20/08/25 16:14:15.29 /BMl99B6.net
答
世界悉檀においては、人は存在すると言える。しかし、第一義悉檀においてはそうではない。
問
第一義悉檀は真実であるがゆえに、第一義というのではないか。だとすれば、他の悉檀は真実ではないのか。
答
そうではない。四悉檀はそれぞれ真実である。実相、法性、実際は世界悉檀においては存在しないと言われるが、第一義悉檀においては存在すると言われる。
人もこれと同じである。世界悉檀においては存在すると言われ、第一義悉檀においては存在しないと言われる。何故であろうか。
人は五種類の要素が集まることで人となる。
たとえば、乳について考えてみよう。乳は色や香りや味や感触の集合体として存在している。もしここに乳が存在しなければ、乳の色や香りや味や感触は存在しないだろう。いま、それらの乳の諸要素があるから、ここに乳が存在している。
ここで、乳が存在する・しないという意味は、たとえば一人の人に二つ目の頭や三つ目の手が存在しない、ということとは違う。その場合は架空の存在に名前を与えているだけである。こういったことを、世界悉檀による説明という。
では、各各為人悉檀とは何であろうか。人の心や行いに合わせて教えを説くが、そのなかで聴いているところもあり、聴いていないところもある。経の中に説くように、善悪の行いのために、人間界や地獄などの世界に生まれ、それぞれの対象から苦しみや楽しみを受ける。