20/08/22 17:55:25 p9FZYugM.net
===== キチガイマンとのアートマンを巡る見解の総括(その2) =====
で、ウパニシャッドの説く真我は置いといて、仏教ではその真我(本当の自己)についてどう見ていたのでしょうか?
>初期仏教では、決してアートマンを認めていなかったわけではありません。
>倫理的な行為の主体として、自己(アートマン)を積極的に認めていたのです。
>自己(アートマン)が善悪の行為の主体であるからこそ、修行者は真の自己を求めて修行に励み努めなければならないのです。
>(中村元 .ブッダ伝 生涯と思想(角川ソフィア文庫)
>ブッダは、我(アートマン)を形而上学的に実体視することを極力排除しました。
>ただし、「自己に頼れ」というときの自己(アートマン)は、実践活動の主体としての我、自己自身として認めていました。
>(中村元 .ブッダ伝 生涯と思想(角川ソフィア文庫)
つまり、形而上学上問題としてのアートマンについては言及することなく倫理・実践の主体として
>もっとも古い時期の経典によると、「わがもの」「われの所有である」という考えを捨てることが、いわゆる「無我」、つまり「非我」であると説かれています。
>(中村元 .ブッダ伝 生涯と思想(角川ソフィア文庫)
>最初期の仏教では、このように我執とは我に属さないものを我に従属すると思いこむこと、自分のものでないものを自分のものと見なすことをさしています。
>ここでも注目されることは、所有の観念を離れるという無我説は、ジャイナ教、バラモン教の所説とも同じでありました。
とあるように、所有の観念から離れる事を勧めているのでした。