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さて、年頭の一回目は久しぶりの教育ネタである。先日の産経新聞で
「教科書 陛下“呼び捨て”小6社会3社、皇室軽視強まる」という記事を読んだからだ。
《天皇陛下に敬称を付けず“呼び捨て”の記述が文部科学省の教科書検定をパスし、
今年4月から小学校6年生の教科書として供給・使用されることが10日わかった。
巻末の用語の索引に「天皇」を盛り込まなかった教科書もあった。
天皇、皇后両陛下はじめ「皇室軽視」の傾向はこれまでも教科書でみられたが、
学習指導要領では「天皇への理解と敬愛の念を深める」よう求めている。
専門家からは「指導要領の趣旨が教科書に十分浸透していない」との批判の声が上がる。
敬称がない表記があったのは、小6社会の教科書。文科省の検定を通過した4出版社のうち
教育出版と日本文教出版、光村図書の教科書が、陛下ご自身が写った写真を説明する際に
「文化勲章を授与する天皇」「インドの首相をむかえた天皇」と表記していた》
他にも天皇、皇后両陛下の写真説明で「福祉施設を訪問される天皇と皇后」といった表記もある。
元国連難民高等弁務官の緒方貞子さんに対してはちゃんと「緒方貞子さん」と敬称があるのだから、
何をかいわんやである。
こういう記事を読んで、よく「なぜ他紙はこういう記事を書かないのだろうか」と疑問を投げかけられることがある。
「キャプションというのは字数に制限があるでしょう。ならば、言葉尻を捉まえた記事ではないのですか」などという声もある。
報じても報じても、他紙は黙っている。確かにそれは他紙の判断である。
私なりに思うところはあるが、「なぜか」と聞かれてもコメントはできない。
ただ、後者の声には「違うんじゃないか」と私は思う。これは教科書検定や歴史認識などをめぐって、
先輩記者の時代から時間を掛けて何度も問題提起してきたスピリッツに属する問題でもある。
教科書記述は些末な問題ではない
「教師が教壇でいかに教えるか、が真の問題であって、教科書記述にこだわるべきではない。教育は教科書『を』教えるものでは
なく、教科書『で』教えるものであり、教師がいかに教えようと子供たちのとらえ方もまた千差万別だからである」
教科書問題のさい、この手の冷淡な意見に私たちの問題提起は常にさらされてきた。南京事件やその犠牲者数をめぐる
教科書表記に警鐘を鳴らす記事もまた「南京事件にせよ、南京大虐殺と書くにせよ、事件があったことに変わりはない」とも言われた。
「どちらの表記にしたって日本が侵略したのは事実だ」と片づけられることもあった。
消された大東亜戦争
だが、教科書記述に横たわる問題は多くの人が思っているほど、そう簡単でもない。記述の(たとえ)一端を採り上げた記事にも
膨大な問題が潜んでいる。決して些末な問題でもなければ、言葉尻の問題でもないのである。例えば次の政府答弁書を見てほしい。
政府答弁書というのは、議員の質問に閣議決定を経て政府方針や統一見解を示す政府見解である。
《鈴木宗男議員 「大東亜戦争の定義等に関する質問主意書」と「政府答弁書」
問1 大東亜戦争の定義如何。
答 昭和16年12月12日当時、閣議決定において「今次ノ対米英戦争及今後情勢ノ推移ニ伴ヒ
生起スルコトアルヘキ戦争ハ支那事変ヲモ含メ大東亜戦争ト呼称ス」とされている。
問2 太平洋戦争の定義如何。
答 「太平洋戦争」という用語は、政府として定義して用いている用語ではない。
問3 大東亜戦争と太平洋戦争は同一の戦争か。
答 「太平洋戦争」という用語は政府として定義して用いている用語でもなく、お尋ねについてお答えすることは困難である》
続きは>>2-3
ソース(MSN産経ニュース):
URLリンク(sankei.jp.msn.com)