20/03/17 17:32:47.26 H2IQ+jYD.net
徳山の点心の話だけど、やっぱり禅師の理解が浅かったんでしょうね。
点心って心を捉えるって意味に等しいと思いますけど、そもそも捉え様のない心を点心(捉える)といった婆さんもどうかと思いますけど、言葉を変えたからといって詰まってしまったのは禅師の理解が浅かったからなのでしょう。
麦さんの出された法戦式の話に譬えると、点心(この場合は餅を頂く事)というのも ”六根(眼・耳・鼻・舌・身・意)に現成する法の働きで” あるに外ならないと思うんです。
またまた摩尼宝珠の喩なんですが、点心は隨縁・応用によって現象されてる色彩って事でしょう。
また、”私が在る”というのは、他ならず摩尼宝珠に譬えられるこころの存在を知る事に他ならないと思うんですが、いろいろなものが映し出されることによって(=空性)その存在(=空)を知る事じゃないでしょうか?
つまり、心そのものは捉えられませんけど、餅を頂くところに心のはたらきがあり、そのはたらきをもって心のあるの識ると思うんです。