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日本のある作家が「イタリアの田舎の安食堂より日本のサイゼリヤの方が美味い」とツイート
しているのを読んだとき、イタリアの食もバカにされたものだと思った。
実はぼくはサイゼリヤで食事をしたことがなかった。イタリアから行ってなんでイタリア料理
チェーンレストランで食べなくちゃいけないんだ? だが何となく気になり、日本に滞在する
毎に1度は足を運ぶようにしてみた。女子高生たちのたまり場になっていることが多く、一瞬
ひるむが(?)、だんだんと別の面から「サイゼリヤは美味い」と思うようになった。
東京のパスタはミラノに比べ1.5倍から2倍高い。しかも盛りが小さめ。ミラノから出かけた
身には割高感が強い。だからといって、ミラノと同価格だと味で裏切られることが多い。
「ああ、だったら399円のサイゼリヤで十分だ」と思うのだ。
メニューを見ると生ハムやパスタなどイタリア料理の王道の皿が並んでいる一方、イタリア料理
ではないハンバーグや、イタリア人がみたら珍妙であろうミラノ風ドリアなど、かなりゴチャ
ゴチャだ。魚料理がなく値段が上がらない工夫がされている。
約千店舗を展開するサイゼリヤのコストパフォーマンスに感服しないわけにはいかない。こうして
サイゼリヤに興味をもったぼくは、同社に関する記事に注目するようになり、面白い一言に出会った。
サイゼリヤの会長が「フードサービスの場合、『手作りはおいしい』などと誤解している人が多い。
けれど手作りでやっている限り、絶対に良くならないんですよ」と経済誌のインタビューで話していた。
外食産業にある味や値段の機能的価値と手作りから得られる思いなどの情緒的価値の絡み合いを
指摘している。
量産品質に対する否定的な見解は偏見によることがままある。我々は化学調味料によって「美味しい」
と感じることを認めないわけにはいかない。農家が作ったワインを生産者を前に褒めるのにいかに
苦労することか。
イタリアの風光明媚な風景にある食と、東京のショッピングセンターにある食を比較するとき、
料理の出来だけでなく、味以外の要素も含めて「美味しかった」「まずかった」となってしまう。
だとしたら食も他の工業製品と同じように、一度は機能的価値に話しを落とし込む必要がある。
寿司は健康意識の向上が世界での普及を促した。中華料理はチャイナタウンをコアにしたように
人の広がりと並行している。米国のファーストフードは、時間の節約と便宜性のあるライフスタイル
が人々に受容されたと言える。食が合理的な説得なく文化圏を越えて広がるのは難しいのだ。
国を越えた食ビジネスの肝とは何だろう。(※続く)
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