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無門関むもんかん 第十九 平常是道びょうじょうこれどう ‐南泉なんぜん の平常心びょうじょうしん
南泉に 因(ちな)みに修行僧であった趙州(じょうしゅう)が問う、「如何(いか)なるか是れ道(どう)。」
泉云く、「平常心是れ道。」
州云く、「還(かえ)って趣向(しゅこう)すべきや否(いな)や。」
泉云く、「向(むか)わんと擬(ぎ)すればすなわち乖(そむ)く。」
州云わく、「擬せざれば爭(いかで)か是れ道なることを知らん。」
泉云く、「道は知にも属せず、不知にも属せず、知は是れ妄覺(もうかく、錯覚と幻覚の総称)、不知は是れ無記(むき)。
若(も)し眞に不疑(ふぎ)の道に達せば、猶太虚の廓然(かくねん)として洞豁(とうかつ)なるが如し。
豈(あ)に強(し)いて是非(ぜひ)すべけんや。」
州、言葉の終わるか終わらないか言下(げんか)に頓悟(とんご)す。
〇 存在するものは すべて平等(びょうどう)であsる。
横一列である。
眼は横についている。
相対ではない、絶対である。
なんとまあ、師弟のながいながい問答(もんどう)なのだろうか。
真理(さとり)とは、平常心(びょうじょうしん)である、と言い放って、それで、一切が終わる、である。
師独悟(むしどくご) 独覚(どっかく)である私には、なみだぼうぼうの思いやりの有り難い師である。
マブダチ道元は言う。
眼横鼻直(がんのうびちょく)
これは自由と平等。
自由とは、主人公、
平等とは、一如。