父江新右衛門のモデルとなった。新右衛門は五藤吉兵衛と共に流浪時代の一豊をよく支えた親代わり的な存在として描かれている。
217:名乗る程の者ではござらん
13/08/24 20:55:07.21
秀長、秀次の所領はその後どうなったんだ?
218:名乗る程の者ではござらん
13/08/24 21:14:34.77
>>217
秀次の所領が誰に渡ったのかは不明。
天正19年1月22日(1591年2月15日)、豊臣秀長は大和郡山城内で病死した。享年52。男子がいなかったため、家督は養嗣子になっていた甥(姉・智の息子、秀次の弟)の秀保に継がせた。
しかし、その秀保が若くして変死して「大和豊臣家」は断絶した。
219:名乗る程の者ではござらん
13/08/24 21:17:31.49
余談
秀長の養子・秀保の変死には異説として秀吉の謀略説がある。
220:名乗る程の者ではござらん
13/08/24 21:29:11.64
秀次事件
山内一豊には咎めはなく、逆に改易の際の秀次への使者を務めた功績で8千石を加増された。(ドラマでは加増なし)
221:名乗る程の者ではござらん
13/08/24 21:47:43.43
豊臣秀次
九州征伐では京都の守りに残ったが、天正18年(1590年)の小田原征伐にも参加し、山中城攻撃では大将となり城を半日で陥落させた。
戦後、移封を拒否して改易された織田信雄の旧領である尾張国・伊勢国北部5郡などに100万石の大領を与えられた。
222:名乗る程の者ではござらん
13/08/24 21:54:20.12
>>56
万福丸(浅井万福丸)処刑実行者
蜂須賀小六@大河おんな太閤記
山内一豊@大河功名が辻
蜂須賀小六@寧々~おんな太閤記(テレ東)
223:名乗る程の者ではござらん
13/08/24 22:15:31.64
秀次の石高
近江国蒲生郡八幡山城(現在の近江八幡市)に43万石
↓
尾張国・伊勢国北部5郡などに100万石
↓
関白就任、?万石
224:名乗る程の者ではござらん
13/08/26 14:01:34.02
山内家の拾いって本当にいたのか?
225:名乗る程の者ではござらん
13/08/26 14:44:32.80
>>224
いた。一豊の隠し子説もある。
226:名乗る程の者ではござらん
13/08/26 14:47:08.37
湘南宗化
URLリンク(ja.wikipedia.org)
幼名は拾。養父は山内一豊、養母は見性院。実の両親については不明。
227:名乗る程の者ではござらん
13/08/26 15:14:27.87
晩年に再会するシーンがあったんだっけ?
再放送では~紀行がないのが残念
著作権の問題等で放送に無理なのか・・・
228:名乗る程の者ではござらん
13/08/26 15:19:46.51
ドラマでは、種崎浜事件の後、湘南が土佐に来て千代と再会
229:名乗る程の者ではござらん
13/08/26 15:47:05.29
千代は、山内一豊が1605年に土佐で死去すると、後を養子の忠義と実父の康豊にまかせ半年後には京の妙心寺近くに移り住んで、余生をずっと京都で過ごした。
妙心寺には山内夫妻が養育した捨て子の「拾」(出家して湘南宗化)がおり、そばで暮らしたかったからと思われる。
尚、湘南は山内夫妻によって土佐の高知の寺の住持も兼任している。
千代(見性院)は、1617年12月31日(元和三年十二月四日)京都で没した。
特にこれといった死因は伝わっていないので、事故や事件ではなく病気などで死亡したものと推測される。
230:名乗る程の者ではござらん
13/08/26 17:15:36.09
天正13年11月29日の夜、江州地方を襲った大地震によって、一粒種の「よね姫」を死なせてしまった。
翌年、山内家の京都屋敷の門前に捨て子があった。千代夫人はこれを引き取って、拾と名付けて養育した。
拾君は10才の時、頭を剃り、山内家連枝という身分で仏門に入り、よね姫の墓のある妙心寺本山で、南化国師の弟子となって、
拾君は長して、一代の学僧となり湘南和尚と称した。山崎闇斎はこの和尚の弟子である。
231:名乗る程の者ではござらん
13/08/26 19:14:52.47
大河ドラマ「功名が辻」と大河ドラマ「春日局」の接点
wikiで発見
山内一豊の弟・山内康豊の娘が稲葉正成の継々室となっていた
232:名乗る程の者ではござらん
13/08/26 22:54:49.51
>>217
豊臣秀次の近江国蒲生郡八幡山城時代の所領は石田三成(近江佐和山)らの各大名に。
尾張国・伊勢国北部時代の所領は福島正則(尾張清州)らの各大名に。
233:名乗る程の者ではござらん
13/08/27 20:17:51.79
>>210-211
舘ひろし信長80点
坂東三津五郎光秀100点
柄本 明秀吉99点
234:名乗る程の者ではござらん
13/08/27 20:44:17.75
一領具足の長たちを虐殺させた一豊(上川隆也)。激しく反発した千代(仲間由紀恵) は浦戸城を出、
京から呼び寄せた僧の湘南、かつて長浜で育てた拾とともに、吸江庵という荒れ寺で暮らし始める。
一豊にとって千代のいない毎日は空虚そのもの。晩節を汚し、かけがえのないものを失ってしまったことを悔やむ。その苦しみを理解する湘南。
自分の犯した罪を嘆き、最も悩んでいるのは父上ではないか、と千代に語る。
235:名乗る程の者ではござらん
13/08/27 20:51:39.53
土佐藩の上士と郷士の差別は特異で幕末まで続いた。
反省したと言うより一豊は腹黒。
236:名乗る程の者ではござらん
13/08/27 23:05:21.38
日本を近代化したのは山内一豊だった!
山内一豊、土佐を与えられる
↓
長宗我部の元家臣に「郷士」として土佐に残る事を許可する
↓
郷士の中から坂本竜馬、誕生
↓
江戸幕府終了
237:名乗る程の者ではござらん
13/08/28 12:26:16.71
初回視聴率は5年ぶりの20%割れとなる19.8%であった。しかし、以降は持ち直してほぼ毎回20%以上をキープし、
平均視聴率は20.9%(関東地区)を記録した。
4年ぶりに20%を超え、国民的な人気がある作家ながら大河ドラマでは低視聴率という司馬作品のジンクスを破った。
238:名乗る程の者ではござらん
13/08/28 12:51:42.83
千代の少女期役
URLリンク(ja.wikipedia.org)
2013年1月、公式ブログにて芸能活動を終えると発言。
239:名乗る程の者ではござらん
13/08/28 14:52:15.31
>>227
>紀行がないのが残念
URLリンク(v.youku.com)
240:名乗る程の者ではござらん
13/08/28 14:53:49.70
URLリンク(www.soku.com)
241:名乗る程の者ではござらん
13/08/28 15:56:40.87
>>239-240
乙
youkuで見るという手があったか。
242:名乗る程の者ではござらん
13/08/28 16:28:17.62
功名が辻もスイーツといわれてたけど、江(ryと比べてしまうせいか、普通にちゃんとしたドラマに見えるね
243:名乗る程の者ではござらん
13/08/28 17:34:17.51
仲良しの中村一氏・堀尾吉晴・山内一豊で大名家として続いたの山内家だけなんだよなぁ・・・
あの三人の並びは結構好きだった。
244:名乗る程の者ではござらん
13/08/28 18:01:59.34
と言うか豊臣恩顧の武将で幕末まで生き残ったのって数えるほどなのでは?
七本槍もことごとく折れまくったし
245:名乗る程の者ではござらん
13/08/28 18:07:54.53
>七本槍もことごとく折れまくったし
「七本槍」&「関ヶ原寝返り組」の脇坂がちゃっかり明治まで存続
246:名乗る程の者ではござらん
13/08/28 19:27:21.39
仏の堀尾吉晴「戦場(いくさば)では相身互いじゃ」
一豊「かたじけない」
相身互い
同じ境遇にある者どうしが同情し、助け合うこと。また、その間柄。
247:名乗る程の者ではござらん
13/08/29 11:50:19.45
○関連書籍(すべて税込み)
原作
「功名が辻」 文春文庫 全4巻 各570円
その他題材となりそうな司馬作品
「国盗り物語」<3><4> 新潮文庫 740円,900円
「新史太閤記」<上><下> 新潮文庫 各660円
「播磨灘物語」<1>~<4> 講談社文庫 各660円
「豊臣家の人々」 中公文庫 920円
「関ヶ原」<上><中><下> 新潮文庫 各740円(下巻は700円)
「戦雲の夢」 講談社文庫 680円
「城塞」<上><中><下> 新潮文庫 各780円(上巻は820円)
「女は遊べ物語」(「司馬遼太郎短篇全集」第4巻所収 文藝春秋 1,800円)
ガイド本
NHK大河ドラマストーリー「功名が辻」前編 日本放送出版協会 1,050円
功名が辻 2005年NHK大河ドラマ完全ガイドブック 東京ニュース通信社 980円
別冊ザテレビジョン NHK大河ドラマ「功名が辻」 角川書店 1,100円
時代考証担当 小和田哲夫氏による概説書
山内一豊と千代 日本放送出版協会 1,365円
賢妻・千代の理由 日本放送出版協会 1,470円
山内一豊 負け組からの立身出世学 PHP新書 798円
山内一豊のすべて 新人物往来社 2,940円
248:名乗る程の者ではござらん
13/08/29 11:51:25.74
山内一豊関連Q&A
Q1山内一豊の名字は「やまのうち」と読むのでは?
A1残ってる資料や子孫の方々のお話などいろいろな事から「やまうち」が有力です。
また名前については「かつとよ」説が近年有力となってきていますが、「かずとよ」の
ほうがなじみがあることから、山内家子孫の方からOKをもらって「やまうちかずとよ」
との読みを使用するとのことです。
(詳しくは、「時代劇マガジンvol.13」(辰巳出版、1,575円)で大加CPのインタビューを参照のこと)
Q2山内一豊は土佐長宗我部の一領具足たちをだまし討ちして虐殺した悪人だ!
A2原作の司馬氏は、長宗我部氏や郷士階級の出身である坂本龍馬を題材にした
小説も書いていることから、土佐入国後の一豊に関しては批判的です。
ただし、一豊と同様に統治が難しい領地を与えられた結果、その統治に失敗して
改易された外様大名がいたことを考えるとやむを得ない部分もあるとしています。
また、半農半兵という一領具足の特色が、兵農分離という時代の流れと衝突した
こともこうした悲劇の一因といえます。
どちらの立場に立つかによってものの見方は変わってしまいます。こうした歴史的
事実の一点のみをとらえてどちらかを一方的に非難することは、ドラマの内容を語る
というスレ本来の趣旨から外れるばかりか、荒れる原因となって無駄にスレを消費
することになるので、日本史板の該当スレやアンチスレなどでやってください。
なお一領具足虐殺をドラマ内でどう扱うのかについては、「司馬遼太郎ふたたび」
(文藝春秋、1,000円)での大石氏の寄稿「大河ドラマ『功名が辻』の裏話」でも触れ
られていますので興味のある方はどーぞ。
249:名乗る程の者ではござらん
13/08/29 20:05:10.04
(秀忠のイメージが強い)西田家康は想像以上に良かった
250:名乗る程の者ではござらん
13/08/30 11:41:18.67
小早川秀秋(春日局) → 宇喜多秀家(葵) → 豊臣秀吉(利家とまつ)→六平太(功名が辻)
251:名乗る程の者ではござらん
13/08/30 13:33:07.37
大河ドラマ「徳川家康」を見ていると
歴史はここまで美化できるのか、と呆れてしまう
「功名が辻」の家康がイメージとしては丁度いい
252:名乗る程の者ではござらん
13/08/30 13:40:15.89
私的に理想な家康像となっている作品
・関ヶ原(TBS)
・葵徳川三代
・功名が辻
253:名乗る程の者ではござらん
13/08/30 13:49:25.29
>>251
山岡荘八徳川家康は 徳川の御用学者でも ここまで美化できない と言われたほどの作品ですからな
254:名乗る程の者ではござらん
13/08/30 14:09:18.95
>>252
真田太平記の家康も加えて欲しい
255:名乗る程の者ではござらん
13/08/30 15:14:32.05
家康が右大臣に昇進した後の「右僕射」という官職名は後に大坂冬の陣のきっかけになっています。
秀吉の霊を弔うために豊臣家が方広寺の鐘に「君臣豊楽 子孫殷昌」と彫ったのですが、徳川幕府はこれを「豊臣を君とし、子孫の殷昌(繁栄)を楽しむ」、
奉納者として彫った家康の名前「右僕射家康公」を「家康公を射る」と読み、『家康を呪っている』碑文である、と言いがかりをつけたのです。
256:名乗る程の者ではござらん
13/08/30 15:22:58.93
o 竜馬がゆく(1968年) - 久坂玄瑞役
o 勝海舟(1974年) - 徳川慶喜役
o 黄金の日日(1978年) - 津田宗及役
o 徳川家康(1983年) - 大久保長安役
o 独眼竜政宗(1987年) - 徳川家康役
o 八代将軍吉宗(1995年) - 徳川綱吉役(兄長門は徳川光圀役で出演)
o 葵徳川三代(2000年) - 徳川家康役
o 武蔵 MUSASHI(2003年) - 本阿弥光悦役
o 功名が辻(2006年) - 不破市之丞役
257:名乗る程の者ではござらん
13/08/30 17:15:26.20
「淀の方様にだけ子供が出来るのは奇妙」
秀吉の側室松の丸殿(京極竜子@功名が辻には登場せず)は
武田元明との間に2男1女をもうけた。
秀吉の側室となってからは子ができなかった。
258:名乗る程の者ではござらん
13/08/30 18:16:26.73
>>257
武田元明は本能寺の変後、明智に味方した数少ない武将の一人ですな
259:名乗る程の者ではござらん
13/08/30 18:24:07.42
秀吉には長浜の城主時代に二児が出来た記録がある
2人とも幼少で死んだらしいが
260:名乗る程の者ではござらん
13/08/30 20:12:55.15
>>259
「二児」は初耳だけど、一人は、初代秀勝(夭逝)。
261:名乗る程の者ではござらん
13/08/30 20:15:55.43
宝厳寺の「竹生島奉加帳」には「御内方」(正室の寧々)、「大方殿」(母の仲)に続いて「石松丸」、「南殿」の名が記されており、
これは秀吉の子とその母である側室であると推定される。
また、滋賀県長浜市の妙法寺には羽柴秀勝像とされる六、七の男児を描いた肖像画が所蔵されていた。
これは焼失し現存していないが、法要用の掛け軸「本光院朝覚居士絵像」の写真が残っている。
262:名乗る程の者ではござらん
13/08/30 20:27:49.85
柄本秀吉「なぜわしらには子が出来ぬのじゃ?」
浅野寧々「私はお前様以外試したことがない」
みたいな会話があったなw
263:名乗る程の者ではござらん
13/08/30 23:24:35.38
秀吉の側室から、伊達政宗の側室になった女性(囲碁の賭けで)とかは子供が出来ていたり、
京極龍子などは側室になる前に、子供を生んでいたり、秀吉の側室を辞した前田利家の娘も
その後、貴族に嫁いだ際に子供ができたいたりするので、精子などに問題があった可能性はあります。
264:名乗る程の者ではござらん
13/08/31 01:49:06.75
江戸時代、(豊臣sageで)秀頼非実子説
明治維新(アンチ徳川)で実子説
1945年の終戦以降、両論混在
265:名乗る程の者ではござらん
13/08/31 02:35:54.17
上川隆也:「真田十勇士」で里見浩太朗とファン争奪戦
2013年08月30日
URLリンク(mainichi.jp)
266:名乗る程の者ではござらん
13/08/31 23:19:34.75 Tr9t5KZm
>>231
ということは、山内家と春日局の間に交流がありそう
267:名乗る程の者ではござらん
13/09/01 14:29:37.83
土佐は9万石と思って与えてみたら検地で24万石だったという話は真実なのかな
太閤検地の立場がないが
268:名乗る程の者ではござらん
13/09/01 14:35:42.07
町作りと領地経営に心血をそそいだ掛川6万石から、
プラス3万(のつもり)で離れ島四国の、しかも「敵地」への移封なら論功行賞ではなく家康の嫌がらせだろう
269:名乗る程の者ではござらん
13/09/01 14:41:35.84
このドラマの本当の内助の功は六平太
270:名乗る程の者ではござらん
13/09/01 14:44:57.11
三成へのインタビュー
Q.捕らえられた心境は?
A.まだ実感ないな
Q.なぜ、この時期に関が原の合戦を起こしたのか?
A.オレ流のサプライズや
Q.豊臣家の一部から批判も予想されますが?
A.言いたいことがあったら言ったらええ、人それぞれ、いろんな見方があるからな
Q.西国の大名からも失望の声が上がっていますが?
A.それぞれ判断基準があるからな。 でも、オレは豊臣家を守るだけやから
Q.最後に諸国の民に一言お願いします。
A.どんなもんじゃ~~~~い!!
271:名乗る程の者ではござらん
13/09/01 14:48:51.60
小早川秀秋の死因って
1 酒の飲みすぎ
2 狂い死に
3 宇喜田の旧家臣による暗殺
4 徳川家の暗殺
とか、いろいろ説があるな。
272:名乗る程の者ではござらん
13/09/01 14:53:23.74
小早川秀秋→備前(宇喜多旧領):最悪
山内一豊→土佐(長曽我部旧領):最
273:名乗る程の者ではござらん
13/09/01 15:29:53.20
桶狭間で今川義元に一番槍をつけた服部小平太って秀次の奉行やってて切腹させられてるんだね
274:名乗る程の者ではござらん
13/09/01 15:57:38.98
中村一氏…駿府15万石(家康の旧拠点)
池田輝政…吉田15万石
堀尾吉晴…浜松12万石(家康の旧拠点)
田中吉政…岡崎10万石(家康の旧拠点)
山内一豊…掛川6万石
有馬豊氏…横須賀3万石
275:名乗る程の者ではござらん
13/09/01 16:11:40.00
26回功名の旗
主人公の「山内一豊、千代夫妻」にとっては
信長の死より、いつも側にいた吉兵衛の死は
耐え難いものに違いない。
山内家にとっては本能寺と吉兵衛の死は同程度の重みが
あると判断して2週かけて描いたのだろう。
一豊にとって「母のような存在だった」のはもちろん
千代にとっても口うるさい義母のような存在だった吉兵衛。
よねまで「吉兵衛しっかりしなさい」と母と一緒に恋愛を応援する
ところまで描いておいて、戦場で殉職。
276:名乗る程の者ではござらん
13/09/01 16:18:48.30
本能寺の最大の見所は
信長が頚動脈切るまでの、異様に長い時間。
織田信長も人の子。 死は怖かった。
首を斬るまでに、躊躇していた。
鉄砲に撃たれて、「痛い」と弱音を吐いてる。
彼もただの人間だった ということを、はっきり描写した。
こういう 本能寺の信長は珍しい。
277:名乗る程の者ではござらん
13/09/01 17:16:38.93
戦国期に一気にのしあがった大名は
(1)信長チルドレン 前田利家 山内一豊 豊臣秀吉
(2)秀吉チルドレン 福島正則 加藤清正 石田三成
(3)すかんぴんから下克上 斉藤道三 北条早雲
(4)マイナー大名から下克上 織田信長 徳川家康 毛利元就
(5)その他 細川藤孝 黒田如水
278:名乗る程の者ではござらん
13/09/01 18:20:31.84
>>277
なんか納得しにくい
279:名乗る程の者ではござらん
13/09/01 19:59:23.81
>>277-278
戦国期に一気にのしあがった大名は
(1)信長チルドレン 前田利家 豊臣秀吉
(2)秀吉チルドレン 福島正則 加藤清正 石田三成
(3)すかんぴんから下克上 斉藤道三 北条早雲
(4)マイナー大名から下克上 織田信長 徳川家康 毛利元就
(5)その他 細川藤孝 黒田如水
280:名乗る程の者ではござらん
13/09/01 21:46:55.68
斉藤洋介
o 獅子の時代(1980年) - 末吉 役
o 武田信玄(1988年) - 丹波弥十郎 役
o 翔ぶが如く(1990年) - 板垣退助 役
o 炎立つ(1994年) - 九条兼実 役
o 功名が辻(2006年) - 黒田如水 役
o 龍馬伝(2010年) - 小栗忠順 役
281:名乗る程の者ではござらん
13/09/01 22:12:43.60
>>271
春日局では宇喜多浪人に襲われ死亡との設定。
個人的には狂死の可能性が高いと思っています。
282:名乗る程の者ではござらん
13/09/01 22:19:42.86
>>273
服部小平太
今川義元に一番槍をつける戦功をあげた。しかし、義元の反撃を受けて膝を斬られたので、首級を挙げたのは助太刀に入った毛利良勝であった。
桶狭間の戦い以降は織田氏の配下として目立った活躍は知られていない。
小田原征伐の戦功により、天正19年(1591年)に松阪城主に抜擢されて伊勢国一志郡に3万5000石を与えられ、同時に当時、尾張・北伊勢の支配した羽柴秀次に付けられた。
文禄元年(1592年)、文禄の役において漢城に従軍。文禄4年(1595年)の秀次失脚に連座して所領を没収され、上杉景勝に預けられた後、切腹を命じられた。
283:名乗る程の者ではござらん
13/09/01 22:25:19.90
>>274
家康の西上を防ぐために配置された東海道の豊臣恩顧の諸侯たちが
全員、徳川(東軍、関東勢)に味方したから
秀吉は…あの世で泣いていたかもね
284:名乗る程の者ではござらん
13/09/01 22:31:41.94
>>280
武田信玄(1988年) - 丹波弥十郎 役
武田信玄のときは台詞一回だけの出演だったから、出世したものだ(功名が辻で官兵衛役)
285:名乗る程の者ではござらん
13/09/01 22:37:07.62
>>276
余が神である、と言っていた信長が「痛いの~」と言ったときに
信長は自分が普通の人間であることを自覚(?)した
286:名乗る程の者ではござらん
13/09/01 23:42:02.76
三原じゅん子(現:参院議員)は「ファイト」で好感度アップしたよね。
おしゃべり好きで世話焼きでちょっと抜けてる気のいい奥さんのイメージが出来てる。
いい人選だと思った。
287:昔の記事
13/09/01 23:44:24.75
NHKは7日、来年の大河ドラマ「功名が辻」で降板した杉田かおるさん(40)の
代役に三原じゅん子さん(41)が決まったと発表した。
三原さんが演じるのは、山内一豊とともに織田信長や豊臣秀吉に仕える
堀尾吉晴の妻「いと」役。
三原さんは「長年の夢だった大河ドラマの出演が決まり、身の引き締まる思いです」と
コメントしている。
ソース:MSN-Mainichi INTERACTIVE 2005/10/07 18:49
URLリンク(www.mainichi-msn.co.jp)
杉田さんはNHK側と収録スケジュールをめぐり調整が付かず、9月26日に降板が発表された。
三原さんは「わたしなりの『いと』を精いっぱい演じたい」とコメントしている。
ソース:Yahoo!ニュース(時事通信) 2005/10/07 19:00 ※一部抜粋
URLリンク(headlines.yahoo.co.jp)
288:名乗る程の者ではござらん
13/09/01 23:50:45.12
土佐藩(山内家)は関が原の西軍の大名の元家臣を多く取り立てたようだね。
289:名乗る程の者ではござらん
13/09/02 00:24:32.00
>>279
俺の尊敬する尼子経久も入れて欲しいです。
290:名乗る程の者ではござらん
13/09/02 03:36:01.25
「功名が辻」は一豊と千代をモデルにした時代小説。史実を踏まえている部分も
あるが司馬氏の新聞小説。だから六平太とかオリキャラも出ている。
逆に実在した一豊の母親が原作に出てこないので、大河では法秀尼として佐久間良子さんという大女優を起用した。
291:名乗る程の者ではござらん
13/09/02 03:39:08.74
戦国期に一気にのしあがった大名は
(1)信長チルドレン 前田利家 豊臣秀吉
(2)秀吉チルドレン 福島正則 加藤清正 石田三成
(3)すかんぴんから下克上 斉藤道三 北条早雲
(4)マイナー大名から下克上 織田信長 徳川家康 毛利元就
(5)その他 細川藤孝 黒田如水 尼子経久
292:名乗る程の者ではござらん
13/09/02 03:50:00.02
尼子経久は北条早雲と並ぶ下剋上の典型であり、毛利元就や宇喜多直家と並ぶ謀略の天才とも云われ、「謀聖(ぼうせい)」「謀将」と称された。経久、元就、直家はよく中国の三大謀将と称される。
293:名乗る程の者ではござらん
13/09/02 03:51:28.20
戦国期に一気にのしあがった大名は
(1)信長チルドレン 前田利家 豊臣秀吉
(2)秀吉チルドレン 福島正則 加藤清正 石田三成
(3)すかんぴんから下克上 斉藤道三 北条早雲
(4)マイナー大名から下克上 織田信長 徳川家康 毛利元就 尼子経久
(5)その他 細川藤孝 黒田如水
294:名乗る程の者ではござらん
13/09/02 03:55:04.24
甲賀出身の忍びの者、こりん=長澤まさみ
敵方の諜者として一豊に接近、
そうとは知らない一豊は只ならぬ関係を結び軍略上の機密事項をもらしてしまう。
一豊の裏表のない真っ直ぐな気性に惚れ込み、武士をやめて自分と逃げるよう誘ったりする。
若さと生命力で一豊を翻弄し、その登場は千代と一豊の夫婦関係にも波乱を巻き起こす。
295:名乗る程の者ではござらん
13/09/02 04:05:05.93
山内の郷士差別は、身分社会の江戸時代と言うことを差し引いて
も惨かった。
でも、郷士たちに倒幕派が多かったから、明治維新後は土佐藩は
勝ち組になれた訳で。
板垣伯は、上士ながら郷士に対する差別意識の少ない人物で、
自分の娘を二人も郷士と結婚させているよ。
同じ四国の徳島藩も土佐藩と似たような状況で。
徳島藩主蜂須賀家 外様。佐幕派。稲田家の家臣を陪臣として差別。
同藩筆頭家老稲田家 淡路島を支配。殿様も家臣も倒幕派。
蜂須賀家と稲田家の対立から、淡路島は兵庫県に編入された。
296:名乗る程の者ではござらん
13/09/02 04:11:43.34
関ヶ原本戦では目だった武勲を上げていないことが、山内家のコンプなんだが、史実を曲げて、関ヶ原で大暴れさせるくらい描いて欲しかったものだw
江~姫(ryの歪曲ぶりを思えば、それくらいやっても良かったのでは、と最近よく思う
297:名乗る程の者ではござらん
13/09/02 04:19:06.68
桶狭間 1560年基準
信長26歳(舘ひろし 55歳)
藤吉郎24歳(柄本明58歳)
帰蝶・濃姫25歳(和久井映見 35歳)
一 豊 1 5 歳(上川隆也 40歳)
お 市 1 3 歳(大地真央 49歳)
ね ね 1 1 歳(浅野ゆう子45歳)
千 代 3 歳(永井杏13歳)
298:名乗る程の者ではござらん
13/09/02 04:29:32.61
補足
秀吉とかだって実際の産まれた年はさだかじゃないんだから。ましてや一豊の実際の年齢なんてわかりようが無い
299:名乗る程の者ではござらん
13/09/02 04:35:19.31
秀吉だらけの大河ドラマ
武田鉄也 (大河 徳川家康)
西田敏行 (大河 おんな太閤記)
香川照之 (大河 としまつ)
300:名乗る程の者ではござらん
13/09/02 07:40:00.55
>>292
謀聖ってなんか凄い名称だな
邪も極めれば聖人となるみたいな感じか
301:名乗る程の者ではござらん
13/09/02 17:20:57.99
>>293
光あれば影がある
(1)あなたが踏み台になったから大名
大内(陶)氏、今川(駿河)氏、武田氏
(2)なんか残念のうちに滅亡してしまった大名
北条氏(超残念筆頭)、朝倉氏(浅井に隠れて映像化されず)、蘆名氏
(3)どこに行ってしまったの?大名他
龍造寺氏、大友氏、織田信雄、丹羽(長重)氏、柴田勝豊、石川数正、濃(姫)
302:名乗る程の者ではござらん
13/09/02 20:15:07.06
>>301
>朝倉氏(浅井に隠れて映像化されず)、
功名が辻でも朝倉の滅亡は省略されましたw
303:名乗る程の者ではござらん
13/09/02 20:42:24.15
見せ場は髑髏かな
304:名乗る程の者ではござらん
13/09/02 23:15:09.05
>>303
お市の方「喜んで盃をあおるサル!そなたが一番醜い」
305:名乗る程の者ではござらん
13/09/03 02:05:56.15
長浜城を明け渡して秀吉に降参した柴田勝豊
勝家が同じ養子の柴田勝政を優遇して自分を冷遇することと、従兄にあたる佐久間盛政と仲が悪いことなどもあって、12月に羽柴秀吉の家臣・大谷吉継の調略を受けて、長浜城ごと羽柴方に寝返った。
しかしすでに病を得ていたため、天正11年(1583年)の賤ヶ岳の戦いでは家臣を代理として参戦させた。賤ヶ岳の戦いの直前、京都東福寺にて病死した。享年28。勝家滅亡の8日前のことであった。
306:名乗る程の者ではござらん
13/09/03 02:10:46.92
武田鉄矢が話しているのを聞くと、
金八が説教しているようにしか聞こえない・・・orz
307:名乗る程の者ではござらん
13/09/03 02:11:37.51
秀吉は最高!としまつの香川を超えたかも
308:名乗る程の者ではござらん
13/09/03 02:13:00.32
史実の秀吉は猿というより貧相な面構え故、はげネズミだったらしいが
功名が辻の秀吉はちゃんと貧相な顔で非常に良かった
そろそろ禿ネズミと呼ばれる秀吉がみたい
309:名乗る程の者ではござらん
13/09/03 02:23:55.94
割合に堅実に作っていて好感が持てた。「戦は嫌い」という
台詞も、目の前で母親ころされたんだから納得がいく(なん
でもかんでも反戦台詞は嫌だという似非右翼の神経逆撫で
したろうけど)。
俳優の年齢がふけすぎという声もあるが、人気だけの未熟者
並べられるよりゃマシ。武田鉄矢、前田吟の家臣団も、お笑いだけ
の義経郎党よりは、ベテランだけに落ち着いて見てられる。
310:名乗る程の者ではござらん
13/09/03 02:26:37.45
としまつのときより戦国の雰囲気が良く出ていたと思う
311:名乗る程の者ではござらん
13/09/03 02:27:46.21
秀吉が猿顔なのはいいが、あまりにご高齢なので、
駆けずり回ってる姿が痛々しいやら、笑っちゃうやら。
312:名乗る程の者ではござらん
13/09/03 02:29:56.49
大地真央いいなあ。
ガキの頃、「武田信玄」の里美に密かに恋してたのを思い出しました・・
313:名乗る程の者ではござらん
13/09/03 02:39:42.12
千代の両親って3歳の時に死んだのか
大変だな
314:名乗る程の者ではござらん
13/09/03 03:05:17.65
ほんと柄本の秀吉よかった
年齢がキツイだろ、と思っていたのに途中から気にならなくなった
まさに若き日の藤吉郎のイメージそのものだった
315:名乗る程の者ではござらん
13/09/03 03:06:58.12
東海道一の弓取り1号・・・今川義元
東海道一の弓取り2号・・・徳川家康
316:名乗る程の者ではござらん
13/09/03 03:08:06.55
義元も元康も
海道一の弓取り、または
東海一の弓取りであってる
一般的には
海道一の弓取り…今川義元
東海一の弓取り…徳川家康
だけどな
317:名乗る程の者ではござらん
13/09/03 03:15:08.58
前田吟が蜂須賀小六に見えてしょうがない
香川照之が籐吉郎に見えてしょうがない
武田鉄矢が金八先生に見えてしょうがない
佐久間良子がねねに見えてしょうがない
318:名乗る程の者ではござらん
13/09/03 03:16:22.07
年齢が高い人が若い役からこなすのはしょうがないけど
和久井お濃を姉と呼ぶ大地お市はきつすぎる。
319:名乗る程の者ではござらん
13/09/03 03:17:40.84
大地真央の顔に皺がないのにビックリした。
320:名乗る程の者ではござらん
13/09/03 03:19:30.10
上川と柄本が良かった。
佐久間先生もさすが。
香川と和久井もいい味出していた。
321:名乗る程の者ではござらん
13/09/03 06:53:27.69
ムック68~69頁より抜粋
館ひろし「時代劇だからといって重々しい信長はやりたくないんですよ」
「アーサー王みたいな信長を演じてやろう、と思っています」
「本能寺のシーンをどう演じるかはまだわからないのですが、
もしかしたら信長は笑ってしまうのでは、とも思うんです」
322:名乗る程の者ではござらん
13/09/04 00:14:12.57
豊臣秀頼はどう見ても実子じゃないよなw
323:名乗る程の者ではござらん
13/09/04 03:55:33.63
よくドラマや小説で大名が「家臣、領民を『守る』ために云々」と言うけど
領民にとっては、税率が低い大名なら誰が領主でもいいんだよねwww
324:名乗る程の者ではござらん
13/09/04 04:14:57.21
天正10年の「武田攻め」がまさにそれ。
重税に苦しんでいた信濃の民は織田を解放軍として迎えた。
勝頼が重税を課したのは兵力維持の為だったけど
その兵たちが織田による武田攻めで逃亡・・・してしまった。。。
325:名乗る程の者ではござらん
13/09/04 04:22:33.36
何だかんだで何年かぶりに見続けられそうな大河だったよ。
前田吟と武田鉄也の家臣コンビが良いね。
326:名乗る程の者ではござらん
13/09/04 04:24:54.42
一豊と家臣二人のやりとりや空気がいいな
327:名乗る程の者ではござらん
13/09/04 04:26:52.90
実際死んじまったら山内家再興とか出世どころじゃないからな
ちゃんと後継ぎがいるならともかく
勝ち戦には命をかけるが
劣勢になったら結構あっさりと逃げたり裏切るのも戦国武士
「命の持ち帰りこそ功名の種」とはいい台詞だ
夫の無事を祈るは人情
328:名乗る程の者ではござらん
13/09/04 04:29:41.91
やっぱ、お市=大地、お濃=和久井、おね=浅野に違和感。
お濃=浅野、おね=和久井にしたほうがまだ良かったと思うんだけど。
329:名乗る程の者ではござらん
13/09/04 11:38:06.30
浅野のおねは見た目や背丈で違和感があったが
お濃=浅野にするのもどうかと思うな
おねはやっぱり沢口かな
沢口もイメージちょいと違うんだがな
330:名乗る程の者ではござらん
13/09/04 21:24:55.46
明智から毛利への密使は斬られるのがデフォと化してるなw@「功名が辻」「春日局」etc...
331:名乗る程の者ではござらん
13/09/06 01:53:48.69
甲斐武田家最大版図は信玄期ではなく勝頼期(120万石)
↓
長篠の戦い
↓
ドラマでは武田攻めは数秒で終わってしまったが描いて欲しかった
332:名乗る程の者ではござらん
13/09/09 23:53:09.87
我、人に媚びず
富貴を望まず
黒田官兵衛
333:名乗る程の者ではござらん
13/09/10 01:41:36.96
功名が辻は六平太が影の主人公だったと思う
334:名乗る程の者ではござらん
13/09/10 15:12:46.23
全国でも一人か二人の意見ですな
335:名乗る程の者ではござらん
13/09/11 02:58:53.85
宅麻伸と木村多江と江守の出番があれだけなんて勿体無い
336:名乗る程の者ではござらん
13/09/11 03:00:37.38
個人的には和久井が見られたのは良かった。
この人は若い頃から息の長そうな役者の匂いを感じさせてたし。
337:不破 市之丞
13/09/11 03:06:13.85
美濃の重臣といえば 「美濃三人衆」 が有名だが、それに 不破光治 を加え、「西美濃四人衆」 と称する場合もある。
つまり彼は、美濃三人衆 に並ぶ斉藤家の中心人物の一人だった。
歴史小説などでは 「不破 市之丞」 の名で登場することもある。
斉藤家の滅亡後は 織田家 に仕えるが、美濃三人衆 とは別に活動していたようで、「将軍・足利義昭」 が織田家を頼った際にはその出迎えに向かっており、礼儀作法などに長けていたと思われる。
その後、浅井・朝倉家 との戦いや、「越前(近畿地方の北方)」 の 「一向一揆」 の鎮圧戦などで活躍、越前が織田家の重臣 「柴田勝家」 の支配になるとその配下となり、同じ勝家配下の 「前田利家」 「佐々成政」 と合わせ 「府中三人衆」 と呼ばれるようになる。
「本能寺の変」 で 信長 が急死した後はそのまま 柴田勝家 に従うが、勝家 は 秀吉 と戦った 「賤ヶ岳の戦い」 に破れ自刃。
以後は 秀吉 の配下となった。
338:名乗る程の者ではござらん
13/09/11 03:10:16.82
蜂須賀小六の経歴は、
「寛永伝」という史料では1560年に信長に仕え出してすぐに桶狭間で活躍。
その前の経歴は、犬山城主織田信清→岩倉城主織田信賢→斉藤道三に仕える。
339:名乗る程の者ではござらん
13/09/11 03:13:15.43
組織の中で生きる一豊と組織に縛られない六平太の生き方の対比が作品のキモの1つ
340:名乗る程の者ではござらん
13/09/11 03:16:42.14
武田と前田吟は全く問題なし。シリアスもコミカルもはまる人たちだから
脇にはもってこい。
341:名乗る程の者ではござらん
13/09/11 03:40:04.07
桶狭間の戦い(1560年)当時
今川 義元42歳(没年42歳、江守徹62歳)
柴田 勝家39歳(没年62歳、勝野洋54歳)
蜂須賀小六35歳(没年61歳、高山善廣39歳)
織田 信長27歳(没年49歳、舘ひろし55歳)
豊臣 秀吉24歳(没年62歳、柄本明58歳)
山内 一豊16歳(没年61歳、上川隆也40歳)
濃 姫 26歳(没年??:歳、和久井映見35歳)
於 市 14歳(没年37歳、大地真央49歳)
寧 々 12歳(没年76歳、浅野ゆう子45歳)
千 代 *4歳(没年61歳、永井杏13歳・仲間由紀恵26歳)
342:名乗る程の者ではござらん
13/09/11 03:47:39.76
一豊は堀尾吉晴・中村一氏等と共に秀次の宿老
(他に田中吉政・一柳直末)。
秀次政権が確立すればおそらく政権の中枢。
ちなみにこの5人は関ヶ原では全員東軍。
343:名乗る程の者ではござらん
13/09/11 08:39:47.08
前田吟と武田鉄也が名コンビだよな、あの二人目当てで見てた。
五藤吉兵衛討死後は寂しくなった。
344:名乗る程の者ではござらん
13/09/14 17:41:09.61
あ、長篠合戦が「鉄砲による勝利」という虚構は歴史関係の人間の間では
もう誰一人信じるものがないくらい完膚なきまでに破壊された幻想。
簡単に言えばにらみ合いに持ち込みたかった武田軍を野戦に持ち込み、
先鋒同士の争いがほぼ一日続いた。そのために戦力比がほぼ三倍の数の
織田軍の方が優位になり、勝ち目がないと見た武田軍が撤退を始めたものの
地形不案内で追いつかれたり道を失ったりして多くの犠牲を出した、という
だけの合戦。ざっとポイントを挙げると
・当時織田軍は組織的な鉄砲部隊窪を持っていない。全部寄せ集め。
・したがって「組織的連射」などできていない。
・そもそも「3000丁の鉄砲」という記述は江戸時代に改竄された
資料によるいわば捏造。
・武田軍の武将で鉄砲柵近くで死んだ武将は一人だけ。あとの武将は
みな設楽原から遠く離れた山道で死んでいる。
・武田軍の死者の死因で一番多いのが川にはまっての溺死。
次が山に迷い込んで脱出できなくなっての餓死。
345:名乗る程の者ではござらん
13/09/14 17:44:38.43
信長の夫婦喧嘩の仲裁は大河版「国盗り物語」が一番説得力があった。
太地喜和子@ねねの可愛さが自然にそのエピをいかしていた。
身分の高い女性を側室にした秀吉に掴みかからんばかりに泣きながら
詰より信長に直訴する可愛さ。この手紙がなければその後の信長の
評価は違っていたであろうとナレ―ションは語っていた。
346:名乗る程の者ではござらん
13/09/14 17:54:22.05
織田は、三河は徳川にまかせて
美濃斉藤攻略して、伊勢北畠へ養子送り込みで
裕福になり、兵農分離できたんだろうな。
三河は愛知用水ができるまでは、砂漠同然の荒地。
刈谷・安城・岡崎の矢作川両岸ぐらいしか農業活動できなかった。
三河でおいしいところは、酒井氏が持っていたので
家康は苦しい立場が続いて、織田から同盟で兵を出せでは
大変だったろうな。
347:名乗る程の者ではござらん
13/09/14 23:51:32.97 gB9BxoyC
youkuで功名が辻を見てるけど中国語の字幕に誤訳がいろいろとある。
漢字だからある程度わかるんだけど、中華人はこのドラマおもしろいんかな?
348:名乗る程の者ではござらん
13/09/15 01:45:45.83
>>347
コメント欄に日本語で書いている人たちがいるけど中国人には理解できないのではないかと。
コメント欄の中国語を見ると「不快(?)」と見える文字があるので、アクセスはするけど日本の作品は不快で見ない、という意味なのかな?
349:名乗る程の者ではござらん
13/09/15 02:53:32.90
朝日姫(旭姫)
家康「いやー、あれはひどかった」TBS関ヶ原
語り「御器量芳しからず」葵徳川三代
350:名乗る程の者ではござらん
13/09/17 11:27:32.30
竹生島奉加帳に、秀勝(石松丸)と南殿の名前があることから、秀勝=秀吉の実子だと推測されてるだけじゃ?
長浜の妙法寺に秀勝の墓があることについて、小和田哲男氏は、秀勝の戒名は子供につける戒名なのか、どうか疑問視してるらしいね
351:名乗る程の者ではござらん
13/09/17 11:30:43.72
亡くなったとされる秀勝の年齢と秀吉の北近江拝領の時期を考え合わせれば
南殿の連れ子の可能性だってあるのに、ひたすらまず秀吉の子ありきなのがな
352:名乗る程の者ではござらん
13/09/18 17:54:15.91
アバンタイトルに出ていた「曲事の由、御逆鱗なされ」
信長公記 十巻(天正5年)で
八月八日、柴田修理亮、大将として、北国へ御人数出だされ侯。滝川左近、羽
柴筑前守、惟住五郎左衛門、斎藤新五、氏家左京亮、伊賀伊賀守、稲葉伊予、不
破河内守、前田叉左衛門、佐々内蔵介、原彦二郎、金森五郎八、若狭衆、賀州へ
乱入、添川・手取川打ち越え、小松村、本折村、阿多賀、富樫の所々焼き払ひ、
在陣なり。羽柴筑前、御届をも申し上げず、帰陣仕り侯段、曲事の由、御逆鱗な
され、迷惑申され侯。
353:名乗る程の者ではござらん
13/09/19 10:33:19.24
堀尾忠晴
忠氏が急死して5歳で家督相続
その際に家督を奪われそうになるが祖父の吉晴が阻止
美少年だったらしく、前田利常(マッチョ)と衆道関係だった
嗣子無し断絶
中村一忠
関ヶ原の直前に一氏が死んで11歳で家督相続
讒言を信じて筆頭家老の横田村詮を誅殺して
村詮の家臣と内戦状態にまで発展(米子騒動)
堀尾吉晴の救援で鎮圧したが、その後酒に溺れて20歳で死去
嗣子無し断絶
354:名乗る程の者ではござらん
13/09/19 14:35:24.79
国盗り読んでたから明智のシーンが全く同じで嬉しかった。
355:名乗る程の者ではござらん
13/09/19 14:37:06.41
筒井も大河で自分の居場所を見つけたようだな。
江守・西田のように。
356:名乗る程の者ではござらん
13/09/19 14:43:35.83
山内一豊の父親(岩倉織田家家老)を信長が滅ぼすシーンを何故いれなかったのか疑問。一豊の弟だって、重要なキャラなんだし。
357:名乗る程の者ではござらん
13/09/19 14:47:44.34
子千代はちょっとウザかった
まあ脚本の問題なんだろうけど
358:名乗る程の者ではござらん
13/09/19 14:49:25.17
清洲城のほうが清須城よりメジャーだと思うんだが、なぜ清須城というテロップなんだろう。
359:名乗る程の者ではござらん
13/09/19 14:50:12.86
当時は清須だからでしょ
360:名乗る程の者ではござらん
13/09/19 14:55:08.21
「おんな太閤記」は、「功名が辻」の浅野ゆう子よりも~っと若いうちから、佐久間
良子(当時50代)がやった。
361:名乗る程の者ではござらん
13/09/19 14:56:58.46
佐久間は1939年生まれでおんな太閤記は1981年
362:名乗る程の者ではござらん
13/09/19 15:19:34.20
>>341つづき
本能寺の変(1582年)当時の役年齢とキャストの実年齢の比較
信長48歳(舘ひろし 55歳)
藤吉郎45歳(柄本明58歳)
帰蝶・濃姫47歳(和久井映見 35歳)
一 豊 38歳(上川隆也 40歳)
お 市 35歳(大地真央 49歳)
ね ね 33歳(浅野ゆう子45歳)
千 代 26歳(仲間由紀恵 26歳)
363:名乗る程の者ではござらん
13/09/19 15:25:31.40
壇ノ浦の戦い(1185年)当時の役年齢とキャストの実年齢の比較
源義経 27歳(滝沢秀明 23歳)
武蔵坊弁慶 20~30歳 (松平健 52歳)
静御前 18歳 (石原さとみ 18歳)
常盤御前 47歳(稲森いずみ 33歳)
源頼朝 38歳 (中井貴一 44歳)
北条政子 28歳(財前直見 39歳)
後白河法皇 58歳(平幹二朗 72歳)
364:名乗る程の者ではござらん
13/09/19 15:29:28.02
自分を愛してくれる3人の男達(一豊、六平太、竹中半兵衛)を手玉に取り
幸せ街道まっしぐらを目指す千代が主役の「巧妙が辻」
365:名乗る程の者ではござらん
13/09/19 15:39:34.50
芸術センス
利休>信長>>>>|越えられない壁|>>>>>秀吉>>>家康
366:名乗る程の者ではござらん
13/09/19 15:44:05.96
柄本秀吉面白い
367:名乗る程の者ではござらん
13/09/19 15:55:27.70
秀吉が主人公だったら柄本はアクが強すぎるが
脇役として良い感じ
368:名乗る程の者ではござらん
13/09/19 16:19:21.29
原作通りに信長が岐阜を拠点にした頃から始めると
信長の桶狭間・美濃攻略、秀吉の墨俣・竹中説得
という戦国時代大河ドラマとしてあまりにおいしすぎる名場面を使えないからなぁ
ただでさえ原作が短いからこれらを使いたいって気持ちはわかる
でもその代わり半分「国取り物語」化してしまってるよね
一豊と千代が合間合間にチョロチョロっと出てきてる感じだ
年齢設定的にかなり無理のある二人のラブロマンスをやらなきゃいけんし
結婚するまでに4話も費やさなきゃならんし
・・・って逆か
二人のラブロマンスを描きたいから桶狭間の頃からやってんのか
やっぱり恋愛結婚じゃないと視聴者にウケないから?
369:名乗る程の者ではござらん
13/09/19 16:30:16.45
2000年が葵 戦国
01年 北条時宗 鎌倉
02年 とし松 戦国
03年 武蔵 江戸初期
04年 新選組 幕末
05年 義経 平安末期
06年 功名 戦国
370:名乗る程の者ではござらん
13/09/19 16:44:12.54
一豊の華々しい(?)対決
①金ヶ崎城攻め:朝倉家武将 三須崎勘右衛門、弓矢の上手。一緒に谷から転げ落ちたら三須崎は頭をぶつけ、鎧通しで突きとどめをさす。
②姉川の合戦:浅井家武将 鬼頭三郎兵衛義兼、小具足術を使う。歩卒の伊作と吉兵衛が組み付いてしとめる。
③小谷城攻め:浅井家武将 草野河内守義仲、馬術の輪乗りの名人で得物は大薙刀。馬上で組まれたとき一豊は短刀を馬に刺し、二人とも落下。新右衛門が草野の頭を槍で殴り、弱ったところを一豊がとどめ。
④備中高松城の戦い:毛利家武将 宍戸修理良近、得物は来国俊の槍。馬当てで落馬させて討ち取る。
371:名乗る程の者ではござらん
13/09/19 17:05:50.93
>>366
江本の秀吉は完全に錦之助の「尻くらえ孫一」や信長映画で
中村嘉葎雄が演じている秀吉のコピーだな
本人も嘉葎雄を尊敬してるって言ってるし
372:名乗る程の者ではござらん
13/09/19 17:25:53.11
>>370
>④備中高松城の戦い:毛利家武将 宍戸修理良近、得物は来国俊の槍。馬当てで落馬させて討ち取る。
黒田官兵衛「おっ、敵将落馬!」ってシーンには元ネタがあったのか。
373:名乗る程の者ではござらん
13/09/19 17:32:27.95
津川がどうしても徳川将軍の誰かに見えてしまう
374:名乗る程の者ではござらん
13/09/19 18:10:14.73
>>359
やるー!
375:名乗る程の者ではござらん
13/09/19 20:44:19.66
【ベスト】大河史上最高傑作と最低ドラマ4【ワースト】
スレリンク(nhkdrama板)l50
功名、意外と(?)善戦中
376:名乗る程の者ではござらん
13/09/20 10:30:40.78
秀吉&家康の「陣羽織イベント」の元ネタ
「徳川実紀」
「東照宮御実紀附録巻五」
「・・・・君(家康)その時殿下(秀吉)の召されし御羽織を某(家康)にたまわらんと宣へば、
秀吉これはわが陣羽織なり。進らすることかなわじといふ。
君御陣羽織とうけたまはるからは猶更拝受を願ふなり。
家康かくてあらんには、重ねて殿下に御物具(甲冑)着せ進らすまじと宣へば、秀吉大によろこばれ・・・」
377:名乗る程の者ではござらん
13/09/20 14:15:13.21
ドラマでは語りの一言のみの三方ヶ原の戦い。織田の援軍の将に諸説有り
信長公記 - 佐久間信盛・平手汎秀・水野信元
松平記 - 佐久間信盛・平手汎秀・水野信元・林秀貞
明智軍記 - 佐久間信盛・平手汎秀・林秀貞・滝川一益
総見記 - 佐久間信盛・平手汎秀・林秀貞・毛利秀頼・稲葉良通
378:小山評定で西軍に味方すると宣言した武将
13/09/21 09:56:18.53
田丸忠昌は美濃岩村城主。蒲生氏郷の妹婿で、秀吉政権下では氏郷の与力となっていた武将です。
氏郷没後、蒲生家は、下野宇都宮に減転封されたので、石田三成などが推挙して独立。岩村城4万石を領したそうです。
もうここまできたら、当然恩義ある三成についたとしか思えませんよね。
でも、このとき、本人は家康にこう言って軍を離脱したそうです。
「三成ごときが内府どのに刃向かうなどと笑止千万ではございますが、三成は秀頼様を擁しておりますれば、ここは内府どのにお味方は出来申さず。」
つまり、三成というより、豊臣家に恩義があるということのようです。とはいえ、家康を前にしての発言なので、ちょっと遠慮したところもあるかもしれないですが…。
しかも忠昌は、この発言を軍議の席上で堂々と言ったといいます。周りが、福島正則の言葉に同調して、「わしも」、「わしも」と言っているなか、「わしは西軍につく」と言うんですから、相当の覚悟ですね。
ちなみに、家康はそれを聞いても、まったく気を悪くすることはありませんでした。まあ自分で「西軍についたって恨みには思わないよ」と言っているのだから、
怒る方が筋違いですが、家康はむしろ忠昌のその忠義の姿勢を賞賛して、「はなむけじゃ」と言って刀を一振り与えたそうです。
忠昌は、関ヶ原の本戦に参戦していたもののあえなく敗走したそうです。
西軍についたのだから当然所領は没収。戦後の処分は越後に流罪でした。さすがに戦後は容赦なく処分されたわけですな。
忠昌は赦免されたあと、蒲生家に戻ってきて、蒲生秀行の客将として遇されたそうです。
379:名乗る程の者ではござらん
13/09/22 14:43:18.61
拾(ひろい)のエピソードは、千代が当時参詣していた妙心寺の門前で拾い、約10年間手元で養育した後に妙心寺に預けられ、
後に「湘南和尚」という高僧になった人物がモデルになっています。
千代が捨て子を拾ったのが天正15年という記録がありますので1587年になります。
正確な養育期間は定かではありませんが、10年とすると、山内家を出たのが1597年となりますが、
山内家を出て出家したのが慶長元年(1596年)という記録もあります。
関白秀次が出家し切腹に処せられたのは、文禄4年(1595年)ですから、拾の出家より、関白秀次の失脚の方が2~3年は早かったと思われます。
拾は、一豊・千代夫妻が帰依していた妙心寺の高僧南化元興国師に預けられて学僧となって湘南和尚と称します。
山内一豊が土佐に領地を与えられると、土佐に招かれて吸江寺を復興します。
一豊の死後、千代は妙心寺の近くに移り住み、余生を過ごすのですが、
この頃には、湘南和尚は妙心寺の南隣院に大通院を開山することを許されるほどの高僧となっており、晩年の千代と深く交流しました。
千代の死後は妙心寺の一豊・千代夫妻の霊廟を守ったという記録が残っています。
380:名乗る程の者ではござらん
13/09/22 14:49:25.84
記録に残る限り、山内一豊には側室はいなかったしその形跡も見当たらないです。
ただし、捨て子として門前に捨てられていた湘南宗化が山内一豊夫妻が引き取って育てるなど、捨て子とは思えないほど可愛がられ、その後の扱いも最上級の扱いだった事を考えると、彼が山内一豊が外で生ませた隠し子だったという説も完全には否定できません。
ただ、見性院は夫の一豊が死んでしまうとさっさと土佐を離れて、京の湘南宗化が居る寺の近所に引越して死ぬまで暮らしましたから、湘南宗化が一豊が一豊の隠し子であったとしても、見性院にすらばれなかったということになるのではないでしょうか。
381:名乗る程の者ではござらん
13/09/25 14:23:17.44
山内一豊は秀吉恩顧の中で家康に付いたのが池田と同じくらい早いよな。
あのまま豊臣政権に残ったところで良い事なんて一つも無いしな。
土佐一国なんて夢のまた夢。
秀次が秀吉死後も生きて豊臣政権で重きをなしてれば山内の境遇も
大きく変わってただろうけど。
382:名乗る程の者ではござらん
13/09/26 15:18:11.87
堀尾吉晴の官位は「従四位下、帯刀先生」
つまり、
堀尾帯刀先生吉晴
なんかぴんとこない名前
383:名乗る程の者ではござらん
13/09/28 09:32:04.47
ここには戦国史に詳しそうな人がいるみたいなのでお尋ねしますが
家康は何か意味があって姓を徳川に変えたのでしょうか?
384:名乗る程の者ではござらん
13/09/28 19:19:22.80
「洞ヶ峠」で日和見とか、勝敗や運命の重大な分かれ目「天王山」の戦いとか
ネーミングがいいよねー
もしもこれが逆だったら、
・天王山で日和見
・洞ヶ峠が勝負の分かれ目
・・・となってしまい後世に伝わる言葉にはならなかった
385:名乗る程の者ではござらん
13/09/28 19:21:25.50
>>383
もともとは得川と書いてトクガワでした。その後松平になり、家康が徳川を名乗りました。分家の松平氏が一向一揆の味方にまわり、大変な思いをさせられたので、うちが本家だ!ということを示すために徳川を名乗ったのです。
その後、家康は一向一揆を制圧し、分家の松平家を家臣にしました。
そのため、江戸時代にも、本家+御三家 が徳川を名乗り、分家が松平という格付けのために使い分けられました。
386:名乗る程の者ではござらん
13/09/28 19:32:48.44
徳川家康が松平姓から徳川に姓を変えたのは主君として自立性を図るためです。
今川から独立した段階では松平家は他の松平を名乗る分家の力も強く宗家の権威は弱かったのです。
朝廷に三河守任官と徳川への改姓を礼金を出してまで願ったのは権威を高め統制力をつけるためです。
もともと家康の祖父の清康やそれ以前から祖先は関東の上野の出で三河に流れてきて松平家に婿入りしたという伝承があったそうです。
その話には上野でも得川という土地が祖先でも出身地で史実でも新田氏の分家に得川氏という家があり当然、源氏の系統であったので祖先は遡れば新田氏ひいては源氏の一門であるという解釈が成されたのです。
「得川」が「徳川」に変わったのはより良い字を使いたかったからでしょう。
松平氏は本来は氏は賀茂氏でしたがそれとは別に家康も三河守任官時は藤原氏で申請しており改姓では源氏に変えたのです。
戦国時代には系図の創作がよく行われたので家康が都合よく使い分けても違和感はなかったそうです。
387:名乗る程の者ではござらん
13/09/29 10:12:20.63
改姓には2つの理由があります。
理由の1つは永禄7年、家康は三河の国を事実上支配下に置いた事で、
朝廷に三河の領主である事を認めてもらい、それに相応しい官位が欲しかったと言う事です。
ですが松平家は土豪、官位は貴種(名門)しか貰う事の出来ないので、松平姓のままでは官位を得る事は難しく、
そのため近衛前久に間に入ってもらい、神祇官の吉田兼右に家康の希望に沿う姓を探してもらった結果、「徳川」と言う姓が家康の希望に適うものだったので、
それで改姓の勅許を得て同時に従五位下・三河守に叙任されました。
三河守はかつて三河を領有していた今川義元と同じ官職であり、これにより名実共に三河の領主であると示したのです。
2つ目は徳川に改姓する事で松平姓との家格の違いを表すためです。
家康が徳川に改姓した当時の松平氏は14~16家に分かれ一門衆的な同盟関係で結ばれていました。
家康が徳川に改姓する事で他の松平一族との家格の違いを示し、
松平一族との関係をそれまでの同盟関係から徳川と松平との主従関係へと変えようとしたのです。
元康から家康への改名ですが、家康は8歳から12年間を今川家の人質として駿府で過ごしました。
元康の「元」は今川義元から一字拝領したもので、それは松平家が今川家の支配下にある事を示していました。
永禄3年今川義元が桶狭間で織田信長に討たれた時、家康は義元の子・氏真に「義元の弔い合戦をするように」と進言しますが氏真は動きませんでした。
氏真が一向に動かないので、家康は家臣からの進言もあり今川家と断交し、織田信長と和睦し同盟を結ぶ道を選びました。
なので家康の元康から家康への改名は、今川家との決別を意味したものと思われます。
尚、家康は「源義家」を尊敬していたそうで、「家」の字はその「義家」から採ったものとされています。
388:名乗る程の者ではござらん
13/09/29 17:12:34.88
なかなかの役者揃ってる。
こうでなきゃ大河ドラマは。
389:名乗る程の者ではござらん
13/09/29 17:14:14.44
平和主義は、家康にやがて仕える伏線
390:名乗る程の者ではござらん
13/09/29 17:15:43.50
やっぱり、ジャニタレや学会タレを追い出すと
これほど清清しいドラマになるのか
というのを痛感したよ
391:名乗る程の者ではござらん
13/09/29 17:19:24.84
舘ひろしは流石に男が光ってる!
柄本の怪しさもたまらん!
筒井、棒読みだっていいじゃないか~!
香川に男の哀愁を感じた!
仲間の演技に不安感を持っていたが、全然オッケ~!見直した。
上川も一豊のマイナーさをうまく表現出来てない?控え目で目立ってない。
武田鉄矢や前田吟もいい味だしてる!
これで恋愛ドラマ臭が弱くなればなぁ…
392:名乗る程の者ではござらん
13/09/29 21:29:02.17
千代(幼少期)はお姫様じゃなく、生活力のある庶民に近い子として描かれていた。
法秀尼のところにいても常に手を動かしてる働き者の子という描写で、
ああいうたくましい雰囲気は現代の子供にはなかなか出せないと思う。
津川さんと多岐川由美の元で姫っぽく育てられて仲間になったと補完している。
393:名乗る程の者ではござらん
13/09/29 21:33:52.09
子役の時期が長いと大人へのイメージついて難しいから似た子が選ばれるけど、
子役の出番がそれほどない場合はあまり似てない子でも演技力で選ばれる。
功名では、たった2回の出演だからそれほど外見の相似は重要視してないっぽい。
394:名乗る程の者ではござらん
13/09/29 21:42:19.46
原作通りに信長が岐阜を拠点にした頃から始めると
信長の桶狭間・美濃攻略、秀吉の墨俣・竹中説得
という戦国時代大河ドラマとしてあまりにおいしすぎる名場面を使えないからなぁ
ただでさえ原作が短いからこれらを使いたいって気持ちはわかる
でもその代わり半分「国盗り物語」化してしまってるよね
一豊と千代が合間合間にチョロチョロっと出てきてる感じだ
年齢設定的にかなり無理のある二人のラブロマンスをやらなきゃいけんし
結婚するまでに4話も費やさなきゃならんし
・・・って逆か
二人のラブロマンスを描きたいから桶狭間の頃からやってんのか
やっぱり恋愛結婚じゃないと視聴者にウケないから?
キャストの年齢が高すぎて違和感が、と言われてるが
岐阜時代から始めれば信長も秀吉もすでに30代
舘や柄本で貫禄ある芝居をしてもいいだろう
市もねねも大人だ
大地や浅野が10代前半の娘役をするほどの違和感はなかったはず