21/06/03 08:16:02.79 KWWdsjMm.net
聞法熏習って言葉があるんです。
唯識の視座からいえば、止観という時、止の時は六識の作用が止んでいるから煩悩(有漏種子)は現行しません。現行しないなら当然に煩悩は滅しませんよね。
であれば、現行してない時にそれを滅する他なく、滅するのは対治としての無漏の種子であるので、それを阿頼耶識中に置くという事となるという道理です。
で、無漏の種子とは、真理の世界、すなわち法界から流れ出た聴聞の余習(śrutavāsanā聞熏習)であるといわれております(『摂大乗論』所知依分)。
つまり、問処の道得なのですかね。