坐禅と動中の工夫22at PSY
坐禅と動中の工夫22 - 暇つぶし2ch415:神も仏も名無しさん
21/09/08 23:38:37.47 YlOMSEsK.net
白鳥:  ということは、そういう考え方をすること自体が、いわば妄想みたいなものなんですかね。
 
原田:  そういうことを、自意識と自我。いわゆる仏教で言う「我(が)」とこう言っているわけです。「我」の働きですね。それも「無明」という、これは生まれながらにして、そういう仏になっておるという人は一人もありませんですね。先ほどの「みんな仏さん」という話と大変矛盾をお感じになると思いますけれども、無明というその過程を経なければ、そしてその無明をあきらめなければ、ほんとに自分は仏であったとか、悟った人だ、ということはわからないんです。
 
白鳥:  人は生まれながらに仏性―仏の性というものを受けているんだけれども、しかし人間として生まれてしまうと、無明、まさに無明の状態に入っている。
 
原田:  たとえば、今では塩は塩化ナトリウムと言いますでしょう。しかし化学製品になりましたけども、昔は海の水を汲んで塩田で撒いて、そして塩を作ったものです。ですから辛いものだから塩水を持って来て、お料理にすればいいじゃないかって言っても、そういうことはできません。ですから必ず手数を掛けて一遍塩にして、そしてお料理に使う。やはりその手続きを経ませんと塩にならない、仏にならないわけですよ、人間も。
 
白鳥:  塩になる本質は、人は持っているんだけども、まだみんな塩水のまんまだと、こういうことなんでございますね。
 
原田:  そうですね。勿論塩水のままで使えないことはないけども、限定されますね。塩水だけですと。
 
白鳥:  まあそうでしょうね。
 
原田:  ですから、どうしても塩に仕立てていかなければならない。それを禅の方では、仕立てるまでのプロセス―過程を「修行」と言っております。塩になった時を、修行が成就した時、即ち「解脱をした」とか、「悟りを得た」とかというふうに言っておるわけでございます。
 
白鳥:  塩田に撒き、それを煮詰めた。その過程が坐禅ということになるわけですか。
 
原田:  そうですね。坐禅というのは坐ることばかりではありません。自分とものとの距離を如



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