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6月15日にフィリピン・マニラで開業したファーストリテイリングのユニクロ1号店。
2日前に現地で式典に臨んだ会長兼社長の柳井正(63)は、列席するグループ上席
執行役員、大笘直樹(52)に発破をかけた。「もっと早くフィリピン事業を大きくして
ほしい」
表向きの同国での出店計画は「3年で50店」。これでも十分意欲的だが、さらに上をいく
成長を求める。「そこそこの成功」では満足しない柳井のハードルはいつも高い。
需要が不振の日本。大笘は打開策として柳井にこんな提案をしたことがある。「既存店を
ひとつひとつ磨きましょう」。すると、柳井は即座に「それは意味がない。海外と同じように
日本も攻めて、新しいユニクロを見せよう」と言い放った。
意をくんだ大笘は国内戦略を再構築する。今年3月に誕生したユニクロ銀座店はまさに
攻めの象徴だ。12階まである店舗は世界最大。6カ国語対応で、保育士も常駐する新しい
発想のグローバル旗艦店に仕上げた。今秋には新宿にも大型店を出す。
■「泳げない者は沈めばいい」
「飽くなき急成長の追求」と「絶え間なき変革」。柳井のリーダーとしての原理原則は
この2点に集約できる。そして同じ行動を社員すべてに求め、必死で食らいついてくる者を
重用する。
大笘は2001年に中途入社し、今やアジアと日本の2大市場を担う側近中の側近に浮上した。
それは柳井の原理原則を理解し、忠実に実践してきたからだ。
逆に柳井は「守り」や「安定」を絶対に許さない。かつて好んで口にしていた言葉がある。
「泳げない者は沈めばいい」
象徴的なのが05年7月に発表した社長更迭劇。02年に社長職を譲った日本IBM出身の
玉塚元一(50、現ローソン副社長)を、わずか3年で更迭、自ら社長に返り咲いた。
失意の玉塚は会社を去った。
柳井が問うた責任は何だったのか。玉塚は空前の「フリースブーム」が去り、収益が急減
していたときに、社長に就いた。危機的な状況を立て直し、社長1期目の03年8月期に
業績を底打ちさせ、04年8月期に3期ぶりの増収増益を達成した。
だが、05年8月期の増収減益が柳井の逆鱗(げきりん)に触れた。柳井は自著でこう記す。
「革新的なことに挑戦した結果の『減益』ではないので、最悪だ。売上が反転し安定成長
志向という病にかかり、増収減益になったときこそ、会社の将来を決する最大の危機だと
悟った」
ファストリは成長エンジンとなる精緻なSPA(製造小売り)モデルや店舗自立型の運営
手法を1998年までに確立した。この大改革を柳井とともになし遂げたマネジメントチーム
の1人が玉塚。功労者の更迭を「非情」と捉える向きも多かったが、柳井の原理原則に
特例はなかった。
柳井は玉塚ではなく、97年に伊藤忠商事から転じ、わずか1年半で副社長まで上りつめた
沢田貴司(55、現リヴァンプ社長)を後継に指名したが、固辞された経緯がある。
「結局は柳井さんの会社。自分では思い通りに腕が振るえないと思った」。周囲にこう語り、
柳井のもとを去った沢田は今、改めて思う。「自分の力で再び成長軌道に乗せる自信が
なかった。怖かったんです」(※続く)
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