20/11/21 00:16:55.54 EwdhVIDi.net
>>457
>ここでは言語による認識がどうたらは取り上げられていません
現量とは『諸分別の行解を離れて任運に境の自相に称う』と(法相二巻抄では)されています。
即ち、"言語による分別が無い>偏行心所の捨受のみ"と私は読み取りました。
阿頼耶識は偏行心所の捨受のみですから言語活動は伴わない。
末那識は偏行心所は捨受のみですが、他の心所が言語活動を伴うから現量から除外。
意識は言語活動が伴う三受なので同じく除外。
前五識は言語活動が伴わない三受なので該当という見解です。
つまり、現量は偏行心所が捨受のみである事が最低限の条件であるという認識です。