21/09/18 21:41:38.89 vitpHdkQ.net
ホイ!もう一度読んで
0422 神も仏も名無しさん 2021/09/18 19:49:46
>>378 神も仏も名無しさん 2021/09/18 18:13:43
>>坐っていて、自分が失せる、とか言うんだけど、見ていたら失せるはずはないんだよ。。
ロンは禅でなくて、禅の元であるヨガの『集中』『一体』『滅尽』という流れを学んだ方がいい
ソコからもう一度坐禅に戻って来れば、今より良く分かるようになるよ
>>見ていたら失せるはずはないんだよ。。
だから、菩提達磨と梁の武帝の逸話のように、座り切って見切れば、心の対象としての、語の連続は消えて、心と思っていた、自己の思考・思いが、実は自分では無かったと分かるんでしょ
だから、【見ていたら失せるはずはないんだよ。。】これは
【観照】ということを理解しないと分からない、ロンの言ってる【見ている】は
『思考・思い』と見ている自己との【自己同一化】のこと
先ずは、思いと自己同一化している、心を、観照(心と対象を分離して眺める行為)することで、【思考・思い】は自分の心では無かったと了解する
次に、了解せられた心が、対象(物や思い)から離れると、次第に自然と心は対象を離れる、すると心というエネルギーを失った【思考・思いの機能】は自然に停止の方向性に向かい、ついには消えてしまう、と言うことが起こる
更に、対象を失った、心は、ますます【心自身(この場合無内容となった心)】に統一される、これを九次第禅定では【心一境性】と言い、四禅定において唯一最後まで残る、この統一され清浄とされた心が無心であり、更に滅尽定へ向かう土台になっている
チベット密教のゾクチェンでは、この無心を明知(リクパ)と言い正にリクパは【土台】と言っている
この明智、明るい智慧、対象を明るく浮かび上がらせる、光源とも言える、
心(本性ー見性によって悟られる)を悟るのが、第四禅定に於ける、第一の悟りであって、
ここは【止観】の止が完成した処、更にこの心とされ、悟られた本性をも、滅尽せられたのが【滅受想定(滅尽定)】とされ、ここを持って涅槃(ニルバーナ)とし、第二の、最後の覚りであるとパーリー仏典に記されている。