【仏教】新・仏教思想のスレ【思想】at PSY
【仏教】新・仏教思想のスレ【思想】 - 暇つぶし2ch300:鹿野園
21/03/24 07:02:36.56 jajt6CeI.net
四種釈義
依名釈義(言葉によって説明する)
因縁釈義(反対の概念によって説明する。善を悪によって表す等。互相釈義)
見道釈義(無名相の法をあえて言葉で説明する)
無方釈義(自在に解釈し説明する)

301:鹿野園
21/03/24 07:08:21.48 jajt6CeI.net
興味深いのは、三論宗の修道論です。
あらゆる二元対立の分別を否定するということは、迷・悟の対立をも否定することになり、したがって成道するとかしないとかいうことも本来ないことになります。
言葉の世界では、迷いに対するが故に悟りを立て、悟りに対して迷いがあるということになりますが、実際に悟りが成就すれば、迷いなどもともとなかったのだと気づかされます。
迷いがないとすれば、何の悟りがあろうかということにもなるでしょう。
本当は、迷いもなく、悟りもないのであり、迷・悟は本より無にして、本来寂滅なのだ、迷・悟は仮に言葉で説いたに過ぎず、無得正観こそすばらしい究極の真理の世界なのだ、と主張することになります。
(日本仏教 思想のあゆみ 竹村牧男)

302:鹿野園
21/03/25 22:46:28.06 clpjjP5Z.net
理 即(未断惑の位)…凡夫で仏性があっても自覚できないままの位。
名字即(未断惑の位)…経論や師の導きで、自己が本来、仏であることを信解する位。
観行即(伏惑の位)…天台の円頓の教によって止観行を修行する位。
相似即(見思塵沙を断ずる位)…覚りの智慧に似た心境を実現し六根清浄の徳を得る位。
分証即(断惑無明中道の位)…覚りの智慧を発して仏性を自覚し、一部の無明を断じる位。
究竟即(断惑無明中道の位)…究極的で完全な真実の智慧を実現する位。妙覚。

303:神も仏も名無しさん
21/03/26 00:19:42.17 VkPcV6lN.net
草木は依報、衆生は正報なり。依報は依報ながら、十界の徳を施し、正報は正報ながら、依報の徳を施すなり。
もし草木成仏せば、依報減ず。三千世界の器世間に減少あらんや。
故に、草木成仏とは巧に似て、還って浅に似たり。
……その体を捨てずして、しかも己心所具の法を施設するが故に、徳を法界に施すなり。
もし当体を改むれば、只だ仏界の一界なり、常住の十界まったく無き故に。草木も常住なり、衆生も常住なり、五陰も常住なり。
よくよく、これを思うべし。 (『恵心僧都全集』・三巻・四八一頁)

304:鹿野園
21/03/26 00:28:29.27 VkPcV6lN.net
賊の馬に乗って賊を追うすばらしさだ。

305:鹿野園
21/03/29 13:49:50.11 coGuJRCc.net
阿頼耶識の根拠は、言語によって構築された仮構(虚妄)であるから、その根拠の転換、すなわち真如への転識が要請される。

306:鹿野園
21/03/29 14:25:30.97 coGuJRCc.net
止観という時、止の時は六識の作用が止んでいるから煩悩(有漏種子)は現行しない。
現行しないなら煩悩は滅しない。
であれば、現行してない時にそれを滅する他なく、滅するのは対治としての無漏の種子であるから、それを阿頼耶識中に置くという事となる。

307:鹿野園
21/03/29 14:26:48.27 coGuJRCc.net
無漏の種子とは、真理の世界、すなわち法界から流れ出た聴聞の余習(śrutavāsanā聞熏習)であるといわれる(『摂大乗論』所知依分)。

308:鹿野園
21/03/29 15:42:13.28 coGuJRCc.net
問処の道得

309:鹿野園
21/04/02 01:47:59.41 PaAf1Hfl.net
>「相関主義」というのは、主体から分離された「対象それ自体」を把握するのは不可能であり、主体の側も常に対象と関係づけられ、それによって規定されている、という見方だ。
>(現代哲学の最前線)

>無論、これは狭い意味での宗教に限ったことではない。
>絶対的な基準がないといったん〝悟って〟しまうと、あらゆる価値観や世界観が、他の人たちには相容れない、自分なりの信仰にまい進しようとする。
>このように考えると、西欧近代を支えてきた啓蒙的理性の解体が進行したことによって生じたポストモダン的な相対主義・ニヒリズムの状況─リオタール(一九二四~九八)の表現を借りれば、啓蒙という「大きな物語 grands rcits」の終焉─と並行して、宗教的原理主義の運動やスピリチュアリズムが台頭している背景が分かりやすくなる。
>(現代哲学の最前線)

310:鹿野園
21/04/02 02:00:55.54 PaAf1Hfl.net
>メイヤスーは、相関主義的な枠組みを脱し、「ある絶対的なもの un absolu」に到達する道を探るべきだと主張する。
>しかし、論証抜きに、「神」のような特定の属性を持った「絶対者」を想定し、「○○は存在する。それは事実だ」と断言するのであれば、それは単なる形而上学的独断論にすぎない。
>そこでメイヤスーは、相関主義的な思考を徹底することで、これまでの相関主義的な哲学が依拠してきた諸前提を打破し、「絶対的なもの」を見いだすという逆説的な戦略を打ち出す。

311:鹿野園
21/04/02 02:02:21.99 PaAf1Hfl.net
これは、あらゆる存在者にはそれが存在する十分な理由があるという、「理由律 principe de raison」(ライプニッツ)の否定を意味する。
全ての存在者は、偶然的(contingent)であり、この「偶然性」にはいかなる制約もなく、絶対的である。
これをメイヤスーは「理由律」との対比で、「事実論性の原理 principe de factualit」と呼ぶ。
いかなる理由もなく、単に〝事実〟としてそうなっているということである。
「事実性 facticit�」ではなく、「事実論性」という奇妙な言葉を使っているのは、対象や出来事に関する個別の事実(事実性)を成り立せている理由が、それらが属する世界のどこにもなく、世界自体が偶然の事実としてそうなっている、というメタレベルの問題だからである。
当然、全ての存在者が「偶然的」だとすれば、どうやって「実在」について考えたらいいのか、という疑問が浮かぶ。
そこでメイヤスーは、いかなる存在者も(主体である私にとって)現にあるように存在する必然性がなく、全く異なったあり方に変容したり、存在していた痕跡もなくなる可能性があることを、「ハイパーカオス」という能動的な状態として読み替える。
「ハイパーカオス」という「絶対者」にあっては、あらゆることが可能であり、何も不可能ではない。
それはあらゆる事物や世界を破壊し、非論理的な怪物も生み出せる。
狂乱する無秩序な変化を起こすこともできれば、不変不動の宇宙を生み出すこともできる。それはある意味、「全能なるもの」だ。
ただし、これまでの哲学者が前提としていた神とは違って、善や理性の狡知のようなものによって特徴づけられることなく、私たちの理性に判明な観念を与えて導いてくれるわけでもない。
いかなる法にも従わない。

312:鹿野園
21/04/02 02:06:18.60 PaAf1Hfl.net
世界は超(ハイパー)カオス的であり、無矛盾律は保持されるが、充足理由律は打ち捨てられるのである。
(ウィキ引用)

313:鹿野園
21/04/02 02:09:03.21 PaAf1Hfl.net
この見方に従う限り、「主体」も「対象」も、それ自体として自立的に「実在」しているとは言えない。
カントの影響で「相関主義」を前提としている人たちは、最初から「実在」について語ることを諦める傾向にある。
私たちは自らの意識と言語に囚われており、その〝外〟に出て、対象の「実在」を知ることは不可能とされてきた。
カントの用語で言えば、「物それ自体」は認識不可能だということである。

314:鹿野園
21/04/02 02:14:30.54 PaAf1Hfl.net
相関主義」の下では、主観を越えた真理や価値に到達できる可能性は否定される。
そうなると、各人や共同体がそれぞれに抱いてる自分(たち)なりの信仰によって、絶対的なものに到達しようとするのを、普遍的な論理によって批判することはできない。

315:鹿野園
21/04/03 16:54:23.82 g4dKjvhm.net
ハーマンの四つの極み
「実在的対象 Real Object (RO)」
「実在的諸性質 Real Qualities (RQ)」
「感覚的対象 Sensual Object (SO)」
「感覚的諸性質 Sensual Qualities (SQ)」
O同士の結合(連結 junction):SO-SO、RO-RO、SO-RO、
Q同士の結合(放射 radiation):SQ-SQ、RQ-RQ、SQ-RQの、
併せて一〇種類の結合が考えられる。
十如是
相・性・体・力・作・因・縁・果・報・本末究竟等

316:鹿野園
21/04/03 16:55:42.41 g4dKjvhm.net
OとQの組み合わせから、
SO-SQ:「時間」、
RO-SQ:「空間」、
RO-RQ:「本質」、
SO-RQ:「形相」、
の四つのパターンが導き出される。

317:鹿野園
21/04/03 20:51:57.91 g4dKjvhm.net
唯仏と仏と乃し能く諸法の実相を究尽したまえり。
所謂諸法の如是相・如是性・如是体・如是力・如是作・如是因・如是縁・如是果・如是報・如是本末究竟等なり
十如是とは、すべてのものが相・性・体・力・作・因・縁・果・報・本末究竟等の一〇個のしかたでもって存在し、生起するということである。
相は外なる様相、
性は内なる性質、
体は外相・内性をあわせた全体、
力は潜在的な能力、作は顕在的な作用、
因はものの生起する直接的原因、
縁は因を助ける間接的原因(条件)、
果は因縁によって生じた結果、
報は結果が事実となって外に現われ出ること、
本末究竟等は第一の相から第九の報まで関係しあい、一貫していることである。

318:鹿野園
21/04/03 20:52:21.02 g4dKjvhm.net
この教えは厭い離れることに導かず、貪りを離れることに導かず、(煩悩を)滅することに導かず、証知に導かず、正しい目覚めに導かず、ニルヴァーナに導かない。
ただ、「なにもないという境地」「想いがあるのでもなく、ないのでもない境地」に達するのみであると。
そこで、修行僧たちよ、わたしはその教えに満足せず、厭って、その教えから去った。
(『中部経典』)

319:鹿野園
21/04/03 20:53:27.92 g4dKjvhm.net
超越的な何ものかと結託して、それを根拠に「自己」を肯定する(たとえば「真の自己」という観念)方法は、所詮「自己」という錯覚から修行者を離脱させない。だから、シッダッタは、「その教えから去った」のである。

320:鹿野園
21/04/03 20:56:17.71 g4dKjvhm.net
これはある意味で、「自己」の錯覚を解消する方法のように見える。
ところが、まさに特異な領域を設定したその瞬間に、錯覚に陥る。
目指している特異な領域が実在して、そこに到達したのだという「判断」を行うには、自意識と言語機能を使うほかないからだ。

321:鹿野園
21/04/03 20:57:10.78 g4dKjvhm.net
いや、その「判断」は「超越的で特異な自意識と言語機能が行う」と言っても、事情は変わらない。
その「特異さ」の判別は何が行うかが問われ続け、無限遡及になるほかはない。
「超越」はしばしば、「言葉を超える真理」と説明される。
しかし、本当に言葉を超えれば、もはや語り・考える意味も手段もない。
だから、「言葉を超える真理」は、まさにそう語られた瞬間から、意味不明の空虚な言葉としてしかありえないのである

322:鹿野園
21/04/04 01:45:33.95 0nQ9rA4x.net
「仏」とは、「仏のように行為する」実存の呼称である、ということになる。
このとき、「悟り」も「涅槃」も現実的には何であるか認識不能だから、「成仏」は「自己」にはできない。「自己」に可能なのは、「仏になろうと修行し続ける」主体として実存することである。
すなわち、「仏」は「仏となろうとする」主体の実存様式である以外に、現実化しないのだ。
したがって、修行者が「成仏」したり「悟る」ことはない。
なぜなら、ある時点で「成仏した」「悟った」と「わかった」瞬間、それが認識である以上は概念化するわけで、結局は超越理念として扱われるからである。
それは「観無常」の立場が決して許容しない事態である。
そうなると、成り行きは「成仏」「悟り」が無限遠に後退し、現実的に無効になり、修行や坐禅は事実上、ただ坐禅する、ただ修行する、ということになる。「成仏」と「悟り」は坐禅・修行という行為そのものへと脱落されるのだ。

323:鹿野園
21/04/04 09:30:43.30 0nQ9rA4x.net
義に依って文を読むに及そ三転有り。
一に云わく、是相如、是性如、乃至是報如なり。
二に云わく、如是相、如是性、乃至如是報なり。
三に云わく、相如是、性如是、乃至報如是なり。
若し皆如と称するは、如は不異と名づく、即空の義なり。
若し如是相、如是性と作すは、空の相性を点じて名字施設し、�不同なるは即仮の義なり。
若し相如是と作すは、中道実相の是に如す。即中の義なり
如に約して空を明かさば一空一切空なり。
如を転じて相を明かさば一仮一切仮なり。
是に就いて中を論ずれば一中一切中なり。
一二三に非ずして而も一二三、不縦不横なるを名づけて実相と為す

324:鹿野園
21/04/04 09:32:29.23 0nQ9rA4x.net
若し如の義を作さば、初後皆空なるを等と為す。
若し性相の義を作さば、初後相在るを等と為す。
若し中の義を作さば、初後皆実相なるを等と為す。
三法具足するを究竟等と為す。
夫れ究竟とは、中乃ち究竟、即ち是れ実相なるを等と為す。

325:鹿野園
21/04/04 09:47:50.61 0nQ9rA4x.net
� ?

326:鹿野園
21/04/04 09:48:52.43 0nQ9rA4x.net
りい 曲がりくねって連なるさま。

327:鹿野園
21/04/04 09:56:56.07 0nQ9rA4x.net
鳩摩羅什訳の『妙法蓮華経』を読んでこられた方には、「諸法実相十如是」はどうなっているの? と疑問を持たれるかもしれない。サンスクリット原典では十如是に相当する箇所は、「それらの諸々の法は、①何であり、②どのようにあり、③どのようなものであり、④どのような特徴を持ち、⑤どのような固有の性質を持つのか」という五つの疑問節になっている。これまで説いてきた諸々の教え(諸々の法)については、「如来だけが明瞭で明らかに見ているのである」と述べ、三乗の教えの本質を知っているのは如来であり、「三乗の教えは、一仏乗に導くための方便として説かれたものである」ことを明かすための前段階の言葉になっている。 鳩摩羅什は、「諸々の法」(諸法)を「教え」から「あらゆるものごと」に広げて一般論化して、相(外面に現れた姿・形)、性(内在的性質)、体(本質・本体)、力(内在的能力)、作(力の具体的顕現)、因(内在的な直接原因)、縁(補助的間接原因)、果(因・縁の和合による内在的結果)、報(果の具体的顕現)、本末究竟等(相から報までのすべてが融合していること)─という存在の在り方、因果の理法などの十如是として展開していたといえよう。

328:鹿野園
21/04/04 12:38:16.67 0nQ9rA4x.net
仏教は最初から、一元的な創造説や流出説を因果の道理に反するものとして、強く批判した。また、同一性論もとらない。
だから、同一とか一体ということばは、できるだけさけ、二ならず(不二)という表現にとどめたのである。
そうして、その不二は直ちに二(不二而二)であるとしたのである。

329:鹿野園
21/04/04 22:52:06.23 0nQ9rA4x.net
鑑覚の病

330:鹿野園
21/04/04 23:53:32.89 0nQ9rA4x.net
無自性の説明として
>それ自身で孤立的に存在する本体もしくは独立している実体を「自性」といい、それを否定して「無自性」が説かれる。
>(wiki daruma から)

331:鹿野園
21/04/07 03:27:07.32 8PYkdpnw.net
キチガイの発狂観察が面白いから、俺のした質問に対する自身の見解を茲に書いておこうwww
で、その質問って ”>お前は先程 ”長短” って言ったが、そうした概念は何によって滅するって龍樹は言ってるのかな?”だよな。
こんなの超簡単明瞭だろwww
”智慧”だよ。
以下根拠を…って云うことの程でもないし、そんなのいくらでもあるから乗せるまでもないけどなw

332:鹿野園
21/04/07 03:31:31.12 liYGAK35.net
URLリンク(i.imgur.com)
URLリンク(i.imgur.com)
URLリンク(i.imgur.com)

333:神も仏も名無しさん
21/04/07 03:37:45.68 wAdqQTO9.net
仏教とキリスト教って、
東洋と西洋の違いってこと?

334:鹿野園
21/04/07 03:48:37.10 8PYkdpnw.net
でだ、
宝行王正論
90>個々に独立して存在しないのならば、諸元素には、個別の特質がどうしてありえましょうか。
 >個々に独立して存在しないものをいかに多く集めても(個別の特質は)存在しません(が)、
 >それらの特質を世間の常識(世俗)として説くのです。
92>(前略)因・果、時、長・短など(という形)、名称、名称をもつものも同じであります。
93>(前略)長・短、細・粗、善(・悪・無記)などは、識の中において滅する、牟尼(仏陀)は説かれています。
96>無知のために識の中に以前に生じたものすべてが、知によって識のなかでのちにこのように滅するのであります。
97>この世のものはすべて、識という火の薪である、といわれます。それらは正しい思惟の炎をそなえた(知の火)によって焼かれて、寂滅します。
とある。

335:神も仏も名無しさん
21/04/07 04:41:16.12 6u+JiWA4.net
ふむ

336:神も仏も名無しさん
21/04/07 04:45:52.52 OmnSYUFa.net
難解です

337:神も仏も名無しさん
21/04/07 04:46:31.53 vps9inIV.net
西洋対東洋?

338:神も仏も名無しさん
21/04/07 04:46:36.12 u2QJuLPP.net
ここは結構専門的だな。ふむふむ。

339:神も仏も名無しさん
21/04/07 04:47:00.62 khMhR7kN.net
かなり難しいっすね。。。

340:鹿野園
21/04/08 04:43:47.10 8XGP37OZ.net
>「一切の形成されたものは空である」と明らかな知慧をもって観るときに、ひとは苦しみから遠ざかり離れる。これこそ人が清らかになる道である。
>(ウダーナヴァルガ)
>また、如来の法座とは何か。あらゆるものごと(一切法)が空であるということ(空性)に悟入することが如来の法座である。良家の息子は、その如来の座に坐ってこの法門を四衆に説き示すべきである。
(法華経 法師品)
>また、「常住」ということに執着して(無常を常住と)顚倒する人々は、諸々のものが相似通って連続していくということを知らないのである。このような人が、無常であると観ずることが有るなら、これは、対治悉檀なのであって、第一義(悉檀)なのではない。どうしてか。一切の法は自性が空であるから。偈に説いていうとおりである。
>(大智度論)
>聖観自在菩薩は、深淵なる智慧の完成(般若波羅蜜)において行を行じながら、(次のように)観察した、「五つの集まり(五蘊)(である)、そして、それらを、それ自身(自性)空であると見た」。
>(般若心経)

341:鹿野園
21/04/08 20:11:17.54 pAp5BwY5.net
中論24章18偈
 >[諸々のものが何かを]縁として生起すること(縁起)を、我々は[諸々のものが]空であること(空性)を言う。
 >それ(縁起)は[何かを]因として[何かが]概念設定されること(因施設)であり、その同じものが中道である。
 >(龍樹「根本中頌」を読む より)
上記について月称は『プラサンナパダー(浄明句論)』で
 >縁起によって事物の施設がある。
 >現象が縁起することを根拠に空性が成立するが、現象そのものは、多くの因と縁によって造り出された仮の個物の集合体にすぎない。
 >この場合、仮の個物(=因施設,仮設)は実体あるものでなく、無自性である。
と解説してる。

342:鹿野園
21/04/08 20:35:14.43 pAp5BwY5.net
>まず、基本的に縁起というのは、時間制を排除して考えなくてはならない
>仏教の原則は、時間と空間性の否定であるから。
これ、正気の沙汰ではないんです😯
そもそも縁起とは”縁りて起こること”です。
つまり、継時的な時間関係(因施設)なんです。

343:鹿野園
21/04/08 21:39:59.44 pAp5BwY5.net
諸仏の説法は、二諦によっておこなわれる。
世俗諦と勝義諦とである。
これら二種の諦の区別を知らない人々は、ブッダの教えにおける深い真実を理解しない。
ことばによる説明によらなくては、勝義は説かれ得ない。
勝義にもとづかなくては、ニルヴァーナはさとられない。
(龍樹 「中論」)

344:鹿野園
21/04/10 01:37:54.72 6v2oh8xX.net
無という0と非有非無の0。

345:鹿野園
21/04/10 01:47:27.34 6v2oh8xX.net
振動、振幅、超弦理論みたいなものかもなw

346:鹿野園
21/04/11 00:59:07.99 6CBmtZO+.net
過去・現在・未来と、時が一つの方向に流れていくなどと思うのは、仏道を専一に学んでいないからだと禅師は云う。三つの時制は実は「つらなりながら時時」と並んでおり、それを我々は「経歴(きょうりゃく)」している。
URLリンク(genyu-sokyu.com)
玄侑宗久公式サイト

347:鹿野園
21/04/11 18:16:19.73 ECeaLBBO.net
諸行はまことに常なることなし
生滅をもってその性となすゆえなり
生じたるものはまたかならず滅す
その生滅の静まれるこそ楽しけれ
(雑阿含経 歓喜園)
一切の有為は有刹那なり(倶舎論)
刹那
 ~きわめて短い時間、瞬間、最も短い時間の単位(角川仏教辞典)
 ~「体を得る無間に滅するなり」(倶舎論)
  ~無間→無限小間隔(角川ソフィア文庫 仏教の思想 存在の分析 アビダルマ)
 ~「法(有為法)は自然に(おのずから)滅す。是れ、壊する性なるが故なり。自然に滅するが故に、わずかに生じて即ち滅す。わずかに生じて即ち滅するによりて、刹那滅の義成ず」(倶舎論&角川ソフィア文庫 仏教の思想 存在の分析 アビダルマ))

348:鹿野園
21/04/11 18:26:22.60 ECeaLBBO.net
有部の五位七十五法には時間がない。
つまり、法有を主張する有部に於いては時間とは空性のものとして認識されていた。
また一方、法相宗(唯識)では、時間は(心)不相応行法に分類されている。
大乗では法空を説くので同じく空性として認識されている。

349:鹿野園
21/04/11 18:54:20.73 ECeaLBBO.net
倶舎論では、未来・現在・過去の三刹那を持って時間と考える。
(仏教は宇宙をどう見たか 佐々木閑)
時間
 一般に仏教では時間の実体化を極力廃止する方向にあった。
 そして、諸行無常の原理、つまり物事は常に変化するという考え方と時間論とが密接に関連していった。
有部は、(中略)時間は刹那、刹那に分けられ、現在は一刹那のみである。
ヴァスミトラによれば、未来・現在・過去の区分は、作用のあるかないかによる。

350:鹿野園
21/04/11 19:05:03.42 ECeaLBBO.net
大乗仏教になると、時間は執着をもたらすものとして超越されるべきものと言う考えが明確になる。
(中略)龍樹は、過去・現在・未来は相対的にあるものであり、それ自体としてあるものではなく、固定的に認識される時間はない、と説き、量的な時間を否定した。
(中略)唯識思想においては、(中略)時間も識の流れに現れる表象にすぎない。そして、過去・未来・現在の位置づけは、因果関係によって説明される。

351:鹿野園
21/04/11 19:12:40.03 ECeaLBBO.net
時間論そのものとしては、『正法眼蔵』有時における道元の時間論が注目される。(中略)この立場においては、森羅万象すべて、存在は時間として顕現するものと考えられる。

352:鹿野園
21/04/12 00:33:35.12 BI7RjZjz.net
>一切の有為は有刹那なり(倶舎論)
>ちなみに、有部の五位七十五法には時間というダルマはありません。
>また一方、法相宗(唯識)では、時間は(心)不相応行法に分類されています。
>大乗仏教では法空を説くのですが、ここは有部と同じく空性として認識されているということですね😯
時間に幅があるとして、その幅(時間)を測るのはなにものなのだろうか?
つまり、時間が時間を測るってことなのだろうか?
時間そのものに時間ってあるのだろうか?
認識するものは認識されないのだから、時間に時間はないのでは?
認識したときに時間はあるけど、認識されないときに時間はない。
時間に実体ない。
実体がないものに幅はあるのだろうか?
表象が刹那生滅する。
表象とは刹那生滅。表象とは存在、存在とは時間。存在とは言語。
表象があることは確かに認識されている。

353:鹿野園
21/04/12 00:46:27.75 BI7RjZjz.net
刹那とは念とも訳されるという。
生じた念はこれ以上分割できない。
すでに生じたから。
すでに滅したから。
つまり、時間に生滅はあっても始めと終わりはないということではないの?
0、1、0であって0→1→0ではないってことなんだろう。
つまり、非連続の連続。
始めと終わりというのは連続でアナログで中間がある。
しかし生滅はデジタルで中間はない。

354:鹿野園
21/04/12 00:50:04.04 BI7RjZjz.net
アナログ的な幅(始まりと終わり)があるってことは中間がある。
しかし、デジタル的な幅(生滅)には中間はない、分割できない、生滅に中間はない、生か滅だから。

355:鹿野園
21/04/12 00:55:01.69 BI7RjZjz.net
奇妙な話だけど、無限小の幅はあっても分割出来ないデジタル的な幅ってことじゃないのか?
しかも生滅が異時なら生と滅の間で分割できるけど、生滅同時だから分割できない。
……仏教って、時間の考察について此処まで考えていたのか!?

356:鹿野園
21/04/12 01:01:52.17 BI7RjZjz.net
まとめておこうか。
刹那には生滅はあっても始めと終わりというのはない。
また、無限小の時間の幅があってもその幅は分割出来ない。
始めと終わりというのはアナログ的な連続性を前提としているけど、刹那とは生滅であって、それはデジタル的な非連続性を前提としてる。
もし、生滅が異時に起きるのならその幅に於いて生滅の中間点で分割は可能だけど、生滅が同時に起こるから分割は出来ない。
こんな感じかなw

357:鹿野園
21/04/12 01:16:01.39 BI7RjZjz.net
つまり、始めと終わりという概念で刹那を理解しようとした事から生じた混乱って事になるのかな。
たしかにそうだよなw
そもそも非連続の当体が連続で解体されちゃ矛盾だわw
つまり、無限小って事だ😆

358:鹿野園
21/04/15 12:55:28.15 SHUg58bH.net
つまり、ナーガールジュナ(龍樹)によって「空」にもとづく仏教の真理観が根本的、理念的に確立されてのち、その空なる真理を永遠・普遍なものとして(法身常住)、それでもって現実を包みこみ、あるいは、それを現実の中にそそぎこんだ(如来蔵・仏性)のが如来蔵系の経典であり、一方、それでは生滅・変化する現実相(現象)はどうなるのかということで、現象生起の説明原理としてアーラヤ識を設定し、現象分析をほどこしたものが、阿頼耶識系の経典である。
(角川ソフィア文庫 仏教の思想 絶対の真理 天台)

359:鹿野園
21/04/17 01:44:01.84 TF+ElSmI.net
996 鹿野園 ◆Bs4PlQ2rjutF [sage] 2021/04/17(土) 01:22:37.31 ID:TF+ElSmI
龍樹菩薩の言いたかった事は、実体を根拠にした諸現象の説明(縁起だの時間だの運動だの……)の否定なんです。
「縁起ー無自性ー空」を踏まえての時間論について否定するものではありません。
  ↓
>(中略)龍樹は、過去・現在・未来は相対的にあるものであり、それ自体としてあるものではなく、固定的に認識される時間はない、と説き、量的な時間を否定した。
>(岩波 仏教辞典から)
中論24章18偈
 >[諸々のものが何かを]縁として生起すること(縁起)を、我々は[諸々のものが]空であること(空性)を言う。
 >それ(縁起)は[何かを]因として[何かが]概念設定されること(因施設)であり、その同じものが中道である。
 >(龍樹「根本中頌」を読む より)
上記について月称は『プラサンナパダー(浄明句論)』で
 >縁起によって事物の施設がある。
 >現象が縁起することを根拠に空性が成立するが、現象そのものは、多くの因と縁によって造り出された仮の個物の集合体にすぎない。
 >この場合、仮の個物(=因施設,仮設)は実体あるものでなく、無自性である。
と解説してる。

360:鹿野園
21/04/17 01:44:36.35 TF+ElSmI.net
993 鹿野園 ◆Bs4PlQ2rjutF [sage] 2021/04/17(土) 01:13:48.33 ID:TF+ElSmI
刹那滅ということ
 もう一度、その現在という時間を考えてみよう。
 おそらくふつうの考え方は、ある絶対時間という、均一の速さで流れゆく時間がもとよりあって、そのなかを常住の本体あるものが動いていく、というものであろう。
 では、その常住の本体あるものは、時間的に、どのくらいの幅を持った存在なのであろうか。一分間くらい存在しているものが、時間のなかを動いていくのであろうか。今の一瞬のみの存在が動いていくのであろうか。一瞬とは、どのくらいの時間なのであろうか。ここにいたって、我々は把握しきれないものにぶつかるしかなくなってしまう。
 幾何学上、直線は点の並んだものといえようが、では点はどのくらいの幅を持っているのであろうか。点は、もし、幅を少しでも持っていたら、分割できてしまう。幅を持っていなかったら、どれだけ集めても線にはならない。では、点はどれだけのものであろう。ここに、微小な方向に向けての無限の問題もあるし、点は一種の極限概念とならざるをえないのであろう。
 時間も同じで、たとえば一刹那という極小の時間の単位がある。これは一方で指パッチン(一弾指)の時間の六十分の一の時間だというのだが、一方でいわば極限概念の時間として語られることがある。刹那刹那、生じては滅し、生じては滅ししながら相続されていくことを刹那滅というわけだが、そのときの刹那は、ほとんど、過去でもないし未来でもない時間という、極限概念だと思われる。いや、現在は幅があるのではないか、というかもしれないが、ここは仏教は存在と関連して考えていくのである。さっきの話ではないが、存在が二刹那以上にわたって本体を有するものだとすると、それは論理的に常住の本体あるものということになってしまう。そうすると、世界に変化はないということになってしまう。しかし世界に変化がある以上は、常住の本体のあるものではなく、そうである以上、存在はすべて刹那滅、すなわち刹那刹那、生じては滅し生じては滅ししているといわざるをえない。これが刹那滅の考え方である。
(竹村牧男 入門 哲学としての仏教)

361:鹿野園
21/04/19 16:25:55.04 AxJV5aqI.net
仏教は諸行無常や諸法無我を説いてるんです。
であればその時間論もその法に抵触しないものになるのが道理な訳で、つまり、時間は常住ではなく実体のないものとして把握されるという事です。

362:鹿野園#Buddhist-Rinzai
21/04/20 11:44:04.76 SwmwP4pW.net
「身心に法いまだ参飽せざるには、法すでにたれりとおぼゆ。法もし身心に充足すれば、ひとかたはたらずとおぼゆるなり(身心に真理が満ちていない時には、真理はもう十分にあるように思われる。真理がもし身心に満ち溢れている時には、まだ足りないと思われるのである)」
(道元 正法眼蔵より)

363:鹿野園
21/04/20 19:13:23.50 DiKe694V.net
【仏教の時間観についてかんたんなまとめ】
先ず、仏教の時間観ですけど、基本的に計量され得るもの(外界・表象)と計量され得ないもの(意識に即する・意識の流れ)二分されるようです。
どちらにも共通して云えることは、諸行無常・諸法無我という法理に矛盾しない範囲で時間観が構築されているということです。

364:鹿野園
21/04/20 19:42:37.01 DiKe694V.net
雑阿含経にはこんな句があります。
 諸行はまことに常なることなし
 生滅をもってその性となすゆえなり
 生じたるものはまたかならず滅す
 その生滅の静まれるこそ楽しけれ
 (雑阿含経 歓喜園)
こういうところに仏教の時間論の嚆矢を観ることが出来ると思うんですが、これが後に
 >一切の有為は有刹那なり(倶舎論)
 >法(有為法)は自然に(おのずから)滅す。是れ、壊する性なるが故なり。
 >自然に滅するが故に、わずかに生じて即ち滅す。わずかに生じて即ち滅するによりて、刹那滅の義成ず
 >(倶舎論&角川ソフィア文庫 仏教の思想 存在の分析 アビダルマ))
という思想に展開してゆくようです。
 <刹那>
  ~きわめて短い時間、瞬間、最も短い時間の単位(角川仏教辞典)
  ~「体を得る無間に滅するなり」(倶舎論)
    ~無間→無限小間隔(角川ソフィア文庫 仏教の思想 存在の分析 アビダルマ)

365:鹿野園
21/04/20 19:50:52.10 DiKe694V.net
一般に仏教では時間の実体化を極力廃止する方向にあったそうです。
そして、諸行無常の原理、つまり物事は常に変化するという考え方と時間論とが密接に関連していったとのこと。
で、有部(倶舎論)では、未来・現在・過去の三刹那を持って時間と考えたということです。
つまり、ダルマがスライド映写機のスライドのように未来→現在→過去へと落謝するその一連を時間とした訳です。
また、有部は時間は刹那、刹那に分けられ、現在は一刹那のみであると考え、ヴァスミトラによれば、未来・現在・過去の区分は、作用の有無によって判断されるとされました。

366:鹿野園
21/04/20 19:55:08.68 DiKe694V.net
ここで、龍樹が外界に根拠する量的な時間論について批判を行います。
 >(中略)龍樹は、過去・現在・未来は相対的にあるものであり、それ自体としてあるものではなく、固定的に認識される時間はない、と説き、量的な時間を否定した。
 >(岩波 仏教辞典から)
 中論24章18偈
  >[諸々のものが何かを]縁として生起すること(縁起)を、我々は[諸々のものが]空であること(空性)を言う。
  >それ(縁起)は[何かを]因として[何かが]概念設定されること(因施設)であり、その同じものが中道である。
  >(龍樹「根本中頌」を読む より)
上記について月称は『プラサンナパダー(浄明句論)』で
 >縁起によって事物の施設がある。
 >現象が縁起することを根拠に空性が成立するが、現象そのものは、多くの因と縁によって造り出された仮の個物の集合体にすぎない。
 >この場合、仮の個物(=因施設,仮設)は実体あるものでなく、無自性である。
と解説してるいます。
 龍樹のそれは、実体を根拠にした諸現象の説明(縁起だの時間だの運動だの……)の否定であって、「縁起ー無自性ー空」を踏まえての時間論について否定するものではないと思われます。
  ↓

367:鹿野園
21/04/20 19:56:50.82 DiKe694V.net
そして、唯識思想においては、時間も識の流れに現れる表象にすぎない。そして、過去・未来・現在の位置づけは、因果関係によって説明されるとしました。

368:鹿野園
21/04/20 20:29:21.34 DiKe694V.net
363 鹿野園 ◆Bs4PlQ2rjutF [sage] 2021/04/20(火) 19:13:23.50 ID:DiKe694V
【仏教の時間観についてかんたんなまとめ】
先ず、仏教の時間観ですけど、基本的に計量され得るもの(外界・表象)と計量され得ないもの(意識に即する・意識の流れ)二分されるようです。
どちらにも共通して云えることは、諸行無常・諸法無我という法理に矛盾しない範囲で時間観が構築されているということです。
↓(訂正)
先ず、仏教の時間観ですけど、基本的に計量され得るもの(外界)と計量され得ないもの(意識に即する・意識の流れ)二分されるようです。
どちらにも共通して云えることは、諸行無常・諸法無我という法理に矛盾しない範囲で時間観が構築されているということです。
かな、表象・外界っていうフレームは問題ある。

369:鹿野園
21/04/20 20:44:31.46 DiKe694V.net
お釈迦様から始まった仏教が、その東漸の過程で様々な問題に当たりながらも至った地が日本なわけです。
ある意味仏教思想の頂点であって終着点でもあるって言われる所以です。
で、その思想の頂点っていうのが、真理顕在論・即事而真が更に先鋭化された天台本覚思想なんです。
その内容については言うまでもないでしょ。
思想的な頂点に達したときに実践的な退廃が始まるって云うのは世の常で、鎌倉仏教の起こりもそこにあるって言われてるんです。
で、明治以降、仏教東漸以前の仏教のスタイルが明らかにされて来たわけです。
そんでもって「あれ?それって俺たちの仏教とちょっと違くねーか?」って😙
また、最近は南伝仏教の一派が「これが初期仏教だ!」とかいって日本に布教をしてるんです。
当然、そこに混乱が生じるわけです😥
大乗非仏説とかね😅
しかし、よくよく考えてみると、仏滅後に生じた様々な未決の問題への解答が大乗仏教な訳でもあるんです。
そこを看過してお釈迦様に帰れって云うのはどうかなって思いますけどね。

370:鹿野園#Buddhist-Rinzai
21/04/21 11:34:12.28 CYNmqBgn.net
アウグスティヌスは三つの時間があるという。過去の事物の現在と、現在の事物の現在と、未来の事物の現在がそれである。過去の事物の現在とは記憶であり、現在の事物の現在とは感覚であり、未来の事物の現在とは予期である。

371:鹿野園#Buddhist-Rinzai
21/04/21 11:35:58.22 CYNmqBgn.net
「私はそれについて尋ねられない時、時間が何かを知っている。尋ねられる時、知らない」
(アウグスティヌス)

372:神も仏も名無しさん
21/04/21 11:39:24.95 elTxzNZr.net
>>364
>こういうところに仏教の時間論の嚆矢を観ることが出来ると思うんですが、これが後に
宮崎哲也の本の読みすぎww
それ刹那滅とは関係ないから

373:鹿野園#Buddhist-Rinzai
21/04/21 11:41:00.53 CYNmqBgn.net
藤原保信と飯島昇藏によれば、アウグスティヌスにあっては、絶対的で永遠なる「神の国」が歴史的に超越しているのに対して、「地の国」とその政治秩序はあくまで時間的で、非本質的な限定的なものに過ぎない。
(wiki引用)

374:鹿野園#Buddhist-Rinzai
21/04/21 11:43:06.47 CYNmqBgn.net
>>372
>宮崎哲也の本の読みすぎww
>それ刹那滅とは関係ないから
???
関係あるよ。

375:鹿野園#Buddhist-Rinzai
21/04/21 11:50:27.34 CYNmqBgn.net
556 名前:鹿野園#Buddhist-Rinzai :2021/04/21(水) 11:07:22.54 ID:CYNmqBgn
>>534
>ここで時間に種類を設けることは、ナンセンスということになる
www
普通は
 1.限定者(人間)による主観(質)的時間
 2.限定者(人間)による客観(量)的時間
 3.非限定者(神、佛)による絶対的時間
の三つに分けて考えますけどw
以上

376:鹿野園#Buddhist-Rinzai
21/04/21 11:52:29.93 CYNmqBgn.net
> 3.非限定者(神、佛)による絶対的時間
宗教に東西の違いはあるけど、ここはアウグスティヌスのいう「神の国」、仏教でいう「如来蔵」に該当するだろうな。

377:鹿野園#Buddhist-Rinzai
21/04/21 11:56:26.32 CYNmqBgn.net
> 1.限定者(人間)による主観(質)的時間
> 2.限定者(人間)による客観(量)的時間
> 3.非限定者(神、佛)による絶対的時間
                          
.     如来蔵(純粋レンマ的知性)  
.           ↓
.         阿頼耶識
.   ↓            ↓  
.ロゴス的知性(変位体)  レンマ的知性(真正体)
1.がレンマ的知性(直観知)
2.がロゴス的知性(分析知)
3.が純粋レンマ的知性(如来蔵、神の国…)

378:神も仏も名無しさん
21/04/21 11:59:45.94 EeWCNQJB.net
377.バカまる出し、である。大爆笑である。

379:神も仏も名無しさん
21/04/21 12:19:57.31 elTxzNZr.net
>>374
あるという証拠を出せるか?

380:神も仏も名無しさん
21/04/21 12:20:45.34 elTxzNZr.net
釈迦の説法に刹那滅はないぞ

381:神も仏も名無しさん
21/04/21 14:06:23.40 y3t6eba+.net
自作自演スレです。

382:鹿野園#Buddhist-Rinzai
21/04/21 14:21:25.09 lB4ZA1pV.net
>>379
引用の下に載せてるでしょw

383:鹿野園#Buddhist-Rinzai
21/04/21 14:24:30.49 lB4ZA1pV.net
>>380
嚆矢って言ってるでしょw

384:神も仏も名無しさん
21/04/21 15:47:49.12 elTxzNZr.net
>>383
>嚆矢って言ってるでしょw
嚆矢とか難しい言葉を使うね
宮崎哲也が使ってる言葉だから影響されたかな?
ともかくその雑阿含経の説法をした釈迦は刹那滅なんてことを考えても見なかっただろう
5ニカーヤ4阿含に刹那滅なんて概念は出てこないから
倶舎論の刹那滅論は法の体(自性)が恒有だったら常住論になってしまうのを避けるために考案された概念
龍樹は法空論だから法の体など認めなかった
故に刹那滅論も取ってない、どころか刹那滅論はおかしいとして否定している

385:鹿野園#Buddhist-Rinzai
21/04/21 16:03:57.48 KWVgqwNk.net
>>384
>宮崎哲也が使ってる言葉だから影響されたかな?
そういう言葉を使うのは、宮城谷昌光にハマった時があるからその影響だと思う😲

386:鹿野園#Buddhist-Rinzai
21/04/21 16:05:02.21 KWVgqwNk.net
>>384
バカムイスレでやってくれ。
ここじゃ困る。

387:鹿野園#Buddhist-Rinzai
21/04/21 16:06:30.35 KWVgqwNk.net
>>384
知ってますけど?


>ともかくその雑阿含経の説法をした釈迦は刹那滅なんてことを考えても見なかっただろう
>5ニカーヤ4阿含に刹那滅なんて概念は出てこないから

>倶舎論の刹那滅論は法の体(自性)が恒有だったら常住論になってしまうのを避けるために考案された概念

>龍樹は法空論だから法の体など認めなかった
>故に刹那滅論も取ってない、どころか刹那滅論はおかしいとして否定している

388:鹿野園
21/04/23 04:09:41.51 KIWfCVYq.net
691 鹿野園 ◆Bs4PlQ2rjutF [sage] 2021/04/23(金) 04:02:59.81 ID:KIWfCVYq
>>628
> 「もし自性が存在しないならば、何に変化することが存在するのか。
> もし自性が存在するならば、何に変化することが存在するのか」
> この意味分かるかな?w
そうじゃなくて、先ず引用元を明示するのがマナーだろ?
例示すると
 >もしも<それ自体>が存在しないならば、何者に<変化するという性質>があろうか。
 >もしも<それ自体>が在るのならば、何ものに<変化するという性質>があろうか。
 >(龍樹 「中論(根本中頌) 第13章4項 中村元 訳 より)
とかな。
で、だ。
その部分は「龍樹「根本中頌」を読む 桂紹隆 五島清隆」によれば、前文として
 >実に、固有の性質を持たないものなど存在しない[たといあなたの意見に従っても]諸々のものには空性[という固有の性質]があるからである。
とあり、当該部分は
 >もしものに[変化の主体である]固有の性質がなければ、一体何が変化し得るであろうか。
 >【龍樹】もしものに[三時にわたって変化することがない]固有の性質があるなら、一体何が変化し得るであろうか。
 > (注:対論者と龍樹では、「固有の性質」「空性」「変化」の理解が全く違う)
となってる。
(以下続く)

389:鹿野園
21/04/23 04:46:43.71 KIWfCVYq.net
692 鹿野園 ◆Bs4PlQ2rjutF [sage] 2021/04/23(金) 04:17:19.59 ID:KIWfCVYq
>>691(続き)
で、概要は
 >第13章 諸行の真実の考察
 >【主題】ものの変化は固有の性質(自性)によっては説明できない。空性によってこそ、ものの変化が(諸行無常)が可能になる。
 >13.1 仏語:諸行(因果関係に制約されるもの)は全て虚妄である。(第1偈)
 >13.2 「諸行が虚妄である」とは、空性を明らかにするための言葉である。(第2偈)
 >13.3 反論:ものには固有の性質が有り、空性にもある。固有の性質がなければ、変化が説明できない。(第3、4偈前半)
 >13.4 ものに固有の性質があれば、ものは変化しない。(4偈後半~6偈)
 >13.5 結論:空でないものは何もないから、空なるものも何もない。(第7偈)
 >13.6 空性はすべての邪見を取り除く手段だが、空見にとらわれる者は救いがたい。(第8偈)
な。
 

390:鹿野園
21/05/02 22:35:30.85 mNPgRBsy.net
刹那について考察してみようか。
刹那とは点な様なものだって事なんです。
点に幅があれば分割可能で点にはならないけど、かと云って幅がなければ連ねたときに線とはならない。
また、仮に一刹那で生じて次の一刹那で滅したとすれば、現在が二つ生じることになってしまう。
また、本体というのあって二刹那以上に亘って存在するのなら、ものは変化しないものになってしまう。
つまり、「分割し得ない一刹那の間に生滅が同時に起こりそれが相続されている」って事でなければ辻褄が合わないって事なんです。

391:神も仏も名無しさん
21/05/05 05:58:55.83 e6gRAi4C.net
>>390
それで思い出したのが物理学の量子論
量子論では時間の幅をゼロに近づけるほど、その時間内におけるエネルギーの値が曖昧になる
言い換えると、極小の時間の中でエネルギーの生滅が起きている
ただし、確率的な偏りがあるため、長時間(または膨大な数の粒子)になると特定の値が突出する
確率的な偏りを生んでいるのは他との相互作用だ
これは刹那や空の考えと矛盾しないものの
これがわかったことで苦を滅するというところにまでは至らなかった
結局頭で理解したに過ぎないからだろな

392:鹿野園
21/05/05 09:01:14.21 1hVZqe17.net
>>391
聞法熏習。

393:鹿野園#Buddhist-Rinzai
21/05/10 08:32:36.27 JTQg+Tbl.net
www
知障の嫉妬には応じる必要もないでしょう。
施餓鬼は終わりです😌

>内外の風気わずかに発すれば必ず響くを名づけて声という。
>響は必ず声による。声はすなわち響の本なり。
声発して虚からず、必ず物の名を表するを号して字という。
>名は必ず体を招く。これを実相と名づく。
(空海 声字実相義)

空海さんは、形あるものは音を発し、音は字となるって云うんです。
そしてその名は体を現します、実相ですよって。
関の一字もそうした視座から味わってみるのも楽しいのかも知れません。

394:鹿野園#Buddhist-Rinzai
21/05/11 07:14:19.63 EYbGjfB/.net
ありのままって相分のコピーって事じゃないのかな。
八識でいうと前五識と阿頼耶識の薫習がそれ。

395:鹿野園#Buddhist-Rinzai
21/05/11 07:15:56.67 EYbGjfB/.net
見分・相分は同じ種子から生じるのか?それとも別の種子から生じるのか?
・・・同種所生(仮法)と別種所生(実法)
 同種所生(仮法)~第六識の意識の分別力が見分から相分という影像を作り出す。
三種類の見解 ~ 相見同種説、相見別種説、相見或同或異説
相見或同或異説(護法)

396:鹿野園#Buddhist-Rinzai
21/05/11 07:24:40.22 EYbGjfB/.net
すなわち、別種所生がありのままで、同種所生が分別ってなる。

397:鹿野園#Buddhist-Rinzai
21/05/11 07:30:10.26 EYbGjfB/.net
自証分・証自証分 ~ 現量 (→観たものを確認するので)

398:鹿野園
21/05/11 18:42:45.21 kxTpDjYS.net
光というのは陽にして事、分別にしてロゴスって事なんです。
言葉とは存在であり、存在とは時間。
繋がるってこと。

399:鹿野園
21/05/16 21:31:09.35 72OPZM3T.net
さて、冗談はおいといて、
 >汝これ渠にあらず、渠正にこれ汝
 >(祖堂集 洞山 過水の偈)
西田が言う超個(渠)の個(汝)というのがハッキリと分かった。

 >我々の自己は絶対者の自己否定として成立するのである。
 >絶対的一者の自己否定的に、即ち個物的多として、我々の自己が成立するのである。
 >故に、我々の自己は、根底的には自己矛盾的存在である。
 >自己が自己を知る自覚ということが、自己矛盾である。
 >故に、我々の自己は、どこまでも自己の底に自己を越えたものものに於いて自己を有つ、自己否定に於いて自己自身を肯定するのである。

400:鹿野園
21/05/19 10:50:43.37 UV6VorwL.net
真言宗未決文(1)
『真言宗未決文』(しんごんしゅうみけつもん)とは、平安時代初期に法相宗の徳一が、空海に対し真言宗の教理への疑問を述べた書である。
徳一の疑問は以下の11か条からなる。
 1.結集者の疑『大日経』冒頭の「如是我聞」の「我」とは誰か。
 2.経処の疑『大日経』は金剛法界宮で説かれたとあるが、この宮は自受用土か他受用土か。
 3.即身成仏の疑『菩提心論』に行願・勝義・三摩地の三行によって即身成仏するというが、これは禅波羅蜜のみであって他の五波羅蜜を欠き、また自分だけ先に成仏してしまうのは慈悲を欠くのではないか。
 4.五智の疑『菩提心論』に五智の如来を説くが、これでは各如来の智が不平等であることになり、また五如来以外の如来に智慧がないことになるのではないか。
 5.決定二乗の疑『菩提心論』には、決定二乗の者が灰身滅智に入った後に長い時間を経て発生すると言うが、これは矛盾ではないか。
 6.開示悟入の疑『菩提心論』で『法華経』の「開示悟入」を解釈しているが、これは何を根拠にしているのか。
 7.菩薩十地の疑『大日経』『華厳経』等には「十地を成就して成仏する」とあるが、『菩提心論』に「十地の菩薩の境界を超える」とあるのは仏説に背いているのではないか。

401:鹿野園
21/05/19 10:51:23.23 UV6VorwL.net
真言宗未決文(2)
 8.梵字の疑梵字は誰が作ったものでもなく本来的に存在するものと言うが、梵字は作られたものではないのか。
 9.毘盧遮那の疑一行『大日経疏』によれば、毘盧遮那仏は法身で説法をしたというが、一体誰のために説法をしたのか。
 10.経巻の数の疑『大日経』七巻の内、六巻までが毘盧遮那仏の所説だが、七巻目は誰が説いたのか。
 11.鉄塔の疑真言宗の経論は、釈迦仏滅後800年に龍猛菩薩が南インドの鉄塔で金剛薩埵より受けたとされるが、誰がどのように伝えたというのか。

以上の疑問について徳一は、このような疑問を述べることで謗法の罪になることを恐れるが、疑問を晴らして真言宗を学ぶためである、と言う。
本書は、空海の「諸の有縁に勧めて秘密法蔵を写し奉るべき文」(『性霊集』9所収)によって密教の教理に触れた徳一が、『弁顕密二教論』や『即身成仏義』などに触れることなく、『大日経』や『菩提心論』などを学んで、そこで起きた疑問を記した、と考えられている(末木文美士1985)。
また本書の末尾には、弥勒菩薩が『瑜伽師地論』を説いたことに関して「鉄塔の疑」と同様の疑問が持たれていたことについて、文書による伝承があることを強調する部分がある。この部分については、「辺主」「大覚師」などといった呼称が出てくることからも、増広されたのではないかと考えられている(末木文美士1985)。

402:鹿野園#Buddhist-Rinzai
21/05/20 14:34:50.32 edWZzAPK.net
このように考えると、相関主義の立場を取る限り、「祖先以前的言明」に意味を与えることはできないのが分かる。
相関主義者にできるのは、それは経験科学的な問題なので、哲学の守備範囲とは関係ない、と逃げを打つことくらいだろう。そうなると、哲学の守備範囲は、自然科学の発達に伴ってどんどん狭くなっていく。
そうした相関主義哲学の脆弱さが、信仰主義の蔓延を許してしまうのである。
(現代哲学の最前線 仲正昌樹 NHK出版新書)

403:鹿野園#Buddhist-Rinzai
21/05/20 14:38:00.68 edWZzAPK.net
メイヤスーは、相関主義的な枠組みを脱し、「ある絶対的なもの un absolu」に到達する道を探るべきだと主張する。
しかし、論証抜きに、「神」のような特定の属性を持った「絶対者」を想定し、「○○は存在する。それは事実だ」と断言するのであれば、それは単なる形而上学的独断論にすぎない。
そこでメイヤスーは、相関主義的な思考を徹底することで、これまでの相関主義的な哲学が依拠してきた諸前提を打破し、「絶対的なもの」を見いだすという逆説的な戦略を打ち出す。
(同上)

404:鹿野園#Buddhist-Rinzai
21/05/20 15:02:00.50 edWZzAPK.net
メイヤスーによると、相関主義的思考は突きつめていくと、「必然的存在者の絶対的不可能性 l'impossibilité absolue d'un étant nécessaire」は「絶対的」であるという帰結に至るはずである。この場合の「必然的存在者」というのは、それが存在することが論理的に必然的であるものということである。

405:鹿野園#Buddhist-Rinzai
21/05/20 15:15:36.79 edWZzAPK.net
このように、私たちに認識できる限界の「外部」を考慮に入れると、いかなる存在者にも必然性はない。メイヤスーによると、それは私たちが現に存在している世界と無関係な、単なる仮想の話ではない。無限の時間の流れのどこかで、私たちが存在している世界の自然法則が変化し、現在の私たちから見てあり得ない法則が成立する可能性は排除できない。そうした意味で、「必然的存在者」が不可能であるという事実は「絶対的」なのである。

406:鹿野園#Buddhist-Rinzai
21/05/20 15:16:27.10 edWZzAPK.net
これは、あらゆる存在者にはそれが存在する十分な理由があるという、「理由律 principe de raison」(ライプニッツ)の否定を意味する。全ての存在者は、偶然的(contingent)であり、この「偶然性」にはいかなる制約もなく、絶対的である。これをメイヤスーは「理由律」との対比で、「事実論性の原理 principe de factualité」と呼ぶ。いかなる理由もなく、単に〝事実〟としてそうなっているということである。「事実性 facticité」ではなく、「事実論性」という奇妙な言葉を使っているのは、対象や出来事に関する個別の事実(事実性)を成り立たせている理由が、それらが属する世界のどこにもなく、世界自体が偶然の事実としてそうなっている、というメタレベルの問題だからである。

407:鹿野園#Buddhist-Rinzai
21/05/27 20:39:48.81 Fe4uOU5/.net
絶対者の自己否定が我々の自己なのだから、自己(相対者、限定者)が自己否定しても絶対者にはならないんです。それ故に
>我々の自己は、どこまでも自己の底に自己を越えたものものに於いて自己を有つ、自己否定に於いて自己自身を肯定するのである。(西田)
って事なんです。
「どこまでも自己の底に自己を越えたものものに於いて自己を有つ、自己否定」なんです。
単純な自己否定ではないんです。

408:鹿野園#Buddhist-Rinzai
21/06/03 08:16:02.79 KWWdsjMm.net
聞法熏習って言葉があるんです。
唯識の視座からいえば、止観という時、止の時は六識の作用が止んでいるから煩悩(有漏種子)は現行しません。現行しないなら当然に煩悩は滅しませんよね。
であれば、現行してない時にそれを滅する他なく、滅するのは対治としての無漏の種子であるので、それを阿頼耶識中に置くという事となるという道理です。
で、無漏の種子とは、真理の世界、すなわち法界から流れ出た聴聞の余習(śrutavāsanā聞熏習)であるといわれております(『摂大乗論』所知依分)。
つまり、問処の道得なのですかね。

409:日本鬼子@2ch覚者
21/06/03 08:46:56.65 geBdfbCa.net
>>408
とべw
----------
坐禅と動中の工夫12
スレリンク(psy板:796番)
796 名前:鹿野園 ◆Bs4PlQ2rjutF [] 投稿日:2021/03/22(月) 17:39:31.49 ID:Ifb9qdCj
>>793
末那識⇆阿頼耶識⇆意識や無意識
これなw
(唯識) 仏教の基本w
--------
鹿野園は、末那識が初脳変であるソースを示すこと。
鹿野園は、阿頼耶識から意識へ転識するソースを示すこと。
出来なければ、宣言を実行しなさい。
----------
坐禅と動中の工夫12
スレリンク(psy板:778番)
778 名前:鹿野園 ◆Bs4PlQ2rjutF [] 投稿日:2021/03/22(月) 17:18:53.44 ID:Ifb9qdCj
>>775
wwww wwww
なら、俺が分かってないっていう根拠を出せよw
それが立証できたら今すぐスカイツリーから飛び降り自殺してやるから。
出来なきゃお前が飛べよ?
wwww wwww wwww wwww


最新レス表示
レスジャンプ
類似スレ一覧
スレッドの検索
話題のニュース
おまかせリスト
オプション
しおりを挟む
スレッドに書込
スレッドの一覧
暇つぶし2ch