20/06/05 17:57:29 Gqjb+xY5.net
認識が一時的に無い状態、と言うのが禅定だけれど、坐から立ったら、認識はあるでしょ?
つまり、通常意識において、認識が滅するなんてことはないのでは?
ただ、禅定の体験の結果として、主客の垣根が外れることがあり、
これを見性とか悟りとかみなす場合がある。。
あるいは、禅定の体験とその後の通常の意識とのギャップから、
すべては本来認識しえない、認識を超えている、ということがわかる場合がある。。
これが、転倒想滅する、ということでしょう。。
認識は生じ続けるけれど、それに騙されないというか、振り回されることがない。。
これが中道なのではないだろうか?
すべては認識できないけれどある。
これを、かくの如しとか、如是なんていうんじゃないかな?
栄進なんてわからんけれど、こんなやつだ、と言う感じ?w