20/05/11 11:41:25 A/QjuaX3.net
>>843
ヤンキー麦の目も耳も鼻もおっぱいもすべてが、無常である。
今や老いてしわくちゃになりシミだらけだ。老いは苦である。
苦であるものは無我だ。
ヤンキー麦の心は乱暴で人を蹴ったり叩いたりするが、
ヤンキー麦の心もそのいちいちは無常であり、苦であるがゆえに無我だ。
しかし麦としての我は存在する。
若い麦も老いさらばえた麦もヤンキー麦のままである。
ヤンキー麦という我は、因縁和合によって生じた現象ではあるが、
ヤンキー麦の五蘊としてのトータルが、
五取蘊は仮和合であり、我ではないと知れば、それが悟りなのである。
さて大山君は無我だったら、何が悟るのか、悟る我がないと主張した。
五蘊のいちいちが無我だから五蘊は無我である、我はないと大山君は
考えたので悟れないのである。
超絶美人のケーマは、大山君のようには考えない。
蓮華の香りに着目して、悟られたのである。超絶美人ゆえである。
ヤンキー麦がケーマ長老の真似をしても無理なのである ヤンキーだからである