唯識を学ぶスレッドat PSY
唯識を学ぶスレッド - 暇つぶし2ch450:神も仏も名無しさん
20/11/20 16:20:16.17 G5M0VJKR.net
参考までに
URLリンク(junsoyo.on.coocan.jp)

9詩
此心所遍行 別境善煩悩
随煩悩不定 皆三受相応
此の心所は遍行と,別境と善と煩悩と,
随煩悩と不定となり。皆,三の受と相応す。
の解説ページ
URLリンク(junsoyo.on.coocan.jp)
では
前五識・第六意識の心所は,遍行と,別境と善と煩悩と,随煩悩と不定である。
前五識・第六意識は,苦受・楽受・捨受と相応する。
と現代語訳されており
◆前五識・第六意識:現代的に言えば,五感覚と意識。意識は五感覚とともに作用して感覚をより明瞭にし,かつ言葉を用いて概念的・分別的なはたらきをする。
◆皆三受相応:前五識・第六意識は,苦受・楽受・捨受と相応する。末那識・阿頼耶識は,常に捨受とのみ相応するが,前五識・第六意識が三つと相応するということは,心の用いようによっては,苦から楽に,楽から苦に変化することができることを物語っている。
常に現量とされる前五識は捨受のみならず苦受・楽受とも相応するそうですよ
また末那識は捨受ですよ
さて捨受と現量は果たして大山さんの言う通りイコールで結べるような関係なのでしょうか?

451:鹿野園
20/11/20 18:18:58.38 cvLNwa0L.net
まぁ、勉強して下さい。
すればいつかは分かるかもしれませんから。

452:鹿野園
20/11/20 18:35:51.59 cvLNwa0L.net
苦受・楽受は身体(前五識)のそれ(感覚、苦楽)と精神(意識)のそれ(感情、憂喜)があるでしょ?

453:神も仏も名無しさん
20/11/20 20:23:40.27 G5M0VJKR.net
大山さんこそ「阿頼耶識は捨受だから現量である」ということを証明できるまで頑張ってくださいな
私が知る限りそんな珍説を打ち出しているのは大山さんだけなのですから

454:鹿野園
20/11/20 20:45:00.31 cvLNwa0L.net
安慧は唯識三十論で捨受を平静(感情)っていってるよ。
捨受の意味をよく考察しなさい。
言語活動が伴わない感覚(直接知覚、現量)と伴う感情(比量・非量)の違いを視座にね。

455:神も仏も名無しさん
20/11/20 21:10:17.83 G5M0VJKR.net
前五識は捨受のみならず苦受、楽受の場合でも常に現量です
捨受だから現量ではないということです

456:鹿野園
20/11/20 21:39:14.80 cvLNwa0L.net
>>455
???
捨受のみって(ロゴス的な)言語による認識活動がないって事でしょ?
それが現量でしょ?

457:神も仏も名無しさん
20/11/20 23:11:30.90 G5M0VJKR.net
皆三受相応:前五識・第六意識は,苦受・楽受・捨受と相応する。末那識・阿頼耶識は,常に捨受とのみ相応するが,前五識・第六意識が三つと相応するということは,心の用いようによっては,苦から楽に,楽から苦に変化することができることを物語っている。
URLリンク(junsoyo.on.coocan.jp)
阿頼耶識だけではなく末那識も常に捨受とのみ相応する
でも末那識は現量ではありません
また前五識は苦受・楽受・捨受の三つと相応しますが現量です
つまり捨受は現量の条件ではないということです

ちなみに
なぜ阿頼耶識は,"捨受"のみと相応するか?(『述記』)
URLリンク(junsoyo.on.coocan.jp)
ここでは言語による認識がどうたらは取り上げられていません

458:鹿野園
20/11/20 23:51:43.04 i4cHoSuA.net
>>457
はい。
1.唯識三十頌の6-4"及び余と触等と倶なり"の中の"余"の字を貴殿はどう観られますか?
2.阿頼耶識の心所が捨受のみされる遍行心所(5)のみなのに対して、末那識の遍行心所(5)も同じく捨受されますが、それだけではなくて他の心所が13もあります。これについはどう考えますか?

459:鹿野園
20/11/21 00:16:55.54 EwdhVIDi.net
>>457
>ここでは言語による認識がどうたらは取り上げられていません
現量とは『諸分別の行解を離れて任運に境の自相に称う』と(法相二巻抄では)されています。
即ち、"言語による分別が無い>偏行心所の捨受のみ"と私は読み取りました。
阿頼耶識は偏行心所の捨受のみですから言語活動は伴わない。
末那識は偏行心所は捨受のみですが、他の心所が言語活動を伴うから現量から除外。
意識は言語活動が伴う三受なので同じく除外。
前五識は言語活動が伴わない三受なので該当という見解です。
つまり、現量は偏行心所が捨受のみである事が最低限の条件であるという認識です。

460:鹿野園
20/11/21 00:35:27.84 EwdhVIDi.net
>>459
>つまり、現量は偏行心所が捨受のみである事が最低限の条件であるという認識です。
偏行心所が捨受のみ=感情(感覚では無い)を伴ってない。
感情=意識の介在する言語による認識。
言語=分別。

461:神も仏も名無しさん
20/11/21 03:58:13.48 nfiTK+XM.net
その阿頼耶識の種子というものは、
習化みたいなもので、輪廻前の生から輪廻後の生まで保存されて
引き継がれるものなんですか? カルマとアートマン思想と慣性の法則をミックスした
感じの説になるかもですけど

462:神も仏も名無しさん
20/11/21 08:13:34.18 t38BChh5.net
>>447
>”触・作意・受・想・思という心所はあるものの唯捨受のみ”って意味自体が分からないんだろうなぁ。
>それって普通に認識はあっても思慮分別作用がない(=現量)って事じゃんw
■基本概念の解説
・触sparśa…接触のこと
・作意 manaskāra…manas心+kāra動かす→思考すること
・受vedanā…人間の感受作用
・想saṃjñā…事物の形象を心の中に思い浮かべるイメージ化作用(表象作用)
・思cetanā…意思。目標に向かう方向性を持った意思
・捨受…苦楽憂喜などを感じない感覚な感受作用のみ
阿頼耶識には常に五遍行(触・作意・受・想・思)という心の働きと共にあると
説かれているのであるから、「思慮分別作用がない(=現量)」ではない。
ただ受のみが捨受と説かれるのは、煩悩がない価値中立を意味して
次の無覆無記につながっているのである。
さて『成唯識論』は阿頼耶識を現量と説くが、それはまた別の話である。
『唯識三十頌』では、現量と説かれていない。
捨受とは、価値中立の受であるということなのです。
なので無覆なのです。

463:神も仏も名無しさん
20/11/21 08:41:06.45 t38BChh5.net
>>454
安慧ではないですよ
訳者の荒牧典俊が「捨」を「苦でも楽でない」と解説した上で「平静」と解釈して
訳しただけです。
区別しましょう。荒牧さんの独特な訳ですので。

464:神も仏も名無しさん
20/11/21 09:21:12.14 k6v6EOPH.net
唯識について参考までにmixiよりコピペ
2008年10月29日 18:48
こんにちは。
今日初めて知ったのですが、インドとチベットに於いては唯識派はどうも、スミレさんの仰るとおり、説一切有部、経量部などの心的物質的法を単に還元しただけの学派と捉えられているようです(心識のみ実存する云々)。
世親の著作も、唯識二十論はよく挙げられますけど、三十頌、特に個人的に最も重要な三性三無性についてはほぼ全く聞きません。そりゃあ二十論とダルマキールティだけ読んでたら空性とかよりも阿毘達磨的思想を説く学派(一切法=心法)にしか見えません。
今日聞いた話によると、ツォンカパは唯識を世俗諦と真諦、共に識の自性有りと説くとしたようです。
これは、世俗諦では識の自性有り、真諦では空也とした瑜伽行中観派(シャーンタラクシタ等)の見解と区別する為だったんじゃないかと思います(もしくは本気でそう思ってたか)。
中国及び日本では、唯識は無着、世親、陳那、護法、玄奘、基と伝えられたとされますが、インドとチベットでは、護法や安慧などいわゆる成唯識論に挙げられる人達はほぼ知られていないようです。
もしくは陳那から法称路線に行ったようです。
一応比較的最近安慧の唯識三十頌注釈が発見、翻訳されましたが、成唯識論で言われるように、一分説などについて特に言及していないので、成唯識論に対する興味が更に低くなってしまったのかもしれません。
そういうチベットあげあげ、漢字?(笑)みたいな人達としゃべってたら自分でもよく分からなくなってきました。
唯識も最終的には「空」の教えなんですよね?だから哲学的な意味でも「大乗」なんですよね(実践的な意味では菩薩道)?
(ところで成唯識論は護法造とされますが、玄奘、更には基の見解も入ってしまっている可能性があるらしいです。
一応護法、安慧を含む十大論師の唯識三十頌に対する諸説のまとめとされています。)
今日初めて知ったのですが、インドとチベットに於いては唯識派はどうも、スミレさんの仰るとおり、説一切有部、経量部などの心的物質的法を単に還元しただけの学派と捉えられているようです(心識のみ実存する云々)。
世親の著作も、唯識二十論はよく挙げられますけど、三十頌、特に個人的に最も重要な三性三無性についてはほぼ全く聞きません。
そりゃあ二十論とダルマキールティだけ読んでたら空性とかよりも阿毘達磨的思想を説く学派(一切法=心法)にしか見えません。

465:神も仏も名無しさん
20/11/21 09:21:49.70 k6v6EOPH.net
>>464 続き
今日聞いた話によると、ツォンカパは唯識を世俗諦と真諦、共に識の自性有りと説くとしたようです。
これは、世俗諦では識の自性有り、真諦では空也とした瑜伽行中観派(シャーンタラクシタ等)の見解と区別する為だったんじゃないかと思います(もしくは本気でそう思ってたか)。
中国及び日本では、唯識は無着、世親、陳那、護法、玄奘、基と伝えられたとされますが、インドとチベットでは、護法や安慧などいわゆる成唯識論に挙げられる人達はほぼ知られていないようです。もしくは陳那から法称路線に行ったようです。
一応比較的最近安慧の唯識三十頌注釈が発見、翻訳されましたが、成唯識論で言われるように、一分説などについて特に言及していないので、成唯識論に対する興味が更に低くなってしまったのかもしれません。
そういうチベットあげあげ、漢字?(笑)みたいな人達としゃべってたら自分でもよく分からなくなってきました。
唯識も最終的には「空」の教えなんですよね?だから哲学的な意味でも「大乗」なんですよね(実践的な意味では菩薩道)?
(ところで成唯識論は護法造とされますが、玄奘、更には基の見解も入ってしまっている可能性があるらしいです。
一応護法、安慧を含む十大論師の唯識三十頌に対する諸説のまとめとされています。)

466:神も仏も名無しさん
20/11/21 09:24:24.42 k6v6EOPH.net
>>465 続き
2009年04月22日 21:51
成唯識論によると、阿頼耶識そのものが執着の根本とするのは安慧の説であるといわれています。
これに反して、護法では阿頼耶識は無覆無記であって、有覆(=有執着)は転識にあるとされています。
ここでいう転識とは、我執の心であるマナ識、法執の心である意識(manovijnana)です。
これらの転識に依る限り阿頼耶識は無覆無記でありながら世俗界に縛られるということになります(第八前七相依起)。
あ、78910さんが既に仰ってましたね。
真諦派の人達は阿頼耶識自体を執着の本として、第九識(アマラ識)を立てます。
無著も世親も「アマラ識」という言葉は出さないのですが、無著は「摂大乗論」で、根本識そのものが執着の根である、といった内容の事を言っています。
その故、真諦派の人達は「摂論派」とも言われます。
ところで八識唯識に於いての阿頼耶識ですが、これは菩薩道十地の七番目だか八番目(最後地だったかも)で、大円鏡智へと「転依」します。
この転依説ですね、大田久紀さんはこの「迷いの世界がそのまま清浄の世界になる」というアイデアが好きだそうです。
URLリンク(mixi.jp)

467:鹿野園
20/11/21 12:24:11.62 5wOiTMxy.net
>>462
>・作意 manaskāra…manas心+kāra動かす→思考すること
???
何これ?
作意は心の起動でしょ?
まぁ、トリガーみたいなもので思考する事じゃないから。

468:鹿野園
20/11/21 12:36:29.13 5wOiTMxy.net
>>463
安慧の原典を見ての指摘ですか?
私は原典を見てないので荒巻先生の"平静(感情)"をそのまま引用しましたが?

469:鹿野園
20/11/21 12:38:05.55 5wOiTMxy.net
>>466
ありがとうございます。
存じております。

470:鹿野園
20/11/21 12:42:02.87 5wOiTMxy.net
>>462
>さて『成唯識論』は阿頼耶識を現量と説くが、それはまた別の話である。
>『唯識三十頌』では、現量と説かれていない。

現量と書かれてないだけ。
現量とされる概念は説かれている。

471:神も仏も名無しさん
20/11/21 12:52:07.00 t38BChh5.net
>>467
『成唯識論』曰く「作意、引心令趣自境。此若無者、心応無故」
心を始動せしめて対象に向けしめる心作用とトリガーのように解釈しているが
作意 manaskāraは、思考のことだよ。
加えてトリガーであるということは
「対象に注意を向けている。集中しているという精神作用である」ので
対象と非対象を分別しているから、無分別な現量とは言えない

472:鹿野園
20/11/21 13:09:54.05 5wOiTMxy.net
>>471
五位法を調べてな。
あくまでもトリガーの範疇だから。
作意
>さい(梵: manaskāra、マナスカーラ) - 対象に注意を向けること気をつけるはたらき。
>(wikiの五位から)
>遍行の心所(細かい心作用)の一つ。心を始動せしめて対象に向けしめる心作用。
>(wikidharma から)

473:鹿野園
20/11/21 13:14:44.44 5wOiTMxy.net
感覚的なものは現量で、感情的なものは比量(非量)なんですよ。
触・作意(宗派によっては作意・触)は、あくまでも感覚的な段階なんです。
感情的なものに発展する前段階のトリガーって事です。

474:神も仏も名無しさん
20/11/21 14:00:51.95 1jNOB+4y.net
で、具体的にどんな修行をすればいいの?
ってところがさっぱりわからない
いくら理屈をこねまわしても、実際に瑜伽行しなきゃ意味ない、みたいな話もあるのに
じゃあまず何から? とかさっぱりわからない

475:鹿野園
20/11/21 14:06:30.89 EwdhVIDi.net
>>474
誰しも試行錯誤しながら歩んでるわけで、私はあなたじゃないからw
坐禅なりお念仏なりお題目なり、道は開かれてるんだし、歩めば良いんじゃないんですか?

476:神も仏も名無しさん
20/11/21 14:08:57.98 1jNOB+4y.net
>>475
つまり、唯識の経典自体にはまずここからね、という入り口すら書いてないの?
だったらいくら意識がどうの、と理屈考えても、所詮は理屈の為の理屈で意味がない…

477:日本鬼子@2ch覚者
20/11/21 14:15:40.37 gLB4tbXp.net
>>476
話題の主論が末那識に移ってから、だね。
今は「空の中の阿頼耶識という仮設」で争ってるだけに過ぎないから、実践には結び付かないよ?

478:鹿野園
20/11/21 14:26:09.30 EwdhVIDi.net
>>476
ありますけどw

479:鹿野園
20/11/21 14:38:20.13 EwdhVIDi.net
>>476
仏教の基本は聞思修と戒定慧ですよね。
坐禅もあれば聞法もあるんです。
聞薫習、即ち正しい法を聞(訊)く事によってそれが種子として阿頼耶識に薫習され、実生活でそれ現行するって考えもあるんです。
掛かる意味で、こうした議論も無駄ではないんですよ。

480:神も仏も名無しさん
20/11/21 14:41:35.50 t38BChh5.net
>>476
修行については最後にでてきます。
『唯識三十頌』の第26~30偈です。
今はまだ第5偈ですので、お待ちください。

481:神も仏も名無しさん
20/11/21 15:04:16.18 iKByrp7S.net
阿頼耶識は想像の産物であるので阿頼耶識を考案しそれを定義した無著や世親の思想をベースにあとは、それぞれの論師の解釈が支離滅裂でなければなんとでも後付けで定義を加えることができる。
阿頼耶識というものが本当にあってかくかくしかじかの機能を果たしているというのを誰も確認できてないからだ。
早い話が阿頼耶識を信じるというのは神を信じるのに等しい。

482:日本鬼子@2ch覚者
20/11/21 15:06:20.38 gLB4tbXp.net
>>481
最後の喩えが余計だね。

483:鹿野園
20/11/21 15:45:07.03 EwdhVIDi.net
>>481
>早い話が阿頼耶識を信じるというのは神を信じるのに等しい。
仮説(説)ですからね。

484:鹿野園
20/11/21 15:45:32.72 EwdhVIDi.net
訂正
>>481
>早い話が阿頼耶識を信じるというのは神を信じるのに等しい。
仮説(設)ですからね。

485:神も仏も名無しさん
20/11/21 16:19:47.78 dh8ZygOJ.net
>>476
喩伽行唯識派の喩伽とはヨガの事ですから 仏教としてのヨガを追求されては如何ですか?

486:神も仏も名無しさん
20/11/21 23:18:58.14 t38BChh5.net
>>481
阿頼耶識は、想像の産物というより、瑜伽行者らが数百年かけて何百人もの
瞑想修行の中から思索されて深められてきた教えです。
もともと佛教は、五感と意識に分けて心を理解していたのですが、
それを踏まえた上で、無我でありつつも自分という意識が我々にはあるが
それはどういう構造になっているのかを言い表した時に
我々に認識できない心の働きとしての「自分」があり、
この「自分」は、刹那に滅しつつも一類相続している「変化しつづけるわたし」
であるのですが、これを「常なる私」と錯覚する意識である末那識があると
考えたのです。

487:神も仏も名無しさん
20/11/21 23:44:23.27 pukeZr19.net
>>458
余は末那識の有覆の四煩悩と無覆の触などの遍行心所の他に末那識を覆う心所
遍行心所以外の心所の数は四煩悩の四つ以外は不明だが成唯識論では四煩悩を入れて13とする(末那識の心所の数は18)
それと唯識三十を読み直したら末那識が現量とされないのは捨受がどうたらよりも
「彼に依りて転じて彼を縁ず 思量するを性とも相とも為す」
と末那識の語源のマナ(思量)が現量の概念から既に外れているからだと思いましたよ
>>459
心所にとらわれると
前五識は34の心所と相応する。遍行の5と別境の5と善の11と貪・瞋・癡の3と随煩悩の無慚・無愧・不信・懈怠・放逸・惛沈・掉挙・失念・不正知と散乱
URLリンク(blog.goo.ne.jp)
この34の心所が言語活動を伴わないわけではないのとになりますが(大山さんが書いている末那識の言語活動を伴う心所と前五識の心所で被ってるのありません?)

ところで阿頼耶識の自証分以外の見分と相分は現量なのでしょうか?
阿頼耶識の自性分が現量であるのは現量を定義したディグナーガが識の自証分は現量であると決めたんだから多分阿頼耶識も同じで自証分だと思いますがw
思いますがというのは承知と思いますがディグナーガは六識説で阿頼耶識を立てなかったため

488:神も仏も名無しさん
20/11/21 23:47:19.68 pukeZr19.net

この34の心所が言語活動を伴わないわけではないのとになりますが(大山さんが書いている末那識の言語活動を伴う心所と前五識の心所で被ってるのありません?)


この34の心所が言語活動を伴わないわけではないということになりますが(大山さんが書いている末那識の言語活動を伴う心所と前五識の心所で被ってるのありません?)

489:鹿野園
20/11/22 04:40:54.27 g2jfeqGN.net
>>487
>ところで阿頼耶識の自証分以外の見分と相分は現量なのでしょうか?
阿頼耶識の相分は執(種子)受(有根身(肉体))処(器世間(外界))ですが、その見分は現量です。

490:神も仏も名無しさん
20/11/22 10:10:45.84 je/A107o.net
仏陀が自ら説いた、原始仏教の教えの一つに有名な
「毒矢のたとえ」
があるが
自称大乗仏教って、間違いなくコレに嵌ってる感がある
実在を証明できない~識とかの論をこねくりまわして
肝心の毒矢への対処がまったくできてない、という

491:神も仏も名無しさん
20/11/22 10:21:47.70 0cUEil44.net
>>489
ありがとうございます
末那識は見分だけが非量であとは現量とされてるようですね

492:神も仏も名無しさん
20/11/22 10:35:23.90 1rpPJd9w.net
>490
いくらそう言っても、
捏ね繰り回し自体が楽しい頭でっかちいるんだなあ。

493:鹿野園
20/11/22 11:43:31.71 g2jfeqGN.net
>>491
まぁ、自証分や証自証分は絶対に現量でないとおかしな事になりますからね。

494:神も仏も名無しさん
20/11/22 17:24:45.86 G8IkMjNl.net
第六偈 四煩惱常倶 謂我癡我見 并我慢我愛 及餘觸等倶
    四の煩惱と常に倶なり。 謂く我癡と我見と 
    並びに我慢と我愛となり。 及び餘の觸等と倶なり。
klesais caturbhiH sahitaM nivRtAvyAkRtaiH sadA/
AtmadRSTyAtmamAnAtmasnehasaMjNitaiH//
a.我見・我癡・我慢・我愛と名づけられた、有覆無記の四つの煩悩が常に俱なっている。
b.自己があると固執する見解(我見)と、自己に対する無知(我癡)と、
 自己執着の高慢(我慢)と、自己への愛着(我愛)と名づけられた[煩悩によって菩提に
 近づくことを遮りしかもそれ自体は善悪と]規定できない(有覆無記)四つの煩悩が常に伴っている。

495:神も仏も名無しさん
20/11/22 17:46:52.80 G8IkMjNl.net
>>494
klesais caturbhiH sahitaM nivRtAvyAkRtaiH sadA/
× AtmadRSTyAtmamAnAtmasnehasaMjNitaiH//
〇 AtmadRSTyAtmamohAtmamAnAtmasnehasaMjNitaiH//
・AtmadRSTyi我見…我でないものを我とみなす見解
・Atmamoha我癡…『成唯識論』は無明。安慧はmohaをajNAna無知 我に対する無知
・AtmamAna我慢…mAna高慢。自己を過大評価し奢り高ぶる様
・Atmasneha…我への執着のこと。安慧は我への偏愛。
末那識が阿頼耶識を我と錯覚し、深く執着していることが説かれている。

496:神も仏も名無しさん
20/11/23 06:32:48.91 tgcFiNmY.net
デカルト曰く
cogito, ergo sum
cogito cogit-are一人称単数直説法現在 私は考える
ergo 接続詞 それ故
sum sum-esse 一人称単数直説法現在 私はある
「私は考える。それゆえに私は存在する」
意識があるので、私はあるとデカルトは考えたが
仏教は「変化しない私(我)」はない(無我)であると考えたので
その延長線で、では私の中の何を私は永続する私と考えているのかを思索した。
そこで根底に阿頼耶識を置いた。
「変化しつつ(刹那滅)」かつ「連続(一類相続)」しているわたしがあり、
それが川のように連続しているため、アートマンだと誤解(我見)し、
アートマンの無知(我癡)から、自分を誇り(我慢)、自分に執着する(我愛)する
末那識があると考えたようだ。
説得力のある素晴らしい自己分析だと私は思うが。

497:神も仏も名無しさん
20/11/23 07:24:59.18 tgcFiNmY.net
第七偈 有覆無記攝 隨所生所繋 阿羅漢滅定 出世道無有
    有覆無記に攝められる 生ずる所に隨いて繋せらる
    阿羅漢と滅定と 出世道とは有ること無し。
yatrajas tanmayair anyaiH sparsAdyais cArhato na tat/
na nirodhasamApattau mArge lokottare na ca//
a.生まれる所でそれから成るものと[俱で]ある。また他の触等の[五遍行]とも[俱]である。
 それは阿羅漢にはない。滅尽定にも出世間道においても無い。
b.[末那識は]いかなる所で生まれても[その状況に]属する[四つの煩悩を伴っている]。
また[四つの煩悩とは]とは異なる触など[の五遍行]とも[結びついているので]ある。
それは阿羅漢[の位]にはない。また[心と心の動き]滅し尽くす精神統一においても、
[煩悩から離れた]出世間の道にもない。

498:神も仏も名無しさん
20/11/23 08:28:46.68 OQ7MqRF4.net
ジャンキーvs.でおー&鬼っ子
末那識編
URLリンク(2ch.pet)

499:神も仏も名無しさん
20/11/23 08:41:14.25 fKdz3+dp.net
唯識は 自分の潜在意識や無意識を 自分の意思で変える事出来るのですか ?
もし 出来ないと言えば ただの戯論。
出来ると言えば じゃあ人間でなくて別な生き物になってみろと言う。

500:神も仏も名無しさん
20/11/23 08:43:33.46 fKdz3+dp.net
出来ると言えば 乞食から長者に、池尻から天才に 糖質をたった今治して 働けと言う。
おかまには 正真の女になって 子供を産めと言う。

501:神も仏も名無しさん
20/11/23 08:45:04.97 fKdz3+dp.net
すべて物質的基礎から抜け出せるものではない。
抜け出せると思うのは錯覚であって、
それは単に理念としての自由でしかないであろう。
それは、現実的自由とは、まったく異なったものなのである。
          荒 正人 大日本百科事典 「自由」

502:神も仏も名無しさん
20/11/23 08:47:11.45 fKdz3+dp.net
だから 何のための唯識か あるいは、何によっての唯識かだろ ?
ちがうの ?

503:神も仏も名無しさん
20/11/23 08:49:09.23 fKdz3+dp.net
何のための唯識か、何によっての唯識か、主客転倒。

504:神も仏も名無しさん
20/11/23 08:51:37.71 fKdz3+dp.net
何のためのプラトンなのか あるいは 何によつてのプラトンなのか。
ただプラトンの思想を論じるだけでは 主客転倒。

505:神も仏も名無しさん
20/11/23 08:53:06.93 fKdz3+dp.net
自由とは、拘束されない状態をいう。

506:神も仏も名無しさん
20/11/23 08:54:14.23 fKdz3+dp.net
すべて物質的基礎から抜け出せるものではない。
抜け出せると思うのは錯覚であって、
それは単に理念としての自由でしかないであろう。

507:神も仏も名無しさん
20/11/23 08:55:33.53 fKdz3+dp.net
それは、現実的自由とは、まったく異なったものなのである。 荒 正人 大日本百科事典 「自由」

508:神も仏も名無しさん
20/11/23 08:58:14.00 fKdz3+dp.net
主客転倒

509:鹿野園
20/11/23 08:59:48.26 7b2Yn/AC.net
>>496
>意識があるので、私はあるとデカルトは考えたが
それ、よく誤解されるんだけ、あんた、哲学科の聴講生だったんじゃないの?
www
たしか、真理の探究方法について、その出発点となる疑い様のないものとは何か?との考察の中で、疑い得る全てを排してもその疑っている私がある事は疑いようはないって事じゃないの?

510:鹿野園
20/11/23 09:04:27.38 7b2Yn/AC.net
訂正
>>496
>意識があるので、私はあるとデカルトは考えたが
それ、よく誤解されるんだけど?
あんた、哲学科の聴講生だったんじゃないの?
www
たしか、真理の探究方法について、その出発点となる疑い様のないものとは何か?との考察の中で、疑い得る全てを排してもその疑っている私がある事は疑いようはない、って事じゃないの?

511:神も仏も名無しさん
20/11/23 09:06:41.63 fKdz3+dp.net
それは釈迦が説いた、現実的自由とは、まったく異なったものなのである。

512:神も仏も名無しさん
20/11/23 09:12:57.45 fKdz3+dp.net
めしい

513:神も仏も名無しさん
20/11/23 09:15:45.56 fKdz3+dp.net
だから 唯識もただ頭で考えているだけだから どこでどう間違っているか わからない。
堀に落ちるのは時間の問題だから だまってみてよ。

514:鹿野園
20/11/23 09:20:08.43 7b2Yn/AC.net
キチガイは即あぼーんw

515:鹿野園
20/11/23 09:32:44.56 7b2Yn/AC.net
ちなみに、デカルト曰く
cogito, ergo sum
cogito cogit-are一人称単数直説法現在 私は考える
ergo 接続詞 それ故
sum sum-esse 一人称単数直説法現在 私はある
「私は考える。それゆえに私は存在する」
・・・・・・・・・・・・・・・
全てについて疑うべし(De omnibus dubitandum)という方法的懐疑により、
自分を含めた世界の全てが虚偽だとしても、
まさにそのように疑っている意識作用が確実であるならば、
そのように意識している我だけはその存在を疑い得ない。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
笑い
である。

516:鹿野園
20/11/23 09:39:58.23 7b2Yn/AC.net
www
お得意の嘘&内容すり替え&他スレでの返答か?

>>496
>意識があるので、私はあるとデカルトは考えたが
>>515
>まさにそのように疑っている意識作用が確実であるならば、そのように意識している我だけはその存在を疑い得ない。

517:鹿野園
20/11/23 09:46:31.69 7b2Yn/AC.net
意識と業論だけでは説明の付かない現象、即ち睡眠や気絶ひいては前世等の記憶がある事についての疑義に対する解明が阿頼耶識という事です。

518:鹿野園
20/11/23 11:35:47.05 7b2Yn/AC.net
wwwwwwwwwwwwwwwwwwwwww
あたま大丈夫か?
>まさにそのように疑っている意識作用が確実であるならば、
だろw
違いが分からん様だったらその程度の低知能なだけw


719 名前:福音伝道 :2020/11/23(月) 10:09:21.93 ID:tgcFiNmY
俺「意識があるので、私はあるとデカルトは考えた」
大山「それ誤解だよ。疑っている私がある事は疑いようはない、だよ」
俺「疑っている意識作用が確実であるならば、
そのように意識している我だけはその存在を疑い得ない、だよ」
大山「すり替えるな!」
馬鹿を指摘しても治らないのである

519:鹿野園
20/11/23 11:36:49.58 7b2Yn/AC.net
相変わらず後付けで誤魔化すハゲw

520:神も仏も名無しさん
20/11/23 12:22:41.72 tgcFiNmY.net
>>499
無意識とか潜在意識と解釈される阿頼耶識を『唯識三十頌』は、
阿羅漢位に捨すと言い、四つの煩悩に覆われている末那識は
阿羅漢と滅定と 出世道にはあることなし、と言ってますのですので
自分の意思で変える事ができると考えているということでは?

521:さぁばんと Servant 
20/11/23 20:27:43.84 ElmUyxan.net
この大山と言うのは めくらだから 諸法実相と諸法空相を 言葉が似ているから同じものと解釈してたの。
今でも そうなのかな ?
博士の言葉 【真理を本に書いてある文や文字のみで 解釈しようとしている者は かたわと言わざるを得ない】
この言葉に 怒りが込められていないでしょうか。
智識は 経験に裏付けされることによってのみ 初めて価値がある。
お釈迦さまの教えは すべて経験を得るように働きかけているの。

522:さぁばんと Servant 
20/11/23 20:32:21.41 ElmUyxan.net
大山は 知能が疑われるから 仏の真理をべらべらしゃべる一方、
それに完全に反する教えに加担しているというのが 現実。
知能が低いのだから いくら考えても 間違って解釈するしかないの。

523:神も仏も名無しさん
20/11/24 14:08:42.63 cNJvw5QE.net
>>496
独我論は意識があるから私は在ると考えたんではなく、永続するものとしての「(私は)在る」と考えてるんだな

524:神も仏も名無しさん
20/11/25 12:33:56.31 yMjWmsru.net
第八偈 次第三能變 差別有六種 了境爲性相 善不善倶非
    次の第三の能変は、差別なること六種あり。
    境を了するをもって性とも相とも為す。善と不善と俱非となり。
dvitIyaH pariNAmo yaM tRtIyaH SaDvidhasya yA/
viSayasyopalabdhiH sA kusalAkusalAdvayA//
a.これが第二の能変である。第三は六種であり、境を了得するものである。
 それは善と不善と俱非である。
b.これが第二の能変である。第三は六種の[識の変容]である。[その識の変容は必ず]
 対象を認識把握し、善・不善・善悪いずれでもないもの[の三つ]である。
玄奘は、dvitIyaH pariNAmo yaM(これが第二の能変である)を訳していない。
第三の能変は「SaDvidha六種」と説かれる。
玄奘が増し加えた「差別」は原文にはない。
阿毘達磨では、「心citta」=「意manas」=「識vijNAna」だったが
唯識では『摂大乗論』あたりから体系化がはじまり『成唯識論』ともなると
屁理屈てんこ盛りとなつている。

525:鹿野園
20/11/25 13:02:15.41 pkGzvTyF.net
>>524
>a.これが第二の能変である。
>b.これが第二の能変である。
???

526:神も仏も名無しさん
20/11/25 22:52:39.57 2vFVwD+L.net
これが、第2の転変である。=以上が、第2の転変である。
でしょうね。
URLリンク(human.kanagawa-u.ac.jp)

527:鹿野園
20/11/26 08:16:03.56 TFC0dYZf.net
>>755
>中央文庫の「大乗経典15 世親論集」所収の『唯識三十論』荒牧典俊訳も

それに”第二の能変に続いては”ってあったと思うけど?

528:鹿野園
20/11/26 08:21:05.16 TFC0dYZf.net
つまりだ、ハゲはテキスト棒読み&直訳だから、文と文のつなぎとなる文の訳がおかしいよって指摘をしてるんですよw
意味分かる?
www

529:鹿野園
20/11/26 08:33:09.91 TFC0dYZf.net
分かるかなぁ?
インドではまとめの句が次の偈に跨っている事はおかしくないのかも知れないけど、漢字圏ではおかしいとされるだろ?
だからそうした慣習を踏まえないで直訳すると偈としての構成がおかしくなるだろ?って指摘な。
玄奘三蔵がそこまで考慮して訳したのか(私はそう思ってるけど)どうかはともかく、そこまで考えた上で指摘をしてるんだよ。

530:神も仏も名無しさん
20/11/26 10:05:55.62 DRMlkzhz.net
中央文庫の「大乗経典15 世親論集」所収の『唯識三十論』荒牧典俊訳p91
「以上のごときが、第二の(層の)変化しつつ生成する(識)である。(8a)」
「第二の(層の)変化しつつ生成する(層)に続いては、第三の(層の)変化しつつ
 生成する(識)を説明しなくてはならない。したがって、つづいて(本論の詩頌に)
 論ずる。第三の(層の変化しつつ生成する識)とは、六種類のいまここに
 ある対象を認識するはたらきである」(8bc)
「(それは倫理的に)善性なるものと、(倫理的に)悪性なるものと、(倫理的
 に)いずれでもないものとである」(8d)
8bc冒頭の
「第二の(層の)変化しつつ生成する(層)に続いては、
第三の(層の)変化しつつ 生成する(識)を説明しなくてはならない。
したがって、つづいて(本論の詩頌に) 論ずる。」までは
荒牧さんが補った訳であるが、荒牧さんを読んで、8aの訳を
「第二の(層の)変化しつつ生成する(層)に続いては」と一人合点して人が
おられるようです。これは8bcへの導入的説明を補訳したものです。

531:鹿野園
20/11/26 11:43:14.28 TFC0dYZf.net
755 名前:福音伝道 :2020/11/26(木) 06:46:39.86 ID:bzm8CZn2
dvitIyaH 第二の
pariNAmo 転変→玄奘が能変と訳している
yaM これが
中央文庫の「大乗経典15 世親論集」所収の『唯識三十論』荒牧典俊訳も
p91
以上のごときが、第二の(層の)変化しつつ生成する(識)である。(8a)
と訳し、安慧はここまでを末那識であると言っていることを示している。
”第二の能変に続いては”だと第三の能変のことになるが、そうは書いていない。
あほの大山はテキトーな想像でツジツマ合わせをしているだけである

532:鹿野園
20/11/26 11:43:41.60 TFC0dYZf.net
756 名前:福音伝道 :2020/11/26(木) 07:42:31.04 ID:bzm8CZn2
玄奘の訳は正確である、原文に忠実であるとして
新訳と呼ばれたりするが、それは当時の水準の話であって
現代から見れば、かなりいい加減な訳である。
サンスクリット本文をサンスリットで注解している安慧のほうが
翻訳している玄奘よりも当然の事柄であるが、原文に忠実なのである

533:鹿野園
20/11/26 11:43:57.17 TFC0dYZf.net
757 名前:鹿野園 ◆Bs4PlQ2rjutF :2020/11/26(木) 08:24:19.57 ID:TFC0dYZf
>>756
閉じた他スレに書いてる時点でねぇw
あっちに書いたからよく見ておきなさい。

534:鹿野園
20/11/26 11:44:13.68 TFC0dYZf.net
758 名前:鹿野園 ◆Bs4PlQ2rjutF [sage] :2020/11/26(木) 08:25:30.35 ID:TFC0dYZf
知障のレスキモい。
アフォーダンス理論と仏教の考察は一旦済んだんです。
**********************
      このスレは終了しました。
**********************

535:鹿野園
20/11/26 11:44:31.03 TFC0dYZf.net
759 名前:神も仏も名無しさん :2020/11/26(木) 09:43:23.51 ID:DRMlkzhz
>>757
君はバカだな。認知機能に致命的な欠陥がありそうだね。
君が閉じたから、その余白を使っているのだ。
エコな有効利用だ。そういうことも理解できないバカなのである。
さて君はバカである。基礎的知識がないままに突拍子もない思い込みをして
それが正しいと誤認識した地点から、他人様の意見を中傷するバカである。
的外れにもほどがある。
中央文庫の「大乗経典15 世親論集」所収の『唯識三十論』荒牧典俊訳も
p91
以上のごときが、第二の(層の)変化しつつ生成する(識)である。(8a)
と訳されている。
で、つづげて(8bc)の訳の冒頭に、読者の便宜のために、本文にない補訳されている。
さて、「第二の(層の)変化しつつ生成する(層)に続いては」は(8bc)に対して
訳者が増し加えた説明であるが、
1.そもそも8aではない。
2.8cb原文にそんな説明はない
でだ。あほの大山君は、30偈それぞれが、abcdの四句からなっていて
8aがdvitIyaH pariNAmo yaMであると知っていたら
荒牧さんの訳に依拠して>>750という意見にならん。
大山君、一度脳機能を検査してごらん。
こんなことは、普通の能力があれば読めばわかる。
大山君は、眺めているだけで、読んでないし、何が書かれているかを理解していない。
幼稚なレスで荒らすな 迷惑である

536:鹿野園
20/11/26 11:44:48.62 TFC0dYZf.net
760 名前:神も仏も名無しさん :2020/11/26(木) 09:47:16.62 ID:DRMlkzhz
527鹿野園 ◆Bs4PlQ2rjutF 2020/11/26(木) 08:16:03.56ID:TFC0dYZf
>>755
>中央文庫の「大乗経典15 世親論集」所収の『唯識三十論』荒牧典俊訳も
それに”第二の能変に続いては”ってあったと思うけど?
528鹿野園 ◆Bs4PlQ2rjutF 2020/11/26(木) 08:21:05.16ID:TFC0dYZf
つまりだ、ハゲはテキスト棒読み&直訳だから、文と文のつなぎとなる文の訳がおかしいよって指摘をしてるんですよw
意味分かる?www
529鹿野園 ◆Bs4PlQ2rjutF 2020/11/26(木) 08:33:09.91ID:TFC0dYZf
分かるかなぁ?
インドではまとめの句が次の偈に跨っている事はおかしくないのかも知れないけど、漢字圏ではおかしいとされるだろ?
だからそうした慣習を踏まえないで直訳すると偈としての構成がおかしくなるだろ?って指摘な。
玄奘三蔵がそこまで考慮して訳したのか(私はそう思ってるけど)どうかはともかく、そこまで考えた上で指摘をしてるんだよ

大山君の笑えるどや顔

537:鹿野園
20/11/26 11:45:03.95 TFC0dYZf.net
761 名前:神も仏も名無しさん :2020/11/26(木) 09:54:02.70 ID:DRMlkzhz
書き込んでくれるのはよいが、もちと意義のある話をお願いしておく。
大山君には無理だろうが、頑張ってくれ。

538:鹿野園
20/11/26 11:45:21.48 TFC0dYZf.net
762 名前:鹿野園 ◆Bs4PlQ2rjutF :2020/11/26(木) 11:41:21.79 ID:TFC0dYZf
>>759
いや、だから、貴方自スレ立ててるでしょ?
わざわざ関係のないスレで、しかも閉じたスレで反論して、さらに中公版には"続いては"って書いてあるのにw
一体全体、あんた、何やってんの???

539:鹿野園
20/11/26 11:53:09.40 TFC0dYZf.net
>>531
>”第二の能変に続いては”だと第三の能変のことになるが、そうは書いていない。
第二の能変に続いて第三の能変の説明に入るから、"第二の能変に続いては”って訳してるんだろ?
それを
>a.これが第二の能変である。第三は六種であり、境を了得するものである。
って訳しては偈が変わっているのに、要するに改行されている様なものなのに誤解を生じるでしょ?って指摘なんですよ。

540:鹿野園
20/11/26 17:05:23.34 aABYYQe0.net
765 名前:神も仏も名無しさん :2020/11/26(木) 15:57:22.10 ID:DRMlkzhz
>>762
超ド級のあほである。
言葉のキャッチボールができないのである。
ここは閉じられていない。余白がありまだ書ける。
当該箇所の訳に"続いては"と書かれていない。
"続いては"とはあるのは
1.別の箇所である
2.しかも訳者が読者の便宜のために補った前振りである。

541:神も仏も名無しさん
20/11/26 17:06:34.55 YaNGxNlz.net
766 名前:鹿野園 ◆Bs4PlQ2rjutF :2020/11/26(木) 17:03:02.88 ID:nrrPrntx
だからそう説明してるでしょ?
テキスト棒読み&直訳じゃおかしいですよ、ってw

542:鹿野園
20/11/26 18:36:17.10 aABYYQe0.net
770 名前:福音伝道 :2020/11/26(木) 18:21:32.19 ID:bzm8CZn2
>>766
あほや。
そもそも俺は訳しとらん。
プロの訳を紹介しているだけ。
その上で
頓珍漢大山は8bcを引用して8aの訳をテキスト棒読み&直訳と
中傷しているのである。超ド級の馬鹿である
指摘しても間違いに気づけん池沼地獄

543:鹿野園
20/11/26 18:52:10.66 aABYYQe0.net
>>542
>そもそも俺は訳しとらん。
www
だから、翻訳者はそれについて注記したんだし、私も文章がおかしいなと思って指摘したんですよ。
まさに私の指摘した通りだったじゃないですか。
まさにあなたが棒読み&コピペだからなんです。

544:鹿野園
20/11/26 18:55:25.80 aABYYQe0.net
.

  >そもそも俺は訳しとらん。

.

545:神も仏も名無しさん
20/11/26 18:58:01.04 bzm8CZn2.net
>>543
あなたの指摘は間違っています。
1.翻訳者は注記していません。
2.8aをちゃんと訳し
3.8bcの訳に、長い補訳を置いたのです。
4.8bcから、第三の能変への言及がはじまるからです
5.鹿野園さんは、それを8aの訳と誤認して頓珍漢を改められないのです
以下、この件に関しては無視します。
充分に解説しましたが、あなたは理解できないようなので。
基礎からやり直されてください。

546:鹿野園
20/11/26 19:12:19.91 aABYYQe0.net
>>545
だから、何度も言ってるだろ?
文章の整合性が取れてないから指摘したんだろ?
指摘した通りだったじゃないか?
見苦しいよ。

547:鹿野園
20/11/26 19:14:46.80 aABYYQe0.net
……まともにコピペも出来てないって言う事だよ。

548:神も仏も名無しさん
20/11/26 19:25:37.62 bzm8CZn2.net
>>524
第八偈 次第三能變 差別有六種 了境爲性相 善不善倶非
    次の第三の能変は、差別なること六種あり。
    境を了するをもって性とも相とも為す。善と不善と俱非となり。
dvitIyaH pariNAmo yaM tRtIyaH SaDvidhasya yA/
viSayasyopalabdhiH sA kusalAkusalAdvayA//
a.これが第二の能変である。第三は六種であり、境を了得するものである。
 それは善と不善と俱非である。
b.これが第二の能変である。第三は六種の[識の変容]である。[その識の変容は必ず]
 対象を認識把握し、善・不善・善悪いずれでもないもの[の三つ]である。
玄奘は、dvitIyaH pariNAmo yaM(これが第二の能変である)を訳していない。
第三の能変は「SaDvidha六種」と説かれる。
玄奘が増し加えた「差別」は原文にはない。
阿毘達磨では、「心citta」=「意manas」=「識vijNAna」だったが
唯識では『摂大乗論』あたりから体系化がはじまり『成唯識論』ともなると
屁理屈てんこ盛りとなつている。

549:神も仏も名無しさん
20/11/26 19:38:48.36 bzm8CZn2.net
第八偈のabについて
廣澤隆之 「『唯識三十頌』を読む」の訳
荒牧典俊「大乗仏典15 世親論集」所収 「唯識三十論」の訳
湯田豊「ヴァスバンドゥの現象学『唯識三十頌』の原典、翻訳、および解釈」の訳
より比較する

8a dvitIyaH pariNAmo yaM
廣澤訳「これが第二の能変である。」
荒牧訳「以上のごときが、第二の(層の)変化しつつ生成する(識)である。」
湯田訳「これが、第2の転変である。」
8b tRtIyaH SaDvidhasya yA/
廣澤訳「第三は六種であり、境を了得するものである。」
荒牧訳「第二の(層の)変化しつつ生成する(層)に続いては、第三の(層の)変化しつつ
 生成する(識)を説明しなくてはならない。したがって、つづいて(本論の詩頌に)
 論ずる。【第三の(層の変化しつつ生成する識)とは、六種類のいまここに
 ある対象を認識するはたらきである】」
湯田訳「第3〔の転変〕は6種類の〔感覚器官の〕対象の知覚(13)である。」
荒牧訳の8cd冒頭の
荒牧訳「第二の(層の)変化しつつ生成する(層)に続いては、第三の(層の)変化しつつ
 生成する(識)を説明しなくてはならない。したがって、つづいて(本論の詩頌に)
 論ずる。」は、本文の訳では無くて、読者の理解を促すための補訳です。

550:鹿野園
20/11/26 20:06:16.45 aABYYQe0.net
だから言ったじゃないのw
それを補訳というかどうかはともかく、そのままじゃおかしいって指摘した通りだろ?
棒読み&直訳&コピペ、しかも元々が分かってないからコピペもまともに出来てない。

551:神も仏も名無しさん
20/11/27 11:52:44.26 dJmBQ7Ht.net
>>550
なんど言ってもわからないようだが、
君は、
A.8bcの荒牧訳を8aの訳だと誤認して (無知)
B.8aの廣澤訳を
C.棒読み&直訳と誹謗した上で、(頓珍漢)
D.事実指摘されても、自分の非を認めることができず (我執)
E.中傷を繰り返している。

552:神も仏も名無しさん
20/11/27 12:08:05.51 dJmBQ7Ht.net
>>524
viSayasyopalabdhiH
viSaya境…廣澤訳⇒境(対象)、荒牧・湯田訳⇒対象
upalabdhi…玄奘訳「了」だが、今まで了=vijNnaptiだったがここでは別語である。
      原義は「取得すること」⇒意味拡張「理解すること」「知覚すること」
      廣澤訳「了得(認識)するもの」荒牧訳「認識する働き」
      湯田訳「知覚」
      安慧の解釈「把握grahaNa」「pratipatti知覚認識と言う取得」

553:鹿野園
20/11/27 12:12:03.53 kmEDorPK.net
>>551
また嘘を吐いてる。
まとめの句が次偈の冒頭に来てるからおかしいって指摘したんだろ?
で、案の定、中公には"これが第二の能変である"に併せて"第二の能変に続いては”って誤解を招かないように書いてあったしw
で、おそらく玄奘もそれを考慮してその句を訳さなかったのではないかと推測したんだよ。

お前、毛が三本足りねーわwww

554:鹿野園
20/11/27 12:15:45.24 kmEDorPK.net
まぁ、後最低11年は勉強してから唯識三十頌について書きなさい。
生きてるかどうか知らんけどw
 
唯識とか、貴方にはまだまだ無理だよ。

555:鹿野園
20/11/27 12:17:55.49 kmEDorPK.net
所詮は宗教板のNHK、知障の枢軸w

556:鹿野園
20/11/27 12:27:16.42 kmEDorPK.net
いい加減なテキスト棒読み&直訳&コピペなんだもんw
玄奘三蔵が何故そう訳したのか?とかそこまで踏み込んで読みもしてないくせに、知ったかぶりしてカッコ付けて玄奘三蔵の訳にケチを付けるとか、知ってる人が読めば一生に付されて終わるレベルだし、ハゲは恥を晒してる自覚も無いんだろうな。

557:鹿野園
20/11/27 12:28:39.95 kmEDorPK.net
多分、キリスト教の理解もこの程度なんだろうな。
それなりに神学を一瞥された方から見れば失笑もんなんだろうw

558:神も仏も名無しさん
20/11/27 12:28:51.32 dJmBQ7Ht.net
>>524
kusalAkusalAdvayA
kusala善…「成唯識論」では現世と来世に順益を為すこと
      安慧は「無貪」「無瞋」「無癡」つまり布施・慈悲・智慧の三善根
akusala不善…「成唯識論」では現世と来世に違損をなすこと
      安慧は「貪」「瞋」「癡」の三毒。
advaya俱非…普通は「不二」と訳される。否定+二種類 
       ここでは前を受けて両方ではない。

559:神も仏も名無しさん
20/11/27 12:38:02.14 dJmBQ7Ht.net
>>553
あなたは、玄奘訳を絶対視しているからそういう頓珍漢な誤解をするのです。
サンスクリット文と玄奘訳は、一貫してズレています。
過去ログを確認してごらんなさい。
八偈の特徴は、玄奘が8aを省略したことなのです。
「世親には8aがあるが、玄奘訳には8aがない」
これが絶対的な事実です。
その上で
つなぎがおかしいと特に感じなかったので玄奘は省略しましたが
荒牧さんは鹿野園さんのような人のために、8aを訳した後で
8cbに長い補訳を置かれたのです。なくてもよいのにです。
なくてもよい8cbの補訳を根拠に8aに対して難癖をつけるのは
いかがなものでしょうか。自分の不明を恥じなさい

560:神も仏も名無しさん
20/11/27 12:48:01.01 dJmBQ7Ht.net
鹿野園さん、あなたは客観的に言えば、
私に唾しているのではなくて
世親に対して唾を吐いているのです。
それを理解しなさい。
私は世親の原文を訳されている廣澤先生の訳をコピペして
ここで学んでいるだけです。
つまりあなたが非難する
「まとめの句が次偈の冒頭に来てるからおかしい」のは世親の原文です。
もう少し言えば、後代になって四句からなる30偈と理解して
整理したわけですが、世親は特に後代の分類に支配されていず
自由な立場で、唯識についての詩を書いたのです。
それを玄奘が四句ワンセット×30詩と整理した。
我々は現状の分類に従いつつ、世親の原文にもチャレンジしている
するとそこにはズレがあるのです。
ところがあなたは、頓珍漢だから、
「まとめの句が次偈の冒頭に来てるからおかしい」というような
転倒した中傷をされているのです。自分の不明を恥じなさい

561:鹿野園
20/11/27 13:05:05.81 kmEDorPK.net
だから、俺の指摘した通りだろw
無駄な長文を幾ら書いてもその事実はひっくり返らないからw

562:鹿野園
20/11/27 13:11:29.14 kmEDorPK.net
ハゲは知らんだろうが、漢文は韻を踏んだり起承転結があったりと作文に一定の制約があるんだよ。
そうした作文上の制約をクリアして尚且つ訳文として通用するものを漢訳者は為してきた訳だ。
そうした経緯なんかもハゲの眼中には無いんだろうなぁw
テキスト棒読み&直訳&コピペ。
ダメだこりゃw

563:神も仏も名無しさん
20/11/27 13:43:39.96 ImOaRzi7.net
555 名前:神も仏も名無しさん :2019/07/13(土) 11:43:18.81 ID:DO5CcJD0
※暇人さんのプロフィール
熊本県在住・元左翼活動家&エロチャッター
キリスト教聖霊派を自称するもノンクリスチャンで
浄土真宗(親鸞)に心酔する唯物論者
座右の銘は「死んだら無」

564:神も仏も名無しさん
20/11/27 13:45:22.18 dJmBQ7Ht.net
>>562
いいえ、あなたは基礎的な事柄がわかってないんです
あなたには唯識は無理です。頓珍漢だからです。
>>563
漢訳者の玄奘は8aを訳していません。
鹿野園さんは、8cbの荒牧氏の補訳「第二の(層の)変化しつつ生成する(層)に続いては、」を
「第二の能変に続いては」と合理化して、8aの訳とすべきである。
8aをそのままに訳するのは「テキスト棒読み&直訳&コピペ」であるという
頓珍漢を主張されているのです。
8a dvitIyaH pariNAmo yaM
廣澤訳「これが第二の能変である。」
荒牧訳「以上のごときが、第二の(層の)変化しつつ生成する(識)である。」
湯田訳「これが、第2の転変である。」
のすべてを冒涜されておられるです。
世親は8aまでが第二能変なのです。
玄奘は8aを訳さず省略して「次第三能變」と
第三能変から第八偈を始められたんです。

565:神も仏も名無しさん
20/11/27 14:26:19.20 ImOaRzi7.net
>>564
しつこいなぁ?
私の指摘そのままでしょ?
瞬殺は瞬殺、事実は事実!
現実を見なさい!
現実を受け入れなさい!
いい加減に見苦しいですよ?
いつまで執着するのですか?
死ぬまでやるのですか?
諦めなさい。

566:神も仏も名無しさん
20/11/27 14:31:14.13 ImOaRzi7.net
よせばいいのに通勤時間にダッシュでバスの降り口に一番で並んでから財布を探してる田舎者のDQNみたいな馬鹿だな、ハゲは。
なにをやってるんだ?
こいつは?

567:神も仏も名無しさん
20/11/27 14:40:34.70 dJmBQ7Ht.net
瞬殺どころか最初から自滅されておられるのが
一人合点の鹿野園さんです。
私は単に、あなたの頓珍漢を指摘しているだけでございます。

568:鹿野園
20/11/27 14:53:23.02 ImOaRzi7.net
そう自らを欺いて誤魔化し続けてないとやってられないんだろうなぁ。
そういうところはバカムイやバカキネコ、馬鹿鬼にそっくり、哀れな知障の末路って事だ。

569:神も仏も名無しさん
20/11/27 14:54:33.09 dJmBQ7Ht.net
誤魔化しているのは鹿野園君ですよ。
普通の人はわかります。哀れなのはあなたです。

570:神も仏も名無しさん
20/11/28 09:09:10.36 hlv2CtnP.net
中村元『現代語訳 大乗仏典7 論集・他』東京書籍
所有の「第二章 識から展開『唯識三十頌』」p69
【サンスクリット原文和訳】
8.以上[説明されたこと]が第二の展開である。第三の[識の]展開とは、六種の対象※を
 認識するはたらきである。それは善でもありうるし、悪でもありうるし、どちらで
 もないことでもありうる。
※六種の対象…「色かたちと音声と香りと味と触れられるべきものと思考の対象(ダルマ)
       とより成る対象」である。(スティラマティの注による)。

571:神も仏も名無しさん
20/11/28 09:12:57.70 hlv2CtnP.net
8a dvitIyaH pariNAmo yaM
廣澤訳「これが第二の能変である。」
荒牧訳「以上のごときが、第二の(層の)変化しつつ生成する(識)である。」
湯田訳「これが、第2の転変である。」
中村訳「以上[説明されたこと]が第二の展開である。」
・・・・・・・・・・・・・・・・・
以上を「テキスト棒読み&直訳&コピペ」と中傷し、繋ぎに配慮して↓と訳すべきと
頓珍漢を主張し、解説されても固執し続ける
鹿野園「第二の能変に続いては」

572:神も仏も名無しさん
20/11/28 09:32:21.14 t3semzoD.net
>>332
>107鹿野園 ◆VupYVVGZXxPO 2020/07/17(金) 19:57:37.68ID:WQ7EggsI
>阿頼耶識や前五識は、任運にして無分別であって境の事相を得する。
>つまり、性境であって種子から実際に現れたものである。
>これに対して意識は独影境や帯質境。
>>524
>b.これが第二の能変である。第三は六種の[識の変容]である。[その識の変容は必ず]
> 対象を認識把握し、善・不善・善悪いずれでもないもの[の三つ]である。
さて、前五識の対象の認識把握は「善・不善・善悪いずれでもないもの[の三つ]である」という。
善悪いずれでもないというのは無記という意味であろう。
しかし、前五識の認識把握は常に無記というわけではなく善や不善の時もある。
そうした三種類の認識把握がある前五識について、「任運にして無分別であって境の事相を得する」と一口で言ってしまっていいのだろうか?

573:鹿野園
20/11/28 10:28:51.58 CGjAOmcc.net
>>570
その本は見てないけど、やっぱり指摘した通りだねぇ。
漢字圏文化の者ならそう考えるのが普通なんですよ。

574:鹿野園
20/11/28 10:31:09.60 CGjAOmcc.net
>>572
>そうした三種類の認識把握がある前五識について、「任運にして無分別であって境の事相を得する」と一口で言ってしまっていいのだろうか?
当たり前でしょw
現量なんだからw

575:神も仏も名無しさん
20/11/28 11:05:07.01 t3semzoD.net
>>574
前五識は無分別なのになんで
境を了するを性とも相ともなす。善と不善と倶非となり。
と、善と不善と無記になるの?

576:鹿野園
20/11/28 11:19:23.54 CGjAOmcc.net
一切法を認識する意識(心所数51)が必ず前五識(心所数34)併起するからじゃないの?

577:鹿野園
20/11/28 11:21:42.53 CGjAOmcc.net
訂正
一切法を認識する意識(心所数51)が必ず前五識(心所数34)に倶起するからじゃないの?

578:神も仏も名無しさん
20/11/28 11:33:57.65 hlv2CtnP.net
>>573
頓珍漢が二つ。
1.私の引用は【中村さん先生のサンスクリットテキストを訳されている部分】であるので
 漢訳文化圏云々は間違いです。
2.あなたの指摘は中村元先生の訳と真逆です。
 中村先生・・・8aを第二能変のまとめであると正確に認識されて
        「以上[説明されたこと]が第二の展開である。」と訳されている
 鹿野園君・・・8aを第三能変の導入として訳すべきと主張して
        「第二の能変に続いては」
         と訳すべきだとし、正確な諸先生の訳を
         「テキスト棒読み&直訳&コピペ」と中傷されています。

579:鹿野園
20/11/28 13:14:21.20 CGjAOmcc.net
>>578
> 鹿野園君・・・8aを第三能変の導入として訳すべきと主張して
また嘘を吐いてる。
しかも真逆の事を。
私は(中村先生と同じで)まとめの句と言っている。

529鹿野園 ◆Bs4PlQ2rjutF 2020/11/26(木) 08:33:09.91ID:TFC0dYZf
分かるかなぁ?
インドではまとめの句が次の偈に跨っている事はおかしくないのかも知れないけど、漢字圏ではおかしいとされるだろ?

580:鹿野園
20/11/28 13:17:54.12 CGjAOmcc.net
>中村先生・・・8aを第二能変のまとめであると正確に認識されて
>鹿野園君・・・8aを第三能変の導入として訳すべきと主張して
>529鹿野園 ◆Bs4PlQ2rjutF 2020/11/26(木) 08:33:09.91ID:TFC0dYZf
>分かるかなぁ?
>インドではまとめの句が次の偈に跨っている事はおかしくないのかも知れないけど、漢字圏ではおかしいとされるだろ?

581:鹿野園
20/11/28 13:23:09.49 CGjAOmcc.net
何度も言ってるけど、8aが前偈の〆の句である事を説明しておかないと文章の流れとして文意がおかしくなるよ、って指摘してるんです。
だから、荒巻先生も中村先生も、おそらくは玄奘三蔵も、その意を踏まえて補足されたり訳しているんです。
貴方はテキスト棒読み&直訳&コピペだからそれを理解していないのです。

582:神も仏も名無しさん
20/11/28 13:47:28.58 t3semzoD.net
>>576
いや、その次の9偈では最初に
此の心所は遍行と 別境と善と煩悩と随煩悩と不定となり
と8偈での六種の差別について記した後で
皆三の受と相応す
と六識それぞれの受が苦楽捨の三受と相応すと記されている
了別境識の中の前五識の時点で既に無分別ではないということになるんじゃない

583:鹿野園
20/11/28 14:20:06.95 CGjAOmcc.net
>>582
>了別境識の中の前五識の時点で既に無分別ではないということになるんじゃない
重ねて言うけど、前五識には常に意識が倶起して単独起動はあり得ないのですから。
掛かる意味に於いて善悪無記としかいいようがない訳でしょ。

584:鹿野園
20/11/28 14:25:10.33 CGjAOmcc.net
前五識が"現量で善・悪・無記"というのはなかなか納得がいかないっていうのは分かりますけどね。
前五識のみを取り出せれば善も不善もないのでしょうけど。

585:鹿野園
20/11/28 14:37:40.92 CGjAOmcc.net
ここで善・不善の問題ですけど、私の考えでは仏道の成就に資するを善、妨げるを不善と受け止めてます。

586:神も仏も名無しさん
20/11/28 16:17:56.83 hlv2CtnP.net
>>581
8a dvitIyaH pariNAmo yaM
廣澤訳「これが第二の能変である。」
荒牧訳「以上のごときが、第二の(層の)変化しつつ生成する(識)である。」
湯田訳「これが、第2の転変である。」
中村訳「以上[説明されたこと]が第二の展開である。」
・・・・・・・・・・・・・・・・・
以上を「テキスト棒読み&直訳&コピペ」と中傷し、繋ぎに配慮して↓と訳すべきと
頓珍漢を主張し、解説されても固執し続ける
鹿野園「第二の能変に続いては」
・・・・・
bc補訳の「続いては、」というのは導入。
四人の訳はもともと〆の句である。
誤魔化しても無駄

587:鹿野園
20/11/28 16:46:01.73 CGjAOmcc.net
>>586
また嘘を吐いている。
貴方が一番最初に出したのは「これが第二の能変である。」で、私に指摘されてからその余の訳を次々に追加して出してたんでしょ?
あなた、自分の記憶を後付けで都合のいいように書き換えてますね?

588:神も仏も名無しさん
20/11/28 16:55:18.49 HXpDl5/O.net
>>585
それなら、
馬鹿野園は不善となる。
理屈で悟れるなら苦労しない。
本日も自覚無しwwwwwwww

589:神も仏も名無しさん
20/11/28 17:00:57.36 Vuy9E8p1.net
「弟子たちよ、『阿頼耶識』や『末那識』などは、真実として捉えられるものではないのであるから、このようなものに立脚した教え、つまり、『阿頼耶識に種子が貯蔵されては現行する』とか、『我は、死後、阿頼耶識により再生し続けるであろう』というような教えは、まったく愚かな教えであると言えないだろうか。」
「まったくその通りです、師よ。
まったく愚かな教えであると言わねばなりませぬ。」

590:鹿野園
20/11/28 17:40:39.81 CGjAOmcc.net
>>588 >589
www
精神病院に行きなさいw

591:日本鬼子@2ch覚者
20/11/28 18:55:36.59 OT+1ucMj.net
善と不善と無記って何だよw

592:神も仏も名無しさん
20/11/28 20:39:07.31 hlv2CtnP.net
>>587
君は↓と発言している。
1.第三能変の説明に入るのだから「続いて」と訳すべきと主張
2.第二能変のまとめに訳すと、第三能変に話題が変わっているのに
 誤解が生じると主張
3.しかし誰にも誤解は生じてはいない。君が頓珍漢なだけ
539鹿野園 ◆Bs4PlQ2rjutF 2020/11/26(木) 11:53:09.40ID:TFC0dYZf
>>531
>”第二の能変に続いては”だと第三の能変のことになるが、そうは書いていない。
第二の能変に続いて第三の能変の説明に入るから、
"第二の能変に続いては”って訳してるんだろ?
それを
>a.これが第二の能変である。第三は六種であり、境を了得するものである。
って訳しては
偈が変わっているのに、要するに改行されている様なものなのに
誤解を生じるでしょ?って指摘なんですよ。

593:神も仏も名無しさん
20/11/28 20:45:03.37 t3semzoD.net
>>583
という割には前五識の受は身受として第六意識の心受とは分別されてて、かつ身受にもそれぞれ苦楽捨があるじゃない
大山理論によると「前五識は無分別なのだから身受は捨受だけでいい」となるんじゃないの?
しかし実際は違う
身受の苦受・楽受・捨受と心受の優受・喜受・捨受と受は身受と心受の両方においてそれぞれ分別されている
(もっともこの分別をしているのは成唯識論だけかもしれぬ)
現量である前五識の身受にも苦楽捨があるということは大山理論の「阿頼耶識は相應唯捨受だから現量」は、捨受が現量の条件ではない以上違うということになる
つまり唯識三十頌には阿頼耶識が現量であるとは直接的にはもちろん間接的にも書かれてはいないということになる

594:神も仏も名無しさん
20/11/28 20:55:02.42 t3semzoD.net
>>585
善の定義は唯識三十頌の11偈で
善とは謂わく信と慚と愧と 無貪等の三根と
勤と安と不放逸と 行捨と及び不害となり
としっかりと定義されてるね
それらの善心所をまとめれば「仏道の成就に資する働き」でも良いと思うけど

595:鹿野園
20/11/28 21:01:29.24 CGjAOmcc.net
>>592
あのよぉ?
何でそうやって立て続けに嘘を平気で吐くの?
お前の引用した俺のレスの何処に"訳すべき"ってかいてある?
どこにもそんな文字ないだろ?
お前には無い文字が見えるのか?
精神病院に行きなさい。

596:鹿野園
20/11/28 21:11:41.63 CGjAOmcc.net
>>593
あなた、分からないのなら無理して唯識をやる事ないんじゃないの?
なんか拘る意味あるの?
感覚(前五識)と感情(第六識)が別なのは分かるよね?
で、感覚そのものには善・不善はない。
しかし、感情として、第六識は常に前五識に倶起するから善・不善・無記があるんでしょ?
で阿頼耶識は捨受のみってあるでしょ?
つまり、苦でも楽でもない受け止めをするんでしょ?
現量じゃないですか。
何を言ってるのやら。

597:神も仏も名無しさん
20/11/28 21:18:13.00 t3semzoD.net
>>596
話を変えてきたね
前五識・感覚にも苦楽捨の感受がちゃんとある、つまり無分別なりではないということから話を進めているのに善・不善・無記にいきなり話を変えてる
次い前五識は苦受でも楽受でも捨受でも現量なのはどう説明するの?

598:神も仏も名無しさん
20/11/28 21:19:03.36 t3semzoD.net
次に前五識は苦受でも楽受でも捨受でもどんな場合でも現量なのはどう説明するの?

599:神も仏も名無しさん
20/11/28 21:30:17.10 t3semzoD.net
>>595
>>592
>偈が変わっているのに、要するに改行されている様なものなのに
>誤解を生じるでしょ?って指摘なんですよ。
その誤解を生じるから
>第二の能変に続いて第三の能変の説明に入るから、
>"第二の能変に続いては”って訳してるんだろ?
と大山さんは述べてるんでしょ
第二の能変に続いては という役をした方が「誤解が生じなくて良い」という立場
実質的には 訳すべき と主張している或いは提案しているに等しいと言われても仕方ないだろうね

600:鹿野園
20/11/28 21:39:15.88 CGjAOmcc.net
>>597
>前五識・感覚にも苦楽捨の感受がちゃんとある、つまり無分別なりではない
感覚は無分別でしょ?
何故なら言語化される前の認識ですから。

601:鹿野園
20/11/28 21:43:04.37 CGjAOmcc.net
>>599
あなたが勝手にそう思ってるだけでしょ?
私はおかしいと思って指摘したの。
そしたら案の定、中村先生や荒牧先生も(玄奘三蔵も)、そこには配慮してたって事です。

602:鹿野園
20/11/28 21:50:11.42 CGjAOmcc.net
例えば、禅宗でその無分別の話によく引き合いに出されるのか黄檗と臨済の話。
臨済が黄檗に仏教の大意を尋ねに行ったら三回とも叩かれたってやつ。
パンパンパン!
分かるやつはこれで分かる。
それを直接知覚というか純粋体験というか…
叩かれて(感覚)から、痛いだの気持ちいいだのと感情が起こる。

603:鹿野園
20/11/28 21:52:59.23 CGjAOmcc.net
それが分からん臨済は大愚の元で"そんなに親切に云々"云われてるやっと気付く。
なんだそんな事だったのか、って。

…勿論、それだけじゃないんだけどね。

604:神も仏も名無しさん
20/11/28 22:00:35.27 t3semzoD.net
>>600
感覚が無分別なら身受という言葉は不要じゃないか
しかし実際には唯識には身受と心受という言葉がありそれぞれ苦受捨があるとは書いた通り>>593

前五識が無記なのは自性無記であるからという理由でありゆえに
次の第三能変は 差別しゃべつなること六種有り
境を了するを性とも相とも為す 善と不善と倶非となり
(8偈)
の「善と不善と倶非となり」は第六意識に限定された事というのは一応納得はしたけどね

605:鹿野園
20/11/28 22:02:48.04 CGjAOmcc.net
分別は意識と末那識で起きているんです。
そして分別とは言葉なんです。
また、存在とは言葉なんです。

606:神も仏も名無しさん
20/11/28 22:03:33.60 t3semzoD.net
>>601
おかしいと思ったからこう訳した方がいい、訳すべきだ、中村先生達のように
と思ったんでしょう

607:鹿野園
20/11/28 22:04:26.75 CGjAOmcc.net
>>604
>感覚が無分別なら身受という言葉は不要じゃないか
受には感覚が含まれているからですよ。

608:鹿野園
20/11/28 22:05:33.10 CGjAOmcc.net
>>606
あなたの勝手な想像でしょうなぁwww

609:神も仏も名無しさん
20/11/28 22:10:13.00 t3semzoD.net
裸でいる時に誰かが背後から線香の火を背中に押し付けたら意識が熱いと言葉にして感じる前に反射的に身を逸らすだろうよ
言葉がなければ分別はないというならば火を押し付けられた時点ではまだ熱い熱くないの分別はないわけだ
しかしそれはどうかと思う
業や煩悩は言語的分別による戯論から生じるというのは確かかもしれんが本能的なものは言語よりも先だろうと思う

610:鹿野園
20/11/28 22:12:22.23 CGjAOmcc.net
>>604
>前五識が無記なのは自性無記であるからという理由でありゆえに
www
前五識の活動は意識を通してしか知れませんから。

611:神も仏も名無しさん
20/11/28 22:12:28.77 t3semzoD.net
>>607
その身体(前五識)の感覚が苦楽捨に分別されているという話をさっきからしているのだが

612:神も仏も名無しさん
20/11/28 22:13:34.56 t3semzoD.net
>>610
だな
だからこそ自性無記ということだ

613:鹿野園
20/11/28 22:14:55.54 CGjAOmcc.net
>>609
その反射的って、つまり鏡って事ですよ。
現量って事です。

614:鹿野園
20/11/28 22:16:26.95 CGjAOmcc.net
>>611
だから、感情が倶起してるから知れる(分別される)んでしょ?

615:鹿野園
20/11/28 22:18:55.20 CGjAOmcc.net
>>609
>業や煩悩は言語的分別による戯論から生じるというのは確かかもしれんが本能的なものは言語よりも先だろうと思う
本能を意識レベルではなく、末那識や阿頼耶識レベルで見ればどうですか?

616:神も仏も名無しさん
20/11/28 22:22:33.73 t3semzoD.net
>>613
熱い熱くないという言葉が出る前に苦受を感じて体を火から反射的に離すわけだ
言葉で言えば苦と言われる分別がちゃんとされている
言葉にする前に
つまり「分別とは言葉」はケースバイケースで本能的なものには当てはまらない
また当然だが言葉を知らない動物でも分別はする

617:神も仏も名無しさん
20/11/28 22:28:04.19 t3semzoD.net
>>614
それはケースバイケース
但し身受という言葉はもちろん第六意識が名付けたもの

618:神も仏も名無しさん
20/11/28 22:31:33.04 t3semzoD.net
>>615
その本能も阿頼耶識が生み出している幻影ということになりますかね
正確には阿頼耶識内の本能にカテゴライズされる種子が現行している、ということになるはず唯識ではw

619:神も仏も名無しさん
20/11/28 22:33:54.82 t3semzoD.net
>>614
その理論でいうと阿頼耶識も感情が倶起しないと現量には分別されないということになるねもちろん

620:鹿野園
20/11/28 22:38:43.19 CGjAOmcc.net
>>616
>言葉で言えば苦と言われる分別がちゃんとされている言葉にする前に
仏教ではそれ(直接知覚、純粋体験)を分別とは言いませんので。

621:鹿野園
20/11/28 22:39:31.38 CGjAOmcc.net
>>617
唯識仏教ではそうされてますので。

622:神も仏も名無しさん
20/11/28 22:41:45.14 hlv2CtnP.net
>>596
論点前提が、阿頼耶識は捨受だが
第三能変の六識(前五識と意識)が三受と言われるかは何故かだよ
で論点は
阿頼耶識は捨受だから、現量なのであれば
前五識は捨受+苦受と楽受を含む三受だから現量ではなくなるが?
というものです。
それに対して鹿野園さんは、
「前五識には常に意識が倶起して単独起動はあり得ない」ので
意識と共に三受とされていると推測されているが、
「前五識には常に意識が倶起して単独起動はあり得ない」なら
前五識は意識と共になぜ「現量」「比量」「非量」でないのだろうかという疑義となる。
まあそれはともかくとして、テキストを読みましょう

623:鹿野園
20/11/28 22:41:58.11 CGjAOmcc.net
>>618
>>619
…もう少し唯識を学んでから仰って頂いた方がいいですね。
話が噛み合いません。

624:鹿野園
20/11/28 22:43:54.91 CGjAOmcc.net
>>622
>阿頼耶識は捨受だから、現量なのであれば
>前五識は捨受+苦受と楽受を含む三受だから現量ではなくなるが?
>というものです。

感覚的(言語を介在しない)なものだからです。

625:鹿野園
20/11/28 22:50:45.32 CGjAOmcc.net
>>622
>前五識は意識と共になぜ「現量」「比量」「非量」でないのだろうかという疑義となる。
つまり、善・不善・無記ならば、現量・比量・非量なのではないのかと?
何度も言ってますが、常に意識は前五識に倶起し、前五識は感覚で意識は感情だからですよ。

626:神も仏も名無しさん
20/11/28 23:08:29.81 hlv2CtnP.net
第九偈
此心所遍行 別境善煩惱 隨煩惱不定 皆三受相應
此れが心所は遍行・別境・善・煩悩・隋煩悩・不定となり。
皆な、三つの受と相応す。
sarvatragair viniyataiH kusalais caitasair asau/
saMprayuktA tathA klesair upaklesais trivedanA//
aこれは遍行と別境と善と心所と相応する。同様に煩悩と随煩悩とも[相応するの]である。
 [しかもその識の変容には]三受がある。
bこれは普遍的な心理作用と限定された[心理作用]と善[なる心理作用]と結びついている。
 同様に煩悩と付随的な煩悩[という心理作用とも結びつき、しかもその識の変容には]
 三つの感受作用がある。
(以上、廣澤)
この第三の展開は、①遍(ひろ)くゆきわたる心作用と②特殊なものとして限定されている心作用と、
③善の心作用と④煩悩なる心作用と⑤副次的な煩悩なる心作用とに結びついて働く。
[快適と不快とどちらでもないものという]三種の感受作用もまた同様である。
(以上、中村)
それは、至るところに行き渡っている心的要因、特に定められているもの、
メリットのあるもの、苦悩/煩悩、および副次的苦悩/煩悩と結び付けられている。
それは3種類の感覚を有する。
(以上、湯田)

627:神も仏も名無しさん
20/11/28 23:12:09.94 hlv2CtnP.net
>>626
第九偈でも玄奘は、サンスクリット原文にない「不定」を
挿入している。
玄奘の訳は世親を正確に訳しているわけではないことは
一一を丁寧に読むと誰の目にも明らかである

628:神も仏も名無しさん
20/11/28 23:36:04.18 hlv2CtnP.net
『唯識三十頌』原文による限り、現量は説かれていない。
第三能変(六識)は、それぞれが、複数の心作用と結びついて働ているとされる
一つ目の遍行は、具体的には五つあって
・触sparśa…接触のこと
・作意 manaskāra…manas心+kāra動かす→思考すること
・受vedanā…人間の感受作用
・想saṃjñā…事物の形象を心の中に思い浮かべるイメージ化作用(表象作用)
・思cetanā…意思。目標に向かう方向性を持った意思
しかも受、阿頼耶識の捨受のみならず、苦受と楽受を含む三受であると言う。
直感的知覚でも無分別でも現量でもない。
花を見れば、単に見ているだけでは無く
見ようと意識し、集中してズームインし、心地良いか悪いか感受し、
花であるとイメージを浮かべ・・・。

629:鹿野園
20/11/28 23:39:28.73 CGjAOmcc.net
>>627
>第九偈でも玄奘は、サンスクリット原文にない「不定」を挿入している。
>玄奘の訳は世親を正確に訳しているわけではないことは一一を丁寧に読むと誰の目にも明らかである

www
三受ってあるじゃんw
第六識には不定心所があるしw
むしろ正確だよw

630:鹿野園
20/11/28 23:42:01.18 CGjAOmcc.net
>>628
いや、だから捨受のみってあるでしょw
つまり、ありのままに受け止めてる(現量)って事ですよw
まぁ、現量って術語自体は確立されてなかったにしてもね。

631:神も仏も名無しさん
20/11/28 23:58:26.02 t3semzoD.net
>>620
仏教では→アビダルマでは、唯識では、因明では、でしょ
>>623
君の望む通りの答えが返ってこないから残念がっているんだろうけど世の中そうそうは思うようにならないからというのは釈迦の説法w
でこちらの話を更に延長させてもらうと阿頼耶識が捨受だから現量という大山説は他に聞いたことがないが唯識学でいう阿頼耶識自体の全体の定義も結局は人の意識がつくりだしたもの(論師によって異なるが)
識は無常である 無常である者は苦である 苦であるものは我に非ず我がものに非ず我がアートマンに非ず その言葉を聞いたものは執着を離れる…
だから「阿頼耶識が捨受だから現量」という君の見解には固執しないことにしたわ
否定も肯定もこれからはしないよ

見よ、神々並びに世人は、『非我なるものを我』と思いなし、<名称と形態>(個体)に執著している。
「これこそ真実である」と考えている。
或るものを、ああだろう、こうだろう、と考えても、そのものはそれとは異なったものとなる。
何となれば、その(愚者の)その(考え)は虚妄なのである。
過ぎ去るものは虚妄なるものであるから。
安らぎ(涅槃)は虚妄ならざるものである。
諸々の聖者はそれを真理であると知る。
かれらは実に真理をさとるが故に、快をむさぼることなく平安に帰しているのである。
(スッタニパータ 第三章 12、二種の観察)
とは言っても>>624の君のレスは傍から見てもズレてますけどねw
捨受関係ないレスになっているようでw
まあいいさw
これ以上は追及はしませんので

632:鹿野園
20/11/29 00:08:34.26 B2JCaidy.net
>>631
>仏教では→アビダルマでは、唯識では、因明では、でしょ
言語との絡みが特に云われ始めたのは龍樹(中観)からでしょ。
で、初期仏教でも支縁起で識・名色の問題として言語の絡みは言われてますけど。

633:鹿野園
20/11/29 00:19:55.98 B2JCaidy.net
>>631
>君の望む通りの答えが返ってこないから
流石にそれは最初から期待はしてませんし、それ以降の文章は意味が不明なのでコメントはしません。
で、ともあれ、私は
>常に意識は前五識に倶起し、前五識は感覚で意識は感情だから
で理解出来ましたし、唯識思想の中ではそんなに難しくない事だと思いますけどね。

634:鹿野園
20/11/29 01:07:23.59 B2JCaidy.net
しかしなんだなぁw
ハゲが玄奘三蔵の訳をdisればdisるほど、それに反比例してかの翻訳家としての非凡な才能が明らかになってくるんだけどw
一体ハゲって何者?
www

635:神も仏も名無しさん
20/11/29 07:36:45.87 +sfLDn4b.net
>>629
三受は遍行心所の受の苦楽捨の三種類の形態であり、善悪に関する不定心所とは違います
URLリンク(i.imgur.com)
この五位百法は世親の時代には完成してなかった
この五位百法の分類は成唯識論によりそれが法相宗にも取り入れられました
そして世親の唯識三十頌の9偈の原文には確かに不定はありません

636:神も仏も名無しさん
20/11/29 08:27:49.15 +sfLDn4b.net
>>632
>で、初期仏教でも支縁起で識・名色の問題として言語の絡みは言われてますけど。
ソースを提示できます?
ちなみに相応部では無明による身業(行為)・口業(言葉)・意業(思い)によって苦楽が生じるという説法はありますけどね

龍樹の心の境地が滅した時には心の対象もなくなるに不意に線香の火を後ろから背中に押し付けられた瞬間を当てはめていいものかは、さー分かりませんなあw

637:神も仏も名無しさん
20/11/29 08:32:28.55 pPm4hCa3.net
ネットをググると
「陳那の定義でいえば、
現量は概念作用を伴わず、対象そのものの個別相(自相)を認識するものである。
そのような、直接知覚によって得られた知識が正しいかどうかを判断する『規範』が
現量であり、仏のさとりはそこにあるから、もっとも重要であるとする。」
とされるが、またググると現量は差別されている
・・・・・
1.眼耳鼻舌身という5つの感官の認識によって生じる知覚(感官現量)
2.心とその認知対象(=法)によって生じる知覚(意現量)
3.(瞑想によって)集中した心の認識によって生じる知覚(瑜伽行現量)
4.第8識が諸境を認識する
・・・・
そもそも世親の『唯識三十頌』と別概念であり、これを前五識に適用することには
無理があるので、現量説を唯識派が取り入れた後、やはり差別して定義してのであろう。
バカである

638:鹿野園
20/11/29 08:46:11.81 B2JCaidy.net
>>635
心所は倶舎も法相も五位法では六つ(偏行、別境、善、煩悩、随煩悩、不定)でしょ?
不定という文字そのものは出ていないけど、原文はちゃんと六つに分けてあるでしょ?
玄奘三蔵が不定と書いて訳してなんか問題あるの?

639:鹿野園
20/11/29 08:48:53.64 B2JCaidy.net
>>636
名色の名って名称(言語)でしょ?

640:鹿野園
20/11/29 08:49:36.58 B2JCaidy.net
>>637
説明済。
しつこいよ。

641:神も仏も名無しさん
20/11/29 09:02:37.97 pPm4hCa3.net
>>626
sarvatraga遍行…すべての所に赴くこと(心理作用)なので、訳としては、
         遍(ひろ)くゆきわたる心作用(中村)
  至るところに行き渡っている心的要因(湯田)が正確である。
        湯田はウパニシャド哲学専門なので「心的要因」という訳はあれだが。
        しかし我々は別境との対比と重に法相唯識の影響から、「時間的」に
        「いつも絶えず働いている」と認識している。だが実は「場所的概念」なのである。
・触sparśa…接触のこと 対象(境)と感覚機能(根)と表象作用(識)との結びつきのこと
      「花という対象」と「目根という感覚機能」と「目識という表象作用」の結合が「触」。
・作意 manaskāra…manas心+kāra動かす→思考すること
          心が特定の一つの対象に向かうこと。心が対象に動くこと
          つまり「花という対象」に心が向かっていること
・受vedanā…人間の感受作用 本質的には対象への愛着のことであり、
       楽を感受すると心地良さがあり、感受した快を維持・再取得したいという願望を生じ
       苦を感受すると不快さから離れようとし、苦楽どちらでもないものがあるという。
・想saṃjñā…事物の形象を心の中に思い浮かべるイメージ化作用(表象作用)
       『成唯識論』では言葉による概念化と説明する。曰く
       「想とは境において像を取るを性と為し、種種の名言を施設するを業となす」
・思cetanā…意思。目標に向かう方向性を持った意思
      安慧は「心の業の形成作用である」。『成唯識論』は「思とは心をして
      造作せしむるを性と為す」

642:神も仏も名無しさん
20/11/29 09:06:00.78 pPm4hCa3.net
>>638
世親の原文は5つ。
玄奘が倶舎論から「不定」から追加したと推定されている。
>>640
反論できてないです。『唯識三十頌』に現量なんてない。
後代の後づけで、『唯識三十頌』の邪魔にしかならない

643:鹿野園
20/11/29 09:16:16.67 B2JCaidy.net
>>635
>三受は遍行心所の受の苦楽捨の三種類の形態であり、善悪に関する不定心所とは違います
知ってます。

644:神も仏も名無しさん
20/11/29 09:29:02.31 +sfLDn4b.net
>>638
唯識三十頌の原文では心所の大分類は5つですよ
14偈で玄奘三蔵訳では不定にカテゴライズされる眠や尋や伺は、原文では5番目の副次的な煩悩(随煩悩)にカテゴライズされています
世親が有部の五位七五法を忘れていたのかどうかは分かりません

>>639
>名色の名って名称(言語)でしょ?
そのような訳し方を鬼和尚がした時に十二支縁起を知らないのか名色とは心と体だと鬼和尚を侮蔑していたのは大山さんでしたね

645:神も仏も名無しさん
20/11/29 09:30:22.93 +sfLDn4b.net
>>643
知ってるなら
>>629
>三受ってあるじゃんw
ってどういう意味で入れたの?

646:鹿野園
20/11/29 09:37:17.80 c7NAhTB7.net
>>642
>世親の原文は5つ。
六つですけどw
>>642
>反論できてないです。『唯識三十頌』に現量なんてない。
>後代の後づけで、『唯識三十頌』の邪魔にしかならない
ですから、現量という術後は後の時代に確立されたにしても、直接知覚というのは既に云われてるのだし、阿頼耶識何現量であるのは当たり前でしょ?

647:鹿野園
20/11/29 09:41:17.42 B2JCaidy.net
>>644
六つありますけど?
それと馬鹿鬼の事とか知らないけどw

648:鹿野園
20/11/29 09:43:50.21 B2JCaidy.net
>>645
仏教は基本的にAか非Aかそのどちらでもないって分類をしてるでしょ?
であれば不定というものがなければおかしいと思った次第です。

649:神も仏も名無しさん
20/11/29 09:48:46.73 pPm4hCa3.net
>>647
子供みたいなことを言ってないで
sarvatragair viniyataiH kusalais caitasair asau/
saMprayuktA tathA klesair upaklesais trivedanA//
のどこに不定があるのかを
具体的に指摘しないと話になりません。

650:鹿野園
20/11/29 09:52:29.02 B2JCaidy.net
なんだか未だ燻ってる様だけど、阿頼耶識は現量でしょ?
違いますか?
直接知覚という概念は世親の頃にはおおよそ確立されており、その直接知覚概念が陳那によって因明(論理学)に応用されるにつき更に厳格化されたわけでしょ?

651:神も仏も名無しさん
20/11/29 09:55:35.86 pPm4hCa3.net
ちなみに
sarvatraga遍行とviniyata 別境とkusala善がセットになっているが
「A」か「非A」か「そのどちらでもない」という分類と違いますよ
またklesa煩悩とupaklesa随煩悩とは
「A」「非A」ではなくて「A」と「a」ですわ。
鹿野園さんは、先入観をまず捨てないと、本文を読解できないですよ

652:鹿野園
20/11/29 09:57:14.71 B2JCaidy.net
>>647

>>626
>aこれは遍行と別境と善と心所と相応する。同様に煩悩と随煩悩とも[相応するの]である。
1.偏行
2.別境
3.善
4.心所(に不定がある。)
5.煩悩
6.随煩悩

653:神も仏も名無しさん
20/11/29 09:58:18.09 pPm4hCa3.net
>>650
世親の『唯識三十頌』本文に現量という概念はありますか?
イエスかノーでどうぞ。
後代の法相唯識の解釈はまずどうでもいいんです。
『唯識』を正確に学びましょう。

654:鹿野園
20/11/29 09:59:30.12 B2JCaidy.net
>>651
???
善・不善・無記や楽受・苦受・捨受等の話ですけど?

655:鹿野園
20/11/29 10:01:05.11 B2JCaidy.net
>>653
あるでしょ。
直接知覚という概念ですから。

656:神も仏も名無しさん
20/11/29 10:01:13.91 pPm4hCa3.net
×aこれは遍行と別境と善と心所と相応する。同様に煩悩と随煩悩とも[相応するの]である。
〇aこれは遍行と別境と善との心所と相応する。同様に煩悩と随煩悩とも[相応するの]である。
誤コピーにより、誤解させたようですね。
「遍行と別境と善」との心所です。

657:神も仏も名無しさん
20/11/29 10:02:31.90 pPm4hCa3.net
>>655
いいえ、ありません。

658:鹿野園
20/11/29 10:05:25.18 B2JCaidy.net
訳のわからん方ですねぇ?
唯識には阿頼耶識が現量という概念はなくて、法相宗にはあるとでも言いたいのかなぁ?
直接知覚=現量なんですけど?

659:鹿野園
20/11/29 10:11:13.02 B2JCaidy.net
>>657
直接知覚ってありますけど?

660:鹿野園
20/11/29 10:15:18.13 B2JCaidy.net
考え方が変なんですよ。
"お釈迦様の時代には仏教なんて概念はなかった、だからお釈迦様の教えは仏教じゃない"って詭弁に等しいんです。

661:鹿野園
20/11/29 10:21:44.28 B2JCaidy.net
現量って直接知覚という概念も包括してるんでしょ?
で、阿頼耶識は直接知覚ですから現量概念に含まれる訳です。
当たり前なんですけど……

662:鹿野園
20/11/29 10:39:40.32 B2JCaidy.net
>>656
そういうのは極力勘弁して下さい。
昨日から出張中で、貴殿等が出された文章をそのまま信じて疑義に思った事をレスしてるんです。
前提となる文章が偽であれば……分かりますよね?
ちなみに、こうした訳もあり、ここでは六つになってます。
>それは、至るところに行き渡っている心的要因、特に定められているもの、メリットのあるもの、苦悩/煩悩および副次的苦悩/煩悩と結び付けられている。
>それは 3種類の感覚を有する。
>(URLリンク(human.kanagawa-u.ac.jp))


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