【観光】『矢切の渡し』、東京スカイツリー効果で再浮上への期待 [05/28]at BIZPLUS
【観光】『矢切の渡し』、東京スカイツリー効果で再浮上への期待 [05/28] - 暇つぶし2ch1:ライトスタッフ◎φ ★
12/05/28 12:54:39.31
■片道100円 絵になる5分

江戸時代から人々の足として親しまれてきた江戸川の「渡し船」。その数は40近く
存在したこともあったが、今も残るのはヒット曲でも知られる「矢切の渡し」だけ。
時代の流れとともに、浮き沈みを繰り返してきた渡し船だが、22日に開業した
東京スカイツリー(墨田区押上)にあやかり、再浮上への期待が高まっている。

ツリー開業を目前に控えた5月中旬、矢切の渡しを目指した。柴又帝釈天(題経寺)の
参道を抜けて江戸川へ。空高くそびえるツリーを仰ぎながら、堤防を歩いていくと、
小さな看板と、木の桟橋が見えてきた。

葛飾区柴又と千葉県松戸市のわずか約150メートルを船で結ぶ。運賃はたった100円。
船の定員は約30人だが、多い時は1日約1000人を運ぶという。

この日の船頭は、約30年の経験を持つ杉浦勉(55)。時刻表はなく、乗客が来れば、
いつでも出航する。頬をなでる風を感じながら、ツリーをぼんやり眺めているうちに、
5分で対岸に着いてしまった。杉浦はニッコリとこう語った。「東京にもこんな景色が
あったのかと喜んでくれるのがうれしいよね」

矢切の渡しといえば、伊藤左千夫の小説「野菊の墓」で、主人公の政夫と民子の悲しい
別れの舞台となったことでも有名だ。だが、その歴史はさらに古く、江戸時代初期にまで
さかのぼる。

当時は両岸に耕地を持つ農民の足。明治時代に入っても、住民にとって重要な交通手段
だったという。

だが、1889年(明治22年)開通の常磐線が、渡しの役割を次第に奪っていく。
さらに、明治期から各地に木製の橋が架けられるようになり、1960年代半ばまでに、
渡しはほとんどが姿を消した。

今日も残ったのは、矢切の渡しだけ。その理由を「葛飾区郷土と天文の博物館」の学芸員
橋本直子(57)は、「柴又が持つ『観光力』が大きかった」とみる。

柴又帝釈天は江戸の庶民の信仰を集め、周辺一帯は観光地として発達した。「渡し船は、
当時も柴又にやってくる江戸時代の観光客らが利用していたと考えられ、その伝統が今も
生きているのではないか」。橋本はそう分析する。(※続く)

●位置図
URLリンク(www.yomiuri.co.jp)

●巧みに船を操る船頭の杉浦勉さん
URLリンク(www.yomiuri.co.jp)

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