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blog『一顆明珠』
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『ボーディダルマ』和尚 (著), スワミ・アナンド ソパン (翻訳)
– 1994/5 めるくまーる刊
-第十二話、P390
ゆえに如来(タターガタ)の言葉は沈黙に依らず、その沈黙は言葉に依らない。
「タターガタ」は仏陀のもうひとつの名前、あるいは、ものごとの<あるがまま>に目覚めた者の名前だ。
ゆえに如来(タターガタ)の言葉は沈黙に依らず、その沈黙は言葉に依らない。
また言葉は沈黙から離れない。言葉と沈黙の双方を悟る者は三昧にある。
くり返そう―言葉と沈黙の双方を悟る者は三昧にある。
なぜなら、サマーディは発語と静寂のあいだの均衡だからだ。
それはまさに中間、静寂と発語が出会うところ、静寂と音が出会うところだ。
まさにその中間は両者を超えている。それはただの静寂、すなわち雑音のない虚ろな状態とは違うし、ただの話すこと、おしゃべりや騒音に満ちあふれた状態とも違う。
それは両者を超えている。それは歌をともなった静寂だが、その歌には音がない。それは音楽をともなった静寂だが、その音楽は楽器によってつくり出されたものではなく、あなたのまさに本性としての音楽だ。