唯識を学ぶスレッドat PSY
唯識を学ぶスレッド - 暇つぶし2ch779:神も仏も名無しさん
20/12/01 07:40:34.79 z7N8W3sa.net
>>778
5chにおいてドヤ顔で唯識を語る鹿野園さんは、唯識を理解していません。
唯識が難解だからです。
また彼の唯識は江戸時代には没落した法相唯識の系統で、しかも
その中心となる『成唯識論』を直接読まず、その解説本を誤読されています。
そこで我々は、新唯識の『成唯識論』も竹村牧男 「『成唯識論』を読む」
春秋社7500円+税 (新・興福寺仏教文化講座7)で確認しながらも、主に
古唯識の世親の『唯識三十偈』を
廣澤隆之 「『唯識三十頌』を読む」 TU選書1900円+税より読みます。
漢訳玄奘訳の漢文を眺めつつ安慧釈のサンスクリット本文を読み解きます。
簡単な詩なので、意味を安慧釈と『成唯識論』とも時に参照しつつ読みます。
です。
つまり我々は、ここで、本来の世親の古唯識を読むことで、
唯識の基本を理解しようとしています。

780:神も仏も名無しさん
20/12/01 07:43:26.30 z7N8W3sa.net
鹿野園さんがなぜここを荒らすのかというと、
ここのテーマである『唯識三十頌』の一文づつを学ぶ能力がないからです。
可哀想な方なので、慈悲の心で接してあげてくだい。

781:神も仏も名無しさん
20/12/01 07:57:49.76 z7N8W3sa.net
>>765
■chandAdhimokSa-smRtayaH
・chanda欲…欲求・意向と訳される。廣澤氏は貪欲とは違い、佛の教えに触れて
       修行しようとする欲求と説明されている
・adhimokSa勝解…確信、確認と訳される。
・smRti念…記憶、思い続けることと訳される。
■samAdhi-dhIbhyAM
・samAdhi定…専念、精神統一、三昧/精神集中と訳される
・dhi(prajNA)慧…知恵、叡智、英知と訳される

782:鹿野園
20/12/01 09:44:11.56 ZoRRxJ1+.net
無覆か有覆かは、仏道成就の妨げになるか否かが準拠になるのだと思いますけどね。
末那識は意識に直接働き掛けずとも、阿頼耶識を通して間接的にその有する四煩悩が影響するから有覆だと思うんです。

783:鹿野園
20/12/01 09:52:07.21 ZoRRxJ1+.net
wwww
吹いたぞ、ハゲw
このスレで唯識三十頌の解題が正しい方向でされてるかどうか、なるべく口を出さない積もりではいるけど、これはちょっとおかしくないか?って事を指摘して確かにその通りだったよな?
そうした指摘に怯えてるから、聞かれもしない事に対して大山批判をしてるんだろ?
www

784:神も仏も名無しさん
20/12/01 10:10:52.12 iOZ1hrut.net
>>782
違います。
1.無覆なのは、「種」という可能性で、まだ発現してないからです。
 つまり仮定された潜在意識です。種は発現すると善になつたり悪になったりします
2.有覆なのは、変化し続ける阿頼耶識をわがものと妄想しているからです。
 つまり自我意識みたいなものです。これが蔵識と常に相互にやりとりしている
3.第三能変で、煩悩と随煩悩との心の働きが詳述されます。
 譬えると、潜在意識と自我意識の上に第三能変の六識が走っていて
 その六識には、常に稼働している遍行というwin10のようなOSと
 特定の時にだけ働く別境というアプリ、善や煩悩や随煩悩というアプリが
 あるという構成になっているのです。
 ここでの煩悩と随煩悩は、末那識の四煩悩と別レベルの煩悩です。
 末那識の四煩悩は「自我意識」に関係するものなのです

785:神も仏も名無しさん
20/12/01 11:42:06.91 iOZ1hrut.net
仏道成就の妨げになるか否かが準拠になるのではない。
anivRta無覆は、a否定+nivRta「隠された、覆われた、妨げられた」なので
原語的には「妨げにならない」ものだし、否定の接尾辞nis+nivRtaをつければ
nirvRta涅槃となる。
阿頼耶識がanivRta無覆なのは、善にも悪にも向かう可能性があり、それ自体では
確定していないからに過ぎない。
阿頼耶識は捨受を除く五遍行と結びついて、末那識や他の六識の五遍行に相互影響
されているそうである。

786:鹿野園
20/12/01 12:28:17.09 ZoRRxJ1+.net
>>784
別におかしくないよw
"仏道を歩まん"とするのは意識(第六識)の問題だから、その意識との関係性が無覆(阿頼耶識)か有覆(末那識)かって事でしょ。

> つまり仮定された潜在意識です。種は発現すると善になつたり悪になったりします
その両方でもないものにもなるけど?

787:鹿野園
20/12/01 12:32:11.31 ZoRRxJ1+.net
つまりだ、
>>785
>原語的には「妨げにならない」ものだし、否定の接尾辞nis+nivRtaをつければ
というその「妨げにならない」というのが"何の「妨げにならない」"のかってことだろ?
その"何の"にあてはまるのが"仏道の成就"でしょ。
www

788:鹿野園
20/12/01 12:40:30.83 ZoRRxJ1+.net
>>785
>阿頼耶識がanivRta無覆なのは、善にも悪にも向かう可能性があり、それ自体では確定していないからに過ぎない。
つまりだ、"善だの悪だのに向かう"云々の善悪の基準ってなんですか?
何の善悪ですか?
仏道の成就に資する善悪でしょ?
要するにだ、仏道の成就に向かう意識の「妨げにならない」から無覆であり、「(間接的な)妨げになる」から有覆なんです。

789:鹿野園
20/12/01 12:46:51.94 ZoRRxJ1+.net
うむw
いつものように日高屋で飯を頂きながら片手で即答出来る程度の簡単な問題だったわw

790:神も仏も名無しさん
20/12/01 13:32:00.65 z7N8W3sa.net
>>784
違います。無覆かつ善悪無記なんです。
無覆は、涅槃と違って、善でも悪でもないのです。どちらにも転ぶ可能性でしかない
有覆は自我意識で覆われているです
仏道の成就に向かうこともあれば、背くこともあるから無覆なんです。
唯識の緻密な設定を理解するには、繊細な感覚が大切なのです

791:神も仏も名無しさん
20/12/01 13:50:08.92 JATDRMBm.net
ここで確認
善悪について
URLリンク(i.imgur.com)
URLリンク(i.imgur.com)
URLリンク(i.imgur.com)
多川さんによると仏教における善悪の定義は分かりやすくいえば
善……自他を仏の世界に押し上げる行為
悪……自他を仏の世界から遠ざける行為
ということだそうです

792:鹿野園
20/12/01 13:59:40.65 ZoRRxJ1+.net
何に対して無覆・有覆なのか。
答えは明白でしょ。

793:鹿野園
20/12/01 14:23:52.85 d/p/WOB3.net
阿頼耶識それ自体が可能性のみであるとか、末那識が四煩悩を有して阿頼耶識を相分としているとか、確かにその通りなのですが、仏道の成就を成さんとするのはあくまで意識ですから、無覆無記だの有覆無記だのは、やはり意識に於ける仏道成就を起点にたてられていると思いますし、そうでなければ宗教性が希薄になってしまうと思うんです。
阿頼耶識も末那識性質は無記でも、片方はその妨げにならないから無覆だし、片方は(間接的に)妨げとなるから有覆であるとね。
私はそう思いますよ。

794:鹿野園
20/12/01 14:26:12.52 d/p/WOB3.net
訂正
阿頼耶識それ自体が可能性のみであるとか、末那識が四煩悩を有して阿頼耶識を相分としているとか、確かにその通りなのですが、仏道の成就を成さんとするのはあくまで意識レベルですから、無覆無記だの有覆無記だのは、やはり意識に於ける仏道成就を起点にたてられていると思いますし、そうでなければ宗教性が希薄になってしまうと思うんです。
阿頼耶識も末那識も性質は無記でも、片方はその妨げにならないから無覆だし、片方は(間接的に)妨げとなるから有覆であるとね。
私はそう思いますよ。

795:鹿野園
20/12/01 14:29:05.95 d/p/WOB3.net
…カムイさんじゃないけど、レスを書くのに集中してたら、二駅飛んで目的駅に着いてたw

796:鹿野園
20/12/01 14:37:31.00 d/p/WOB3.net
唯識を学び始めた頃、末那識が四煩悩を有しながら有覆無記という事が俄かには理解し難かったのですけどね。
宗教として仏道の成就という意識のはたらきを視座に考えた時、合点がいったんです。
URLリンク(i.imgur.com)
(唯識三十頌を読む 多川俊映 から)

797:鹿野園
20/12/01 14:43:06.38 d/p/WOB3.net
有覆については成唯識論に
聖道をおおってさまたげ(覆障)、自心をおおってふさぐ(覆蔽)
とかってありますよね。

798:神も仏も名無しさん
20/12/01 17:47:16.32 eRT+Efi1.net
善というは謂く信と慚と愧と無貧等の三根と 勤と安と不放逸と行捨と及び不害となり。
(訳)
3つ目には世俗的な暮らしのなかの善なる感情で
迷いなき世界へと向かう精神作用(別境)を導く因となるものです。
穏やかで静かな状態になり(信)
みずからを省みて反省し(慚)
他者からの評判をおそれて罪過を恥じらい(愧)
金銭や名誉などに執着せず(無貪)
危害を加えてくるものにも慈しみを注ぎ(無瞋)
正しいことわりを受けとめ(無痴)
これら善なる感情のもとに向上心を抱き(勤)
身心が柔軟にはたらくようにたもち(安)
散漫にならず集中する(不放逸)とともに
とらわれを離れて静かな状態にいたり(行捨)
生きとし生けるものに慈愛をそそぐ(不殺生)
―これら十一種が善なる感情なのです。
URLリンク(ryuganji.jp)

799:神も仏も名無しさん
20/12/01 18:10:09.29 eJtoBOdy.net
犬山と真言肛門徒は、つるんで工作しとるね
てか、自演だよね

800:神も仏も名無しさん
20/12/01 18:11:23.11 eJtoBOdy.net
件の粘着忍者疹言臭の新通名が、真言肛門徒
に決定しました!!  これは施餓鬼供養であります
在日さんには高級すぎる呼び名ですが、5ちゃん粘着の誉を称えて授与します
よかったね在日さん!!

801:神も仏も名無しさん
20/12/01 18:49:43.30 z7N8W3sa.net
『成唯識論』巻三に曰く
故此唯是無覆無記。覆謂染法。障聖道故。
又能蔽心令不淨故。此識非染。故名無覆。
「覆と云うは、謂く染法ぞ。聖道を障へるが故に」
巻五に曰く
有覆無記 所攝。非餘。此意相應四煩惱等是染法故。
障礙聖道隱蔽自心。説名有覆。非善不善 故名無記。
有覆の染法とは四煩惱のことで、
聖道を障礙し、自心を隱蔽するので有覆と説かれるが
善でも不善でもないので、無記と名付けられる。

802:神も仏も名無しさん
20/12/01 20:28:52.47 z7N8W3sa.net
■覆について
竹村牧男 「『成唯識論』を読む」春秋社7500円+税 
(新・興福寺仏教文化講座7)p72
「ところが阿頼耶識には煩悩は相応しませんから、覆障・覆蔽のはたらきはありえず、
「無覆無記」となります。かといって無漏(煩悩の漏泄がない)、覚りの智慧そのもの
というわけでもありません。要するにまったくニュートラルにのです」
廣澤隆之 「『唯識三十頌』を読む」 TU選書1900円+税 p79
「阿頼耶識は善に向かおうとする心の根拠でもあるし、悪に向かおうとする心の
根拠でもあるから、それ自体は悪へと向かう心の働きである煩悩がないことになる」

803:神も仏も名無しさん
20/12/01 20:46:48.15 z7N8W3sa.net
>>782
>仏道成就の妨げになるか否かが準拠
阿頼耶識はむしろ無宿透明で、それ自体では妨げにもプラスにもならない。
で、仏道修行しようとする意欲は別境の「欲」

804:鹿野園
20/12/01 21:32:45.23 d/p/WOB3.net
>>803
???
妨げになれば有覆だし、妨げにならなければ無覆でしょ?
私は仏道の成就に資すれば善とはいいましたが、無覆とは言ってませんけど?

混同してませんか?

805:神も仏も名無しさん
20/12/02 03:18:14.14 NDw14rt7.net
犬山=栄進=シンゴンはグルです。一味です。
気付いた人々の力を結集して
犬どもの陰謀をうち破るのです。
たたき潰すのです

806:神も仏も名無しさん
20/12/02 03:26:38.79 NDw14rt7.net
連中の脳に詰まっているのはゴミ知識だけです。
決して影響されてはなりません。

807:神も仏も名無しさん
20/12/02 06:32:55.52 D9MQe2w2.net
>>804
>仏道成就の妨げになるか否かが準拠
>妨げになれば有覆だし、妨げにならなければ無覆でしょ?
1.仏道成就というか聖道(無漏智)と自心を四煩悩で覆うから有覆
2.四煩悩で覆われてないから無覆だけども、それ自体としてはニュートラル
ニュートラルだけども実際は有覆の末那識とも常にやりとりをして、その種子を蔵しているのです
3.で、我々の阿頼耶識を『成唯識論』は巻二で「有漏の識」と言って手ます。
唯識は、多層構造になっていて複雑なので繊細に読みましょう

808:鹿野園
20/12/02 07:42:55.65 gYZhhnDK.net
>>807
???
別におかしな事は言ってないだろw
聖道≒仏道だし。

809:鹿野園
20/12/02 07:58:08.33 gYZhhnDK.net
自心とは末那識だろうし、無記のみというのは表層識より下だというのもあるのだろうな。
また、無覆というのは現量と親近性があるのだろう。

810:神も仏も名無しさん
20/12/02 08:29:45.58 g8e+kfTd.net
>>809
>>776

811:鹿野園
20/12/02 09:01:07.48 gYZhhnDK.net
善悪(或いは無記)は、表層化した時に決定付けされるのだろう。表層下では無記だと。

812:鹿野園
20/12/02 09:08:14.89 gYZhhnDK.net
有覆というとやはり言語化の問題が出てくるなぁ。
スレタイから外れけど、起信論辺りにここら辺について言及されてるのかもしれない。

813:神も仏も名無しさん
20/12/02 09:34:22.22 ceQgcYd2.net
障礙聖道隱蔽自心とあるので、
「聖道」と「自心」は障礙・隱蔽される側なので
「自心」≠「末那識」ですよ。
末那識の四煩悩が「聖道(無漏智)」と「自心」とを覆っていると『成唯識論』が
解釈しているのです。
普通は、「聖道」=「仏道」です。でもここは心の分析なので
「聖道」=「無漏智」と『成唯識論』は定義しています。
さて「自心」とは何かですが、『成唯識論』だから
六位五十一の心所を指しているのでは?
具体的には遍行や別境や善の心所(心の働き)を覆う。
さて、8つの大随煩悩には末那識は働きかけると法相唯識が説くので、
緻密精緻な分類ではどうなっているかまでは不明

814:鹿野園
20/12/02 10:08:16.43 gYZhhnDK.net
>>813
>「自心」≠「末那識」ですよ。
???
自心を覆ってるんでしょ?
なら末那識以外に考えられませんけど?
>>813
>普通は、「聖道」=「仏道」です。
それでいいんですが?

815:神も仏も名無しさん
20/12/02 11:10:02.83 ceQgcYd2.net
>>814
違います。ここで言う「自心」は悟りのことです。
他宗で「如実知自心」という時の「自心」です。

816:鹿野園
20/12/02 11:37:58.35 gYZhhnDK.net
>>815
あなたの解釈っていつも変なんですけど?
自心も聖道も、私の解釈がおかしいとは思いませんが、どうしていつもそうした変な見方をされるのですか?
URLリンク(i.imgur.com)
(写メは 唯識三十頌を読む 多川俊映 から)

817:鹿野園
20/12/02 11:49:47.29 gYZhhnDK.net
うむ、末那識が有覆でありながら無記というのは、善悪或いは無記が(表層)意識の次元の問題だからなんだろうな。
つまり、表層下識の問題だから無記であると。
そして、意識の次元を基準にしているところがやはり唯識学が宗教たる所以なんだろう。

818:神も仏も名無しさん
20/12/02 14:15:42.28 pvDQl9xE.net
 そしてまた、阿頼耶識の性質が単に無記なのではなく、「無覆無記」だとあります。この無覆とは、仏道を歩む上で障害になるようなものとかかわりがないという意味です。
同じ無記でも、有覆無記(後述の第二能変の末那識がこれに当ります)は、仏道を障り、心を不浄にするものと関係がある。
そこで、有覆の性質は「染(染汚)」、無覆は「浄」だといわれます。
したがって、無覆無記は善でも悪でもなく、しかも、汚れがない─。そうした無覆無記を、無色透明に近いイメージで理解しようとする唯識学者がおられました。大いに参考にしたいと思います。  
 なお、阿頼耶識という識体(心王)が無覆無記ですから、それに相応してはたらく〈触〉〈作意〉〈受〉〈想〉〈思〉の五心所も、その性質が無覆無記だというのは当然でしょう(第四頌2)。

多川 俊映
唯識とはなにか 唯識三十頌を読む (角川ソフィア文庫)

819:神も仏も名無しさん
20/12/02 17:07:56.23 D9MQe2w2.net
>>816
多川俊映さんの言われる、本来染汚ではない末那識のスガタ(自心)は、
四煩悩で覆われている現実の末那識と違うのです。
転識得智された平等性智(覚り)のことです。
だけども多川さんも正確ではないです。
「本来染汚ではない末那識のスガタ」という表現が鹿野園さんを惑わしている
からです。「聖道」(無漏知)と「自心」(覚り)とをサラッと説いたほうが端的です

820:鹿野園
20/12/02 17:51:34.53 jZ7hbCzR.net
>>819
wwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwww
法相宗の前管長にご意見ですか?????
馬鹿鬼並みのキチガイですねーwwwwww

821:鹿野園
20/12/02 17:56:02.10 jZ7hbCzR.net
いやいや、この人やっぱり馬鹿鬼に並に感覚がぶっ飛んでますわw
辞書が間違ってる、学者が間違ってる、行者の体験が間違ってる……
わしが正しいのぢゃ。
何故ならわしは覚者なのじゃ。
覚者の言う事は正しいのぢゃ
だからわしは正しいのぢゃ、ってなw

822:神も仏も名無しさん
20/12/02 18:04:29.28 D9MQe2w2.net
多川俊映さんの、仏教の勉強は、落ちぶれた法相唯識の宗学オンリーでしょ。
その多川さんでも
我々の現実の末那識≠本来染汚ではない末那識のスガタ(自心)
とわかられているのです。
そんなのは論理性があれば、読み取れるのです

823:鹿野園
20/12/02 19:09:30.61 jZ7hbCzR.net
後付けでコロコロ言うことを変えるんだなw
俺が指摘しなかったら何にも分からなかった癖にw
既に四煩悩に覆われた自心が末那識だろ?
少しは頭を整理して考えなさい。

824:神も仏も名無しさん
20/12/02 20:12:32.60 gVXtF6/u.net
>>820
管長とか、大山は権威に弱いのうwwwwwwww
晃と同類だなあ。wwwwwwwww

825:神も仏も名無しさん
20/12/02 20:16:13.88 D9MQe2w2.net
>>823
いえいえ。一貫して同じことをご説明しています。
末那識≠自心であると
多川さんですら
「本来染汚ではない末那識のスガタ」を自心とされているのです。
四煩悩があるのが末那識です。
四煩悩が克服されると転識得智されて末那識は末那識ではなくなり
平等性智という四智となるというのが法相唯識のスタンスです。
「本来染汚ではない末那識のスガタ」は、もはや末那識ではなく自心と呼ばれる
悟りなのです
こういうことは論理的な知性があれば、多川さんですらわかる事柄です

826:鹿野園
20/12/02 22:11:29.32 a70G7xHV.net
>>825
コロコロ言うこと変えてるなぁw
>さて「自心」とは何かですが、『成唯識論』だから六位五十一の心所を指しているのでは?
我々凡夫のその自心は四煩悩に覆われてるんだよ。
だから末那識って呼ばれてるんだよ。

827:鹿野園
20/12/02 22:27:54.29 a70G7xHV.net
>「此の四ついい、常に起こりて内心を擾濁…」
>(成唯識論)
自分自身の末那識そのものを騒がせ濁らせる(竹村)って解釈何されてるしなぁ。

828:神も仏も名無しさん
20/12/03 00:41:37.83 4OMVxRZu.net
>>812
末那識と阿頼耶識には言語概念はないはずだから末那識を覆う四煩悩にも言語はないでしょう
でも大山さんは
>>775
>言いたい事は分かるけど、それ(六識のみ)では解決の付かない問題があるんですよ。
>意識(六処)が途絶えてリセットされても言語認識は途絶える事なく継続されてるって謎なw
>それをいちいち説明するとかなりの時間が掛かるからやらないけどね。
って書いてるんだし
せっかくだから末那識や阿頼耶識あるいは物心つく前の無意識下の言語認識についても面白そうなので解説して下さいよw
「阿頼耶識は唯捨受で無覆無記だから現量」
みたいな珍説が生まれるかもしれないですしね

829:神も仏も名無しさん
20/12/03 02:59:44.22 TNRfdNHX.net
>>827
大山よ、貴殿のここ数か月内の書き込みで宮元啓一名誉教授の過去の著作における見解
について、教授がその見解の表明を後悔し撤回したがっているだろう的な内容の文言を
この近辺に書いたものがあったとのことであるが、それ大問題だぞ。
くまなく探せば、すぐ判明するわけだが、その発言、撤回しないよな?

830:神も仏も名無しさん
20/12/03 06:58:50.09 ZTFfUQC6.net
>>765
■SraddhAtha hriIr apatrapA
SraddhA信…『成唯識論』曰く「実と徳と能を深く忍び、楽(ねが)い、欲する心が浄まることを
       性となし、不信を対治し善を楽(ねが)うを業と為す」
       実=仏陀の教えを信忍し、徳=三宝を信じて希望を起こし、能=能力を信じ
       心が澄浄prasAdaになること
hriI 慚…中村元訳では「みずから恥じること」
    『成唯識論』曰く「自と法との力によって、悪行を止息するを業と為す」
apatrapA愧…中村元訳では「世間に対して恥じること」
       『成唯識論』曰く「世間の力によって、悪行を止息するを業と為す」

831:神も仏も名無しさん
20/12/03 07:50:51.42 4OMVxRZu.net
>>828
>せっかくだから末那識や阿頼耶識あるいは物心つく前の無意識下の言語認識についても面白そうなので解説して下さいよw
せっかくだから末那識や阿頼耶識あるいは物心つく前の言語認識についても面白そうなので解説して下さいよw
に訂正します

832:鹿野園
20/12/03 10:19:52.26 iIeiPd9h.net
>>828
>末那識と阿頼耶識には言語概念はないはずだから末那識を覆う四煩悩にも言語はないでしょう
種子は名言種子でしょ?
それが我々の日常に使われてるそれそのものかどうかは分かりませんけど、言語(言葉)によって阿頼耶識に薫習されるのだから。

833:神も仏も名無しさん
20/12/03 10:28:43.80 2inY/lmH.net
第十一偈
善謂信慚愧 無貪等三根 勤安不放逸 行捨及不害
善とは謂く、信・慚・愧と 無貪等の三根と
勤・安・不放逸と、行捨及び不害なり
alobhAdi trayaM vIryaM praSrabdhiH sApramAdikA/
ahiMsA kuSalAH kleSA rAga-pratigha-mUDhayaH//
a.無貪などの三つと、精勤と軽安と不放逸とそれと俱にあるもの[行捨]と不害とが
 善である。煩悩は貪と瞋と癡と
b.無欲などの三つと、精進と軽快感と怠けない気持ちと、それと俱にあるもの(行捨)と
 不殺生とが善[なる心理作用]である。(根本)煩悩とは、貪欲と憎悪と無知であり、
(以上、廣澤訳)
貪欲のない状態から始まる3つ、エネルギー、静穏、用心深さ、
傷つけないこと/不殺生が、〔メリットのある心的要因である〕。
煩悩/煩悩は、貪欲、嫌悪、惑わし、
(以上、湯田訳)

834:鹿野園
20/12/03 10:31:42.12 iIeiPd9h.net
>>829
はて?
批判する時は伏せ字を使って名前を出す事はなかったと思うけど、本人の名前が出てるのなら、それは伏せ字に訂正させてもらうわ。
その上で、近代仏教思想史という俯瞰的な視座から鑑みるとそれは「"批判仏教"運動」の流れの中での出来事だと位置ずけてるよ、おれは。


最新レス表示
レスジャンプ
類似スレ一覧
スレッドの検索
話題のニュース
おまかせリスト
オプション
しおりを挟む
スレッドに書込
スレッドの一覧
暇つぶし2ch