【仏教】新・仏教思想のスレ【思想】at PSY
【仏教】新・仏教思想のスレ【思想】 - 暇つぶし2ch185:福音伝道
20/10/06 21:30:42.49 PHjLSkSf.net
943福音伝道2020/10/06(火) 21:03:01.38ID:PHjLSkSf
論点1 sā prajñaptir upādāyaの sā(それ)を中村元だけが「空」と誤読しているが
俺、三枝、桂は普通に「縁起」と解釈している
論点2 prajñaptir upādāyaをどう訳すかだが
1.俺・・・縁って仮設されたもの(仮)
2中村・・・相対的な仮説
3.三枝・・・相待の仮說 (縁って想定されたもの)
4.桂・・・[何かを]因として、[何かが]概念設定されること(因施設)
と訳す
prajñaptiプラジュニャプティとは、「仮の指定・設定」ではあるが、
漢訳では「仮設・仮説(けせつ)、説仮、仮名(けみょう)」とも漢訳され
「概念」を意味する語でもある。
私は原義に従い、桂は拡張された「概念」と解釈する。これはわかる。
三枝は仮名(想定されたもの)と訳しているが、第一に漢訳にひきずられていて
サンスクリットを訳していない。水準以下である。
また(想定されたもの)ではない。
upādāyaを俺と「縁って」訳し、三枝は「縁って」と解釈しているが
中村は相対、三枝は相待と訳しているが、そのような意味はない。
桂は、[何かを]因として と、目的語を補って訳している。
これは文法的に優れている。普通upādāyaは、目的語を伴うか、複合語として
用いられている語だからだ。しかし原文に目的語はない。
桂はprajñaptirを「概念」と拡大解釈し、upādāyaに目的語を補って
訳してるがサンスクリット文を読んでいる姿勢を認められるが
中村元と三枝は、サンスクリット文を読んでいない。
漢訳語「仮説」にひきずられた上、「相対/相待」という主観的解釈を
訳文に投影する始末である。馬鹿である。


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