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この犯罪の修羅の騒ぎは、一九三七年十二月十三日に、この都市が占拠されたときに始まり、一九三八年
二月の初めまでやまなかった。この六、七週間の期聞において、何千という婦人が強姦され、十万以上の人
々が殺害され、無数の財産が盗まれたり、焼かれたりした。
これらの恐ろしい出来事が最高潮にあったときに、すなわち十二月十七日に、松井は同市に入城し、五日
ないし七日の間滞在した。自分自身の観察と幕僚の報告とによって、かれはどのようなことが起っていたかを
知っていたはずである。
憲兵隊と領事館員から、自分の軍隊の非行がある程度あったと聞いたことをかれは認めている。南京にお
ける日本の外交代表者に対して、これらの残虐行為に関する日々の報告が提出され、かれらはこれを東京
に報告した。
本裁判所は、何が起っていたかを松井が知っていたという充分な証拠があると認める。これらの恐ろしい出
来事を緩和するために、かれは何もしなかったか、何かしたにしても、効果のあることは何もしなかった。
同市の占領の前に、かれは自分の軍隊に対して、行動を厳正にせよという命令を確かに出し、その後さらに
同じ趣旨の命令を出した。現在わかっているように、またかれが知っていたはずであるように、これらの命令
はなんの効果もなかった。
かれのために、当時かれは病気であったということが申し立てられた。かれの病気は、かれの指揮下の作
戦行動を指導できないというほどのものでもなく、またこれらの残虐行為が起っている聞に、何回も同市を訪
問できないというほどのものでもなかった。
これらの出来事に対して責任を有する軍隊を、かれは指揮していた。これらの出来事をかれは知っていた。
かれは自分の軍隊を統制し、南京の不幸な市民を保護する義務をもっていたとともに、その権限をももってい
た。この義務の履行を怠ったことについて、かれは犯罪的責任があると認めなければならない。