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大我
このように仏教の教えは、今日ここにいる「我」自身がとらえらるべき何ものかとしてあるのではなくして、縁起においてあることを、いろいろな形で追及してゆく。空性というのも、如来蔵というのも、仏性というのも、この「我」の追及のうえにもとめられた姿に名付けたものである。
真我とは大我ともいわれ「パラマートマン」(parama-?tman)であり、最高の我の意味である。もちろん、この我は外道の我でなく、仏果の徳の上につけた名である。すなわち涅槃といわれるさとりは真実であるからと、その悟りの世界はいっさいの繋縛をはなれて完全自由であるからとの両面より、さとりのうえに大我の徳を認めるのである。
自在の義なり、凡夫は自己の身心を認めて我となせども、身心一も自在なるものなし、我と思ふものは迷倒の見のみ、我の実あることなし。此の理を悟るを小乗の知見とす、而して彼れ但凡夫の倒我小我なきを知て更に佛の眞我あり大我あるを知らざるなり、即ち佛所証の涅槃は真我なり、大我なり、佛は八自在を得て一切の繋累を離れ、万法に於て自在なり、之を涅槃の大我とす。『涅槃経』一部の所明是なり。
有(2)大我(1)故名(2)大涅槃(1)。 〔涅槃経23〕
汝獲(2)蕪等利(1)。位同(2)大我(1)。 〔大日経1〕
大我謂諸如來成-(2)就八自在我(1)。於(レ)法得(2)自在(1)者。 〔大日経疏5〕
今復約(2)眞我(1)明(2)心(ノ)實相(1)。此宗辨(レ)義即以(レ)心爲(2)如來應正等覺(1)。所謂内心(ノ)大我也。 〔〃1〕 唯有(2)大日如來(1)。於(2)無我中(1)得(2)大我(1)也。 〔吽字義〕
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