暇つぶし2chat PSY
- 暇つぶし2ch205:神も仏も名無しさん
20/08/26 12:02:50 Ksd3NYoS.net
否定されている自我(アートマン)

 ブッダが否定した自我、あるいはアートマンという言葉のほとんどすべては、無我を説明する糸口としているだけと分かります。たとえばパーリ無我相経には「不変でない物、常に変化する物、自分の思いどおりにならない物、これらを無我と言う」という内容があります。しかし「反対のものが自我である」と説明されていません。

 しかし私たちは、論理的に反対のものを自我とすることができると容認しています。これが歪曲した理解を生じさせ、自我があってほしい人たちが途端に「涅槃などの無為であるタンマは不変で変化しないので、確実に自我に分類されるべきだ」と言います。

 そしてブッダが『自分は自分の拠り所』と言われている「自分」という言葉は、これに違いないと主張します。だからいつも「涅槃は自我であり、自分である」と執着します。この人たちは、涅槃は誰の威力下にもなく、どうしたいと望むこともできず、そのうえ誰かの望みより上にあることを忘れています。

 無我相経を根拠に涅槃あるいは無為を自我と捉えるのは、聞いて納得できません。つまり私は、執着を否定する「意味」である自我はどんな状態か、知ることができないということです。

 パーリ小部その他に『すべてのタンマは無我である』とあるのは、すべてのものを否定しているのであって、世俗で言っている自我はどのようか、あるいは人々が何を自我と執着しているかも知ることはできません。
そこで簡単に、ブッダも世俗の言い方と言っている、世俗で自我と呼んでいるものは何を表しているのか、つまり「体と心」か、あるいは何かを問題にしてみます。

 答えはパーリのポッタパーダ経にブッダの明解な言葉があるので、簡単に明白に分かるように詳しく学ばなければなりません。ここではブッダバーシタ(ブッダの言葉)の形で幾つかの部分に分けて取り上げます。かなり長いですが、詳細な考察のため我慢してください。

URLリンク(buddhadasa.hahaue.com)

なお、某デタラメ原始仏典和訳サイトではポッタパーダ経(布?婆樓経)の訳として
・釈迦が象使いのチッタに直接「ここまで、最高の美女を連れて来なさい」と言ったり
・もっと酷いのは「行者よ、(真我アートマンは)有るとも言え、無いとも言える。無我を観じられないと、真我を感じられない。これは、確めるべきであり、語るべきではない。」と言ったり
・また「真我を説くのは、真我を解くためであり、真我に囚われて、真我を論じるためではない。越えるべきものに、囚われるのは、転倒である」と言ったり
と釈迦がその経典で言ってないことが書いてあり読者の誤解を大いに招く訳となっているが、原文ではそう言ってないので注意。

そのデタラメ和訳をありがたがっている人は別にそのままありがたがっていれば良い

ただ他の皆さんは、ポッタパーダ経に本当に書いてあることは違うということは知っておいて損はない


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