26/04/02 04:43:59.25 BJGzw6TZ.net
「このたびは たすけ一条教えるも これも無い事はじめかけるで」 三号17
たすけるのは親神様です。
それだけを見つめますと「救済」と言う意味に感じ取れます。
「救済」→「救け済み」。つまり、済んでしまったとか、済ませてしまうという意味を含んでいます。
「泥海の中より守護を教えかけ それがだんだん盛んにるぞや」 三号16
「このたびは たすけ一条教えるも これも無い事はじめかけるで」 三号17
親神様が人間にたすけ一条を教えると言う行為は、「救済」でしょうか。
元にさかのぼって、親神様が泥海の中から教えかけたのは、「だんだん盛んになった」というのは、「救済」でしょうか。
元始まりにて、教えかけたのは「助け」であり、「救済」ではない。
これは、理解できると思います。
「神の助力で」「だんだん盛んになった人間」と言う意味です。
すると、
「このたびは たすけ一条教えるも これも無い事はじめかけるで」 三号17
と、「も」「も」と、なっていて、
「このたびは たすけ一条教えるガ」ではない。
「これハ 無い事はじめかけるで」ではない。
泥海からの元始まりと、天理教の立教の元始まりも、
同じ「元の理」ですから、
つまり、「救済」という意味での「救け」ではなく、「助け」と、私は理解する。
51:基本。
26/04/02 04:45:17.95 BJGzw6TZ.net
おやさまは、流産してしまいます。
流産が、大事に至らなかったというのは、「救け一条」でしょうか。
流産が、大事に至らなかったというのは、「助け一条」でしょうか。
助産婦さんのやることを、神様が手助けしてくれた。
つまり「助産」なのであり、「救産」ではない。
このように、天理とは、厳密なものです。
52:基本。
26/04/02 04:46:02.72 BJGzw6TZ.net
りやく=神、でなく、りやく=神の存在を納得させるもの、神の一面
という理解でよろしいでしょうか
おやさまは、「神は理である」と教えられています。
これは、教理の基本です。
そして、おやさまは「りやく」と語られているわけです。
聞いた、神官守屋は「利益」と聞いた。
そして、高弟たちは「利益」と伝承した。
おやさまは「ごりやく」と語られていないから、「りやく」という言葉だったとして伝承されています。
「ごりやく」ならば、「ご利益」と感じをあてられます。
「理は神である」
そしたら「りやく」が神の姿というのですから、「理やく」と文字をあてた方が、理が通ります。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
元の理には、「上から突くにより、つき様」とか、こう言うおやさまの語呂の用い方が、なされています。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
すると、「ごりやく」ではなく、「りやく」なのですから、
「理・やく」、「理役」と、このように、漢字を当てる事も出来ます。
それは、親神様はお一人であるのに、十の柱に、「道具の役」として、分けて教えられた「こふき話」にならえば、
「神様のご守護の理・神様の役」が、「理役」、つまり「りやくだと、そういう基本に到達します。
すると、
> りやく=神、でなく、りやく=神の存在を納得させるもの、神の一面
と、言う理解も、それに当てはまりますが、
このりやくは、何の神様の何のご守護と、そういう「理」の役割、機能を見ることで、神が見えるのだと、そういう意味に、なります。
・・・・・・・・・・・・・
曖昧な物ではなく、十全の守護の理の何々と、理を役割として分けて、「りやく」が見える。
そしたら、「神様」の姿として、納得できるわけです。
「ご利益」とは「神の理の益」とは、「何々の守護の理の益」と、わかることで、髪の姿が見えるという事に、基本的には理解します。
53:基本。
26/04/02 04:47:27.47 BJGzw6TZ.net
原典に参照しますと、お筆先二号に、「よろづたすけの模様」について、
きちんと親神様は、理を知らされています。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
「世界中 どこが悪しきや 痛みしょ 神の道教せ 手引き知らすに」 二号22
「この世に 病と言うて 無いほどに 身の内障り 皆思案せよ」 二号23
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
病魔というのは、神からの「みちおせ」「てびき」「しらす」に。
それを、
あると信じて、願うまことに、見えてくる「りやく」が神のすがた。
こういう、基本を示しているお筆先です。
直近の実例ですが、ある方が末期のがんの方に、病の理をおさとしした。
それで、持ち返した。
それから、熱心に信心をしていたら、再度悪くなった。
そこで、質問させて頂いたのは、
「おやさまは「ひとことまでで皆たすけるで」と、教えられています。
最初の、「身の障り」について、何をお諭ししたのですか」
「○○の理の病であったので、○○すると心定めでした。」
「それから跡に、信仰的によさそうな事、させたでしょう」
「そうでした」
「それは、だめです。おやさまは、一言までて皆たすけるでと、教えです。」
「そうでした」
「最初の、身の知らせ、一言、ひとつの事だけです。」
・・・
神様の殻の、身の知らせ、たった一つの事だけで、その理でお助けする。
そしたら、神の理が、助ける側も助かる側も、きちんと分かる。
ごちゃごちゃと、よさそうなことを色々させると、肝心の神の「理」の役割が燃えなくなります。
54:基本。
26/04/02 04:48:19.14 BJGzw6TZ.net
> 昭和33年に初版の、深谷忠政著「教理研究 元の理」が発行されている。
元の理は、かみの「りやく」=姿を知るための基本ですが、
それが、教団教義では歪んで解かれています。
その事は、関連スレとして、2ちゃんに述べてありますが、関連を、一部引用します。
深谷忠政著「教理研究」元の理 その批判。
スレリンク(psy板:1-100番)
> そのはしがきには、このように記されている。
頁1、「天理教教典が出た時、"第三章元の理が無ければ、未信者にそのまま読んで貰っても、まとまっていて大変匂いがけに都合が良いのですが、あれがある為に、一般の人にそのまま教典をお渡しするわけにいかなくなる"という声を何度か聞いたことがあった。」
「現在でも同様の思いをしておられる方が多いのではないかと思う。」
「元の理は新しい別席のお話台本にも出てくるし、これを表に出す以上、何等か解明の手がかりがあたえられなければならぬと考えたものの、それは極めて困難なことであることを自覚せぬわけではない。」
・・・・・・・・・・・・・・
教団インテリは、病と理との基本を諭さないで、「つとめの人衆」の魂の因縁論を語ることで、ごまかしたということですが、
第三章元の理が、布教の基本、よろづ助けの模様であるのです。
元の理。
それは、甘露は、絶えずに降りているという、おやさまのお優しさへの、安心です。
55:基本。
26/04/02 04:49:09.17 BJGzw6TZ.net
やまと言葉と言うものは、もともとは「やまとの国」の言葉。
つまり、関西弁です。
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
大和言葉(やまとことば)あるいは和語(わご)は日本語の語種(単語の出自)の一つであり、漢語・外来語に対して元々日本で使われてきた固有語のことである。
「やまとことば」は「倭詞」や「和詞」と表記することもあり、「やまとことのは」ともいう。漢字の訓読みは漢字の意味に対応する大和言葉である。
・・・・・・・・・・
お筆先は「和歌」です。「和語」(やまとことば)で書かれています。
56:基本。
26/04/02 04:50:26.55 BJGzw6TZ.net
「甘露」についての教理の誤解というものについては、「信仰の信仰に応じて見えてくる」と言う事と、「神様からの与え」というものの、相違点について、誤解があるということです。
リラックマンさんのご紹介の資料に、増野鼓雪全集の中の、次の一文があります。
#comment
其の頃御教祖は、信仰の進んだ者には、扇の伺いと云うのを御許しになって居りました。扇の伺いとはどういうのであるかと申しますると、教祖から頂いた扇をもって伺うたら、神様の御心が分ったのであります。御神楽歌に「こゝ迄信心してからは一つのこうを見にゃならぬ、十ど此の度見えました扇の伺い是不思議」とあるは この扇の伺いの事であります。聞く所に依りますと扇の伺いを貰われた或方が、天気の好い日に足駄(※2)をはいて、雨傘を持ってお地場へ来られる。すると近村の人々が大変笑ったが、帰られる時には丁度雨が降って来て、雨傘と足駄が間に合うようになる。それを見て近村の人は不思議がったと云う話が、今でも残って居るのであります。
此の点から考えますると、信仰とは病気を助けて貰うとか、安心を得るとか云うのが最終の目的ではなく、神意の悟得(※3)が其の目的でなければならん様になって来ます。
即ち安心や病気の助かるのは、此の神意の悟得が出来たら、なんでもなく出来る筈であります。此の点に於て、本教の信仰の目的は明らかなものだと云えるのであります。
・・・・・・・・・・・・・・・・
「信仰の進んだ者」には「扇の伺い」を与えられたというのは、大きな誤解であったと、理解しなければならない。
それが、今日的な過大だと思います。
御本席も始め此の扇の伺いを教祖から頂かれたのであります。そしてその扇の伺いを使われた事で今日まで語り伝えられて居るのは、勤場所を建築される時、教祖が御本席に蔵へ這入(はい)って伺えと仰せになった。其の時御本席が蔵の中で扇で伺われると、我知らず蔵の中をかけ廻られた。そして其の事を御教祖に申し上げられたら、教祖は、それは蔵を取り払えと云う事やと仰せになった。それで蔵を取り払うて勤場所を建てられたと云うのであって、これが御本席の扇の伺いを立てられた始めであるようであります。(つづく)
57:基本。
26/04/02 04:51:18.40 BJGzw6TZ.net
> 其の頃御教祖は、信仰の進んだ者には、扇の伺いと云うのを御許しになって居りました。
この、↑増野鼓雪先生の解説は、すべてが天理の事実と一致するとはならないわけです。
三十年も苦労したという結果に渡しているのではない、元冶元年ころ入信したての人に渡してしまわれているのですから、「渡す時期というものは、本人が求めたら」という事での時期も有るということです。
渡し方にもさまざまあり、おさづけの例で言えば、「小児」に渡した史実もある。
「信仰の進んだものには」という解説は、とても危険な解説だったということに、やがて、なります。
58:基本。
26/04/02 04:52:29.79 BJGzw6TZ.net
> 聞く所に依りますと扇の伺いを貰われた或方が、天気の好い日に足駄(※2)をはいて、雨傘を持ってお地場へ来られる。
> すると近村の人々が大変笑ったが、帰られる時には丁度雨が降って来て、雨傘と足駄が間に合うようになる。それを見て近村の人は不思議がったと云う話が、今でも残って居るのであります。
この史実で判るのは、「天気予報代わりに扇の伺いをしていた・怪しげな信仰者が居た」という、事実です。
「扇の伺いというものは、そういうことのためにあるのでしょうか。
笑い話ではない、現実があるということです。
けれど、視点を変えてみますと、「雨降るか降らないか」が事前にわかるというのは、便利なものです。
入る前に、そのお店は美味なのか不味いのか判るということも、便利なものです。
私など、ずいぶんそれで、当たりのお店にて外食しましたから、とても、批判する立場に離れないのですが、「左善右悪」の理の、身の知らせで、その程度は出来てしまう。
「扇の伺い」とは、そんな、天気予報を当てたり、うまい店を当てたりに、使うものでしょうか。
本来は、そうではないが、成人の過程というものでは、まず先に、「扇」を渡すと言う意味が、そこにあるということです。
だから、「甘露」はいつも、降っているという事に、相違ありません。
59:基本。
26/04/02 04:53:31.81 BJGzw6TZ.net
聞く所に依りますと扇の伺いを貰われた或方が、天気の好い日に足駄(※2)をはいて、雨傘を持ってお地場へ来られる。すると近村の人々が大変笑ったが、帰られる時には丁度雨が降って来て、雨傘と足駄が間に合うようになる。それを見て近村の人は不思議がったと云う話が、今でも残って居るのであります。
此の点から考えますると、信仰とは病気を助けて貰うとか、安心を得るとか云うのが最終の目的ではなく、神意の悟得(※3)が其の目的でなければならん様になって来ます。即ち安心や病気の助かるのは、此の神意の悟得が出来たら、なんでもなく出来る筈であります。此の点に於て、本教の信仰の目的は明らかなものだと云えるのであります。
御本席も始め此の扇の伺いを教祖から頂かれたのであります。そしてその扇の伺いを使われた事で今日まで語り伝えられて居るのは、勤場所を建築される時、教祖が御本席に蔵へ這入(はい)って伺えと仰せになった。其の時御本席が蔵の中で扇で伺われると、我知らず蔵の中をかけ廻られた。そして其の事を御教祖に申し上げられたら、教祖は、それは蔵を取り払えと云う事やと仰せになった。それで蔵を取り払うて勤場所を建てられたと云うのであって、これが御本席の扇の伺いを立てられた始めであるようであります。
・・・・・・・・・・・・・
御神楽歌六下り目を、解説されてのものですが、信仰の目的は「病をせぬことと、死なない事と弱らないこと、美人で居ることと若くあること」だと、基本は、そうだと思います。
それには、「神意」を分かる事ではなく、「元の理」をわかることが大切です。
神意が分かる事を、信仰の目的にして、美味な店をわかる事に教理を用いるとしたら、本末転倒ですが、それすらも分からないようでは、世界の普請は出来ないという意味で、「扇」を持たせてくださって、理の活用を経験、悪用をせずに成人していくことで、「効能」が見えるというのは、原典に知らされた所です。
60:基本。
26/04/02 04:54:39.15 BJGzw6TZ.net
御本席も始め此の扇の伺いを教祖から頂かれたのであります。
そしてその扇の伺いを使われた事で今日まで語り伝えられて居るのは、
勤場所を建築される時、教祖が御本席に蔵へ這入(はい)って伺えと仰せになった。
其の時御本席が蔵の中で扇で伺われると、我知らず蔵の中をかけ廻られた。
そして其の事を御教祖に申し上げられたら、教祖は、それは蔵を取り払えと云う事やと仰せになった。
それで蔵を取り払うて勤場所を建てられたと云うのであって、これが御本席の扇の伺いを立てられた始めであるようであります。
・・・・・・・・・・・・・・・・
普通の天理教徒さん。
話の核心は、鼓雪先生が伝えている所の、この引用部分にあります。
本席様は、扇の伺いを「教祖の御命で」伺っています。
本席様は、扇の伺いの結果について、「教祖に」伺っています。
扇のさづけを頂かれていても、それを自分で解釈したり、自分勝手に用いているのではない。
その、「元の理」。「をやという理」に効能という理が有るということです。
61:基本。
26/04/02 04:55:29.10 BJGzw6TZ.net
「扇」を持つと言うことは、普通の天理教徒さんの立場で言えば、おさづけの理を頂くということだと、あなたが言われていますよね。
そしたら、おさづけというものは何に使うかといえば、病助けですから、「たすけ一条」の道具ですから、おたすけに用いるもの。
おやさまのお言葉ですが、二つの内容を含んでいますよね。
ひとつは、これです。
「世界の事は何も心にかけず、世界の事は何知らいでもよい。」
もうひとつは、これです。
「道は、辛抱と苦労やで。」
「世界の事は何も心にかけない」「世界の事は何も知らない」なんて、とても簡単なことですよね。
政治のことも経済のことも、何も心にかけなくていいのですから、まさに、ノー天気そのもの。
それに対して、「道は苦労と辛抱やで」これはどういう意味かといえば、重荷だという感じです。
さて、この、二つは、どのように二つ一つなのかという問題です。
じつに、この二つは、一つなのです。
62:基本。
26/04/02 04:56:27.85 BJGzw6TZ.net
> おやさまのお言葉には、
> 「あんたは、これからおたすけを一条に勤めるのやで。世界の事は何も心にかけず、世界の事は何知らいでもよい。道は、辛抱と苦労やで。」
> と、お聞かせ下された。
つまり、「たすけ一条」をつとめる道としては、「苦労と辛抱」で、難儀不自由したり、人から悪く言われたりして、「成人」していくということですよ。
そして、「世界の事は何も知らなくても、心にかけなくても、皆世界の胸の内が映るようになっていく、そういうことが、その成人の過程が、
道を通るものの、当然の苦労です。
そうじゃないんですか。
そうでしょ、基本さん。
と、言いたいのを、じっと辛抱している。
そうですね。普通の天理教徒さん。
お察しのとおりです。
「道は辛抱と苦労やで」と言うのは、これから「成人していく」と言う苦労ではない。
おたすけの効能の理を頂いてしまった者の、「成人してからの」道の、苦労ということ、辛抱ということではないかと、
うすうす感づかれているのでしょう。
「あんたは、これからおたすけを一条に勤めるのやで。」
おやさまから、お助け人として、成人免許を与えられたという、そういうお言葉です。
そして、
「世界の事は何も心にかけず、世界の事は何知らいでもよい」
だって、この人には、それだけの「理」が許されている。
そしたら、「道は、辛抱と苦労やで。」
とは、成人を目指すものではないと、冷静に思案したら、わかる事です。
63:基本。
26/04/02 04:57:18.70 BJGzw6TZ.net
依頼人がいれば、「頼まれて扇を使う」のは、神様の道具として、当然の事です。
そこで、「世界のことに無知で、何にも心にかけない」とは、「あほう」という言葉が、自然に付きまとうでしょう。
人間が成人すると言うことは、あほうになるという事だと、そんな表現がされたりしました。
でも<<
まじめで正直であるとか、世間に無知であるとか言う、それが「天理に精通した」姿として、語られる場合には、「皆世界の胸のうち」を、映る、大前提としている。
そんな風に、思案するのが、基本です。
64:基本。
26/04/02 04:58:08.87 BJGzw6TZ.net
「夜昼の理」。
こんな風に、おさしづでは示されていますが、おやさまは、「夜に」道を始められました。
そして、「昼に」扉を開かれました。
これが、基本としての、「夜・昼」の理です。
九つ、九、この世とは「苦の世」。
夜の理と言われるのは、立教前の世界のことです。
「裏守護」の時代とも言われるものです。
それに対して、「立教」とは、「神が表に現れた」、つまり、「昼に」なったと言うことです。
そこで、今が夜と考えるのか、昼と考えるのか、
夜というのは、「おやさま」不在、昼と言うのは、「おやさま存命」。
この違いを、基本として、思案します。
65:基本。
26/04/02 04:59:06.89 BJGzw6TZ.net
天理教教典第三章、「元の理」には、「この間、九億九万年は水中の住居、六千年は知恵の仕込み、三千九百九十九年は文字の仕込みと仰せられる 。」と、あります。
「六千年は知恵の仕込み、三千九百九十九年は文字の仕込み」と、ありますから、立教直前は、「文字を」、その前は「知恵」を仕込んでおられたわけです。
すると、これは、「仕込み」の最中ですから、「心の成人」が至らないと言うも何も、
まだ、「知恵」から「文字」を、教えていた最中ですから、
「何も知らぬが無理でないぞや」
なのです。
66:基本。
26/04/02 05:00:08.68 BJGzw6TZ.net
> このスレで自分の発言したことに、現状の民主の状況を踏まえた発言をしてみろや。
<現状の民主の状況。?
選挙前も、今も、それほど民主党の状況は、変化していないと思います。
この話題、ご意見ありの本スレにて語ってくれませんか。
そちらにて、議論しましょう。
「夜の理」が、日本を敗戦にまで、続いていたと言うこと。
そういう話題でなら、当スレの話題と言うことになります。
「夜」なのか「昼」なのか。
で、判断する。そういう基本を語っています。
67:ラピスラズリーKoD KoA
26/04/02 06:08:13.83 L3R+uigE.net
🇯🇵あげ
68:神も仏も名無しさん
26/04/02 10:29:55.96 /vC4Idd9.net
11.73
.
ラピスラズリー
チンコ小さすぎて
ほぼマンコ
ラピスラズリー
チンコ小さすぎて
ほぼマンコ
とはいえ、
宗教オタクに
チンコは不要です
ラピスラズリー
チンコ小さすぎて
ほぼマンコ
.
69:神も仏も名無しさん
26/04/02 17:50:38.63 Ty+BOb7F.net
内田有紀50歳
西川きよし80歳
浜村淳90歳
木村拓哉53歳
70:神も仏も名無しさん
26/04/02 20:16:59.49 rNGdozIv.net
>>69
く
だ
ら
ね
え
く
だ
ら
ね
え
つ
ま
ら
ん
ぞ
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