20/11/21 09:24:24.42 k6v6EOPH.net
>>465 続き
2009年04月22日 21:51
成唯識論によると、阿頼耶識そのものが執着の根本とするのは安慧の説であるといわれています。
これに反して、護法では阿頼耶識は無覆無記であって、有覆(=有執着)は転識にあるとされています。
ここでいう転識とは、我執の心であるマナ識、法執の心である意識(manovijnana)です。
これらの転識に依る限り阿頼耶識は無覆無記でありながら世俗界に縛られるということになります(第八前七相依起)。
あ、78910さんが既に仰ってましたね。
真諦派の人達は阿頼耶識自体を執着の本として、第九識(アマラ識)を立てます。
無著も世親も「アマラ識」という言葉は出さないのですが、無著は「摂大乗論」で、根本識そのものが執着の根である、といった内容の事を言っています。
その故、真諦派の人達は「摂論派」とも言われます。
ところで八識唯識に於いての阿頼耶識ですが、これは菩薩道十地の七番目だか八番目(最後地だったかも)で、大円鏡智へと「転依」します。
この転依説ですね、大田久紀さんはこの「迷いの世界がそのまま清浄の世界になる」というアイデアが好きだそうです。
URLリンク(mixi.jp)