ぼくがかんがえるさいきょうの宗教at PSY
ぼくがかんがえるさいきょうの宗教 - 暇つぶし2ch1:神も仏も名無しさん
25/11/03 11:57:29.96 SGra5//I.net
至って真面目に考えた。(きりっ)
まぁ、まだ設立してもいないけど(しょんぼり)

協調教:前文
 我々人類は、「絶対的な正しさ」や「唯一の真理」を主張する排除の論理のもと、歴史上、幾多の不要な争いと悲劇を生み出してきました。これらは、硬直した思考と権力の腐敗が、いかに人類の共存を脅かすかを示す、消すことのできない反省の記録です。
 その厳粛な反省の精神に立ち、そして二度と争いの連鎖を生み出さない、協調に満ちた社会を築くため、我が「協調教」は設立されました。
 本教団は、教団そのものの存続や特定の教義の絶対化を目的とはせず、「排除よりも協調」という普遍的な倫理規範を、人類の共通財産とすることを使命とします。我々は、自己の信念への健全な疑念と他者への深い共感こそが、真の平和と持続可能な共同体を築く唯一の道であることを、ここに宣言します。
 なお、我々は空飛ぶスパゲッティ・モンスター教(FSM教)徒であることを望むが、それを他者に強要することは決してない。むしろ、その存在が「宗教とは何か?」を問い直す契機となることを、我々は深く歓迎する。

2:神も仏も名無しさん
25/11/03 12:00:54.28 CjmQRfPT.net
>1

協調教:教義(六カ条)

第一条:腐敗はするものと考え、教祖であろうが疑うこと
 教祖を含むすべての指導者層は、腐敗はするものと考え、その言動は常に信徒の健全な疑念と批判の対象としなければならない。教団は、権威の絶対化を防ぐための制度的かつ倫理的な防衛機構を維持する義務を負う。

第二条:自分がされて嫌な事を他人にしない(普遍的倫理の遵守)
 信徒は、「自分がされて嫌なこと、または負担となることを、他者に対して行わない」という普遍的な倫理を、すべての思想、行動、共同体運営の基盤とする。この倫理は、不寛容な強制、暴力、中傷、差別の排除を意味し、自発的な協調と共感の実践を促す。

第三条:「思い込み・バイアス・硬直化こそが排除を生む」という大原則に基づき、教義を恒常的に見直す
「思い込み・バイアス・硬直化こそが排除を生む」という大原則に基づき、本教団の教義は、「排除よりも協調」の根本精神に反し、現実の平和と調和を妨げると判断された場合、常に柔軟に見直すものとする。教義の改変は、教団の最高目的の増進を目的とし、そのプロセスは完全に公開され、権力の恣意的な行使を厳しく禁止する。

3:神も仏も名無しさん
25/11/03 12:01:48.70 CjmQRfPT.net
>2
第四条:協調の精神に基づいた健全な対話と批判の奨励
 本教団は、「どんなに素晴らしい理念であっても、情報環境の硬直化(エコーチェンバー)が進む限りにおいて排除の論理がはびこる」という大原則を深く認識する。協調は、一切の対立や異論を無視することを意味しない。ゆえに、教団は、第二条に反しない限り、教団内部および外部の多様な意見や健全な批判を、教団の成長と協調の深化のために不可欠な要素として奨励する。

第五条:普遍的倫理の確立と世界標準への貢献の義務(最終目的)
 本教団の最終目的は、「排除よりも協調」という概念に基づく倫理規範を、世界の道徳・倫理の教科書に、そして普遍的な行動標準として定着させることに貢献することを目指す。これは、いかなる強要も排除も伴わず、その論理的優位性と実用性によって、各国、各文化、各宗教の自発的な採用を促すことを唯一の手段とする。

第六条:教団の目的達成と解散の義務(究極の非排他性)
 第五条(普遍的倫理の確立と世界標準への貢献)が、最高意思決定機関によって達成されたと判断された場合、本教団は即時に解散するものとする。これは、教団の存続を目的としないという創設の理念を貫き、目的達成後の硬直化と腐敗を防ぐための最終かつ絶対の義務である。

4:神も仏も名無しさん
25/11/04 23:59:25.11 odBMj/t5.net
協調の対義語として、対立や排他などがあるようだけど、人間は協調もするけど対立や排他などもするという、人間のありのままを受容することから始めた方が良いようにも思います

人間は対立も排他もするから協調を目指そうという「協調教」もそれっぽくて良いけど、対立も排他も協調も人間のありのままだとする「ありのままの受容教」も突き詰めれば、それこそが対立も排他も協調も内包し解決する、そして人間が自然と良い方向へ向かえる、いい宗教の教義かもなと思いました

5:神も仏も名無しさん
25/11/05 02:02:03.53 gVugJMck.net
ただ、常にありのままを受容できるかと言えば、やはり人間ですので、無理はあるかもしれません

私が日常的に実践している「悲しみのケア」ですと、自己に山積している全ての悲しみのケアができ、心が健全に回復された状態で生きていくことが出来ると感じています

その方法は、

全ての記憶、現在、未来の全ての自己における全ての心情を認め許し愛する

というものです

人によっては大変な作業になりますし、やることは自己における全ての悲しみのケアなので、宗教と言うよりは、心理的なケアのカテゴリーになるかと思います

6:神も仏も名無しさん
25/11/05 02:33:50.62 gVugJMck.net
人間は悲しみがあるから対立し、排他するとも言えるかもしれません

では、人間の全ての悲しみがケアされたらどうなるか……??

私は人間の全ての悲しみのケアに希望の光を見出だし、研究や実践を重ねてきた次第です

7:>1
25/11/06 00:58:48.37 R6odmZNE.net
>4
ご意見ありがとうございます。人間性の「ありのままの受容」を土台とする「受容教」の哲学は、大変重要で心に響く出発点です。人間は対立も排他もするという真実を受け入れることは、倫理を語る上で欠かせません。

しかし、その「受容」が、「対立や暴力も仕方がない」という倫理的行動の放棄や、現状維持の肯定、ひいては無関心による排除に繋がるリスクはないでしょうか?

そこで「協調教」は、「受容教」の哲学的な土台の上に成り立つ実践的なシステムとして機能します。「協調教」の条文は、「全ての人間は腐敗や硬直化というリスクを内包している」と受容した上で、だからこそそのリスクに対抗するための**具体的な防衛機構(自浄作用)**を設けよう、というものです。

私たちは、人間のありのままを受容しつつ、その**「排除の衝動」を論理的に制御し続ける**システムが必要だと考えます。この二つの概念は、対立するものではなく、相互に補完し合う関係にあるのではないでしょうか。

8:神も仏も名無しさん
25/11/07 07:11:53.50 ry9ZMFq/.net
>>7
そこまでは考えが及びませんでした
しかしながら、人間が対立も排他もするものだと受容することはあっても、人間の対立や暴力も仕方がないと諦めることでは、決してありません

受容教は、とにかく人間の全てを受容する教団であり、人間の全てを受容することは可能であるとする教団です

人間の全てが受容されれば、対立や排他、協調も受容されているので、何も問題はないということになります

ただ、暴力とかになると…というのはやはりあるので、やはり人間の全てを受容することは不可能なのかなと思っています

人間の嫌なところや悪いところの拡大を未然に防ぐということにおいても、協調教は合格していると思います

ただ、全人類誰もが協調のひとすじに向かって歩んでいけるかと言えば、かなり怪しいところではあります

人間のさがとして、協調と相反するものも必ずありますので

そういう人間のさがと、どう対峙するか、ということでしょうか

9:おてんば私立学院総長
25/12/19 23:40:09.92 6if6tRML.net
>>1
とりあえずの安直な答えとしては
地球人類をして「宇宙の社会人」と成っていける方向に導ける宗教であってこそ「さいきょうの宗教」としての必須アイテム。

この「さいきょうの宗教」、現時点では1つも存在してはいないものの、これに非常に近い宗教ならば世界には幾つか存在していそう。

一例としては光明思想系でもある「聖白色同胞団(または白色寺院同胞団)」という、M・ドーリルなる人物の立ち上げた団体なんかが。

10:神も仏も名無しさん
25/12/20 14:44:11.64 0trEMgNU.net
さいきょうの宗教というか、さいきょうの生き方として、

1人1人の人類は完璧じゃなくても、1人1人の人類が秘めている無限の可能性から、1人1人の人類が描く無限大の夢を叶えよう

という生きかたを、理解し受け入れ実践すると良いんじゃないかと思う

受容や協調に若干でも無理があるのは、1人1人の人類が完璧じゃないからだし、この生きかたを全人類が実践することで、平和で幸福に満ちた世の中になるのではないか、と思っている

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