16/06/14 06:23:30.27 5PouOqXl.net
「つまり、苦労や不平のたねは世間にあるのじゃなくて、おまえ
さんたち自分のなかにあるわけだ、それをとやこう云おうとは
思わない、人はそれぞれ分別もあり望みもある。誰も彼もおなじ
ように生きられるものじゃないから、…けれども、わたしはよく
こんなことを考えるよ」
老人は作り上げた風車を手に持って、ふうと吹き、くるくると
廻るのを楽しげに見やりながら続けた。
「…この風車というものは竹の親串と、軸と、留める豆粒と
紙車で出来ている。けれども、こうして風に当てて廻るのは
紙の車だけさ、人もこの廻るところしか見やしない、親串を
褒める者もなし、軸がいいとか、豆の粒がよく揃ったとか云う
者もない、つまり紙の車ひとつを廻すために、人の眼にもつか
ない物が三つもある。しかもこの三つの内どの一つが欠けても
風車には成らない、また串が紙車になりたがり、豆粒が軸に
なりたがりでは、てんでんばらばらで風車ひとつ満足に廻ら
なくなる。…世の中も同じようなものだ、身分の上下があり
職業にも善し悪しがある、けれどもなに一つ無くてよいものは
ないのさ、お奉行さまがいれば牢番も要る、米屋も桶屋も棒手
振りも紙屑拾いも、みんなそれぞれに必要な職だ。
私のように一文飴屋も、こうして暮らしてゆけるところを見ると
これでやっぱりなにかの役には立っているのだろう、みんなが
一文飴屋になっても困るが、みんなお奉行さまになってもまた
困る、…桶屋も百姓も日雇い人夫も、自分の職を精一杯やって
幾らかでも世の中のお役に立っているとすれば、その上の不平
や愚痴は贅沢というものだ、私はそう思っているがね…」
藤六はそこまで聞いて座を立った。かれの脳裏で一つの風車が
くるくると廻りつづけていた。…老人の言葉はごくありふれた
世間観である。かくべつ名言でもなく高邁な理屈でもない、それ
にもかかわらず藤六の頭の中では、くるくると一つの風車が
いつまでも廻っていて離れなかった。
作・山本○五郎 [足○奉公]より抜粋