10/08/07 13:52:51 U5z7JQ49
「父と死別し、再婚した母に連れられ忠清南道禮山にいた17歳の時、中国に行けば工場で働かなくてもお金を稼げる、
という近所のお姉さんの話を聞いて、1944(昭和19)年6月、故郷を離れ、ソウルや中国の天津を経て12月に
中国の漢口に着いた。着いてからどういう所か知ったが言葉も分からず、道も知らず、逃げ出すことなどできなかった。
そこには12棟ほどの慰安所があり、入り口には日本軍が使っていた建物が守っていた。言うことを聞かないと
平壌出身という主人夫婦に棒で殴られる者もいた…」
8カ月後、1945年の日本の敗戦で同僚の多くは韓国に戻ったが、彼女は中国にとどまった。
55年に子連れの中国人男性と結婚し中国で暮らしてきたが、2003年に民間団体の支援で帰国し韓国籍を復活した。
しかし頼れる者もなく、周囲の冷たい目もあって2年半後、中国に戻ったという。
彼女とのインタビューは現在の居住地である中国・武漢で行われている。
彼女はインタビューの最後でこう語っている。
「日本の民間団体も訪ねてきて日本の過ちを謝罪し、お金をくれようとしたが一切、断った。
いくらであろうが日本が公式に謝罪し法に従い補償するのなら受け取れるけれど…」
日本統治下の戦時中という時代背景の中で、韓国人の元慰安婦はこういう人生を経験した。
その不幸は同情と慰労に値するが、現在の日本が国家としてどこまでその責任を負うべきなのか、あらためて考えさせられる記事だ。
URLリンク(sankei.jp.msn.com)
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